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▽レス始

「神父の信仰(GS)」

枝垂桜 (2005-05-19 05:35)

 私の信仰はどこにあるのだろうか。
 私の神は何処におわすのか。


神父の信仰


 私は神父と呼ばれている。
 確かに、私はキリスト教徒だ。
 神に対して信仰心をもっている。
 教会に住み神の教えを説いている。
 日々の糧の一部はそのことで得ている(宗教法人でもある)。

 だが、もはやカトリックではない・・・のだろう、おそらく。

 それは、GSという職業によるところが大きい。
 私はかつて異教の除霊法を使ったことにより破門された。
 しかし、その時の私は自分が破戒しているとは思わなかった。
 いかなる手段を用いても人を助けるためにしたことだ。
 神の愛に背くものとは思わなかったし、自分の信仰が揺らぐものとも思っていなかった。
 手段を選んでいて現実に人を救えないのであれば、何のための神父かとも思った。
 だから、破門されたことに後悔は無かった。このことに、今も代わりは無い。

 しかし、破戒はしていたのだ。
 「手段を選んでいて現実に人を救えないのであれば、何のための神父か」
 これが間違いだったのだ。いや、正確ではなかったと言うべきなのだろう。
 「手段を選んでいて現実に人を救えないのであれば、何のためのGSか」
 正確にはこう言うべきであったのだ。
 つまり、あの時私は神父であることよりもGSであることを選んだのだ。
 そのことに、あまりにも無自覚であった。

 何度でも言おう。あの除霊に後悔は無い。
 しかし、あまりにも無自覚な選択であったとは思っている。
 人生において重大な選択というものは往々にして無自覚のままに行われるのかもしれない。
 その結果が迫ってきたときには、実際の選択のときは過ぎ去り選択の余地が無い。
 なぜなら、既に選択してしまっていたのだから。

 一度選択してしまえば、後は転がる石の様なもの。
 晴れてフリーの身になった私は、もはや除霊の手段を選びはしなかった。
 仏門を叩き竜“神”に教えも請うた。

 それでも、私の信仰心はいささかも揺るがない。そう思っていた。
 だが違った、違ったのだ。揺るがないのは、あくまでGSとしての職業倫理だった。
 私の中に信仰心がある。これは変わらないが、その信仰心は変質していた。

 「アーメン」私は除霊のたびにそう口にする。
 しかし、最早それは除霊のための手段であって信仰心の発露ではない。
 「アーメン」信仰心の発露としても口をついて出ることは、もちろん有る。
 だが、除霊のときのそれはGSとしての私の技術の一つに過ぎない。

 異教の除霊法も使うとはそういうことだった。神への祈りをもひとつの手段としてしまう。
 神への祈りは唯一無二の手段ではなくなった。相対化してしまった。

 私の神への思いは変わった。自分で言うのもあれだが、私は「敬虔なキリスト教徒」だ。
 しかし、最早「敬虔なカトリック」ではない。

 GSとしての私は変わらない、しかし宗教家としての私はこの何十年かで確かに変わった。

 宗教とは極論すれば一つの世界観を、あるいはファンタジーと言い換えても良いかもしれないが、共有することだ。
 しかし、今の私は多くのカトリックの人々とはそれを共有できなくなっている。

 あの「アシュタロス大戦」。その最後に姿を見せた神界と魔界の最高指導者。それとの邂逅が決定的だった。
 GSとしての私はあの存在の力を借り受けることにいささかも迷いはしないだろう。
 だが、宗教家としての私はあの存在に祈りはしないだろう。

 GSとしては実在する力が必要だが、宗教家としては実在のあやふやな祈る対象が必要なのだ。
 除霊の際に私はあの存在をイメージして祈りの言葉を口にする。その方が明確なイメージを浮かべることが出来て有効だからだ。
 しかし、何気なく神に感謝の祈りをささげるとき、私はあの存在を思い浮かべはしないだろう。

 GSと宗教家その狭間で常に揺れ動いている。それが私だ。

 だが、周りの皆は私を神父と呼ぶ。だから、神父でいられる。


  キィ〜〜〜〜
  「おはよぅ〜っす。唐巣神父おいでですか〜。」


 さて、今日も「神父」を始めよう。


おわり。


『あとがき』
はじめまして、枝垂桜と申します。
いつも皆様方の作品の数々をROMって楽しませていただいていました。
朝早く目覚めたので、なんとなしに筆が進みまして初投稿させていただきます。

Night Talker掲示板にも書き込ませていただいたのですが、
GSでの宗教観や諸々のことを文章にしたい衝動が湧きましてこうしたものを書かせて頂きました。
今回は「神」が明確な存在として在る世界での宗教家の思いはどんなものなのだろうということで書いてみました。
というわけで、レギュラー陣の中で数少ない(あるいは唯一の?)職業的宗教家の唐巣神父に御出馬頂きました。
宗教を広めるあるいは導く立場である専門業としての宗教家と一般の教徒との違いや、
人としての生を持ったものと違う生を持ったもの(ピート氏)とでの宗教の機能性の違いにも言及してみようかとも思いましたが
助長に過ぎるかと思い、切りました。

考察それ自体が目的化している文章でGSのSSとしては成立していないかもしれませんがご容赦くださいませ。

御目汚しいたしました、では。


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