午前の授業が終わった。やっと一息つける時間だ。
「――直斗!」
 どきん、と胸が高鳴った。最近発症した症状が、また現れたらしい。
 突発性の軽い心不全――直斗はそう呼んでいる。意を決して顔を上げた。
 みぞおちあたりに拳を押しつけると多少は楽になる。
 教室のドアに、よりかかるようにして彼が立っていた。手には弁当の包みを下げている。
「今日、昼休み予定ある?」
「い、いえ、と、特には…」
 直斗の心不全は特有のもので、一度発症すると心拍数、血圧共に異常に上昇し、火照ったような状態になる。
 さらに思考力の低下、呂律が回らなくなる、口内が渇くなど症状は多岐に渡る。
 いちいち症状のひとつひとつを数えていたらきりがないほどだ。

 なぜか、彼が現れると必ずこの症状に陥る。理由はわからない。
 症状は治まるどころか日々悪化するばかりだ。
 今度の休みにでも、大きな病院に行って精密検査を受けたほうがいいような気はしている。
 彼を引き金に症状が現れるのは、彼がテレビから助けてくれたメンバーのリーダーだからだろうか?
 まだテレビの中の世界のことを引きずっているのだろうか?
 思考はただ堂々巡りを繰り返すばかりでまとまらない。
 彼はそんな直斗の症状など、知りもしないのだろう。
「じゃあ、一緒にメシ食わないか? 弁当作ってきたんだ」
 直斗は俯いたまま頷いた。
 なぜ、彼のそばにいるとこんなに胸が苦しいのかわからない。
 だが、それ以上にわからないのは胸が苦しいのに一緒にいることを選ぶ自分だ。

 まだ11月に入ったばかりだが、一番暖かい時間とはいえずいぶんと肌寒くなってきている。
 だが、ふたりでいるところを見られるのも気が引けるので連れ立って屋上までやってきた。
 適当に腰を下ろすと、彼が制服の上着を脱いで直斗の肩にかけた。ダボダボである。
「あ、え、あの…」
「寒いの苦手なんだろ?」
 彼はあっさりと言う。直斗は目を丸くした。
 確かに直斗は寒がりだ。だが、誰かに話した記憶はない。
 もともと弱味を見せるのが嫌いな性質なのだ。一体彼はいつの間に気づいたのだろう。
 まだ制服には彼の温もりが残っている。
 どうやら彼の体温が上乗せされて、直斗の体温も上がってきたようだ。

「味見したから大丈夫だと思うけど…」
 彼がそう言いながら弁当の蓋を開ける。中には程よい厚さに切られた太巻きらしきものが詰まっていた。
 海苔で巻く代わりに、白ゴマがまぶしてある。
「これは…寿司、ですか?」
「カリフォルニアロールだよ。食ったことある?」
「カリフォルニア…?」
 直斗は小首を傾げる。カリフォルニアと言えば、アメリカのカリフォルニアで間違いないだろう。
 寿司屋の品書きでも見たことがない。彼は頷いて答える。
「そうそう、アメリカで生まれた寿司だよ」
「アメリカの寿司? 寿司は日本のものでしょう?」
 ははっ、と彼は声を立てて笑った。
「直斗はさ、いつも肩に力入ってるように見えるから。こういうものでも食って、たまには楽にしろよ」

 どきん、とした。
 知らないうちに見抜かれて、先回りされているような、この感覚。
 この感覚が直斗を惑わし、奇妙な病気を引き起こすのだ。
「ぼ、僕は別に、肩に力なんて――」
「いいからいいから。とりあえず食えよ」
「…いただきます…」
 箸をとり、カリフォルニアロールをつまむ。具材はアボカドとかにかまだろうか。
 アボカドとかにかまを組み合わせるなど、日本人では思いもつかないだろう。
 さすがに一口では食べ切れそうにない。端っこに噛み付くようにして、頬張る。

「…おいしい」
 思わず、賛辞の言葉がこぼれた。さらに二口、三口と頬張る。
 アボカドとかにかまの相性もぴったりだが、何より酢飯の甘味と酸味が絶妙だ。
「おいしいです! 驚きました!」
「そっか。良かった」
 彼は満面の笑顔を見せた。
 そしてようやく自分も食べ始める。
 目が合う。それだけでかあっと顔が赤くなる。
 直斗は強引に視線を外して、屋上から見える稲羽の風景を眺めた。
 正確には風景を眺めて気を落ち着けて、言葉を探そうとしたのだ。
「あ、ええと…せ、先輩は何でもできるんですね。僕も少し勉強しようと思います」
 結局出てきたのは、テンプレにありがちな社交辞令だった。
 溜め息が漏れる。もっと彼のように気が利いたり、話が上手であればいいのにと。
 この病気は、彼に対する完全な敗北がもたらす心理的なものなのかもしれない、そう思えてきた。

「…直斗、ほっぺたにメシ粒ついてるぞ」
「え、本当ですか!?」
 直斗は慌てて両側の頬を払った。
 探偵であろうとなかろうと、ご飯粒をつけて歩くなどみっともない真似はしたくない。
「取れましたか?」
「いや――」
 不意に彼が立ち上がる。圧倒的と言っていい身長差。
 彼も背は高いが、直斗も小柄なのだ。
 彼の大きな手が直斗の左頬を包むようにして触れた。
 一瞬のようで、長い長い時間。彼の顔がこれ以上ないほどに近づいてきて――

 右の頬に、彼の唇が優しく触れた。

「メシ粒は、嘘だよ」
 耳元で彼が低く囁く。
 頭が真っ白で、動くことさえできない。呼吸もしているのかしていないのかわからない。
 立っているのがやっと。何かの拍子で倒れてしまいそうなくらいだ。
「…直斗?」
 彼が目の前で手をひらひらとさせていた。ようやく我に返る。
 頬から一気に熱が体じゅうを巡った。耳元で鼓動がうるさい。

「あああ、あの、あの…し、失礼しますっ!!」
 直斗は借りていた上着を彼の胸に押しつけると、踵を返してその場を逃げ出した。
 相変わらず胸は苦しくて、体は熱くて、思考はぐちゃぐちゃだ。だが、気づいたことがある。
 一番気づきたくない結論にたどりついてしまった。
 この病気が医者に治せるわけがない。
 もともと病気などではないのだ。
 相手を想う気持ちが、さまざまな症状を引き起こしているにすぎない。
 直斗は今にも飛び出しそうな心臓を、両手で強く押さえた。

 この感情は、恋だ。


 (終)





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