First Impression


 パタパタと駆けて、直斗が向かうは沖奈駅のトイレ。
 手に持つのは大きな紙袋。その中身は……
 一瞬、躊躇してから女子トイレに飛び込む。ちゃんと辺りを見回して、誰もいないことはチェックしてからだが。
 チラリと覗いた時計の針は、17時30分を指している。待ち合わせの時間は18時。だからまだまだ余裕はある。
 あるはずなのに、気は急いて。
 そうして余裕を無くしていたから、だろうか。
 女子トイレの個室の一つから、パタン。
 少女が出てきて、鉢合わせしてしまう。
 見つめ合う、二人。冷たい汗をどっと噴き出させながら、直斗は硬直する。
 長い、長い一瞬。そして。
「キャ…………」
 少女が大声で叫ぶ前に、直斗の体は自然と反応していた。
 それはいつか薬師寺に叩き込まれた、潜入活動中に敵に見つかった時の動き。相手の口を塞ぎ、その背後に回りこんで、頚動脈を狙って…………
「ち、違います」
 危うく首を締め上げそうになったが、そこは自制して、少女の耳元で囁きかける。
「僕、女です。男じゃないです、だから」
「……んー! んー!」
 パンパン、と腕を叩かれて、慌てて直斗は少女の首から手を外した。それでも、また騒ぎ出したらと、逃げる準備だけは整えておく。
「ちょっと! 何よ、あんた、急に……って」
 パチクリ、と目を瞬かせて、少女は直斗の姿をマジマジと見つめてきた。
 怪訝に思い首を傾げる直斗に、彼女は言った。
「あんた、もしかして、探偵王子?」
「……あ、はい、そういう風に呼ばれることも……」
「そんでもって、番長の彼女の――――確か、白鐘直斗、だっけ」
 少女の口から出た思わぬ言葉に、直斗の頭は一瞬にしてホワイトアウトしたのだった。

「海老原あいよ。番長とは友達。仲良くさせてもらってる」
 よろしくね、と差し出された手を、おずおずと直斗は握り締めた。真白に染まった頭は、今でもまだ衝撃から抜け切れていない。
 彼女、という言葉が、耳から離れない。
 いや、確かに直斗は、あいが番長と呼ぶ少年と付き合っている。彼女であることは間違いない。
 だがそのことは、ほとんど誰にも知られていない筈だった。共に戦った仲間達にすら、まだ、伏せているのだから。
 なのに、どうして、この人は……
「――――? ああ、どうしてあたしが、あんたが番長の彼女だって知ってるのか、って思ってたりする?」
 不意討ちに問いかけられて、思わず直斗は頷いてしまう。それを見て、あいは小さく苦笑をした。
「そんな必死な顔しなくてもいいじゃない。別に隠す必要、ないんだし」
「それは……」
 確かにそうですけれど。言葉を飲み込んで、目を伏せる。その姿に、あいは溜息をついて、そんなんだとからかう気も無くなるわ、と嘯いた。
「単純な話よ。私が番長の携帯を見ちゃっただけ。待受けが二人で撮った写真なんだもん。一発でわかるわ」
「……え?」
「あ、言っとくけど、悪気があったわけじゃないからね。屋上で喋ってて、番長が携帯を忘れてたから届けようと思って、何気なく見ただけだから」
 直斗の表情に何を感じたのか、慌てて弁解するあい。だが、直斗はただ頭を抱えて、
「あの人は……」
 と呻く。
 この前のデートの時、どうしてもと云うから、二人で携帯の写メを撮った。勿論、それは直斗の携帯にもすでに送られてきている。だが彼女はその写メを、シークレット・フォルダにパスワード付きでしまいこんでいた。
 だが彼は、無雑作に待受けにしていたというのだ。
 その上、携帯を忘れて誰かに見られてしまって。
 何を考えてるんだ、あの人は。
 一瞬、憤りがマグマとなって血管を流れる。だが。

 そういう人、だったっけ。
 すぐに怒りは、苦笑に変わる。あの鷹揚さ。寛容と勇気と知識、その全てを深く持ち合わせる、器の大きさ。
 そこに惹かれたのだと、思い出す。
 目くじらを立てる程のことじゃ、ないか。そんな風に思う自分が、すっかり彼に参ってしまっていることを思い知らされて。
「ふーん」
 かけられた声に、自分が一人でなかったことを思い出す。慌てて顔を上げると、そこには、面白そうに笑っているあいの姿があった。
「そんな顔もするんだね、探偵王子も」
「ど、どんな顔ですか」
「恋する女の子の顔、かな」
 真っ赤に、なって。何も言えない、直斗に。
 あいは、楽しそうに声をあげて、笑ったのだった。

