「ん……」  小さく身じろぎをして、直斗は目を覚ました。  すぐ近くにあるのは、愛しい人の顔。これは夢か、うつつか。  そしてようやく、気付く。自分が、彼に腕枕をされて眠っていたことに。  フラッシュバックする記憶。今の自分は、一糸まとわぬ姿。彼もまた、同じ。  ああ、そうか。そうだった。  僕は……この人に、抱かれたんだった。  くすぐったい程の幸せに、自然と浮かび上がる笑い。声を出さないようにするのが精一杯。  ようやく衝動が過ぎ去った後、また、彼の顔を見つめる。  胸の内に生れた欲望にかられて、そっと唇を近づける。  眠りに落ちる前に、何度も何度も重ねたはずなのに、やっぱり慣れなくて、ぎこちないキスになってしまう。  それでも、十分過ぎる程に直斗は満たされる。他に何もいらないと思える程に。  心の内側に生まれたぬくもりと、彼の体温に、また眠気が襲って来て。  直斗は猫のように彼のたくましい胸に身を寄せて、瞳を閉じたのだった。    Sweet, Sweet, Lovers  次に直斗が目を覚ますと、彼の姿は側になかった。  体を起こし、部屋の中を見回すが、気配はない。電気の消えた部屋は真っ暗で、ただ秒針が時を刻む音だけが響く。見えないその時計も、きっと夜更けを指し示していることだろう。  ベッドに置いた手に感じる暖かさ。少し失われかけたそれは、自分のものではない。そんなに時間は経っていないのだろう、と推理する。  起き上がろうとして、自分が裸だったことに気付く。ようやく闇に慣れてきた目であたりを見回すと、ベッドの脇に彼女の服が散らばっていた。  彼の手でそれを脱がされた時の気持ちを思い出して、直斗は赤面する。自然と高鳴る鼓動。胸の奥は熱く、心が焼かれて。  一つ深呼吸して、落ち着きを取り戻そうとする。完全に成功はしなかったけれど、それでもどうにか、直斗は立ち上がって服を着始めたのだった。 「先輩」  階下に下りると、彼は台所に立って料理の準備をしているところだった。 「ん? もう起きたのか」  振り返った顔は、少し残念そう。不思議に思って、すぐに答えを導き出す。 「僕が起きた時に、出来上がった料理で驚かせようと思ってたんですか」 「さすがだな、名探偵」  苦笑して、彼は直斗にソファを指差す。 「座ってテレビでも見てな。出来上がったら呼ぶから」 「そんな。僕も手伝いますよ」 「いいから今日は、俺に任せとけ」  強く言われてしまう。手伝うとは言ったものの、料理に自信があるわけではないので、直斗は彼の言葉に従うことにした。  もっとも、ソファではなく、食卓の椅子を一つ引いて、そこに腰掛けたのだけど。 「――――? 何でそんなとこに? テレビ、見れないだろ」 「いいんですよ、ここで」  少しでもあなたの近くにいたいから。  そんな恥ずかしい言葉を、彼女は飲み込む。代わりに、 「テレビよりも、あなたと話してる方が楽しいですから」  口にしてから、直斗はわずかに赤面する。その言葉も、十分に恥ずかしいことに気付いたから。 「そりゃ光栄だな。で、何を話す?」  幸い、背を向けていた彼は、そんな彼女の様子に気付かなかったようだ。冷蔵庫の中から、キャベツを取り出しながら、問いかけてくる。  少し考えた後、直斗は言った。 「あなたのことなら、何でも」 「俺のこと?」 「ええ。子供の頃のこととか、ここに来る前の話とか――――僕に会うまでのあなたのこと、聞かせて下さい」  知りたいから。あなたの全てを。  こんなにも、一人の人間のことを知りたいと思ったことは、かつて無かった。それだけでも、彼の存在は、直斗にとって特別だったのだ。 「そうだな。じゃあ、何から話すか」  手際良く、とはとても言えないけれど、着実に料理を進めながら彼は。  