とうとう、この日が来たか。  椅子に座って感慨にふける。紅茶の芳しい匂いを楽しみながら、彼は、胸の中で切なさを転がす。  愛でるように。慈しむように。  その視線の、先にいるのは――――    心、ほのかに、薫る 「こんにちわ、薬師寺さん」  広い屋敷の庭、その一角にある花壇の世話をしていた薬師寺の前に、唐突に現われたのは、一人の少年。思いも 寄らぬ姿に、彼は軽く目を見広げた。 「これはこれは、直斗様」  慌てて立ち上がりながら、シャベルを置き、首に巻いていたタオルで額の汗を拭う。 「先に言って下されれば、お迎えにあがりましたのに」 「いいんです。急ぎの用があったわけではないですから」  穏やかに言って笑う彼……いや、彼女の姿に、ふと薬師寺は違和感を覚えた。それはまるで、手袋を脱いで初めて 気付いた薔薇の棘のように、微かなもの。 「それより、怪盗Xはいますか?」  直斗の言葉に、彼はその違和感を忘れて、小さく苦笑する。きっと、ずっとこう言おうと企んでいたのだろう。悪戯 っぽさの交る会心の笑みを、目の前の男装の少女は浮かべている。  それは、彼女がもっと幼かった頃に見せていた笑顔に似ていて。とても懐かしく思えたのは、少女が少年になって からこの方、見せたことが無かったからで。 「怪盗Xの共犯者である私が、おいそれと口を割ると思いますか?」 「でしたら、そうですね、少し推理をしてみましょうか」  もったいぶった言い回しは、ありきたりの探偵ものをなぞったもの。始まるは、小さな寸劇。 「まず、何らかの特別な命令が無い限り、怪盗Xはその秘書を近くに置いていました。共犯者である、あなたのことです」  ほほう、とわざとらしく彼は頷いて見せた。その反応に満足したように頷いた後、直斗は続ける。 「そのあなたが、今は怪盗Xの屋敷の庭にいる。しかも、すっかり気楽な格好で、まるで庭師のように花壇を整備して いる。つまり、今日は外出する予定がない、ということです」  言われて薬師寺は、自分の格好を見る。直斗の言う通り、普段着慣れたスーツではなく、長袖のシャツにオーバー オールというシンプルな姿だ。庭師のようと言われても、おかしくはなかった。  一度、言葉を切ったのは演出だったのだろう。再び彼女は口を開いた。 「そして、今日は土曜日。これまで、怪盗Xは土曜日は休みを取る習慣でした」 「ええ、そうですね」 「それを裏付けるのは、孫娘が毎週土曜日、本宅に電話をかけた時、必ず繋がって話をしていたという事実」  その孫娘というのが自分だということをあえて伏せるのは、これがお遊戯だから。 「怪盗Xとその孫娘の会話は、時に一時間以上にもなったと聞いています。その会話中、彼女は時折、怪盗Xの背後 から鳩時計の鳴る音を聞いたと証言しています」 「なるほど」 「怪盗Xの家に住んでいたことのある孫娘は、その家に鳩時計が一つしかない、ということを知っていました。書斎に あるのが、それです」  また、言葉を切る、演出。その姿を、微笑みながら薬師寺は見つめる。 「それで?」 「これらのことから推理されるのは」  先を促した彼に、直斗は小さく、だが優雅に手を動かした。  まるで、目の前の霧を、払うかのように。 「怪盗Xはこの屋敷にいる。それも、十中八九、書斎にいると思って間違いないでしょう」 「見事です」  正しい推理には、賞賛を。それが薬師寺の心掛けていることだった。例えそれが、ただのゲーム、お遊び程度の ものに過ぎなかったとしても。 「旦那様は、直斗様からのお電話を待ち焦がれていらっしゃいましたよ。今日はいつもよりも、かかってくるのが遅いと、 少しばかり不機嫌になってらっしゃいましたから」  だからここに逃げてきたわけですが。そう言って、わざとらしく薬師寺が肩をすくめると、狙い通り、直斗は声をあげて 笑った。久しく聞いていなかったその笑い声に、彼の胸にぬくもりが宿る。 「さあ、行きましょう。旦那様が、いえ、怪盗Xがお待ちです」 「いいんですか。共犯者がそんなことを言って」  からかいの言葉に、彼は。 「正しい推理をされたのなら、潔く全てを吐き出す。