清水の舞台から飛び降りる、程の決意だったのだ。
「あ、あの……その、あ、明日の日曜日……二人で出かけませんか?」
 なのに、あの人は。
「駄目。その日はデートがあるから」
 ピシッ、と体が硬直し、頭は白に染め抜かれる。
 動けなくなった彼女を残して、彼は。
 じゃあな、と片手を挙げて、立ち去って行ったのだった。


   それは穏やかな、日曜の出来事 〜前編〜


 罪悪感が、ないわけではなかった。葛藤だって、あった。
 それでも、直斗は、誰にも見咎められないように気を付けながら、堂島家の玄関を見つめることを止めることが出来なかった。
 時は、日曜日の朝。彼はまだ、『デート』の為に家を出てはいない。
 自分は何をやっているんだろう、と心の中でだけ小さく溜息を付く。こんな風にまとわりつくなんて、まるでストーカーみたいだ。
 だってしょうがないじゃないか。別の声が浮かび上がる。あの人が、デートだなんて言うから。神社で、僕のことを好きだ、なんて言っておきながら、他の人とだなんて。
 許せない、と思ってから、今度は本当に溜息を付く。何故なら、彼女はまだ、彼の想いに答えを返していないから。神社で告げられた時には逃げ出してしまったし、また、佳境に入った事件の解決に奔走していたから、それどころではなかったというのもある。
 だけど、いや、だから。
 勇気を振り絞って、誘ったのだ。そこで、答えを返そう。そう思って。
 なのに。
「デートだから」「デートだから」「デートだから」
 彼の声が脳裏でリフレイン。
 僕のこと、嫌いになってしまったんだろうか。
 考えたくなくて、目をそらしていた思いが、胸の奥から這い出て来る。黒い影を伴って現われたその気持ちは、少しずつ、体を侵食していって。
 あの人の側にいられない自分、を想像しただけで、深い孤独に体が震える。
 こんなにも、苦しいだなんて。
 不意に感じた寒さに、直斗は身を震わせた。
 知らなかった。自分がこれほどまでに、あの人のことを――――

 ガラガラ。
 聞こえてきた音に、直斗はハッと顔を上げる。その視線の先には、堂島家の扉の鍵を占める、彼の姿があった。
 ――――誰と、デートするんだろう。
 その先に待つ未来に、心を切り刻まれるかもしれないとわかっていて。
 直斗は。
 彼の尾行を、始めたのだった。


 その追跡は、簡単なものではなかった。季節は冬。寒風吹きすさんでいるというのに、外を好んで歩く者はそうはいない。その癖、出歩いている者達の中に顔見知りがいる確立は高いときている。何せ、狭い町なのだから。
 人がいっぱいいて、紛れるぐらいが一番、楽なのだけれど。そう口に出さずぼやきながらも、直斗は自分の探偵としての知識をフルに活躍させて、彼を追い続けた。
 しかし。
「…………!」
 彼女は、思わず立ち尽くす。
 ――――彼の向かう先は、鮫川の河川敷、だったのだ。

 どうしよう、と惑う。
 見渡す限り身を隠す場所のない、一本の長い道。迂回して先回りをすることは出来るかもしれないが、大幅な時間のロスになるし、何より彼を見失ってしまう。
 探偵としての本能は、ここで引き返せと叫んでいた。これ以上は無理だ、と。
 だが、諦められる筈もなかった。見失ってしまえば、そのまま、何かが終る気がして。
 直斗自身も気付かない、それは、女性としての彼女の心。
 どうすればいい? どうすれば。
 焦燥が頂点に達した、その時。
「いい加減、出てきたらどうだ?」
 歩みを止めた彼は、唐突に振り向いて。
「そこにいるんだろ、直斗」