彼女の問いかけ全てに、答えを返してくれたのだった。 「明日は、学校ですね」  ポツン、と言ったのは、彼に振舞われた料理を食べた後のこと。  テレビの時報が指す時刻は、すでに深夜と言っていい時間。  そして直斗は、ソファに並んで座った彼に抱きしめられている。  始めはやはり、恥ずかしさが先にたったものの、今ではここがずっと自分の場所だったように思えて。 「そだな」  少し経ってから、返ってくる答え。その合間の沈黙の意味を、直斗は知っている。自分も同じことを思っていたから。  離れたくない。  そう、思う。  アナウンサーの話すニュースの内容は、まるで頭に入ってこない。  このまま時が止まればいいのに。生れて初めて、心の底から直斗はそう願った。  あまりに幸せな、この時間。 「……どうする?」  耳元で、そう囁かれる。  心揺さぶる、誘惑。今、彼がペルソナを呼び出したのなら、一体、どんな姿をしているのだろう。そんなことを直斗は思う。  今、この家にいるのは二人だけ。改めて確認する、事実。  このまま朝まで時を共に過ごすことだって出来る。一度、家に寄ってから学校に行っても、十分に間に合う。  熱い頬、胸、心。体中を甘美な炎に焼かれながら、冴え渡る頭。  アリバイなら、いくらでも作れる。証拠を残さない方法だって、無数に思いつくことが出来た。  それでも。 「今日は、帰ります」  言って、直斗は彼からそっと身を離して、微笑んだ。対して彼は、複雑な表情。残念なようで、どこかほっとしたような。  言葉を交わさなくても、わかった。この人が自分と同じ気持ちだということに。  だから直斗は、嬉しさに笑みを深くして。  愛用の帽子を手に取って、被ったのだった。 「それじゃ、今日はごちそうさまでした」  玄関先で、直斗はそう言って頭を軽く下げた。  送っていこうか、という彼の言葉を、彼女は丁重に断った。そして彼も強いることはなかった。 「本当に、楽しかった――――」  彼を見上げる直斗の瞳には、確かな愛情の光。それは彼の目に浮かぶのと同じぐらいに強く、眩しく。  二人の想いは、同じ。  このままもっと共に過ごしていたい。ずっと、ずっと一緒にいたい。  ――――だからこそ、直斗は彼の家に泊まることを選ばなかった。  もしもこのまま、二人、朝を迎えたならば。  それでも二人は、離れられなかっただろう。  何度も何度もまぐわい、求め合っていただろう。  学校も、友も、家族も、全てを忘れ去って。  だがそれを、直斗は是としなかった。彼も、また。  二人の先には、幾千の夜と、幾万の朝が待ち受ける。  だがそれを越えるには、二人だけではダメなのだ。  愛し愛され、その先に待つのが二人だけの世界だとしたら、果たしてそれは本当に幸せなのだろうか。  そんな風に直斗は思う。  彼らには、仲間がいたから。頼り、頼られる、無二の友人達がいたから。  それは愛と同じぐらいに、大切なもの。  だから彼女は。 「……先輩」  周りに誰もいないことを確かめてから。  直斗は、小さく顔を上げて、瞳を閉じる。  彼の驚く気配が伝わってくる。だが、すぐにそっと肩に手を置かれ。 「――――ん」  重なる、唇と唇。ただ、触れ合うだけで、その先には進まない。  永遠に感じる一瞬。それを断ち切ったのは直斗。  彼の体を軽く押して、身を離す。 「それじゃ、先輩。また明日、学校で」  言って、直斗は身を翻す。そして、振り向かない。  愛しているから。  いつまでも共にいたいから。  その為に、胸を張っていたいから。  だから彼女は。  その優しく、ついばむようなキスだけで、満足することにした。  ――――今日のところは。