「それにしても」
 繋いだ手を意識しないようにしながら、直斗は隣を歩く彼を見上げる。
「どうして、デートだなんて嘘を言ったんですか?」
「ん? 嘘じゃないぞ」
「え?」
「今、こうして、デートしてる」
 言って彼は明るく笑い、強く手を握り締めてくる。
 目を丸くして驚く直斗の姿を、優しく見つめながら。


  それは、穏やかな、日曜の出来事 〜後編〜


「だ、騙されませんよ」
 慌てて手をふりほどいて、直斗は睨むように彼を見る。
「それなら僕の誘いを受ければいいだけだ。何もこんな、回りくどいことをする必要なんてなかった」
 糾弾しながらも、心のどこかで少しだけ、直斗は手を振りほどいたことを後悔していた。ただ、手を繋いだままだと、心が溶けてしまいそうで、冷静な考えをすることも出来なくなりそうで。
 だから、強い意志で振りほどいたのだけれど。
 冷めていく手のぬくもりが、とても、惜しく思えたのだ。
「一体、何の目的があって、こんなことを?」
「直斗とのデートが本命さ――――けど、他の目的があったってのは、当たってるな」
 そんな彼女の葛藤に構いもせず、彼はあっさりと白状した。そして、油断ならない、と身構える直斗の方を、ほんの少し責めるように見る。
「どうしても、直斗に会って欲しい人がいるんだ――――けど、普通にしてたら、会ってもらえなさそうだったからな」
「そんなこと――――」
 思いもしなかった言葉に、直斗は反論しようとする。が、
「じゃあ聞くが、もし直斗からのデートの誘いを受けてたとして、俺が直斗に会わせたい人がいる、なんて普通に言ったら、付いてきたか?」
 ちなみに会わせたいのは、女性だ。無駄に胸を張って、彼は言う。
「……それは」
 きっと、とても困っただろう。二人きりで過ごしたいからこそ、勇気を振り絞って誘ったのだ。その前提が覆されるのであれば、確かに自分は迷っただろう。
 それに探偵としてならともかく、素の自分は人見知りをする性質だ。第三者、しかも女性と会わなければならないと知っていたら、断っていたに違いない。
 もしそうだったら、きっと今頃、一人の部屋で落ち込んでいたことだろう。断った自分を嫌悪しながら。
「直斗とデートをして、俺が会わせたい人にも会わせる。その為には、有無を言わさないでやるしかなかったんだよ」
「だからって……乱暴なやり方ですよ」
 僕が、どんな思いをして……そう、続けようとした彼女の唇を。
 彼は、塞ぐ――――人差し指で。
「ま、そうカリカリするなよ」
「誰のせいだと思ってるんですか」
 無責任な言葉を放つ彼を、睨みつける。だが、自分でもまったく、それが効果的だとは思えなかった。
 こんなにも、顔が真っ赤になってしまっていたら、照れ隠し以外の何物でもないではないか。
「それよりも、その人のところに早く行かなくていいんですか。そっちも『デート』なんでしょう」
「ああ。休みの日だけしか会えない人だからな、急がないと」
 直斗の精一杯の皮肉も、柳に風と受け流す。その様を見ながら、直斗は深い溜息を付いた。
 どうしてこんなに厄介な人のことを――――と。

 そうして辿り着いた河原。
「あれが、今日のデートのお相手」
 冗談めかして言った彼の指差す先には。
 喪服を着た一人の老女が、穏やかな、そして、眩しそうな目で。
 二人を見上げていたのだった。