それが正しい犯人のあり方というものですよ」  そう、もったいぶって言ったのだった。  その、夜。  久々に賑やかな夕食の時間を過ごし、一人、自室に戻った彼は、お気に入りの探偵小説を取り出して読み ふけっていた。  正しい犯人のあり方。ふと、自分が戯れに言った言葉が脳裏に浮かぶ。  現実は、違う。潔い犯人なんていない。ただ探偵小説の中にしか。  そう言えるのは、探偵の秘書として、長い時間を過ごしてきたから。例え探偵が、快刀乱麻を断つように事件を 解明しても、犯人は潔く罪を認めたりはしなかった。  当然のことだろう。ある者は、もがき、苦しみ、生き残る為に犯罪に手を染めた。別のある者は、快楽を得る為に。 また別のある者は、状況に流されて。  誰もが、その善悪を別として、手にした物を失うまいとしていた。だからこそ、探偵に糾弾されたとしても、認める わけにはいかなかったのだ。例えその姿が、どれほど醜いものだと自分でわかっていたとしても。  それでも、探偵は、罪と戦う。胸を張って、犯人を白日の元に暴く。その為に得た知識と、類稀な推理の力によって。 それが彼らの、本当の強さだった。  そのことを自分以上に知る者はいない、と薬師寺は自負している。ずっと間近に見てきたのだ。直斗の祖父だけでは なく、やはり探偵だった彼女の両親をも。  だが、だからこそ、直斗が探偵の道を選ぶと決めた時に、迷う気持ちがあった。物語の中のように、現実は綺麗に 紐解かれるとは限らないから。  そんな彼の逡巡を他所に、環境のせいか、はたまた流れる血の為せる業か。少女は探偵としての才能を開花させて いった。  同時に、少女は、少年と自らを他人に偽るようになっていった。  再び、薬師寺は惑った。探偵として生きることを、もう止めることは出来ないと悟っていた。それが直斗の強い意志 だと知ってしまったから。  それでも、少年として生きていこうとする彼女の姿には、痛々しさを感じてしまう。  だからこそ、怪盗X、等と云う子供だましの話に乗ったのだ。  きっと、直斗の祖父は、気付いていたのだろう。 『彼』が、『探偵』に捉われていることに。  その効果が、どうだったのかはわからない。  だが確かに、以前よりは明るくなったように思われて――――  ――――?  また感じた、違和感。少し、前よりも痛い。薔薇の棘は、気付かぬうちに血管の中を巡り、心臓に触れている。    その時、コン、コン。ドアをノックする音が響く。 「どなたですか?」 「僕です。直斗です」  驚いて薬師寺は立ち上がり、扉を開ける。パジャマ姿の少女は、こんな時間にすいません、と一つ謝った後、彼の 部屋にと入ってくる。 「とりあえず、座ったらどうです」  彼女に備え付けの椅子の一つを勧めながら、向かい合うように座る。  ――――やはり、不思議な違和感。首を傾げたくなるのを我慢しながら、じっと彼女の顔を見つめる。  どこと言って、変わったところはない。相変わらずのショートカットに、耳元にはスパイラル・ピアス。美少年と間違え られるのも仕方ないと思える、中世的な顔立ち。  強いて言うならば、大人びたようにも思われる。だがそれは、久しぶりにゆっくりと会って話したからだろう。この半年 近く、直斗は調査の為と言って八十稲羽市に行ったっきりだったのだから。 「それで、どうされたんですか」  ごく自然な流れの中で、言っただけに過ぎない一言。だが、直斗は小さく目を伏せた。まるで何かを口ごもっている かのように。 「――――?」  違和感が、大きくなる。その正体が掴めそうでつかめず、とてももどかしい。  黙ってしまった彼女のことを怪訝に思いながらも、薬師寺は自らの心の内に潜っていく。  何かがおかしい。以前の直斗様と、同じようで、だが違う。それは一体…… 「――――あの!」  そうして思索の海にふけっていたからだろうか、直斗が唐突に声を発した時、思わずビクッと体が震えた。  普段の彼女ならば、どうしたのか、と聞いていたに違いない。だが、今の直斗には、そこまでの余裕もないらしい。 「あの、その……」  また、口ごもり。  だが、意を決したのだろう。