これは、アシュタロス戦から暫く後の物語。
かの魔神を倒し ―― しかしその業績を讃えられる事もなかった英雄の。
その彼が「魔神殺しY」の名で人々に知れ渡り、
恐れられる様になってしまうまでの物語である。
少年のその過酷な境遇を分け合う仲間は唯一人。
「行こうか、相棒」
変わり果てた姿で少年は、同じく以前の知り合いが見ても気付かぬ程に変貌してしまったパートナーを振り返った。
その頬を、この地に特有の焼け付くような熱気が撫でて行く。
そして身に纏った黒いマントを棚引かせ、少年と相棒は、今日もその足で踏み締めながら進まねばならないのだ。
己が宿命の道を。
血に飢えた戦いの荒野を。
――― 魔神殺しY ―――
ひとりの部屋で、私は考える。
ぷしゅっと音を立てて開けた缶ビールをまた一口、軽く咽喉に流し込みながら。
今思い返してみれば、事件はあの時始まっていたのだろうか?
いや。多分もっと前から兆候はあったのだろう。
ただ私が気付かなかっただけ。
いいえ。もっと正確に言えば、誰一人として気付いていなかったのだ。かの少年の重要性に。彼を取り巻く状況に。
「美神さん。俺、事務所辞めます。辞めさせて下さい」
それはいきなりの申し出だった。
その日いつものように出勤して来た横島クンは、私の執務机の前に来て開口一番そう言った。
「はあ? 何言ってんの。この頃また悪霊も活発になってきたし、これからもっと忙しくなるんだから、寝言は寝てから言いなさいよね」
私は、書類から目も上げずにそう答えたっけ。
「すんません、こんな時に。あんまり手が足りなくなるようなら、雪之丞のやつ使ってやって下さい。後で俺からも、それとなく話しときますから」
その言葉を聞いて、さすがに私も少し驚いたわ。
「どうしたの? 何かあったの? まさか、ルシオラの事で思い詰めて変な気でも起こしてんじゃないでしょうね」
「まさか。そんな事しませんよ。せっかくルシオラがくれた命です。粗末になんかしたら来世で顔向けできませんよ」
見上げる私に、あいつはふっと寂しそうに笑って言ったわ。
「じゃあ何? また親元へ戻れって話?」
「それとも、どっかからの引き抜きとかじゃないでしょうね!? 今の給料じゃ不満だとでもゆーのっ!?」
畳み掛けるように重ねた問いにも、あいつは短くいいえと答えた。いつもと違うそんな様子が余計私を苛立たせたわ。
「却下よ却下!! いきなり辞めるなんて言われて、この私がはいそうですかと聞き入れるとでも思ってんの!?」
机を叩いてがなりたてる私に、しかしあいつは困ったような表情を返すだけ。
「訴えてやるわよ! 絶対に辞めさせないわ! もし他所へ就職したりなんかして御覧なさい。地獄組を使って潰してやるわ! たとえ姿をくらましたって、ヒャクメを使って地の果てまでも探させるわよ!」
頭に血が上った私は、地団太踏みながら何度も机を叩いていたわ。
そんな私を、あいつはますます困ったような静かな瞳で見詰めるだけ。
そんな様子がいつもと違って、なんだかあいつが私の手を離れて一気に遠くへ行ってしまったように感じて、私はますます辛辣な言葉を投げつけ続けてしまったわ。
「だ、誰が……、誰が今まで育ててやったと思ってんのよ! 馬鹿ですけべでドジで間抜けでセクハラしか能のない屑を、一体誰がここまでにしてやったと思ってんのっ!? それを後足で砂かけるような ―――」
「美神さんですよ」
それまで黙って私の罵声を受け止めていたあいつが、ゆっくりと口を開いて答えたの。
「ただの荷物持ちのセクハラ小僧だった俺がここまでなれたのは、全部美神さんのお陰っスよ」
そう言ったあいつの顔は年相応の少年のようにも、また私よりずっと年上のようにも見えて。
不覚にも一瞬私が息を飲んでいる間に、続けてその唇は吐き出したの。あいつの強い想いを。