「……あの人が?」
 驚く直斗に、ああ、と小さく頷いて、彼は河原へと階段を降りて行く。
「こんにちは、ひさ乃さん」
「こんにちは。会える予感がしていたわ」
 挨拶を交わした後、まだ戸惑いから抜け切れずにいた直斗を、彼は見上げる。
「そんなとこで突っ立ってないで、こっちに来いよ」
「あ、え、は、はい」
 慌てて階段を駆け下りて、彼の隣に立ち、直斗は帽子を脱いだ。
「白鐘直斗です。初めまして」
「まあまあ、ご丁寧にどうも。私は黒田ひさ乃。貴方のこと、テレビで見かけたことがあるわ。探偵をなさってるんだったわよね」
 にこにこと陽光のような暖かい笑みを浮かべて会釈をした後、彼女は彼を見て言った。
「今日は、とても可愛いお嬢さんを連れてきてくれたのね」
「――――!!」
 思わず、直斗は息を呑む。
 彼女が男装をし始めてから、初めてのことだった。初対面の人間に、お嬢さん、と女性扱いをされたのは。
 先に告げていたのだろうか。思って、彼を見るが、その顔に浮かぶのは苦笑い。
「俺は言ってないぞ」
 視線に気付いてそう言う彼の言葉は、恐らく真実なのだろう。
「ほほほ。伊達に長く生きてるわけじゃないのよ」
 女の勘よ。どうしてわかったのだろう、と戸惑う彼女に、ひさ乃はにっこりと笑ってそう言った。
「さすが、ひさ乃さん」
「ありがとう。それよりも、あなたがこうして連れて来たということは、もしかして」
「ああ」
 まだ呆然としていた直斗の手を、彼がいきなり握り締める。咄嗟のことに反応できない彼女を前にして、彼は言った。
「この子が、俺の好きな人」
「……な!?」
 唐突な告白に、直斗はさらに混乱する。
「何を言い出すんですか、いきなり!!」
「なにって、事実だろ。前にも言ったし」
「だからって、こんなとこで言うことじゃないでしょう!!」
「言わないと意味がないんだよ。俺が好きな人と会わせる、って約束したんだから」
「そういう問題じゃありません!!」
 言い合いを始める二人を、ひさ乃は慈愛に溢れた瞳で優しく見つめる。

