最近、直斗の様子がおかしい。
 ほんの少し前までは怪盗Xとやらの件でちょくちょく一緒に過ごしていたのだが、ここ最近は目も合わせてくれない。どころか完全に避けられている気がする。
 紆余曲折こそあったものの、謎かけのような問題を一つ一つ解き明かし、直斗の過去に触れてゆくうち、いつしか互いの心にも触れるようになった。
 そうして二人で「怪盗X」の真相に辿り着き、先日晴れて身も心も結ばれたというのにその矢先にこの事態だ。

 目下――その一線を越えた時期と直斗の態度が急変した時期が一致している事が最大の問題ではあるのだけど。


「直斗」
「ひゃあっ!?」
 今日は掃除当番だったらしい直斗を待って背後から声を掛けた瞬間、彼女にしては珍しい素っ頓狂な悲鳴を上げられた。放課時間からだいぶ過ぎて人の少ない昇降口とはいえ、まだ周りには数人の生徒達がいる時間だ。声を掛けた自分が面食らいながらそれでも口の前に指を一本立てると、直斗は慌てて自分の口に手を当てた。
 いやまあ、今更口を塞いだところで意味は無いのだけれど。
「あ、せせ、先輩もこれから帰りですか?す、すみません。僕ちょっと用事があるので、お先に失礼します……せ、先輩?」
 顔を背け、下駄箱に手を伸ばす直斗よりも先に下駄箱の蓋を押さえつける。一度は背けられた目が困惑気味に見つめてきた。
 少々強引な気はするがここで逃げられる訳には行かない。とにかく、話をしなくては始まらない。
 しばらく触れることの出来なかったその小さな体を、今にも抱きしめてしまいたい気持ちには必死で目を瞑りつつ。
「……先輩。あの僕、もう帰」
「悪い、ちょっと付き合ってくれ。時間は取らせないから」
 拒絶に等しい言葉を無理矢理遮る。多分ここで引いては駄目だ。引いたらもう次は無い気がする。
 不自然に外された視線を追いかけ直斗の顔を覗き込む。顔が赤い。それに、ちょっと可哀想なぐらい戸惑っているのがわかって一瞬躊躇した。が、どうにか平静を装った。
「話があるんだ。すぐ済む。多分」
「……は、い…………」
 戸惑っている様子ではあるが了承してくれたようだ。ここでは何だからと屋上へ場所を移すことにした。さっきの悲鳴の件もあって、周囲の視線が少し痛い。花村やりせの耳にこの件が届いたらやはり問い詰められるだろうか……
 ……ほんの少しだけ、頭が痛かった。


 部に所属している生徒は今頃部活の真っ最中だろうし、特に用のない生徒はとっくに下校しているだろう。いつもより少しだけ風の強い屋上には予想通り誰もいなかった。
 いつも仲間達とたむろする場所へ腰掛ける。直斗と来たら少し離れた場所に立ったまま俯き、そこから近付こうとしない。なんというか、男としての自分でもって全身全霊で彼女を愛した後にこの仕打ちは内心、ヘコまざるを得ない。
「……直斗」
 すっかり縮こまってしまった直斗を刺激しないよう、極力静かに呼びかける。返事こそ無かったが名を呼ばれて小さく震えた。それが返事だろう。
「その、単刀直入に聞くけど……最近俺のこと避けてるよな?」
 答えはない。ただ胸の前でカバンを持つ手にわずかに力が籠もったのは見逃さなかった。
「なんというか……」
 言葉を選びながら続ける。これ以上続けるのは正直少し怖い。けれど。
 確認しなくてはいけない。本当に彼女の心が……自分から離れてしまったというのなら、尚更。
「……せめて、話ぐらいはちゃんとして欲しいんだ。俺のことが嫌いになったっていうなら、それでも」
「そんなことっ!」
『嫌いになった』
 その言葉が出た瞬間、直斗が弾かれたように顔を上げた。普段からは想像も付かない剣幕で俺の言葉を遮る。が、視線が合うと直斗は一瞬硬直して…それからまた、ゆっくりと顔を伏せた。
「嫌いだなんて、そんなこと……ない、です……」
 か細い声で返ってきたのは覚悟していた言葉とは正反対の答え。
 正直色々と覚悟していただけに、喜びよりも肩透かしの方が大きかった。それじゃあ、どうして。どうしてあんなにも避けられたのだろう。
 直斗はまた俯いたまま黙ってしまった。立ち上がる。ゆっくりと近付く。もう逃げる様子はない。
「直斗」
「ご、ごめんなさい」
「謝らなくていい」
 そっと肩に手を置いた。びくりと震えるのがわかる。けれど、もう拒絶する様子はない。
「話してくれ。怒ってる訳じゃないから……ちゃんと、聞きたい」
 沈黙。待った。直斗がただ押し黙っているのではなく、言葉を発する為に必要な時間なのだと感じたから。
「……、……なんです、僕……」
「へ?」
 蚊の鳴くような声とはこのことだろうか。肝心の部分が聞こえず、思わず間の抜けた声で聞き返してしまった。
「変、なんです、僕。……あの日、先輩と、その……、……た、ときから」
 一言一言をどうにかこうにか吐き出してゆく。帽子の鐔が邪魔をして顔は見えない。
「先輩のことを考えると、自分でも信じられないぐらいドキドキして……そ、それにその、あのときのことを思い出して、」
 ぎこちなく紡がれる言葉を一つ一つ拾い上げてゆく。あのとき、とはまさか。
「そうするともう、我慢できなくなって、その、ひ、一人で……それも一度や二度じゃなくて……」
 初めて肌を重ねたあのときを考えて。
「な、直斗」
「僕、おかしくなっちゃったんです!こんな、こんなこと今までなくて、それにせ、先輩を汚すような事……最低だ……!」
 消え入るような声で最低だ、ともう一度呟く。頬には涙が伝っていた。
 成程、つまりこれは。避けられていたのは自分が考えていた方向とは全く別の要因であって、つまり。
 謎は解けた。顔を合わせたくなかった訳ではなく『合わせられなかった』のだ。
 ああそういうことか。
 ああ、なんて。
 なんて愛おしい。

