薬師寺と別れた後、彼は雑貨屋やインテリアショップ、果ては玩具屋までを巡って、プレゼントにふさわしいものを探したが、これと言ったものは見つからなかった。稲羽よりは開けた都会だとは言え、やはり地方には選択肢が少ないようだ。面白みがあったり洗練されていて、なおかつ大量生産品ではないようなアイテムというのは中々見つからなかった。
 今日のところは諦めようと思い、帰りがけたところでその店を見つけたのは、まったくの偶然からだった。
 沖奈市の繁華街には何度も来ているが、普段はこの通りに踏みいれた事は無い。それはそこがいかにも飲み屋横丁と言う雰囲気の場所で、ネオンと赤提灯が連なっていたからだ。ところが今同じ場所を見ている目に映っているのは、アーケードの屋根に青い電灯が一つともっているだけの路地で、行き止まりには重厚な両開きの扉が鎮座している。
 その扉はまるで数十年前から鎮座しているかのような雰囲気があった。
 自分の記憶を訝しがりながら路地に入り込んで見ると、扉の脇には小さい看板があり、それには『時間城 -時計・古物・工芸品取扱- 修理は致しません』と描いてあるのが分かった。
 何とも怪しげな店だが、好奇心をそそるのも確かだった。好奇心の無い探偵は死人も同然――ふとそんな言葉が思い浮かんだ。直斗がここにいたら、そう言いながら率先して店に入っていくのだろうか?
 そうだ、時計はともかく、古物(アンティーク)や工芸品を扱っているなら、プレゼント探しに覗いてみても悪く無いだろう。彼はそう思うと、両開きの扉を押して店内に入っていった。
 店の主人と思しき、時計の文字盤の透かしが入った片眼鏡をかけた長髪の紳士――彼は反射的に心の中でチクタクマンTick-tock-manというあだ名をつけた――は、まるで彼が来るのを一日中待っていたかのように、よく磨かれたショーケースの向こう側からこちらに静かに一礼した。
「ようこそ、時の城へ。ご用件は?」
「少し商品を見せて欲しいのですが、構いませんか」
 そう聞くと、店主は肯定を示す小さい頷きを返してみせ、また来客に備えて無感情な視線をドアに向けて佇んだようだった。
 彼はそれ以上店主には構わず、店内を見回した。店の名に違わず壁には一面に掛け時計が飾られ、その下には置き時計や、腕時計の入ったショーケースが並んでいる。ペアウォッチのお返しに時計を贈るのでは意味が無いので、彼は他の商品を探した。店の中央に縦に三つ並んだショーケースの中に古物や工芸品が入っているようだった。
 ドーソン原人の頭蓋骨、脳骨に欠けアリ。エミール・ガレのヒトヨタケのランプ、模造品。永井荷風が死の寸前まで全財産を入れていたという鞄。明治時代に作られた薩摩焼のコーヒーカップ。ブリキで作られた昭和初期のメートル法換算表、ただし子供用の玩具用。
 どれも面白みはあるが、プレゼントにするには個性的に過ぎたり、直斗の家にはすでにありそうに思えるものだった。それでも何か無いかと探す彼の目が、ある一つの古物に惹き付けられた。
 それは砂時計のように見えたが、二重になったガラスの中には砂粒ではなく白銀色の液体が入っていた。透明感のある桃色をした銅の外枠――この色は銅の純度が千分台以上である事を示している。古物なのに?――に、奇妙に歪んだ自分の顔が映っている。プライスカードには、イタリック・ペンを使った流れるような筆記体で『Mercury Hourglass(25±5min) \11,500』と書かれていた。
「水銀時計?」
 彼は良く見ようとショーケースに顔を近づけた。最近はこんな水銀を大量に使った製品が造られているわけはないから、古物(アンティーク)ではあるのだろうが、そのなめらかな金属の輝きはむしろ未来的だった。
「興味を惹かれたかね」
 いつの間にか店主がこちらを向いて近づいて来ていた。
「ええ。できれば直接手にとって見たいんですが、いいですか?」
 店主は黙って頷くと、ショーケースの鍵を開けて、恭しいほどの態度で水銀時計を手に取り、彼に差し出した。
「見た目より重いのでね。気をつけ給え」
 彼は恐る恐る受け取った。確かに、10cm足らずの大きさにもかかわらず1kgはありそうな手応えだった。
 その水銀時計は、二枚の円形の皿を二本の柱で繋いだ形の外枠、その内側の円筒状のガラス、円筒の中にさらに瓢箪状のガラスが鎮座し、最後に水銀の海があるという構造をしていた。そして、円筒状のガラスの内側には、外枠の銅柱に隠れるように同じ銅のパイプが走り、その先端が瓢箪の上下両方の内側に突き出て水銀に浸っている。
 彼はしばらく考えながら時計を引っ繰り返したり戻したりしていたが、このパイプの意味するところに気づいて、知的なパズルを解いたときのような達成感を感じ、笑みを浮かべた。
「時間とはもっとも身近に存在し、それでいて触れる事叶わぬ絶対の秩序。その古物には、触れられぬものに触れると錯覚できるだけの力がある。悪くない選択だ」
 店主が、心の奥底を見透かすような視線を投げ掛けながら言う。
「そのようですね」
 彼はショーケースの上に慎重に水銀時計を置いて、考えた。 時計は時計だが、これならば腕時計と被る事は無い。見た目も美しいし、面白みもあり、どこにでも転がっているというものでもないだろう。中身が水銀というのも、割れた時の事を考えると、例えば贈る相手が千枝だったならば危険かもしれないが、直斗ならば職業柄扱い方を間違えるとも思えない。
 彼は決心した。
「これを買います。プレゼント用に包んで貰えますか?」
 店主は表情を変えないまま、ありがとうも言わずに頷いた。

