文化祭の夜、天城屋旅館。
 昼間の喧騒(むしろ阿鼻叫喚)を忘れて仲間達と静かに過ごす筈だったが、待っていたのは桶の雨。
 心身疲れ切った負け犬たちは早々に眠ってしまった。もっとも、クマ辺りはまだ何か企んでいるようだが……

 自販機のボタンを押すと、ごとんと音を立てて冷えた缶が吐き出された。誰もいない談話室には特に音が響くが、客室からは離れているから問題ないだろう。
 僅かな疲労感がありながらも目が冴えてしまった体に冷たいスポーツドリンクが染みる。このまま軽く一風呂浴びればぐっすり眠れるだろうか。
 そんなことを考えながらぼうっとしていると、不意に人の気配を感じた。
 足音を殺しながらゆっくりと現れた人物は、こんな時間に人が居るとは思わなかったのだろう。ソファーに彼の姿を認めると、あ、と小さく声を上げる。
「先輩。起きていたんですか」
 周囲を気にしている様子の小声。
「うん、目が冴えてな。……直斗もか」
 はい、と頷く直斗を、ソファーの空きスペースをぽんぽんと叩いて促す。こっちにおいでというサインを察した直斗は一瞬迷った様子を見せたが、大人しく隣に腰を降ろした。
 照れなくてもいいのに、とは思いつつも口には出さない。

 大人しく隣に座った直斗をチラリと盗み見る。
 同年代の女子と比べても小柄なその体は同じソファーに腰掛けても彼の肩ぐらいまでしかなく、着込んだ旅館の浴衣は少しサイズが大きすぎるようで、首元から鎖骨にかけての緩やかなラインを覗かせている。
 やや見下ろす形になるこの位置からでは胸元まで見えてしまうような気がして、彼は慌てて目を逸らした。ここで変な気を起こしてはいけない。
「そっちも、もうみんな寝たのか?」
 適当な話題を振る。直斗は彼に顔を向け、ええ、と頷いた。
「ついさっきまでは色々な話で盛り上がっていましたが。やっぱりみんな、昼間にはしゃいだから疲れていたみたいですね」
 丁度奈々子ちゃんも眠そうにしていましたし。そう言う直斗は別の意味での疲労を覗かせている。恐らく、あのかしましい女性陣にあれこれ弄られたのだろう。
 まあ飲めよと、何気なく持っていた缶を差し出した。直斗も受け取ろうと手を出し……何かに気付いたようにそのまま手を止める。
 行き場の無い直斗の手に首を傾げた彼も、僅かに赤い顔を見てその理由に思い当たった。
「あ、そ、そうだよな。悪い。部活の連中なんか割と平気でやってるから、つい」
 所謂回し飲みというやつだ。気心知れた仲であれば珍しくもない行為も、特別な関係となると意味も違ってくる。
 なにしろ未だにキスの一つで目眩を起こしかねないほど真っ赤になってしまう直斗のことだ。やはり意識してしまうのだろう。
「す、すいません。あの、」
「いや気にするな、俺も気が回らなかったし」
「いえ、そうじゃなくて……やっぱり、ひと口頂けますか?」
 思わず目を丸くしてしまった。
「いいのか?」
「貴方とでしたら」
 さらりと爆弾発言のような気がするが、とりあえず深く考えるのはやめることにした。只でさえ今日は色々な意味で精神が磨り減ったというのに、その上目の前に危なっかしい浴衣姿の恋人とあっては、だいぶヒビの入った理性の壁にいつギガンフィストが叩き込まれてもおかしくない。
 そんな彼の心情はいざ知らず缶を受け取った直斗は、まだ冷たい中身を少しずつ口の中に流し込む。冷たく、ほの甘いそれは僅かに上気した体に心地良く吸い込まれていった。
「おいしい?」
「ええ、とても。……ありがとうございます」
 礼を言いながら缶を返そうとした直斗に、彼は小さく首を振った。
「飲みな。喉乾いてるんだろ」
「え、でも」
 喉が乾いていたのは事実だが、まだ半分以上残っている。躊躇う直斗に彼は微笑んだ。
「いい。代わりにこっちを貰うから」
 え、と声を漏らす、その僅かな間に二人の顔が急接近していた。頭が事を理解する前に唇を塞がれ、直斗は缶を片手に持ったまま硬直する。
 最初は軽く、触れるだけの口付け。一度離れたかと思うと、すぐにまた一度深く口付けられる。躊躇いがちに差し込まれた暖かい感触が彼の舌だと気付くまでには少し時間がかかった。
「ん、んんっ」
 やっと事態が飲み込めたのか、直斗が声を漏らす。が、既に後頭部に添えられていた手が離れることを許さない。一方で空いていた片手が直斗の胸元に伸びようとするのを、彼は理性を総動員して止めた。これ以上踏み込んでしまったら多分歯止めは利かない。
 今は駄目だ、まだ早いと言い聞かせ、持ち上げた手はそのまま直斗の肩を引き寄せる。直斗はと言えば混乱と羞恥と、未だに握ったままの缶のおかげで為すがままだった。唯一自由だった片腕は自分の自由を奪っている相手の胸元に添えられ、けれど押し返す事もせず、ただ浴衣の襟元を掴むのが精一杯。
「ふ、ぁ」
 息苦しさを感じた頃、見計らったように唇を解放される。最後に名残を惜しむかのように、彼の舌が唇を撫でて行った。
「ごちそうさま」
 耳元で囁かれ、直斗ははっと我に返る。悪戯っぽい笑みを浮かべる顔を睨み付けるが、上気し、うっすらと涙を浮かべた顔では全く締まらない。
「……せ、せ、せ、」
 先輩、と言いたいのだろう。が、完全にショートしてしまった思考が落ち着くまでにはだいぶ時間がかかりそうだ。その姿すら可愛いと思う自分はもう末期なのかも知れない、と彼はまた笑う。直斗には悪いが、抗議を受け付けるつもりはない。
「じゃ」
 未だに金縛りが解けていない様子の直斗の頭に、ぽん、と手を置く。
「あんまり夜更かしするなよ」
 ひらひらと手を振って、彼は部屋を出て行ってしまった。
 一人残された直斗は深々と息を吐きながら、そのままぐったりと背を丸める。唇にはまだ先程の感触が鮮明に残っていた。
 直斗は先程の彼の感触を辿るように、指でそっと唇をなぞる。とくん、と胸が高鳴った。



 さて、と彼は廊下で考える。このまま部屋に戻っても良いが、どうにもあちこちの血の巡りが良くなってしまっている。
(……やっぱり風呂、入っていくか)
 むしろ水風呂の方が良いかも知れない、と思いながら、彼は浴場へ足を向けた。








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番長もKENZENな男の子ですから。


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