こい【恋】 異性に思いを寄せること。恋愛。

(そんなことくらいわかってるよ)
 直斗は胸中で毒づきながら分厚い国語辞典を閉じた。
 元あった棚に戻し、窓辺の席に戻る。
 特別テスト前というわけでもないため、図書室は閑散としている。
 受験組と呼ばれている三年生の姿がちらほらとあるだけだ。
(対処法が活字になっていれば苦労はしない、か)
 長い溜め息をつく。
駄目もとで辞書を紐解いてみたものの、言葉をすりかえているだけで直斗の求める答えはなかった。
恐らく「恋愛」の項目を引いてみたところで、似たようなことしか書いてないだろう。
(結局僕がわかっているのは、先輩のことを好きだっていう厳然たる事実だけ…)
意識すると、ぽっと頬に血が昇った。
誰も見ていないだろうが、無意識に顔を伏せる。

 彼を好きだと気づいてから、直斗の価値観は大きく揺らいだ。
 今まですべて論理的に片づけられていたはずなのに、感情という小さな一石を投じることで論理が割れてしまう事態もあり得る…
 それを知ってしまったからだ。論理と言う一面だけで処理できないと知ってしまったからだ。
 一体いつから好きだったのか? なぜ彼なのか? いくら考えても堂々巡りで、答えは出ない。
 感情は不定形のくせに大きく膨らんで、直斗の心を圧迫していく。
 もしかしたら心不全なのではないかと思っていたのだが、今は慌てて医者に行かなくて良かったと安堵している。
 ただの恋心でした、では、恥ずかしくてもうその病院には二度と行けなかっただろう。
(この感情をうまく制御できればいいのに…そして、できることなら…)

 消してしまいたい。

 真面目にそう願っていた。今のところ問題はないが、探偵業に支障が出るとも限らない。
 直斗は帽子を被り、荷物をまとめて外に出た。

 偶然とは本当に恐ろしいもので、会いたくない人間ほど会わせてくれる傾向にあるのかもしれない。
 思えば、図書室があるのは2階。2年生の教室がある場所である。
「直斗!」
 彼は目が合うとごく自然に声をかけてきた。
 直斗が柱の陰に隠れるよりも早く、見つかってしまったようだ。
「あ、ど、どうも…こんにちは…」
「なんか最近見かけてなかったけど、事件でもあったのか?」
「い、いえ、…たまたまだと、お、思います…」
 口から心臓が飛び出しそうだ。帽子をなるべく目深に被って、目を合わせないようにする。

「この間先輩にキスされてから、先輩が好きだと気づいてしまって僕の中で大変なことになってるんです!
だからわざと避けてたんですっ! 僕の気持ちが落ち着くまで離れていてくださいっ!!」

 そう正直に言えたらどんなに楽だろう。だが、言えるはずもない。
「今帰るところか? だったら送っていくよ」
 こともなげに言ってのける。そもそもの元凶は、彼自身だというのに。
 このあっさりとした態度が恨めしいとさえ思う。
 しかし、断る口実はとうとう見つからず、直斗は彼と一緒に帰ることになってしまった。

 鮫川の河川敷。
 秋も深まると木の葉が赤や黄色に色づいて、夏までとは違った顔を見せる。
 ときどき風が吹くと、葉ずれの音が耳に届く。そろそろ冬も近い。
 ここまでの道中、直斗は俯いたままほとんど彼の話に相槌を打っていた。話はもちろん頭に入っていない。
 左半身に全神経が集中しているかのような錯覚は痛いほどで、話が頭に入らないのだ。
(好きだなんて気づかなければ良かった…)
 そんな気持ちが湧いた。
 彼は優しくて気も利いて人づき合いが上手で――だからこそ自称特別捜査隊のリーダーを任されているのだろうが。
 好きだと気づかなかった頃は、本当に頼りになる人だと思っていた。何でも任せられる人だと。
 だが、顔を合わせることさえままならない今は、一緒にいるのが苦しい。

 彼自身は何も変わらない。相変わらず頼れるリーダーだ。
 直斗だけが変わってしまった。「感情」というものが、直斗を変えてしまったのだ。
 屋上で、頬に触れるくらいのキスをされた。
 海外ではごく普通の挨拶だ。彼が都会でグローバルな生活をしていたと考えれば、自然かもしれない。
 …いや、有り得ない。今の日本の風習で、挨拶代わりに異性にキスしてくる人間などお目にかかれはしないだろう。
 やはり何かの意図があったとしか考えられない。
 キスされたこと自体は引き金にすぎないのだろう。
 総合して考えると、直斗は以前から彼のことが好きだったようだ。
 男になりたかった自分が、男の仮面を捨てようとしていた。無意識のうちに。
 感情が自分の立ち位置さえも危うくしているようで、少しばかり寒気がした。
 「白鐘直斗」が壊れる。冗談でも笑えない。

「直斗、向こうで休もう」
「え…」
 彼が指差しているのは、河川敷沿いにある東屋だった。
「なんかさっきから調子悪そうじゃないか?」
「いえ、大丈夫、です…」
 確かに頭がぼうっとするかもしれない。そんなことさえ気づかなかった。
 ただ、気持ちを押しこめるだけで精一杯で。
 顔を上げようとした途端、天地が反転して膝をついてしまった。
「直斗!?」
 慌てて彼が駆け寄ってくる。もう何が何だかわからない。
 ふと彼の手が直斗の額に触れた。冷たくて、気持ちいい。
「直斗、熱が――」
 後の言葉は聞こえなかった。

 ふと気がつくと、視界がずいぶんと高い。
 適当に硬くて、広くて、温かい感触。昔を思い出す。
 昔、祖父が幼い直斗をよくこうしておぶってくれた。そう、おぶって――
「え、あ!?」
「起きたか? 河川敷からならウチのほうが近かったから。すぐ着くよ。まったく、熱があるなら言えよな」
 彼は肩越しにそう言った。
 別段呆れた口調ではなかった。むしろ直斗らしい、とでも苦笑するかのような。
「…熱、ですか。これってもしかして…」
「もしかして?」
「あ、いえ! 何でもありません!」
 無意識に頭を振った。頭がくらくらとする。
「そ、それよりもう大丈夫ですから! 降ろしてください!」
「大丈夫だよ、軽いから。もうすぐ着くし、大人しくしてろ」
 強引に降りる気力もない。今日もいろいろと考えさせられすぎて、疲れてしまった。
 静かだと、つい考え事をしてしまう。寝不足もあるかもしれない。
(もしかして、もしかしなくても…“知恵熱”か。情けないなあ…)
 目を閉じてみる。人の温もりは、否応なしに安心させる効果があるらしい。
 ばくばくしていた心臓は、いつの間にか落ち着いていた。
 優しくて、頼りになって。ただそれは直斗だけではなく、他の相手に対しても同じだ。
(あれは僕のことが好きってことでいいのかな…でも、裏が取れてるわけじゃないし…
…好きでいてくれたらいいのに…そうしたら、僕だって…)

 人肌の温かさと、適度な振動と、心音。
 気がつくと、直斗は彼の背中で眠ってしまっていた。

(終)





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