しっかりと薬師寺の顔を見て、直斗は言った。 「セ……セーラー服を、作ってもらいたいと思って」  ああ。  その瞬間、薬師寺は違和感の正体に気付いた。  今日の直斗には。  これまで感じたことのなかった、女性らしさが見て取れていたのだ。  庭に咲く花の匂いだと思っていたのは、彼女が付けた香水だった。  祖父や彼に向けられた笑みは、肩肘を張って男を主張していた頃のものではなく、穏やかで落ち着いたものだった。  よく見れば、爪には薄く、マニキュアが塗られている。透明のベースコートだけのそれは、しかし、これまで直斗が 頑なに拒否してきた女性性の一つだったはずだ。  気付いてみれば。  直斗は確かに、少女を薫らせていた。  弱くなったわけではない。その眼差しにあるのは、ありのままを受け入れた強さ。男、女。それを越えて在る何かを、 瞳の中に宿らせている。  そんな風に、薬師寺は感じる。 「やはり私は、探偵には向いていないな」  思わず、彼は小さく呟く。真実に気付いてから、ようやく、無数にあった真実への糸口に気付くのだから。そのどれか、 あるいはそれらを結び付けた先に、答えはあったのに。  振り向いてから気付く者は、探偵物語の主役にはなれないのだ。 「え?」 「いや、何でもありません」  怪訝そうな顔をした直斗に、首を横に振って笑う。 「セーラー服ですね。すぐに用意いたしましょう」 「その、出来れば、クリスマスまでに……」  言いかけて、顔を真っ赤にして口ごもる。  今度は、推理の必要など無い。誰にでもすぐにわかることだろう。 「誰か、見せたい人でもいらっしゃるんですか」  笑いながら言うと、一層に顔を赤くしながら、 「そ、そういうわけじゃ」  まるで説得力のない裏声で、反論してくる。必死な姿の少女の姿が、何故かとても愛おしく思えて。 「わかりました。クリスマスまでに、必ずお届けしますよ」 「あ……良かった……って、早く校則違反じゃなくしたい、って、ただそれだけのことですからね!? ご、誤解しないで 下さい!!」  彼女が出て行って、すぐ。  薬師寺は、部屋の箪笥の上に飾られて……いや、伏せてあった写真立てを手に取った。  そこに写っているのは、幼い直斗の姿。今も被っている帽子は、その頃のからのお気に入りだったけれど、 まだブカブカ過ぎて、頭からずり落ちそうだった。  その両脇には、男と女。そのどちらも、どこか直斗に似ている。  彼女――――白鐘直斗の、両親の姿。 「お前らの娘――――しっかり育ってるぞ」  薬師寺は小さく呟く。心があの頃に戻っているからだろう、普段の言葉遣いではない、若々しい口調になる。  幼い娘を残して逝ってしまった彼らを、薬師寺はよく知っていた。凡人の自分が、探偵として活躍する彼らの側に いられるだけで、幸せだった。  時折、彼らは薬師寺のことを、 「自分達のワトソンだ」  と言ってくれた。  お世辞だとしても、嬉しかった。そして、彼らはお世辞を言う様な人種ではないことを知っていたから、尚更に嬉し かった。  ならば、せめてワトソンらしく。探偵の側にあって、その手伝いをすることが出来たのなら。  その思いは、今も変わらない。  だからこそ。  父を、母を亡くした直斗を、自分の娘のように慈しんできた。  彼らに出来なかった、親として、娘の成長を見守ること。それを引き継ごうと、そう誓ったのだ。  そして、だからこそ。 「こんなことまで、お前の代わりをするとは思わなかったんだけどな」  彼女がセーラー服を欲しい、そう言った時。  また、直斗が少女らしさを垣間見せた時。  胸の奥に落ちてきたのは、どうしようもない切なさ。  彼に血を分けた娘はいないから、わからないけれど、多分これが。 「娘を嫁に出す時の気分ってのは、こんな気持ちなのかな」  写真に問いかけても、答えは無い。  だが、それでも。  彼が。彼女が。  笑ったように、薬師寺には思えたのだ。  そして。 「……ということが、ありましたな」 「そういえば、そんなこともありましたね」  紅茶の香りの向こう側、視線の先にいた直斗は、くすぐったそうに言って立ち上がった。 