レンガで出来た暖炉の中で、ちろちろと音を立て、薪が燃えていた。
暖炉の上には高価なアンティークの品々が趣味良く配置してある。
電灯の光と暖炉の炎の明かりとが交じり合って、床を赤く、壁を黄色く染めている。
昼間というのに太陽は姿を見せず、かわりといってはなんだが、窓は音一つ立てずに閉まっている。
車の行き来する音、人がしゃべる声、鳥や動物達のざわめきのみが聞こえる。
その部屋に男が一人居た。
その部屋の唯一の家具といえる大きなテーブルの上に置かれた紙をじっと睨んでいた。
半時間ほどそれを続けていたのち、左手で長い髪を掻き毟り、右手でインクに浸してあったペンを取り、綴られた文の続きを書くことにした。
汗が頬を通り顎に到達すると、次は紙に染みを作った。
「僕は、これから記す事を本当はあまり記したくないのだ。
何故ならもしあのことを書いたのならば、あの恐ろしい事件をこの紙に書き表したならば、あの辛い思い出を蘇らせなければならないから。
催眠治療でこの記憶を根本から消し去るために、より深い暗示をかけるのに必要とする行為だと言えど、気が進まないことは気が進まない。
そういって駄々を捏ねていてもしょうがないので、イヤイヤながらも記すことにする。
ことの始まりは、初夏のとある日の出来事がきっかけだった。
僕が所属しているオカルトGメン支部のメンバーで、呪いで世界の転覆を図る邪教信仰者達の摘発を行ったのだ。
その日、逮捕される予定だった邪教信仰者達は6人だった。
世界をひっくり返す規模の呪いを行う為には極端に少ない人数だ。
だが、我が職部の少ない人員を割いて彼らを止めたことは正解だったと言いようがない。
今でも、更に辛い思いをした今でも、あの雰囲気を思い出すと今でもゾッとする。
おびただしい数の爬虫類の死体があたりに腐乱しているのがまだまだ序の口。
ワニやトカゲなどの比較的わかりやすいものから、得体の知れないものが干からびていたり、あからさまに新種の妖怪のミイラが無造作に放られていた。
言語に絶する異様さだというのに、それすらまだ序の口。
1歩1歩進むごとに、辺りの凄惨さは増した。
とても耐え難い……ここに書くことすらおぞましいものが次々と現れる。
忌まわしく残酷な材料で表紙を作られた禁術書の山、暗黒の儀式に使われたと思われる哀れな犠牲者の末路の残滓。
スラム街のドブより汚いものを列挙するにしても枚挙にいとまがないので、ここまでにしておこう。
最後の部屋に到着するまで、いくら数々の猟奇的悪霊を打ち倒してきた猛者が集まるメンバーだとしても全身の振るえは止められないほど悲惨を極めていたが、それにひきかえ、僕らのするべき事はあっさりと終わった。
まるで全員夢を見ているような気分がしていただろう。
今まで全く見た事の無い三次元と二次元が組み合わさったような図形が部屋中に描かれ、六人の邪教徒達の内、5人の死体が安置され、残り一人が狂ったように舞踊をしていた。
鼓膜が破れそうなほどの大きな音で、今だかつて聞いた事も見た事もない呪文を喚き散らしていたのだ。
警告の言葉を言えなかった。
言うつもりもなかった。
次の瞬間、仲間の一人が狂気にかられ、腰もとの拳銃を引き抜く。
僕が止める間もなく、銃口から火が吹き出し、鉛の玉を邪教信仰者に命中させていた。
だが、僕のした心配は杞憂に終わる。
邪教信仰者が銃で撃たれたときの反応は、体から白と黄色の二色の光が放っただけだったからなのだ。
やせ細って皮と骨のようになっていた邪教徒の男は、頭部からドス黒い血を流して、奇形の立方魔法陣に倒れ込み、それ以降、動く事はなくなった。
水を打ったかのような静寂があたりを包む。
邪教徒の踊りでひっくり返されたと思われる、マリファナをたく為の香炉が床に落ちて割れていた。
それに残り火が触れ、薬品の燃えるゆらゆらと揺れる煙が、その静かさを語っていた。
有史最大規模の被害が予想された黒ミサは、こうしてあっさりと幕が閉じた。
僕だけじゃなくみんなも半ば信じられなかったようだ。