「だから……だから俺、この事務所に迷惑かけたくないんです。もうみんなを危険な目に遭わせたくないんです」
強い決意。
それは、かの戦いであいつが幾度か見せた顔。
だから、私にはもうそれ以上引き留めることはできなかった。
「理由くらい……せめて理由くらい言いなさいよ」
私の放った最後の問いに、あいつは自分の胸に手を置いて答えたわ。
「俺を、いえ、もっと正確には、俺のこの体を欲しがってるやつらがいるんです」
「あんたの体? ルシオラの霊基構造を受けたその体を?」
「不死身の体だそうです。そいつらに言わせると」
「そいつらと、戦う気なのね」
その問いにあいつは何も答えなかったけれど、私には解かった。
同時に、私が戦いへの参加を申し出ても、あいつはきっと拒否するだろうという事も。
だったら、私には待つしかできない。
ぎゅっと拳を握り締め、辛うじて私は経営者の態度を保つ事ができた。
「暫く……休職という事にしといたげるわ。だから絶対に約束なさい。そいつらを蹴散らして必ずここへ戻って来るって。誰が何と言おうと、あんたは永遠にうちの丁稚なんだからねっ!」
叩き付けるようにそう言うと、あいつはその日初めて笑った。
そうして丁寧にお辞儀をしてから、あいつは私に背中を向けた。
一歩ずつ一歩ずつ開いていく私たちの距離。
部屋を出ようとドアを開けたタイミングを見計らって、私は机の引き出しから取り出した物を背中目がけて投げつけたわ。
びたん、と音を立ててぶつかってから、小さな手帳が床に転がる。
小腰を屈めてあいつが拾い上げたそれは、横島忠夫名義の預金通帳。
「持って行きなさいよ。必要になるかもしれないでしょ」
ちらりと中を一瞥したあいつが、心底驚いたかのような目をこちらに向ける。
「べ、別に大した意味はないわ。ただの税金対策よ!」
ぶっきらぼうにそう言い放って明後日の方を向く私を、一瞬眩しそうに目を細めて眺めてから、あいつはもう一度深々と頭を下げた。
「ありがとうございます、美神さん」
そう言い残して、ぱたんと静かに扉を閉じた。
ひとつずつひとつずつ、安物のスニーカーの足音が遠ざかって行くのが聞こえるたびに、私の胸の中に何かが沈殿して行き、それを洗い流そうとするかのように一粒また一粒と私の目から水がこぼれた。
やがて、ぼんやりと虚脱して天井を眺めるしかない私の耳に、まるで知らない別の世界から届くようにして玄関扉の開いて閉じる音が聞こえた。
そしたらなんだか堪らなくなって、我ながら未練だとは思ったけれど、私はそっと窓に近付き表通りを窺ったわ。
水滴で歪む視界を手の甲で拭って見下ろすと、もうここには帰って来ないかもしれないGジャンの背中が見える。
その背が角まで進んだところで、電柱の影から待っていたかのようにあいつを迎える姿があった。
ちょっと立ち止まって二言三言話してから、ふたりは仲良さそうに肩を並べて歩いて行った。
その姿が豆粒のように小さくなるまで、私はずっと見送っていた。
陽光の中銀色に輝く髪が眩しい誰かと、青いGジャンのあいつの背中を。
また一口ビールをあおる。
ひとりの部屋で、私は考えている。これからどうすべきかと。
あれから数週間。
勿論、いつまでも悲嘆に暮れている私じゃなかったわ。私は美神令子ですもの。
すぐに全情報網を使って、あいつを狙っている連中というのを調べ上げたわ。
一緒に戦う事はできなくても、敵の正体さえ掴めれば、搦め手から弱体化させる事であいつを助けてやるくらいはできる。そう思ってママにも協力してもらい調査した結果、浮かび上がってきたのはふたつの組織。
ひとつは某国軍部の頑丈人間研究養成所。
今、私はこの組織を壊滅、もしくは弱体化させようと様々な人脈を通して画策している。
盲点だったわ。私たちにとっては、あまりにも日常だったものだから見落としてた。
