海を見下ろせる小高い丘に彼はいた。
そこには色彩豊かな花々が咲き乱れ、空気に甘い香りを漂わす花畑がある。彼はその花畑に腰を下ろし、水平線に視線を向けていた。
ゆっくりゆっくり日が傾いていく。世界が茜色に染まる。
昼と夜の隙間。短い間しか見られない幻想的な時間が、今ここにあった。
じっと夕日を見つめていた彼は、草を踏みしめる音に振り向いた。
振り向いた先には、ずっと会いたかった彼女が風に吹かれていた。
彼女は彼に歩み寄ると隣りに腰を下ろした。そして極自然に身を寄せる。
彼は目を閉じると、肩に預けてきた彼女の頭に頬を寄せた。
頭がくらくらしそうな程甘い彼女の体臭を、胸一杯に吸い込む。そして涙が出そうなほど熱い、彼女の体温を感じた。
そのままどれだけの時間が経ったのだろうか。決して長い時間ではない。
『あ……』
不意に彼女が小さく声を上げた。目を開けてみると、彼にはその理由がすぐにわかった。
茜色の世界がだんだんと薄くなっていく。同時に夜の闇がゆっくりと世界を覆いだしていた。
終わる。短いからこそ美しく、短いからこそ貴重な時間が。終わって欲しくない大切な時間が。
彼女は彼から身を離すと、ゆっくりと立ち上がった。
『……いくのか?』
『……うん。時間だから……』
触れ合う手と手が名残惜しげに離れると、彼女は彼を背後に歩き出す。
『なあ』
背中にかけられた声に彼女は立ち止まった。そして彼に向かって、肩越しにわずかに振り向く。
『また……会えるか?』
彼の問いに、彼女は小さな笑みを浮かべた。
『あなたが望むなら、きっと会えるわ』
『そうか。なら、会えるよな……』
『ええ、また来年……ヨコシマ』
目と開けると見慣れた天井だった。アパートではないが、一年の大半を過ごす美神除霊事務所の天井だ。
身を起こすと、自分がソファの上に寝ていたことを知る。
なぜここにいるのだろうか。横島は少しの間考えて、すぐに思い出した。
除霊事務所のメンバーだけで、七夕のパーティをしたのだ。どうやら自分は早々に酔い潰れてしまったらしいが……。
「あら、起きたの?」
声に振り向くと、バスローブ姿の美神がこちらを見ていた。椅子に腰掛け、右手にはワイングラスを持っている。
「いいところで起きたじゃない。みんな寝ちゃうからさ、とりあえずシャワー浴びて、これから一人で飲もうかと思ってたところよ。やっぱ未成年に酒飲ますもんじゃないわね」
あっという間につぶれちゃってさー、と口をとがらす美神の前には、そろって顔を赤くして雑魚寝するおキヌ、シロ、タマモの姿があった。
「ま、一番最初につぶれた横島くんに言うセリフじゃないかな?」
そう言って美神はグラスを傾けた。
ぐいぐいと中身を飲み干す美神を横目で見ながら、横島は壁に掛けられた時計に目を向けた。
時刻は午前零時十二分。日付は七月八日だ。
「そっか。日は沈んじまったのか……」
「普通、日が替わったとか言わない?」
呟くような横島の言葉に、美神が笑いかける。
その笑みが引っ込んだのは、なにやら横島の様子がおかしいことにやっと気づいたからだ。
考えてみると、バスローブ姿の自分にも何の反応もない。眩しいほど白く美しい生足が、バスローブから覗いているのに……。
「横島くん。なにかあったの?」
美神の問いに横島は顔を背けた。そして少しだけ笑みを浮かべ、言った。
「夢を見たんですよ」
「夢?」
「ええ。切なくて、悲しくて、そして嬉しい夢でしたよ」
そして横島は部屋の隅に飾ってある笹の葉に目を向けた。
短冊がいくつかぶら下がっているが、その中には横島のものはない。去年酷い目にあったから……というのが表向きの理由だが、本当は違う。
本心から望む願いは文字にすることができなかったのだ。絶対に叶わない、そう思っていたから。
……しかし、違った。
「短冊に願いを書かなくても、叶うことがあるんスね」
そう言った横島は、しかし今にも泣き出しそうな表情だった。
「横島くん……」
彼の言葉から何となく事情を察した美神は、グラスをテーブルに置くと立ち上がった。そのまま横島の元へと移動すると、その隣へと腰を下ろした。
そしておもむろに抱きしめる。
「ちょ、美神さん?」
「わたしさ。今酔ってんのよね」
「え?」
怪訝な声を上げる横島を美神は押し倒した。
美神の豊満な胸の谷間に顔を埋め、顔を白黒させる横島。その彼の耳元で、ささやくように美神は言った。
「わたしは酔ってんの。だから今自分が何をしているのかなんて明日は覚えていないし、これから横島くんがどうしようと全く記憶に残らないわ」
そう言いながら、美神は優しく横島の髪を撫でた。まるで幼子をあやすかのように、優しく、そして温かく……。
「だから、いいのよ?」
「美神、さん」
横島の両手がゆるゆるとさまよい、やがて美神の背中に回った。最初はただ触れるほど。しかしだんだんと力を込めながら、美神の細い身体を抱きしめる。
「そう。いいのよ……泣いても」
優しく言う美神の声に重なるように、横島の嗚咽が漏れた。
そのまま長い間、横島は泣き続け、そんな横島を美神は抱きしめ続けた。
それはある七夕の夜のこと。
彼女に会いたい――。
そんな彼の願いが小さく叶った、そんな夜のこと……。
あとがき
電波です。
本当は落ちを付けようと思ったんですが、あえてやめました。