重ねた躯の体温が溶け合う。乱れた呼吸は混ざり合い、どちらのものであるのかもう判断もつかない。そもそもそんなことを考える余裕もなかった。
 激しく揺さぶってやると、小さな悲鳴と共に組み敷いたしなやかな体が跳ねる。もっと。もっと欲しい。頭の奥でケダモノが吼える。昂ぶった体で本能の声に逆らえる筈もなく、貪欲に目の前の存在を求めた。
 ――先輩、先輩、
 何度も呼ばれる。縋るように突き出された手に自分の手を重ね、熱い吐息が漏れる唇にそっと口付けた。

 直斗――



「……それはない」
 早朝の布団の中で体を起こし、自己嫌悪にひとり頭を抱える。
 なんという夢を見たのか。確かに直斗と顔を付き合わせる度、何かと手を出したくなる気持ちになるのは認めよう。
 しかし今日の夢はいくらなんでも色々ぶっ飛ばし過ぎだろう。精通したての中坊でもあるまいに、そこまで欲求不満が蓄積しているなんて自分自身全く思っていなかった。
 精々ちょっと悪戯を仕掛けて、直斗の反応を楽しむ。それで充分発散されていたはずだし、直斗を本当に困らせるつもりはないからもう一方踏み込めそうな時期をじっくり見極める。それまでは待てる気でいた。
 その結果がこれだ。
 どんよりとした気分とは裏腹に体のほうはスッキリしているから余計にヘコむ。カーテンを開け、これまたどんよりと霧の立ち込める外の景色が今の心境そのままのような気がして、彼は深い溜め息を吐いた。


 嫌に生々しい夢の余韻を振り払おうと心の靄をぶつけた先は台所だった。適当な材料から出来そうな料理をひたすら作る。
 結果、作りすぎた。堂島や菜々子が居れば朝と昼の弁当で足りる程度だが、一人では食べ切れそうにない。しかも無意識に作ったメニューはいつか直斗が珍しく絶賛してくれたカリフォルニアロールだ。全くその気がなくても意識していることを思い知らされてとても気分を晴らすどころじゃなかった。
 朝食をとる気にもなれず、持って行けば誰か食べてくれるだろうと二つの弁当箱に詰めて家を出た。


 昼休み、どう見ても暇そうな陽介を誘って屋上に出る。晴天には程遠いが、それでも教室を脱出してきた数組の生徒がパンや弁当を囲んで談笑していた。
 弁当箱を一つ渡すと陽介は蓋を開けておーうまそーと声を上げた。
「すっげーじゃん。これ朝作ったんだろ?」
 お前また腕上げたんじゃないの、と美味そうにカリフォルニアロールを頬張る陽介とあれこれとりとめのない話をしていると、次第に気分も晴れてきた。
「そろそろ嫁に行けるんじゃないの」
「誰のだ」
 ジュースのパックにストローを挿し、口に含む。
「いやマジでマジで。最近は主夫なんて言葉もさ……お、直斗じゃん」
「ゴフッ」
 ジュース吹いた。
 咳き込む彼の隣で、陽介はたった今屋上に現れた直斗におーいと手を振っている。やめろ地雷屋と言いたかったがジュースが気管に入ってしまった。
 そうこうしているうちに直斗は二人に気付いたようだ。
「お二人とも、今日はここで昼食で……大丈夫ですか?」
 挨拶もそこそこに背を丸めて咳き込む姿を心配そうに見つめる。陽介がその背をさすった。
「なぁにやってんのよ相棒」
 お前のせいだと思ったものの口にはしない。彼の夢の話など陽介が知るはずもないのだから、ただの八つ当たりにしかならない。
「ところで直斗、それ昼飯か?」
 陽介の視線の先にはパックの牛乳とパンが入った袋。購買で買ったものだろう。牛乳のパックは小さな飲みきりではなく500ミリリットルのやや大きいものだ。
「つか牛乳多くね?」
「大丈夫です、いつもこのぐらい飲んでますから」
 はー、と陽介は相槌を打つ。
「あんだけの牛乳、あの細っこい体のどこ行くんだろうな。頭と……あと胸とか?」
「お前もう黙れ」
 こそこそと耳打ちされ、がっくりと肩を落としたまま低く答えた。
「……あの、本当に大丈夫ですか?」
 いつもとは明らかに様子の違う彼が心配になったらしく、直斗は屈んでその顔を覗き込む。
「う……」
 近い。しかも上目遣い。今朝方のやけにリアルな夢を思い出させるアングル。
「先輩?」

 先輩――

 直斗の声が夢のそれと重なる。
「……無理」
 ぼそりと呟くと、彼は膝の上のまだ蓋を開けていない弁当箱を直斗に押し付けた。
「え、何」
「やる」
「でも、その1」
「いいから。いっぱい食べて大きくなりなさい」
 そのままダッシュで屋上から姿を消す。
「……オカンかあいつは」
 背中を見送った陽介が茫然と呟いた。

 一方、そのオカンは階段を踏み外して保健室に運び込まれていた。



『先輩』

 直斗が居る。ああこれは夢だと思った。手を伸ばす。届かない。近付こうとしても近づけない。直斗はそこにいるのに触れられない。
 いや、と思い直す。触れられないのではなく、触れないようにしているのではないだろうか。他ならぬ自分自身が。
 直斗。
 呼びかける。これは単なる夢だ。目の前にいるのは本物の直斗ではないとわかっていても。
 直斗、俺は。
 逃げられるのが怖かったのかも知れないと。
 今ここにある大事な何かを壊してしまうのが怖くて、何よりも彼女を求めていたのにその気持ちに目を瞑って誤魔化し続けていたのは。

