見えないものは無い。
視えないものは多い。
神族の視座
事象としての世界は完全でゆるぎなく、あるがままで完璧なのね。
でも、人…だけじゃなくて「意識あるもの」にとって世界はひどく不完全なのね。
世界は個々の認識の数だけあり、認識の不完全さが世界の不完全さに繋がっているのね。
それは、「目」の神である私にとっても同じなのね。
目は知覚の7割を視覚情報に頼る人間にとって知覚の象徴。
つまり、私の「目」というのはあらゆる知覚のことを示しているのね。
そして、私の知覚は那由他の彼方まで届くのね。
その点においては、最高指導者にも引けをとらない…はずなのね。
距離も、過去も、現在も、未来も、意識界、無意識界に係わり無く世界の全てが「見える」のね。
始まりから終わりも、あちらもそちらも何もかもね。
それこそ、世界と一体であると錯覚するほどに。
でも「視える」わけではないのね。
認知過程は一般的に事象>知覚>認識>認知となるのね。
私の場合は事象=知覚>認識>認知となるのね。
さらには、自身が認知したことを伝えなくちゃならないから、情報化の過程もその後に付け加わるのね。
全ての事象を知覚出来ても、その全てを認識できるわけじゃない。
認知となればさらに「私」という「個性」のフィルターを通すわけで、さらなる偏りを得るのね。
その上、伝えるための情報化=言語化は言語自体のシステム上の必然的不完全性にもよって
結果として事象≠情報ともなりかねないのね。
神のありようを人間のカリカチュアと捉えるならば、
私はまさしく世界をそのまま受け止められない人間の姿そのままなのね。
でも私は私のありように誇りを持っているのね。
私はなぜオーディンの烏のように、完全な知覚それ自体として完結せず、人間界で不完全な意識と肉体を持ち活動するのか。
それは認識される世界の不完全さゆえにこそ、世界を改変しようとする「意志力」を持ち、より前へと斬り進むためだと思っているのね。
知覚するだけでは意味が無い。不完全であれ直接行って体感して情報を得る。そして行動する。
そのための、意識と肉体だと思っているのね。
あの大戦の時ほど、人の世界に対する力強さを見せ付けられたことは無かったのね。
だ・か・ら、ついつい覗いちゃうのネェ~。
さってと、このデスクワークが終わったら小竜姫のところにでも降りていくのネ~。
からかうネタは色々仕入れてあるのネ~。
ふっふふふふ~♪
おわり。
というわけで、3回目のこんばんわ。枝垂桜でございます。
今回のテーマは認知論というわけで彼女に出ていただきました。
現実世界と認識世界の差異というものを彼女が実は一番感じているのではないかなと思いまして書いてみました。
オチは蛇足かなとも思いつつ付けてみました。
さて、初めてのレス返しというものをさせていただこうかと思います。
>柳野雫さま
私も認知症でなおかつボケな老人の彼が好きです。
確かに2人が会ったらどうなるでしょうかね~(無責任)。
私のイメージとしては、本体がマリアに目配せだけしてニヤリと笑いすれ違うという感じでしょうか。
>MAGIふぁさま
今までずっとROMROMさせて頂いて、楽しませて頂いていました。
そんな方にレスを頂けるとは感激です。
そうですね~、本体はどんどん研究進めて深めてそうですね。
でも、絶対に悟りとかとは開かない気がします(開けないのではなく)。
どこかで俗に係わり続ける人物だと思います、彼は。良くも悪くも。
では、御目汚しをいたしました。