 随分と奇妙な店だった。店を出て、重量感のある包みを小脇に抱えながら歩きつつ、彼は思った。振り返ってみたらそこには店など無く、以前見たとおりの飲み屋街が広がっていたとしても驚かなかっただろう。それにあの不可思議な時計男(チクタクマン)ときたら。
 彼はふと脚を止めると、数秒間そのままそこに突っ立っていてから、また歩き出した。振り返る事は無かった。

               §

 夕日が完全に沈んで、空が赤から黒に変わる頃、彼は稲羽駅に降り立ち、今ではすっかり見慣れた景色を眺めながら、精神的な疲労を吐き出そうとするかのように溜息をついた。
 昨日といい今日といい、思いがけない出来事と会話の連続だった。真実が顕になる日は重なるもののようだ。
 まあいい。それで何ら問題が生じたわけではない。むしろ実りがあった。それにどうせ、人間はより多くの人間と繋がっているものなのだから、二人の間だけで完結する間柄などと言うものは例え恋愛でも存在しない。いずれは誰かにバレなければならない。時間の問題だった事だ。と彼は思った。


******

 月曜日の放課後、彼は直斗と二人で連れ立って、自分の部屋に帰ってきた。
「書類書きは終わったのかい?」
「はい。だいたいの所は終わりました。今週からは、また時間が作れると思います」
 直斗もさすがに最近は、二人で部屋にいるだけで落ち着かない様子になることはなくなった。すっかり慣れた様子で、いつもの場所にカバンを置き、さっさとテーブルの前に座る。
「今日も寒いですね」
 直斗は両手をふとももの間に挟んで寒そうにしている。
「俺はこれぐらいでも平気だけど、君が寒いならこの部屋にもコタツを入れたほうがいいかもしれないな。今度一緒に買いに行こうか?」
 彼は電気ストーブのスイッチを入れながら言う。
「いえ、そんな。僕のために買ってもらうようなものじゃないですか。そこまでして貰わなくても平気ですよ」
「何を買うにしても、君のため以上の理由はそうそう思い付けないけど」
 彼は笑って言った。
「まあ今日のところは、何か暖かいものでも飲んで済ませようか。何を飲む?」
「えっと、じゃあホットコーヒーでお願いします」
「分かったよ。ミルクと砂糖は多めだったね」
「ええ、いつもの量で」
 彼はキッチンでミネラルウォーターを入れたヤカンを火にかけると、直斗用のカップにミルクを三分の一まで注いでから、レンジで膜が出来ない程度に暖めた。それからインスタントコーヒーを計量スプーンできっちり2g量り、それぞれのマグカップに入れる。
 インスタントでも、手順をちゃんと踏みさえすれば美味しく淹れられる。それは、直斗と付き合い始めてからしばらくした頃、コーヒーの淹れ方を堂島に聞いた時に教えてもらった事だ。
 どんな物事でも、下準備と手順を守る事を怠らず、それに八割の労力をかけるべきだ。そうすればうまくいく、と。
 ヤカンが喚き出す寸前に火を止め、沸いたお湯をカップに注ぐと、自分のものはブラックのままにし、直斗のものには砂糖を二人分入れた。それはミルクを入れたコーヒーというよりは、ほとんどカフェ・オ・レだった。
 そう言えば、ビストロで薬師寺も同じコーヒーの飲み方をしていた事を彼は思い出した。大正時代前後のカフェでは、コーヒーはカフェ・オ・レのようにミルクと砂糖を多くして飲むのがデフォールトだったと聞いた事がある。二人とも、馴染みのある探偵小説の時代のカフェの流儀に従っているのか、あるいは直斗の祖父が古い習慣を維持していてその影響を受けているのか、それともただの甘党なのだろうか?
 そんな事を考えながら、コーヒーを載せたトレーを持ち、彼は自室に戻った。
「お待たせ」
 直斗は訝しげにモコイさん人形に向けていた視線をこちらに戻し――またいつの間にか動いていたのだろう――彼からカップを受け取ると、コーヒーを一口すすり微笑んで言った。
「おいしいです。インスタントなんですよね? これ」
「ああ。叔父さん直伝の淹れ方でね」
 直斗とテーブルを挟んで向かい合い、彼は座ってコーヒーを一口飲む。