 ――俺の方だったんだな。
 待たせて済まなかった。今、そっちへ行くから。

 直斗が微笑むのが見えた。



「……?」
 最初に目に入ってきたのはカーテンレールと天井だった。全く見慣れない景色でもなかったので、すぐに保健室かと思い当たる。
 後頭部の鈍い痛みで、そういえば階段を踏み外した事を思い出した。そのまま気を失って運び込まれたのだろう。
 醜態を晒してしまったと後悔するよりも先に胸元の重みが気になり、体を起こさずに目だけを向ける。
「直斗……?」
 ベッド横の椅子に腰掛けたまま、直斗が彼の上に突っ伏していた。眠っているようだ。付き添っていてくれたのだろうか。
 思わず漏れた声に、伏せていた直斗の肩がぴくりと反応する。ごそごそと顔を向け……目が合うと、うわ、と声を上げて飛び起きた。
「す、すみません。ついウトウトしちゃって」
「ずっと居てくれたのか?」
「は、はい。あのあとご飯を済ませて花村先輩と一緒に教戻ろうとしたら、先輩が階段から落ちて運ばれたって聞いたので。それで……」
 授業、サボっちゃいました。そう言って直斗は恥ずかしそうに笑う。
「そうか。……悪いことしたな」
 情けなさが湧き上がってきて、いたたまれずに腕で目元を覆う。今日はもう駄目だ。良いところが一つもない。
「先輩、大丈夫ですか。やっぱり病院に……」
 心配そうに覗き込む直斗の顔に、先程とは別の罪悪感を覚えた。
 ああこんな顔をさせるつもりはなかったんだ。
「きゃっ」
 突然ぐい、と引き寄せられて直斗は可愛らしい悲鳴を上げた。覗き込んだ体勢から背中に腕を回されて抱き寄せられ、横たわったままの彼の体に自分の体を預ける格好で密着する。
「先輩……?」
「悪い。ちょっと補給させて」
「補給、って」
「直斗が足りない」
 腕の中で直斗の体温が上がったのがわかる。きっと赤くなっている。けれどそんな状態でも直斗は黙って彼に身を任せていた。
 いつもなら真っ赤な顔を見てはすぐにここまでと線を引いて手放してしまっていた事に気付く。実際に触れて、拒絶されたことなど一度もなかったというのに。
「……あの」
 丁度肩の辺りに顔があるからだろうか、少し遠慮がちな声で直斗が口を開く。
「何」
「間違ってたらごめんなさい。さっき様子がおかしかったのって、ひょっとして」
 言わんとしていることはわかる。やはり歴戦の探偵だ、この程度は隠しても無駄だろう。
「……ごめん」
「謝ることではないと思いますけど……でも、できれば」
 直斗の声のトーンが落ちる。
「一言、相談してくれれば良いのに……と、思わないこともないです」
 少し拗ねたような声。ごめん、と彼はもう一度詫びた。
「あまり急いで、直斗を傷つけたくなかった――っていうのが本音だ。でも俺が間違ってたみたいだな。自分にとっても、直斗にとっても」
「先輩、それは」
 ぐい、と腕が持ち上げられる。それまで体の上で大人しくしていた直斗は、ベッドに手をついて上体を起こした。自然、組み敷かれるような形になる。
「それは……先輩だけのせいじゃないんです。僕も、正直……なんというか、こういう気持ちになるのも初めてだし、こんなふうに誰かと接するなんて考えたこともなかったから。だから、戸惑ってしまうことはありますけど」
 でも。そこで直斗が言葉を切る。額に手を当てられ、ほんの少し髪をかき上げられ、何のつもりかと考える暇もなく唇を塞がれた。
 ぎこちなく、けれど懸命さが伝わってくる、直斗からの口付け。けして深い触れ合いではないものの、それは間違いなく彼の中の乾いた部分を満たしていった。

 余韻を噛みしめるようにゆっくりと、直斗が離れていく。
「あまり壊れ物のように扱われたら、僕自身いつまで経っても踏み出せない気がしますから……たまには思い切って、自分に正直になってくれた方が、その、嬉しいです」
 口調こそ平静を装っているがその実、耳まで赤くなっている。その必死な姿に思わずクスリと笑いを漏らすと、直斗はバツが悪そうに体を起こして座り直した。
 成程やはり壁を作ってしまっていたのは自分の方らしいと、心の中で彼は自嘲する。朝からこごっていたしつこい心の靄がやっと晴れた気がした。
「……僕は逃げませんから。貴方が――好きだって言ってくれたこと、忘れた事なんて一度もありません」
 そっぽを向いたままそう結ぶ。その頭をそっと撫でる。子供扱いと怒られるかとも思ったが、直斗は何も言わなかった。

「俺だって忘れてないよ。……今日はありがとうな。色々と」

 もうあんないかがわしい夢は見ないだろう。
 なんとなくそう思った。


「直斗」
「何ですか」
「もう少し、欲張ってもいいか」
 立ち上がり、ベッドを覆うカーテンを開けようとしていた直斗の手がぴたりと止まった。そのまま、今度は椅子ではなくベッドに腰掛けて、彼に微笑みかける。
「……貴方は少し欲張りなぐらいが丁度良いと思います」
「善処する」

 苦笑しながらも包み込むように抱き締めてくる、その優しい腕に直斗はそっと体を預けた。








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直斗も同じ夢を見ていたかもしれない。
保険医?都市伝説じゃね?


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