別れの時の気丈さを。 いつまでも保っていられたのなら、良かったのに。 Return to Zero 思う。そして、想う。 度に、胸が苦しくなる。 眠れない夜を、直斗は一人、まんじりともせずに過ごす。 苦しさにベッドで寝返りを打っても、痛みは去らない。息を吸って、吐く。溜息にも似たそれは、宙に飲み込まれて。 「先輩……」 耐えかねてそっと呟く。その声音に交るのは、どうしようもなく『女』である自分。 以前には嫌悪していたそれ。 今でも、嫌悪している。だが、その理由は異なっていて。 強くありたかった為に、切り捨てたかったもの。 今は自分を弱くするから、嫌う。 似ていて、だが異なる。それはそのまま、直斗自身の変化でもあった。 結局、眠ることを諦めて、直斗は体を起こした。 そのまま取るのは、枕元に置かれた携帯。待受画面は、自称『特別捜査隊』の仲間達。あの別れの日に、全員で撮った写真の画像をリサイズしたものだ。 その、中の一人に、直斗の目は自然と吸いつけられる。 凛。そんな形容詞が似合う、少年。眼差しは少し鋭く、だがどこか深い優しさを内に秘めている。 「…………」 直斗の唇が、小さく動く。それは彼の名前。人前では決して、呼んだことがない、名前。二人きりの時だけの、二人だけの特別。 「ゴールデン・ウィーク……遠いな」 壁にかけられたカレンダーに目を向ける。そこに並ぶのは、四月の数字。次に彼に会えるまでの時間よりも、彼と別れた日からの時間の方が短い。なのに、過ごしてきた時間はとても長く感じられた。 そして、再会までに過ごさなければならない時間は、永遠に思えて。 もしも。 直斗は思う。 このカレンダーを破くことで、時間が過ぎ去るというのなら。 自分は、何の躊躇いもなく破るだろう。例えそうすることで、時を歪めることになったとしても。 気付かぬうちに、直斗は腕時計を指でなぞっていた。 クリスマスの夜、彼にあげたものとおそろいのそれに、隠された機能。 二人の距離を示すそれは、もうずっと、計測不能のままだ。 何の意味もない。計測不能になるとわかっていて、作ったのは自分なのだから。 わかっていたはずなのに。はっきりと示されると、ただ。 ただ、辛くて。苦しくて。 「…………」 もう一度、彼の名前を呼んで。 直斗は自分で自分の体を抱く。 遠く、遠く離れた。計測不能の遠くにいる、彼のことを思いながら。 抱きしめられたあの時を、思い出しながら。 時計の針はもう、一時を回っている。 きっと眠っているはず。 明日は休日でも何でもない。学校もある。 向こうで部活をやっていると言っていた。今日、何度かやり取りしたメールの中にも、朝練もあるから授業中に眠くて仕方ない、と書かれていた。それでも、高校三年生になって、最後の大会の前だから頑張らないと、とも。 だから、きっと眠っているはず。 直斗は、そう自分に言い聞かせる。 でも、もしかしたら。 もしかしたら、起きているかもしれないよ。 頭の中に響く声。それはいつか相対した自らのシャドウの声に似て。 ハッ、と伏せていた目を上げた直斗の視線が、捉われる。 自分と同じ顔をした誰かの瞳に。 ほら。簡単なことだろ。 電話をかけるだけじゃないか。 電話帳を開けばすぐ出て来るようになってる。 一昨日も話したんだから、着信履歴からかけたっていい。 そもそも、発信履歴の一番上はほとんどいつだって、彼だろう。 語りかけてくる声、言葉に、息を呑む。 ……心が侵されていくのが、わかった。 どうしたんだい? 遠慮はいらないだろう。 だって君は、彼の…… 「ヤマトタケル……!」 小さく呟く。ここは現実の世界であって、テレビの中ではない。だから、ペルソナのカードが直斗の手元に現れることはなかった。 それでも、その名を呼ぶことで、彼女は心の平静を取り戻すことが出来た。きっとそれは、そのペルソナを呼び起こしてくれたのが、『彼』だったから。『彼』に出会わなければ、自分の中のヤマトタケルは目覚めることがなかっただろう。だから、その名は、確かに彼との絆の一つだったのだ。 現われる筈のない神の姿をイメージするために目を閉じ、そして開ける。 「……はは」 苦笑が思わずこぼれた。 シャドウと思っていたのは、何のことはない、ただの鏡に映る自分の姿だった。灯りを消した闇の中、それを見間違えていただけで。 よっぽど、どうかしてる。直斗は思って溜息を吐く。 だがそれが、自分自身の中に確かにある想いであることも、彼女は理解していた。もしも今、テレビの中に落とされたのなら、現われたシャドウは同じ言葉を直斗に告げることだろう。 「…………先輩」 名前を呼ばなかったのは、最後の抵抗。だがそれも空しく。 胸の内に広がる虚ろは、体中に広がっていく。 心臓が溶けて。 