そう。文珠や霊能力うんぬん以前に、大気圏外から落下しても平気なあの体。無敵兵士の研究材料として欲しがる連中がいたって不思議じゃないわ。
今後そういう連中が湧かないように、あいつに手を出したらどうなるか、徹底的に教えてやるわ。
そして別のもうひとつの組織。
あいつは目下こっちの連中と戦っている。
「ふう」
ひとつ小さなため息を吐き、私はテレビのスイッチをいれた。
画面に映るはプロレス中継、タッグ戦。
やたらテンションの高い濁声の解説者が喚き散らしているのがうざったらしい。
「おおーーーーっとお! ラッシュラッシュ、ラッシュの連続! 現代医学キック、現代医学チョップの乱れ撃ち! 今夜も好調のドクトル・ゲーに、極悪頑丈マスク、手も足も出ません!」
画面の中では、額に「医」と書いた白い覆面をしたレスラーが、丸に「頑」マークの覆面外人レスラーを相手に大奮闘だ。
「ああーーっとお! ここで極悪頑強マスクが横から乱入! ドクトル・ゲーの無防備な背中に蹴りをかましたあっ!」
もんどりうって倒れる白覆面のドクトル・ゲー。それを囲んでふたり掛かりで蹴りまくる極悪覆面コンビ。
だが次の瞬間、コンビのひとりが何者かに蹴られて吹っ飛んだ。
「ああーーーっとお! ここで仲間を救いに、魔神殺しYが乱入だあーーっ!」
解説者のボルテージが一層上がり、客も興奮して叫びたてているのがテレビを通して聞こえて来る。「魔神殺しY!! 魔神殺しY!!」の大合唱。
「蝶のよーに舞い、ゴキブリのよーに逃げる! とみせかけて、突如蜂のよーに刺す! んでまたゴキブリのよーに逃げる! 魔神殺しY! 華麗なフットワークは今夜も健在だーーーっ!!」
どんどん盛り上がるテレビ中継とは逆に、こっちの気分は冷めていく。
「魔神殺しY! ドロップキーーーック! いや違う!? そう見せかけて、キャンタマ・ボンバーだあっ! 大技炸裂うっ!」
……。
「おおっとお! 魔神殺しY、さらに容赦ない攻撃! 倒れた相手の顔面に擦り付けているううっ! 極悪頑強マスク、これは堪らない! そしてドクトル・ゲーも負けてはいないぞ! 伝家の宝刀、急性心不全固めが炸裂だああっ!」
ついに耐えられなくなって、私はテレビのスイッチを切った。
そう。これが今あいつの戦っている相手。
不死身の体を手に入れるため、「○の穴」という組織から次々と送り込まれてくる刺客たち。
まったく。タイ○ーマスクじゃあるまいし。
私が軍事関係の組織を相手にしてる間に、自分はのうのうとプロレスかい。
ビールでも飲まなきゃやってらんないわ。
私は考えている。これからどうすべきかと。
取り敢えず横島 ――――
のこのこ事務所に顔出して来やがったら死刑!!
そう誓いつつ、音を立ててビールの缶を握り潰した。
おしまい。
こんばんは。
今回もこんなものを書いてしまいました。
もし笑って頂けましたらとても嬉しいです。
つまらないようでしたら、
すみませんがどうか生温かい目でスルーしてやって下さいませ。
前回温かい感想を下さった皆様。ありがとうございます。
心より感謝申し上げます。
>オチ!!ボケ!!ツッコミまで!!
義王様。
すいません。
どつき漫才になってしまったような気がしないでもないです。
>謎の美少女、伊達雪之“嬢”登場(笑)
Yu-san様。
実は某菜サイトに足を運んでしまったのが原因でして、
菜は無理でも性転換ものならと思ってしまいました。
>元ネタの先輩は一応正体知らない筈でしたよね?
柳野雫様。
はい。本当はこの役は西条に当て、壊れ西条作品として書き始めたのですが、
まだ私には長い話は難しいようで、煩雑な部分を削っていくうちにいつの間にやらこうなってしまいました。
>これはまた災難な泉に落ちましたねぇ。
こーめい様。
本当に災難ですよね。
楽しんで頂けたとのお言葉、とても嬉しいです。