「せっかく作ったセーラー服なのに、結局、ほとんど袖を通してくれませんでしたね」 「本当は着ていくつもりだったんですよ。でも、恥ずかしくて」  結局、彼に見せただけでしたね。言って、直斗は軽く笑う。そして、目を天に向けて、 「もう、随分と前になるんですね」 「そうですな」  懐かしそうな声音は、確かに、あの頃から多くの時が流れてきたから。その変化は、いたるところに現れていた。  薬師寺の顔に刻まれた皺の数は、随分と増えていた。直斗の祖父は未だ矍鑠としているが、さすがに杖が 手放せなくなったとぼやくようになっていた。  彼女にも、もちろん、変化があった。  短かった髪は、背中に届く程に長くなっていて。  幼さの交る中性的な面持ちは、すっかりと大人びて。  それでも、変わらないものも、あった。  直斗の隣にいる、パートナー。  あの頃に出会い、セーラー服姿を見せたただ一人の少年。  彼は今も、直斗の隣にいる。  だが、その関係も、今日を境に変わる。  恋人から。  夫婦へと。   純白のウェディングドレスをまとった彼女の唇には、紅。マスカラのまつ毛に、淡い青のアイライン。ファンデーション を薄く塗って、頬には軽くチークを入れる。  それは確かに、どこからどう見ても、美しい女性だった。  感慨深く見つめる薬師寺に、照れ臭そうにしながら直斗は、 「そんなに、見ないで下さい……恥ずかしいから」 「いえいえ、お綺麗ですよ」  お世辞ではない本音。だが、彼女は困ったように笑うばかり。 「それよりも、そろそろ時間ではないかと」 「あ、そうですね」  慌てて鏡台の前に座り、彼女は最後の仕上げにかかる。二人のやり取りを微笑ましく見つめていた女性達が、 直斗の手助けをしていて。 「しかし、本当に良かったんですか」 「何がです?」 「私は親類等ではないですし」  まだ少し、逡巡しながらの薬師寺の声に、何言ってるんです、と直斗は振り向いた。 「おじい様は足が悪くなってきたから、中で見てる方がいいとおっしゃってましたし。そうしたら、他に頼める人なんて、 薬師寺さんしかいないじゃないですか」 「しかし……」 「もう決まったことですから。異論は認めませんよ」  笑いながら言う、その強引さは、もしかしたら『彼』に似たのかもしれない。そう思って、薬師寺は苦笑しながら首を 横に振った。 「そろそろ、お時間ですよ」  扉が開いて、係の者と思しき女性が一人、声をかけて去っていく。  急かされるように立ち上がる薬師寺の右腕に、直斗は自分の腕を組ませた。 「さ、行きましょう」  やれやれ、と薬師寺は覚悟を決めて、隣に立つ直斗を眺めた。  純白のウェディングドレスに身を包んだ彼女は、とても。  とても、眩しく思えて。 「わかりました。では、今日は、父親代わりということで」 「そんなこと」  薬師寺の言葉に、直斗は抗議するような視線を向けてくる。思わずたじろぐ彼に、彼女は、言った。 「私は、ずっと、薬師寺さんのことを、父親のように思っていましたよ」  天井を見上げて、ぐっ、と涙をこらえる。  左手を自分の胸に当てる。内ポケットにしのばせてきたのは、直斗と両親が写った、あの写真。  いつか自分が何気なく口にした言葉。  娘を嫁に出す気分。  それが今、まさに自分に訪れているのだと気付く。  こんなにも切なく。こんなにも愛しく。  だからこそ、この想いを。  彼らに少しでも伝えたくて、薬師寺は。  天に向かってではなく、内ポケットの写真をそっと、服の上からなぞったのだった。  なあ。お前らの娘は……直斗は、とてもいい子に育ったぞ。  直斗が選んだ男も、とてもいい奴だ。きっと二人が会っても、気に入ると思う。  だから、安心してろよ。俺も、安心してるから。  けど、やっぱり――――やっぱり、切ないよなぁ…… 「薬師寺さん?」 「何でもない……何でも、ありませんよ」  涙をグッとこらえて、彼は笑う。 「さぁ。行きましょう。待たせてしまっては幸先が悪いですからね」 「ええ、そうですね。行きましょう」  そうして二人は。  本当の父親と、娘のように。  腕を組んで、ヴァージン・ロードを歩いたのだった。