ああ――往ってしまった。 たった二両しかない電車はあっという間に山間へ消える。見えなくなってなお、名残惜しそうにホームに立ちつくす少年少女達。 一度堰を切ってしまった涙は止まらなかった。いくらあの人との別れでも柄にもない、と思う。帽子を下げて目元を隠す。ここにいるのは今更隠すことなどないような仲間達ではあるのだけど、あまりメソメソしているとあの人に笑われてしまう気がして。 左手に目をやった。あの人の為に作った、この世にたった二本だけの腕時計。 互いの距離を知らせる表示盤には”測定不能”の文字。 ――4月下旬。 直斗は二年生になった。勿論八十神高校の、である。年度の変わり目を期に元居た場所へ帰る選択肢もあったが結局、当面は稲羽市に残ることにした。 あれから――とは言っても、全ての解決を見てからまだ一ヶ月しか経っていないが――大きな事件も起きていない。細々した事件は当然日本中で毎日のように起っているが、当面探偵の出る幕はないというわけだ。 考えてみれば、直斗が稲羽へ来てからまだ一年経っていない。だというのにまるで長年慣れ親しんだ地のように馴染むのは、短い時間ながらも様々な喜怒哀楽を共にした仲間が居るからだろう。特に、同じ学年のりせや完二との縁も手伝い、直斗はいつの間にかクラスメート達ともよく馴染むようになっていた。まだ男のふりをしていた頃は自分自身も周囲に全く興味がなく、むしろ拒絶に近い態度をとっていたというのに、だ。襟のバッジの文字が変わっただけで後は何も変わらないと思っていたが、意外とそうでもないらしい。 そうしたおおらかなクラスメート達や、未だ暇さえあればジュネスでたむろす仲間達と過ごす時間はとても穏やかだった。あまりに穏やかで、平和過ぎて、だからこそ……心にぽっかりと開いてしまった穴を埋める物も見つからなかった。 放課後。珍しく河原をぶらついてから帰宅した直斗は、玄関先に鞄を置いて室内を眺めた。 祖父に無理を言って一人暮らしを始めた部屋は2DKと、この年齢での一人暮らしには大分贅沢な部屋だ。とはいえ徐々に持ち込んだ本や捜査資料のせいで早々に一部屋潰れつつある。 ……そろそろ整理しないと。 そうは思うものの実際取りかかるとなるとこれが中々難しい。特に何もない日はまっすぐ家へ帰り、ジュネスの総菜だとか適当に出来合の物を食べ、あとは本を読んでいると一日が終わってしまう。おおよそそんな日常だった。 世間では明日からゴールデンウィークらしい。直斗は二つ折りの携帯を取り出して蓋を開け、画面に何の新着表示もないことを確認すると少しだけ落胆してすぐに胸ポケットへ仕舞い込んだ。 (……来てくれると、思っていたんだけどな) 『連休には遊びに来いよ』 別れ際に彼に言ったのは花村だったろうか。あの場にいた誰もがそれを社交辞令とは思わなかったし、最後にみんなで撮った写真を大事そうに仕舞いながらはっきりと頷いたあの返事がその場限りのものとはどうしても思えなかった。 だが肝心の連休を目前にしても何の連絡も入ってこない。どころか、週に数回必ず寄越してくれていたメールなり電話なりの連絡すらここ最近は音沙汰無くなってしまった。 (我儘を言うつもりはないけど……) 無論彼には彼の生活がある。帰国した両親との兼ね合いもあるだろうし、さあ連休だ出発だと、学校からジュネスに寄るような気軽さで稲羽まで来ることが出来ないことも承知している。 (でも……) でも、一言連絡ぐらいはくれても良いのではないだろうか。きっと自分だけではない。みんな待っている。そろそろ進路の話が出てきて悲鳴を上げている三年生達も、それを横目にのんびりしている二年生達も。あわよくば店長の座を狙っているんじゃないかという噂まで出てきたクマも、堂島も、菜々子も。みんな多分、あの人を待っている。 待っているのに。