「それじゃ、海老原さんも、着替えの為にここに?」
「ま、ね。ここのトイレ、キレイだしさ。学校終ってすぐに街に出る時は便利だから、よく使ってるよ」
 女子トイレの個室の扉を挟んで、二人は話す。幸いに、だろうか、誰かが来る気配もない。
「それにしても、噂の探偵王子が、放課後に街でデートとはねー」
「か、からかわないで下さい」
 制服のシャツを脱ぎ、胸を締め付けていたさらしを外しながら、直斗は言葉を返す。
「だって、本当のことじゃない」
「……それは、そうですけど」
 弱まる語尾。
 確かに、待ち合わせの相手は彼だった。そして、着替える為にこの女子トイレに来たのも、事実。
 たまには放課後、ゆっくりと街に出て過ごそう。そう言われて、少し嬉しかった。
 だがいつの間にか、それは私服でのデートになっていて、しかも彼女は女物の服を着ることになっていた。
 そんなものは持っていない、そう言えれば良かったのだが、
「この前、一緒に見に行って買った服があるじゃないか」
 ほんの二週間前、週末のデートの時、確かに彼に見繕ってもらって女物の服をプレゼントされていたのだ。
 もしかして、この時の為に買ったのだろうか。そんな風に邪推してみる。が、彼ならばそれは意外にありそうな気がして。
 言いくるめられたかな?
 思いながら袖を通すが、ここまで来たらもう仕方ない、とも思う。掌の上で踊らされているようなのに、まるで腹が立たないのは、やはり彼にすっかり参っているからだろう。
「海老原さんこそ、いつまでそこにいるつもりなんです」
 後はスカートにはき替えるだけ、という所で、まだ外に立つあいに声をかける。が、
「別にいいじゃん。探偵王子の女装姿も見てみたいし」
「……女装って言うな!」
 思わず大声で直斗が突っ込むと、ケラケラと彼女は明るく笑ったのだった。


「……へぇ」
 扉を開けて出てきた直斗の姿に、あいは目を丸くした。
「ど、どうですか?」
 彼以外の人間には、初めて見せる、女性としての自分。その相手が、しかも、人並み以上に美人の女性だということに、今さらながらに直斗は緊張する。ゆるくパーマをかけ、綺麗な紅茶色に染めた髪。整ったスタイルの体。ミニスカートからのぞく足は、すらりとしていて。
 同性でありながら、思わずドキリとしてしまう程に、彼女は美しい。それは仲間の一人、元アイドルの久慈川りせとはまた違う、女らしさだと彼女は思う。
 それにひきかえ、自分はどうだろう。
 思って、直斗は言葉を待つ。
「結構、イケてるんじゃない」
「あ……そ、そうですか? なら、良かった……」
 ホッと胸を撫で下ろして、改めて自分の姿を見る。
 白のレースキャミの上に、胸元が開いた黒のジャケット。下はタイトなミニスカートに、ベロア風のニーハイブーツ。
耳元に飾られているのは、スパイラルピアス。
「それ、自分で選んだの?」
「いえ、先輩がほとんど見つけてきてくれたんです。その、最初はこんなのがいいんじゃないか、って」
 女性もの、と言いながらも、実はそれほど普段の男装時と大きく離れてはいない格好に、確かに大きな抵抗は感じなかった。スカートは今でもまだ少し、恥ずかしいけれど。
「ふーん、案外、いい目してるんだね、あいつ。うん、似合ってると思うよ」
「ありがとうございます。それじゃ、僕は……」
「ちょぉっと待った」
 礼を言って外に出ようとした直斗は、しかしあいに腕を掴まれて引き戻される。
「わ、わ?」
「あんたね、そんな未完成の状態で出てくつもりじゃないでしょうね」
 それもこれからデートだってのに。睨まれて、キョトンとする。
 未完成? 何が?
「ホントにわからないわけ? はぁぁぁ」
 あからさまな溜息を付かれて、少し傷付く。が、時計を見て、もう待ち合わせの時間まであとわずかだと気付いて。
「僕、もう行かないと」
「だから、待ちなさいって」
 再び、引き戻される。気が付くと彼女は、洗面台の上に自分のバッグを置き、その口を開けてゴソゴソと何かを取り出そうとしていた。
「何、してるんですか?」
「いいから大人しく待ってなさいって」
「……時間が」
「少しぐらいなら平気でしょ。男は、少し待たせるぐらいがちょうどいいんだって」
 断定するように言われて、そういうものなのだろうか、と戸惑う。その合間にも、あいはバッグの中を引っくり返さん程の勢いで何かを探していた。よくもこんなに入っていたものだと呆れる程に、洗面台の上には彼女が置いたものが溢れ返っていて。
「ああ、あったあった。ほら、こっち来て」
 ようやく目当てのものを見つけたのだろうか。言われるがままに近付く直斗の頬を、あいはポンポンとスポンジで軽く叩いた。
「な、何を」
「お化粧に決まってるでしょ。ほら、じっとして」
 驚き、硬直する間に、右の頬、左の頬と軽くファンデーションを叩かれる。
「そんなに濃く塗ったりしないわよ。あんた、元の肌が白いんだし、それで十分綺麗だもんね。塗ってることがわかんないぐらいに薄くしておいてあげたわ」
「は、はぁ……」
「マスカラ……は、いいか。ホントは、時間かけて、髪をセットしてあげたいとこだけど……ああ、そうだ」
 あいはまたバッグの中から小さなケースを取り出し、その蓋を開けて、中身を小指ですくいあげた。
「ほら、口閉じて」
「……?」
「それから、唇を軽く突き出して――――そうそう、そんな感じ」
 近付いてきたあいの小指が、直斗の唇に触れる。
 照れ臭さの為、だろうか。一瞬、心臓が激しく高鳴って。
「ま、時間もないし、今日はこんなとこかな」
 鏡見て。言われるがままに向いた彼女は、ハッと息を飲む。

