「直斗、可愛くなったよね」 唐突なりせの言葉に手元の牛乳パックがごぼっと音を立てた。幸いと吸い込む直前だったので、僅かな空気が逆流するだけで被害はゼロ。 「あ、変な意味じゃないからね。可愛いのは元からだし」 屈託のない笑顔でりせは付け加える。向けた視線はそういう意味ではないのだが。 「……何ですか突然」 「うん。なんていうか、やっぱり女の子だなあって」 「っ……」 これまで言われた事などないような台詞を立て続けに浴びせられて言葉を失う。 「か、からかわないでくださいよ」 「からかってないよ」 「なんなんですか。もう……」 わけもわからず上気しそうな顔を冷却しようと冷たい牛乳を吸い上げる直斗の顔を、りせは少し悪戯っぽい笑顔で覗き込んだ。 「ね」 目が合う。少しだけどきりとした。幼さと大人びた雰囲気の入り混じるりせの容貌は、多分性別に関係なく人を引き込む何かがある。やっぱりアイドルだな、と関係ないことを思いながら直斗は牛乳を喉に流し込む。 「先輩とどこまで行ったの?」 「は!?」 思わず大きな声が出てしまった。どうしてそこであの人が出てくるのだろう。 「な、な何を」 「だって付き合ってるでしょ?」 「ど、」 どうしてそれを。上擦る声でそこまで言ってから、しまったと口を塞ぐ。 「やっぱりそうなんだ」 「……久慈川さん」 填められた。恨みがましい視線を向けるが、屈託なく笑うりせには勝てそうもない。 「大丈夫だよ。多分だけど、他のみんなは気付いてないみたいだし。このりせちーの目は誤魔化せないけどねっ」 ぐ、と親指を立てて何故か胸を張るりせに直斗はがっくりと肩を落した。 「だからかなあって思ったの。直斗、自覚ないと思うけどどんどん女の子になってるから。特に先輩の前だと」 「い、意味がよく」 「そのうちわかるよ」 そのうちと言われても一生判らない気がするのだが、今問いただしてもやはり理解できないだろうと直斗は諦めることにした。 「あの、それって。端から見て分かりやすいってことですか?」 恐る恐る問うてみる。一応、仲間との兼ね合いもあるわけだし、少なくとも事が済むまでは伏せようという申し合わせだ。提案したのは直斗だったが彼は承諾してくれた。無論半分以上は建て前で実際今のような状況になったときにどうしたらいいか解らないからだ。 おまけに、幼い頃から男として振る舞うよう努めてきた直斗のことだ。性別の問題については振り切ったとはいえ所謂女の子らしさには程遠い。彼から受けた告白に答える際そう前置いた直斗に、彼はそんな事は問題にもならない、ありのままの直斗が好きなんだと堂々と言い切った。 が、それでもたまに出かける繁華街で可愛く着飾った女の子を見かけると、ああいう子が隣を歩く方が良いんだろうなと考えないでもい。だから何となく大っぴらにできないのだった。彼には二重の意味で申し訳ないと思っている。 だから、あまりわかりやすいようでは困る。そんな心中を知ってか知らずか、りせはううんと首を振った。 「さっきも言ったけど大丈夫だと思うよ。普通に仲いいなあって感じ」 千枝先輩と花村先輩みたいな。具体例を出されて妙に納得した。 「そ、そう。良かった」 「うん、大丈夫。ね、それでどこまで進んでるの」 「どこまでって……」 気軽に答えられるほど、直斗はまだ経験豊富ではない。気恥ずかしくて目を逸らすが、やがてりせの視線に耐えかねてぼそぼそと口を開いた。 「……き、キス、かな」 「だけ?」 「だけです!」 「ふーん」 恥ずかしさからだろう、つい語気が荒くなりながらも正直に答える辺りが直斗らしい。相槌を打ちながらりせは微笑んだ。微笑みながら、この場に居ない彼の姿を思い浮かべる。 少なくとも、りせの知る男性の中では彼はかなり理性的な方だと思う。けれど彼とて健全な少年である以上は理性だけでは済まないこともあるだろう。