自分の芯が無くなってしまったような。 「………………」 名前を呼ぶ。 「………………」 繰り返し、呼ぶ。 「………………!」 何度も、何度も。 「………………! ………………!」 声を潜めながら、叫ぶ。 想いを押し出すように。 虚ろを吐き出すように。 何度も、何度も、何度も。 わけもわからず、一体、何に苦しんでいるのかも定かではないのに、ただ、助けてと願いながら。 何度も、何度も、何度も、何度も呼んでみる。 答えがないと、理解しているのに、何度も。 いつか、気が付くと。 直斗の頬を、涙が伝っていた。 突然、携帯が鳴った。 驚いて、握り締めていたままのそれを見る。 そしてそこに浮かび上がった名前に、呆然とする。 まさか。ありえない。どうして。 混乱するのは。 今、まさに声を聞きたいと思っていた、想い人からだったから。 だがそれも、一瞬。 慌てて、通話ボタンを押して、携帯を耳に当てる。 「…………もしもし?」 もしもし、と声が聞こえる。どこか、ほっとしたようなのは、気のせいだろうか。 「……どうしたんですか。こんな時間に」 「ああ、何となく、な」 自分が電話をかけるか、かけないかで悩んでいたのに、この人は。少し、イラッとしてしまう。もっとも、そう思えるのは、安心したからだということも彼女はわかっていた。 何故なら、先ほどまであった自らの中の虚ろが、今はすっかり消え去ってしまっていたから。 「僕が寝てたら、どうするつもりだったんですか。起こしたら、とか、考えてなかったんですか」 責めるような口調、だがそれは直斗なりの甘えだった。ただ、照れ臭かったのだ。 しかし、再び直斗は絶句することになる。彼の、次の言葉に。 「いや。直斗が俺のことを呼んでる気がしたんでな」 「……え?」 顔が、真っ赤になる。 「な、何を……」 「そうでなかったら、別にいいんだけどな」 「あ、いや、違……いや、違わなくて、その……」 慌てふためく直斗の声に、電話越しに聞こえてくるのは、屈託のない笑い声。いつももの静かでクールな彼が、彼女にだけ見せる笑顔がすぐに思い浮かぶ。 この人は……! 一瞬、ムッとして、だがすぐにその苛立ちは氷解する。残るのは、敵わないな、という思いだけ。 必要としていたのは、確かだったから。 「声が聞きたい……そう、想ってました」 素直に、直斗が言うと、 「そうか」 電話の向こうで彼が頷いたのがわかった。その声がどこか嬉しそうだったのは、気のせいではないだろう。 「でも、こんな時間だから、かけるのは迷惑かな、って」 「遠慮し過ぎだ、直斗は」 「だって、もう二時過ぎですよ。先輩、明日も朝練だって……!?」 時間を確かめようと、腕時計を見た直斗は。 三度、驚く。 「は、はは……こんなこと、あるんだ」 「――――? どうかしたのか?」 「先輩。僕があげた腕時計、持ってます?」 「ああ、もちろ……?」 どうやら彼の腕時計も、同じらしい。それがわかって、たまらなく嬉しくなる。 嬉しすぎて、思わず涙が溢れる程に、嬉しくて。 「こんな……こんな、偶然、あるんですね」 「だな」 優しく、暖かい声に、胸がいっぱいになる。 ああ。 口にしてはみたけれど、本当は、偶然だなんて思ってなくて。 だけど、それを『奇跡』だなんて言葉にしたら、陳腐になる気がして。 だから――――だから。 「こんなの、出来すぎですよ……こんなタイミングで、故障するなんて。それも、二つ同時に」 口数が多いのは、喋っていないとどうにかなりそうだったから。 先ほどとは別の意味で、壊れてしまいそうだった。体の全てを埋め尽くす歓喜によって。 「でも……でも」 「ああ」 「ただの故障でも、偶然でも、僕…………私、私」 嬉しい。 そう言った瞬間、何故か。 抱きしめられ、愛された時と同じぬくもりを。 彼女は感じていた。 それから、少し、二人は話して。 明日が早いでしょうから、と切り上げたのは直斗の方で。 もう大丈夫だから、と付け加えて。 最後に、 「改めて、思いました。あなたのことを好きになって、良かったって」 そう言うと、『彼』は電話の向こうで小さく笑って。 彼女が望んでいた答えを、言葉にしてくれたのだった。 今度は眠れそう。 思いながら、ベッドに横になった彼女はふと、腕時計を見る。 気が付けば、いつの間にか『故障』は直っていたらしい。 そこに浮かび上がる文字は『計測不能』。二人の間の物理的な距離を示したもの。 先ほど苦しめられたその文字に、しかし、今の直斗は惑わされない。 教えてくれたのは、きっと。 奇跡。陳腐なその言葉でしか、言い表されないそれを、確かに直斗は信じるから。 あの瞬間。 彼からの電話があった時。 腕時計に浮かび上がっていた数字は。 『0』。 目次 / 戻る |