 ただ、軽く化粧をしただけなのに。
 唇に、普段、塗らないものを塗っただけなのに。
 なのに、どうしてこんなにも。
 こんなにも自分は。
 鏡の中の自分に、女を感じてしまうのだろう。

「結構、いい出来だったと思うんだけどな」
「あ、はい」
 あいの言葉に頷いて、直斗はありがとうございました、と頭を下げる。
「ん、いいって、別に。好きでやってるだけだしさ」
「でも、どうしてこんな風に……」
「そんなことより、時間、大丈夫? そろそろ本気でヤバイんじゃないの」
「え? あ、ホントだ。す、すいません、海老原さん。お礼はまた、次の機会に!」
「いいって、別にお礼なんてさ。それじゃ、ね」

 走り去っていく直斗の姿を見送ってから。

「はぁ」
 短く、あいは短く溜息をついた。
 何やってるのよ。そう自分を笑い飛ばしたくなって。
 全く、どうかしてる。恋敵を応援してしまうなんて。

 いや、違うか。

 声に出さずに呟いて、あいは首を横に振った。
 敵等では、なかった。直斗の眼中には、あいなどいなかった。
 ただひたすらに、彼のことだけを見つめていたから、目の前の少女が、自分の恋人に想いを寄せていることなど気付かなかっただろう。
 だからこそ、彼女はあいの前で、純粋に一喜一憂して見せたのだ。
 そんな姿を見せられたら、敵わない、と思っても仕方ないではないか。

 何より。
 きっとそんな彼女だからこそ、彼は選んだのだろうから。

「しょうがないじゃん。ねぇ」
 小さく独り言を呟いて、あいは。
 今度、学校の中で直斗に出会ったら。
 化粧をした彼女を見て、番長はどんな風に言ったのか。
 聞き出してみよう。

 そう、思ったのだった。







おまけ

「ああ、探偵王子。どうだった? この前の反応」
「そのこと、なんですけど……」
「あれ、今イチだった?」
「いや、可愛いとは言ってもらえたんですけれど……」
「だったらいいじゃん。何が不満なわけ?」
「それが、その……可愛いとは思うけれど、直斗に口紅とかはいらないだろ、って」
「何よそれ、番長、ちょっと無神経過ぎ」
「ちょっと、傷付いたんで言ったんです。せっかく、女の子らしくしたのに、って。そしたら、あの人……」
「うんうん」

「いきなり僕にキスをしてきて」

「…………へー」
「真っ赤になってる僕を見て、笑うんですよ! それでこれでわかったろ、って」
「…………ほー」
「何がですか、って聞いたら、口紅してたらキスしたい時に出来ないだろ、って言ったんです」
「…………あー」
「なるほど、って思いましたね。確かに、ベタベタするんですよね、キスすると」
「………………」
「なので今、迷ってるんです。あの人の前では確かに、女の子らしくありたいと思う部分もあって。
だからお化粧とかも頑張ろうかな、って。けれど、そうするとキスをしてもらえなくなっちゃう……
どうしたらいいと思いますか? 海老原さ……あれ? 海老原さん? 海老原さーん……いない」





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