皆も。 (……この、時計も) 直斗は左腕に目をやる。去年のクリスマスに贈った改造時計。なにせ時間もモノもないからごく近距離間での探知機能しか付けられなかった。時間さえあれば測定距離も伸ばせたし麻酔銃でも仕込めたのだけれど、それでも精一杯の心を込めた。 距離表示ボタンを押してみる。”測定不能”の四文字が浮かび上がった。もう丸一ヶ月以上同じ表示―― ……やめよう。 直斗は小さくため息をついた。こんなことをしていても事実は変わらないし、そもそも彼がまだあの時計を使っているという確証もないのだ。自分の我儘で縛るつもりもない。用事が何もないなら何もないなりに、この雑多な部屋を片付ける機会と思うしかない。 胸の隙間を通り抜ける風には無視を決め込むことにして当座の生活を思い出す。とりあえず夕食を確保しなければいけない。 空腹では良い考えも浮かんでは来まいと腰を上げると、外はうっすらと暗くなり始めていた。思いの外惚けていたようだ。 「……まったく、本当に……僕らしくもない」 自分に言い聞かせるように呟いて腰を上げた瞬間、胸元の携帯が飾り気のない着信音を発した。途端、直斗は我に返る。 メールの着信だった。見慣れた名前、今一番見たかった名前のフォルダが光っている。 「先輩だ……!」 そう、待ち望んでいた人からの待望の一報。メールを開く。画面に浮かんだのはいつも通りの近況報告でも連休の予定でもなく、ただ一文。 『時計を見ていてくれ』 「……?」 直斗は首を傾げる。時計。自分とあの人の間で時計といえば、今自分の左手に巻き付いているこれが真っ先に思いつく。が、見ていてくれとはどういうことだろう。 先程押したボタンをもう一度。表示はやっぱり”測定不能”のままだ。時計。時計。他にあっただろうか。それとも彼なりの謎かけだろうか?思考を巡らす。……全くわからない。 「間違いメール、かな……?」 頭の中に疑問符を浮かべたまま直斗は終了ボタンを押す。カレンダーとデジタル時計だけの飾り気のない待ち受け画面、それもやがて節電モードで真っ暗になる。部屋の中もいよいよ薄暗い。 とにかく用事を済ませてからこの『謎』を考えようか。蓋を閉めようとした携帯が、今度はけたたましい着信音と共に震えたので直斗は驚いて本体を取り落としかけた。 今度は電話着信のようだ。表示されている名前は先程のメールの送り主。どきん、と心臓が一つ高鳴った。 通話ボタンを押して耳に当てる。直斗、と受話器の向こうで名を呼ぶのは少しだけ息を切らせた様子の懐かしい声。 「せ、先輩!」 『直斗か?良かった、連絡が付いて……今どこにいる?』 珍しく焦っている。はて、彼は一体何を焦っているのだろうかと直斗は訝しむ。 「家にいますけど……いや、そんなことより聞きたいことが色々あるんです。さっきのメールとか、他にも色々と……」 連休の予定、とストレートには言えなかった。受話器から小さく安堵の息が聞こえた。 『ああ、メールも見てくれたんだな。で家に居るのか。良かった、てっきり留守かと思ったから』 「いえ、だから聞きたいのはそこじゃなくて……、……留守?」 どうにも論点のズレた話に焦れかけた直斗だが、ふと会話に違和感を覚えて言葉を切る。 留守かと思った。どうして?『探偵』の思考が働き始める。外は薄暗い。部屋には電気が点いていない。帰宅したまままた出かけようと思っていたからだ。成程『外から見れば』一見留守だろう。でも、どうして彼がそんなことを知っているのだろうか? どうして。 まさか。 『……で、時計は?クリスマスにくれたあの時計、直斗のもあったよな。まだ……持ってるか?』 勿論だ。というか、愚問だ。 ――まさか。 直斗は時計を見る。表示は相変わらず”測定不能”。だけど。 「持っているに……決まっているじゃないですか。僕の、宝物なんですから」 胸が高鳴る。”