 通りがかった野良猫が、一つ、大きな欠伸をして、太陽に暖められた石の上で丸くなった。

「で、お二人はどういうお知り合いなんですか」
「それは話すと、長くなるかしらね」
 ようやくひさ乃をほったらかしにしていることに気付き、言い合いを止めた二人は、彼女と共に河原に座る。一番に口を開いたのは直斗だったが、それは照れ隠しでもあった。
 ふと見れば、さすがに彼も同じ思いなのだろう、顔がほのかに赤くなっていた。
「彼が、私の初恋の人に、とても良く似ていたのよ」
 そうしてひさ乃はゆっくりと、これまでの事を話し始めた。
 夜の病院で、彼を見間違えたこと。
 休みの日にここで一人、川を眺めていた彼女を、彼が慰めに来てくれたこと。
 亡くなった夫が、若い頃に自分に宛てて書いた手紙と、自分が書いたその返事。それを探してきてくれたこと。
 夫の死をようやく受け入れることが出来て、今は子供達と幸せに暮らしていること。
「でもね、あなたがいなければ、こんな幸せに気付くことも無かったでしょうね」
 そう言って、ひさ乃は彼に、深い感謝のこもった視線を向ける。
「俺は何もしてないよ。ひさ乃さんが自分で、乗り越えただけだ」
 彼は肩をすくめるが、彼女はゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、違うわ。あなたの存在がなければ、今でも私はこの町を去ることも出来ないまま、一人で川を眺めていたでしょうね」
 寂しいことに気付きもしないままにね。穏やかに言うひさ乃の横顔に、直斗は一瞬、目を奪われる。そして、
「その気持ち、僕にもわかる気がします」
 自然と口をついて出てきた言葉に、自分自身でも驚いていた。だがもっと驚いていたのは、彼。一人、ひさ乃だけがゆっくりと頷いていて。
 交わされる、女二人の視線。そこに確かに、直斗は共感を覚える。
 この人は自分に似ている、と。
「僕も、あなたの存在に、随分と助けられましたから」
「よしてくれ、直斗まで」
 気恥ずかしいのか、頭の後ろを軽くかいて、彼は立ち上がった。
「少し暑いから、飲み物を買ってくる。二人ともお茶でいいよな」
「あ、それなら僕が」
「直斗はひさ乃さんと話してやっててくれ。頼んだぞ」
 言うと同時に、彼はさっさと歩き出していた。立ち上がったものの、追いかけることも出来ず、直斗はもうっ、と呟く。
「勝手な人なんだから」
「貴方の前だと、いつもああなのかしら」
「ええ、そうです。黒田さんの前だとどうかは知らないですけれど、僕には意地悪なんだ。今日だって――――」
 再び腰を下ろして、直斗はここに来たのも、すっかり騙された為だ、ということを全て話す。
「それは災難だったわね」
「事情を話してくれれば、僕だって納得したかもしれないのに、あの人ときたら――――」
 ふと、それで気付いて、直斗はひさ乃の方を心配そうに見つめた。
「そういえば、すいません。今日、約束されてたんですよね。ここで会うってこと。なのに、突然、お邪魔しちゃって……」
「今日? いいえ、約束なんてしていないわよ。好きな人を見せてくれる、という約束はしたけれど、いつとは言っていなかったもの」
 ひさ乃の言葉に、え、と直斗は動きを止める。
 そういえば、彼女は彼と会った時に何と言っていた?
『会える予感がしていた』
 と言っていなかったか?
 それはつまり――――
「じゃあ、あの人、ひさ乃さんがここにいると知ってて来たわけじゃ……」
「別に言ったりはしていないわよ。でも、会いに来てくれるんじゃないか、とは思っていたけれどね」
 ほほ、と小さく笑う彼女の顔に、直斗は閃く。
「黒田さんには、そう思えるだけの根拠があったわけですね」
「そうね、そうとも言えるかしらね」
 一つの言葉も聞き漏らさないように、ちょっとした表情の変化にも気付くように。いつの間にか探偵モードに移行した頭脳が、目まぐるしく動き始める。
 彼は彼女がここにいることを知らなかった。だが、いると確信していたからこそ、直斗を騙すようなことまでして見せた。
 そしてひさ乃もまた、彼が来ることを知らなかった。だが、来るだろうと予感していた。
 二人を結び付ける接点が、あったのだ。二人だけがそれと知っている、接点。
 何か、ヒントがある筈。必ず、どこかに。
 考えていた直斗がふと、目に止めたのは彼女の服装。黒一色の喪服姿。
 どうして、こんな格好をしているのだろう。
 そもそも、彼女は街を出て子供や孫達と暮らしていると言っていた。なのに、今ここにいるのは何故だろう。
 そう思った瞬間、全てが繋がった。
「わかりました。どうしてお二人が、会う約束をしていないのに、ここで会えるとお互い、わかっていたか」
「そう。じゃあ、どうしてかしら?」
 楽しそうに笑うひさ乃に、直斗はゆっくりと口を開いた。
「黒田さん。今日はあなたの亡くなった旦那さんの月命日なんですね。だからあなたは、この街にやってきた。そして、その日がたまたま休みと重なったから、あなたはここに来ればあの人に会える、と、そう思っていた――――違いますか?」
「ええ、その通りよ。必ず会えると、思っていたわけではないけれどね」
 頷いて、ひさ乃は優しい笑みを浮かべる。
「さすがは、探偵さんね。見事な推理だわ」
「いえ、そんな……」
 純粋な称賛の言葉に、直斗の頬が朱に染まる。こんな風に誰かに心の底から褒められるのは、本当に久しぶりのことだったから。
「確かに一度、月命日のことを彼に話したわ。でも、それを覚えていてくれるとは思わなかったけれど」
「……そういうところ、あの人は抜かりないですからね」
 彼女の言葉には、溜息が混じる。
 まるで人の心が読めているかのように、彼は目の前の相手が何を求めているかに気付いて、先回りをする。
 例えばそれは、自信に満ち溢れた態度。例えば鋭い直観。例えばナイフの前に飛び出す勇気。
 例えば――――好き、という言葉。
 時に冷たくされたとしても、後になってから、そうされたことで自分が変わることが出来たのだと気付く。
「本当に――――嫌味な人ですよ」
「貴方も、大変ね」
 ひさ乃の言葉に、直斗は顔を上げて首を傾げる。
「何がですか?」
「ああいう性格だから、女の子にモテるでしょう? 気が気じゃないでしょうに」
「な……」
 思わず、絶句。そして、
「べ、別に、僕はあの人がモテても関係ないですし、その、好きっていうのも、あの人が一方的に言ってるだけで、僕は、その……」
「でも」
 取り乱す彼女を、ひさ乃はなだめるように優しい口調で言う。
「あなたも、好きなんでしょう?」
 言葉を失って。
 否定しようとして、だが穏やかな瞳の彼女を前にしては、嘘などつけそうになくて。
 例え嘘をついたとしても、すぐにバレてしまうことだろう。何しろ、誰も気付かなかった少年探偵の真実の姿を、一目で見抜いてしまう程だから。
「…………」
 言葉には、まだ出来なかった。それを口にするのは、彼の前だと決めていたから――――今日ではないいつかと、決めたから。
 だから、返事の代わりに直斗は、
「……………………」
 コクリ、と首を縦に振ったのだった。
「……恥ずかしくて死にそうだ……」
 思わず口から漏れた言葉に、ひさ乃は。
 声をあげて笑ったのだった。