「うわっ!?」
 小さな体を抱き締める。直斗は小さな悲鳴をあげたが、突然のことで体が付いてこなかったのだろう。なすがまま腕に収まり、俺の胸に顔を沈める格好になった。 「……良かった」
「え」
 涙を拭う余裕もなくもがく直斗の抗議は無視した。簡単に手放せる気分ではなかった。嬉しくて、愛おしくて。目の前の小さな存在が。
「俺もだから。……俺も、直斗の事が忘れられなくて」
 そう、片時も忘れられなくて。もうずっと触れたかった。触れたくて、触れたくて、でも触れられなくて、だからあの時のことが尚更忘れられなくて。初めてこの腕に抱いたあの感覚や、直に触れた肌の熱が。だから。
「だから」
 腕の力を緩める。まだ俺の言葉を反芻しているのか、呆然と見上げてくる直斗の頬に手をやり、涙を拭って笑いかけた。
「おあいこ、だな?俺たち」
「せんぱい……っ」
 今度は直斗の方から抱きついてきた。
「ごめんなさい、僕……僕、ずっと一人で、勝手なことを……」
 ああ、また泣いてしまった。折角涙を拭いてあげたのに。
 けれど、もうさっきまでのような辛そうな声ではない。大丈夫、大丈夫だからと帽子越しに頭を撫でてやる。普段なら子供扱いするって怒られるのだけれど。
「俺はいいから……でも、もう一人で抱え込むのはやめて欲しいんだ。俺はずっと直斗の側にいるって約束するから、直斗も約束してくれ」
「約束します……ごめんなさい、ごめんなさい。…………大好きです、先輩……」

『大好きです』
 腕の中で何度も繰り返す直斗に頷きながら、そのまま泣きやむまで抱き締めていた。


 落ち着いた頃を見計らってハンカチを渡してやると、直斗は顔を綺麗に拭って、それから自分のポケットにしまい込んだ。
 洗って返します、と罰が悪そうに付け加える。気を遣うことはないのにとも思ったが、これで結構頑固かつ律儀な直斗のことだ。納得しないだろう。
 階段室のドアに向かって歩き出す。二人並んで。
 ノブに手を掛けようとしたとき、つい、と制服の裾が引っ張られて手を止めた。振り向くと鞄を抱えた直斗がなにやらもじもじしている。
「先輩、あの、今日、これから……その」
「ん。うちに来るか?」
「……えっ?で、でも」
 直斗のことだ。本当は部屋に来たくても遠慮して、どこかへ出かけようとでも言って、それで自分を満足させておくつもりだったんだろう。
 そんなのは駄目だ。何より、こちらももう我慢の限界だ。この上お預けを食らったら流石に一人の健全な男子として色々と抑制できる自信がない。
 だから先手を打つことにした。
「叔父さんは相変わらず忙しいみたいだし、菜々子は友達の誕生会。今日は夜まで誰もいないんだ。簡単なものしかできないけど、うちで一緒に夕飯作って食べよう。それから」
 無防備な背中を抱き寄せる。顔を寄せ、囁く。
「たくさん、二人で過ごそう」
 小さな唇に、自分の唇を重ねる。

 深くはないけれど、たっぷりと時間を掛けて口付ける。
 それ以上を求めそうになる自分を必死で押さえつけてそっと顔を離した。名残惜しくはあったけれど。

 直斗はやっぱり真っ赤な顔をしていた。
 けれど、もう泣くことも逃げることもなかった。

 そう、もう焦ることは何もないのだ。








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おちない


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