帽子を下げて赤い顔を隠そうとしている直斗を横目に見ながら、彼が内心抱えながら必死で押し留めているであろう色々な我慢や葛藤を想像する。 (……それだけ大事、ってことだよね) りせはほんの少しだけ眼を細めるとすぐにまた元の無邪気な笑顔に戻り、目元まで隠していた直斗の帽子のつばをそっと持ち上げた。頬を染めたまま、少しだけ拗ねたような顔が覗く。 「……酷いです」 「あはは、ごめんね。ホントはちょっとだけからかってみたかったの」 だって直斗、可愛いんだもん。そう告げると直斗はまた照れたような泣き出しそうな、そんな顔になる。ああやっぱりとりせは思った。この子はこんな風に素の自分自身を褒められることにも、悪意無しにからかわれることにもまるで慣れていない。いつも利発でしっかりしている所ばかり見ていたから一種浮世離れ的なものを感じてはいたが、こうしていると間違いなく同い年のただの女の子。 りせは勢いよく立ち上がると、帽子ごと直斗の頭を撫でた。 「わっ!?ちょ、ちょっと」 帽子越しに髪をかき回されて直斗が抗議の声を上げる。変な癖が付いてはたまらないと帽子を脱いで乱れた髪を整えながら困惑した表情を向けてくる直斗に、りせは満面の笑みを返した。 「ねえ直斗。私、応援してるからね。先輩とのこと」 「えっ?」 「私、先輩も好きだし直斗のことも好きだから。仲間としてじゃないよ、友達として」 「久慈川さん……」 「り・せ」 複雑な表情で呟く直斗の前に指を一本立てる。 「いつまでも『久慈川さん』じゃカタいよ。『りせ』でいいから。私も呼び捨てしてるんだし」 「で、でも僕、呼び捨てなんてした事なくて」 「じゃあ私が最初ってことで。今度久慈川さんなんて呼んでも返事しないからね」 わざと膨れっ面を作ってみせると、う、とほんの少しだけ情けない声を漏らして直斗は困ったような顔をした。ややあってか細い声が発せられる。 「……り、りせ、さん?」 「うーん」 りせはわざとらしく顎に手を当てる。まあ及第点と言ったところだろうか。 「まあいいや。じゃあ、次からはそれでよろしくね!」 それじゃあね、とりせは手を振って歩き出す。 「あ、あの!く……じゃなかった、りせさん。その、ありがとう!」 背中に届いたその声は多分いろんな意味での『ありがとう』だったのだろう。りせは立ち止まって振り返ると、もう一度笑顔と共に手を振った。 「……言う前に振られちゃったかあ」 屋上から引き上げ、誰もいない踊り場でりせは一人呟いた。薄々気付いていた、彼と直斗が既に恋仲にあることは。改めて確認したことでそれが確信に変わった。 「でも、相手が直斗じゃ仕方ないよね」 うっすらと自分の顔が映る窓を見る。校庭ではサッカー部が走り回っていた。彼は今頃体育館でバスケの真っ最中だろうか。特段用事がある様子でもない直斗が屋上でぼんやりしていたのは部活が終わるのを待っていたからだろう。 最近自覚したりせの淡い恋心は、その想いを相手に伝えることもなく終わりを告げた。けれど悪い感情が浮かんでくることはない。むしろ彼が選んだ相手と話をして、自分でも驚くほどすっきりした気分になっていた。多分、直斗が呆れるほど純粋だったからだ。あれでは敵う筈がない。ちょっとつついてやっただけでちょっかいを出したりせの方が戸惑うほどいっぱいいっぱいになられては、例え邪な思いでイジってやったところで毒気を抜かれてしまう気がした。 だから、この恋はここで終わり。終わったけれど、直斗とはこれからいい友達になっていけるだろう。りせは思う。 これから先、あの二人はさぞかしもどかしい恋をしてくれるのだろう。 なんとなく先を思いやってりせはくすくすと笑いながら教室へ向かった。あんまりにもグダグダなことになりそうだったら、あの小さい背中ぐらいは押してやっても罰は当たらないだろうと考えながら。 目次 / 戻る |