「いいから出て来いって、直斗」
「………………」
 まさか、と思いながら息を潜めていたものの、再び名前を呼ばれ。
 観念して、直斗は彼の前に姿を現す。
「ようやっと、出てきたな」
 満足そうな彼の笑顔が気に入らなくて、直斗は目を背けた。そして、
「いつから、気付いていたんです?」
 ふてくされたようにそう言う。
 実際、少なからず、ショックを受けていた。探偵として、尾行はいの一番に学ぶものだ。ここまでの道程でも、気付かれていなかったと自信を持っていた。
 なのに、この人は。
「ん? ま、最初からな」
「………………」
 心を挫かれそうになる。
 女であることは、少しずつ認められるようになってきていた。それでも、自分の一番は、探偵であることだった。なのに、最初から気付かれていただなんて――――
 探偵失格だ。直斗は、そう思い、惨めな気持ちになる。
「そんな、泣きそうな顔、するなよ」
「……だって……」
 そこでようやく、彼女の異変に気付いたのだろう、彼は慌てふためく。が、悔しくて、悔しくて。
 涙をこらえるのに、直斗は必死になる。
「落ち着いて聞けって。俺が言ってるのは、最初から直斗が尾行してくるだろう、って思ってたってだけの話だ」
「……へ?」
 彼の言葉に、思わず泣きそうになっていたことも忘れて、彼女は顔を上げる。
「正直、歩いてて不安だったんだからな。本当に直斗が付いてきてるかどうか。さっきだって、出てきてくれたから良かったようなものの、いなかったらどれだけ恥ずかしかったか」
 目を、一つ、二つ、パチクリさせて。
 ようやく頭が回転し始めて、彼の言った言葉を理解する。
「え? それじゃ、僕があそこにいるって……」
「賭けだったな、正直言って」
「……バ」
 唖然として、そして、
「馬鹿じゃないですか!?」
 掴み掛からん程の勢いで彼に迫る。
 が、彼は直斗の怒気を受け流すように、飄々と笑うばかりだった。

「ま、勝算は少なからずあったんだ」
 もっと言いたいことはあったはずなのに、彼の笑顔を見ていると毒気を抜かれてしまって、なし崩し的に彼女は彼の隣に並んで歩いていた。
「何のことですか?」
「いつだったか、陽介と千枝が、完二と直斗を尾行したことがあったろ」
「ああ……」
 それはまだ、直斗が彼と出会う前の話。ほんの半年程前のことなのに、今は遠い昔のことのようで。
「そん時、直斗がこの河川敷を選んだのって、尾行を見つける為だったんだろ」
「ええ、まぁ」
 確かにあの頃は、まだマヨナカテレビのことも、ペルソナのことも知らず、事件はこの世界の中の出来事だと思っていた。だからこそ、次に狙われることが予測された巽完二に話しかけ、しばし共に行動した。あわよくば、彼のことを狙う存在を見つけられるかも、と思い、この河川敷に連れ出したのだが。
「けれど、花村先輩も里中先輩も、尾行にはむいてませんからね。巽君にすらばれるぐらいでしたから」
「直斗の目から見れば、そうだろうけれどな」
 少し辛らつな直斗の言葉を、彼は苦笑しながら窘める。勿論、彼女も本気で言ったわけではないことに、気付いているのだろうけれど。
「まあ、とにかく、直斗を出てこさせるとしたら、ここしかないと思ったんだよ」
「……それで、いるかどうかわからない僕に、あんなところで声をかけたってわけですか。随分と分の悪い賭けですね」
 皮肉めいた言葉と視線は、しかし悪戯っぽい光を漂わせた瞳に包み込まれる。
「いや、十中八九、いるだろうとは思ってたさ。直斗だったら、尾行してくるだろう、ってな」
「どうしてそんなことが?」
「それはここにいる直斗が、一番わかってるだろ」
 グッ、と言葉に詰まる。見透かされていたというのか。この気持ちを。
 それは、自分のシャドウを見られるよりも、ずっと恥ずかしい。
 ずっとずっと、恥ずかしい。
 ――――なのにどこか、直斗はホッとしてもいて。
「ひどい人だ、あなたは」
 人の心を弄ぶだなんて。
 激怒してもいい場面の筈なのに、どうしてか、それ以上に言えない。
 だから、そっぽを向く。そして心に決める。
 絶対に、口に出して言ってやるものか。この、気持ちを。
 ――――少なくとも、今日のうちは。

 そんな彼女の心の動きに気付いているのか、いないのか。
 彼は何気ない動きで、彼女の右の手を。
 小さな、右の手を。
 その、大きな掌で掴んで。
 優しく、そっと握り締める。

 少しだけ驚いたけれど。
 ドクン、と胸が跳ねたけれど。 
 直斗はなんだか、そうしていることが自然なような気がして。
 振りほどくこともしないままに、ただ。
 ただゆっくりと、彼と手を繋いだまま。
 黙って、歩き続ける。


 そうして辿り着いた河原。
「あれが、今日のデートのお相手」
 冗談めかして言った彼の指差す先には。
 喪服を着た一人の老女が、穏やかな、そして、眩しそうな目で。
 二人を見上げていたのだった。





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