測定不能”。 『そうか、安心した。俺一人ではしゃいでたらその……流石に恥ずかしいからな』 「先輩、あの。ひょっとして」 ピッ、と短い電子音。携帯ではない。が、心当たりはある。記憶が正しければ見つけた合図のはずだ。 時計が、対となる電波を。 ”半径3メートル” 直斗は目を見開いた。通話状態のままの携帯を握りしめ、玄関から飛び出す。 ――誰もいない。少なくとも玄関先には。でも。かん、かん、と階段を登る足音が。ゆっくりと。 ”半径2.5メートル” 予想は確信に変わった。待った。そして。懐かしい顔が。携帯を顔に当てたまま。 「直斗」 手元の携帯と、目の前と。両方から同時に名を呼ぶ声。 ”半径1.5メートル” 「せ、んぱい……」 これは夢だろうか。 いや夢などではない。電波は嘘をつかない。彼は確かにそこにいるのだ。 「いや、焦ったよ。折角驚かそうと思って内緒で来たのに、電気も付いてないからもしかして実家に戻ったんじゃないかって」 ヒヤリとした。そう言って柔らかく笑う。 ああこれは確かに彼だ。 「貴方は……」 「直斗?」 俯いて呟く直斗を不思議そうに覗き込む。その様子まであまりにも普通すぎて、喜びや驚きよりも先に腹が立ってきた。 「内緒、って……もし本当に行き違ったらどうするつもりだったんですか!それに僕だけじゃない、皆さん貴方を待っていたんですよ!それなのに、それなのにこんな……冗談にしても、ちょっと悪質じゃないですか!?」 「い、いやそれが」 直斗の剣幕に押され、困ったように頭を掻く。やがて観念したように彼の口から『真相』が。 「実はその……知ってるんだ、みんな。俺が来るっていうこと」 「………………………は?」 衝撃的事実。そして思考停止。もう何が何だか判らない状態の直斗の顔色を時折伺いつつも基本目を逸らしながら彼は続けた。 「連休は叔父さんの家で過ごすことにしたって、みんなには先週連絡してあったんだ。いや、本当は明日来るからって連絡したんだけどな。直斗にはその……驚かせたかったのと、早く遭いたかったっていいうのと。折角だからさ」 二人きりで、誰よりも先に遭いたかったから。 直前に連絡すると、久々に遭えるという事実に浮かれてつい喋ってしまいそうだったから。だからどうしても連絡できなかった。 仲間達には、直斗を驚かせたいから秘密にしてくれと正直に話したとか。なんということを。 「だからその。……ごめんな」 唖然としている直斗に、ちょっと困ったような笑みで謝罪の言葉。 ああその顔は――ずるい。さっきまで半ば本気で怒っていたのにそれもどうでも良くなるぐらい。 「貴方という人は……」 直斗はふらふらと歩み寄る。拳を握った腕を突き出す。すわ殴られるか、と彼が身を固くするのがわかった。確かにさっきまでは一発ぐらい殴ってやろうかと思わなくもなかったが。 「本当に……酷い人です」 拳を緩め、腕を背に回す。見た目よりもがっしりとしたその体にしっかりと抱きついた。 「ちょ、な、直斗」 予想外の反応に照れている。困っている。いい気味だ、少しぐらい困ればいい。あれだけ人を不安にさせたのだから。 「僕がどんな気持ちだったか……もう少しで子供みたいな我儘を抑えきれなくなる所でしたよ。貴方一人の為に」 「……ごめん」 す、と直斗の背に逞しい腕が回される感触。ああ、これだ。懐かしくて暖かい。ずっと足りなかった。 「直斗。遭いたかった」 「僕もです。誰よりも先に、貴方に遭いたいと。ずっとそれだけを想っていました……」 ぽっかりと空いていた胸の穴は、彼がすっかり塞いでしまった。 ”半径1メートル以下” ========================================================== 冷静に考えると玄関先で痴話喧嘩のちイチャップル。