 そして、程なく戻って来た彼を交えた三人は。
 日が傾くまで、河原で談笑し続けた。
 それは人見知りの筈の直斗が、すっかりそれを忘れてしまう程に、とても楽しい時間だった。

「ああ、直斗ちゃん、ちょっと」
 それじゃあまた。言って別れようとした矢先に、直斗は呼び止められた。
「…………?」
 怪訝に思って彼が近付こうとするが、ひさ乃はゆっくりと首を横に振って止める。
「ダメよ。ここからは女同士のお話。すぐに済むから、待っていて頂戴」
 不承不承に立ち去る彼をよそに、ひさ乃は直斗に話しかける。
 時間にして、五分かそこらだろう。だが、彼の元に駆け寄ってきた直斗の顔には、晴れやかな表情が浮かんでいた。
「それじゃ、黒田さん。またいつか」
「ええ、あなたも元気でね、可愛い探偵さん」

「……何、言われたんだ?」
 夕暮れの河川敷を並んで歩きながら、彼は直斗に問いかける。だが、彼女は笑って、
「それは秘密ですよ」
「なんだそりゃ。仲間外れか」
「拗ねたって、教えてあげませんよ」
 言いながら、直斗は彼の前に回って振り向く。
「先輩。僕、お腹がすいちゃいました」
「あ?」
「どこか、御飯を食べに行きましょう。今日、僕を騙したんですから、それぐらいはしてくれますよね」
 う、と言葉に詰まって、彼は財布の中身を思い出す。
「……愛家でいいなら」
「全然構いませんよ」
 夕陽を背景に微笑む直斗の姿に、彼は目を、心を奪われる。
 いつもと変わらない、男装した姿なのに。
 何故かとても――――とても綺麗で、可愛く思えて。
 胸が、騒いだ。
 それは一瞬のことだったけれど、幻ではなく、確かにあったもの。瞳に焼き付けられたその光景は、あまりに鮮明で。
「ホントに何があったんだ」
 最後にひさ乃と話してからの彼女の様子に、彼は眩暈を覚える。こんなにも魅了されたら、自身を制御出来なくなってしまいそうだ。
「だから、秘密ですよ」
 彼の葛藤を知ってか、知らずか。  直斗は、また、彼の心を溶かすような顔で、優しく笑って。


「先輩」
「ん?」
「今日、言えなかったことがあるんです――――それを、次の時に、聞いてくれますか?」
「ああ、もちろん」





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