だけれども、そのときは不幸な犠牲者と特異な魔法道具をおのおの片付けなければならなかったこともあり、一時は気を紛らわすことが出来た。
あの事件から2週間、何も変わったことはなかったと記憶している。
ひょっとしたら2週間じゃなくて、15日間だったかもしれないが、とにかくその期間中は全くの平和だった。
あの忌まわしい事件も半分忘れかけ、日常が戻りつつあった日常にピリオドが打たれた。
一人の同僚が失踪した。
姿を消した男はいつも明るいやつで、仕事中のムードメイカーとして士気をあげてくれる優秀な友達だった。
姿を消す動機がわからず、かと言って誘拐されるほどやわな鍛え方はしていないので、みんながみんな頭を捻った。
捜索するには早過ぎるので、とりあえずその日は解散することになった。
次の日には、二人消えた。
その片方は僕の親しい友人で、日本人の男だった。
次の日には六人が消えた。
今回は人が消える瞬間に居合わせた人がいた。
消えた六人と失踪した三人のことを話しあっていて、その人だけが部屋を出てトイレに行ったら、戻ると誰も居なかったという。
確かに部屋のドアの前に立ったときには中から話し声が聞こえたというのに、ドアノブに手をかけるとぴたりとやみ、ドアを開けたら中はもぬけの殻。
カップの中のコーヒーが少し波を起こしており、誰かが寸前までそれを持っていたかのようだったらしい。
マリーセレスト号の再現のような人の消え方に、他のメンバーは恐れ慄いた。
正直に言えば、僕だって怖かった。
霊的にも物理的にも全く痕跡を残さず消えていることなど、まず有り得ないことなのだから。
何が起こっているのか、誰もが状況を把握しているものはいなかった。
とあるものは自宅に引き篭もり、大量の武器を残して忽然と姿を消し。
またあるものは何重にも結界を張り、努力空しく終わったり。
最後に残ったのは三人になった。
僕と、僕の後輩二人。
三人に互いを見張ることにして、10分も経たないうちに一人消えた。
なんの抵抗もなく、手に持っていたコーヒーカップがまるで最初から持つ人など居なかったかのように床に落ちていったのだ。
それを見た残り一人は半狂乱となり、滅茶苦茶に暴れながら外へと出た。
大声で神様に助けを求め、その声も虚しく、消えた。
この先から、全てのことを書き記すことは出来ない。
しょうがなかったんだ。
僕はしたくて、あんな忌まわしい儀式をとりおこなったわけじゃなかったんだ。
あの恐ろしい旧き神を、悪魔に身を落した旧き神を、時間と空間の彼方に封印されたあの旧き神を……復活させたのは、僕の意思じゃない。
千年も前に未来から来た人と神と悪魔とで封印されたあの悪魔は、僕を操ってあまりある力を持っていたからなんだ。
我ながらあの異界の地獄のような世界から抜け出せたとは、自分はかなりの幸運を持っている方だと思う。
世界というとてつもなく大きいシステムに発生したバグは修正され、最初から書きなおしになった。
気が付いたとき、僕はあの始まりの事件が起こった日の世界に居て、他の誰一人苦痛を味わったことなど覚えていなかった。
何が目的であの旧き神と世界は僕に知識を残したかわからない。
両者におおよそ似つかない義理人情なつもりでは無いと思う。
結局、旧き神は因果律の狂いの空間からはいずり出て、この世界に来てしまった。
恐らく、この世界はあと5年と持たないだろう。
僕には世界の危機を警告する義務があるのかもしれない。
その義務を果たせないことに、とても悔いがある。
この紙に書かれたことは、僕の記憶と共に暖炉にくべられ、ただの燃え滓になるだろう。
僕は、世界の終わりまで平穏に暮らすことを選ぶのだ」
男は、まだインクが乾いていない紙を丸めた。
そしてゆっくりと立ちあがり、さきほどより火が弱くなった暖炉の中にそれを放り込んだ。
白と黒の物体は、一瞬赤に染まり、粉と化した。
男の虚ろな瞳は、赤のうつろうものを鈍く写していた。
その部屋の上空に黒く熱く小さい雲が渦巻いていた。
その雲はそこで半刻ほどじっとし、直ぐに偏西風にのって東へと移動していった。