 そして二人はコーヒーを飲みながら、他愛もないのに不思議と楽しい会話と甘い沈黙を続けた。彼らはいつも、その2つの繰り返しで何時間でも過ごす事ができた。人間というものは誰であれ、良い資質と悪い資質を兼ね備えているもののはずだが、彼が直斗を見ている時は、魅力的な部分だけが目についた。彼女は綺麗で、真摯で、賢そうで、優しげだった。
 こうしてただ見つめあっているだけで、頭の中の幸せの機械(happiness engine)がフル稼働をしているのだから、その上でどんな言語的メッセージがやりとりされたところで、それがつまらなく感じられる事もそれに飽きるわけもなかったのだ。
 それでも、より特別な話というものはある。コーヒーで身体が温まった頃合を見計らって、彼は直斗を部屋に呼んだ本題を切り出した。
「実は、君にプレゼントしたいものがあるんだ」
「え、プレゼント、ですか?」
 いきなりの彼の言葉に、直斗は驚いて目を見開く。
「うん。去年、君からクリスマスプレゼントを貰ったけど、俺からは何もあげなかっただろう? やっぱりそういうのはお互い贈りあうべきものじゃないかって思ったんだ。随分と遅れちゃって申し訳ないけどね」
「そんな、気にしなくて良かったのに」
 やはり、自分が貰うという概念自体が頭から抜けていたようで、直斗はびっくりしたように言う。
「もう買ってきちゃったんだから、素直に受け取ってくれないと困るよ」
 彼は笑って立ち上がると、棚の隅に置いておいた白木の箱をとって、テーブルの上に置いた。
「これなんだけど、開けてみて」
 直斗が好奇心で一杯の目をしながら、箱の蓋をそっと持ち上げて中を覗き、感嘆の声を上げる。
「これって砂時計ですか? でも中身が砂じゃないですね。水銀かな」
白木の箱の中には黒いビロードが敷き詰められており、それに守られるように水銀時計が照明の光を反射して輝きながら鎮座していた。
「時計のお返しに時計というのもどうかとは思ったんだけど」
 彼は直斗の向かい側に座り直しながら言った。
「まあそれは、今の時間が分かるわけでも持ち歩けるわけでもないからね。時計と言うよりインテリアだ」
「凄いですね。こんなもの、どこで手に入れたんです? 今時水銀入りの製品なんて、体温計でさえほとんど見掛けなくなったのに」
時計男(チクタクマン)の店で買ってきたんだよ」
「チクタクマン?」
「ああ。商品を見ている間中、今にも悔い改めよって声が飛んでくるんじゃないかと思ってヒヤヒヤした」
 行ってみたいと言われるのを避けようと、彼は冗談で誤魔化す。
 直斗は箱の中から水銀時計を取り出し、テーブルの上に置いた。瓢箪のくびれから一本の細い銀の糸が垂れ、最初は性急に、そして徐々にゆっくりと無音の時を紡ぎ出していく。
「綺麗ですね」
銀糸のきらめきを眺めながら、直斗が言った。君ほどじゃない、と返すことはさすがに無理だった。
「これには時を測る以外にも機能があるんだ」
 そう言うと彼は身を乗り出して手を伸ばし、直斗の両手を取った。そのまま砂時計の外枠を挟むように二人の手を被せると、ヒートパイプを通じて水銀が二人分の温もりを吸って膨れ上がり、密度の希薄になった液体は時間を紡ぎ出すのを遅らせたように感じられた。
 二人は時間がいつまで経っても過ぎて行かないような感じと、この部屋が二人だけの小世界となってこれまで永遠に続いてきたような逆の錯覚を、同時に味わっていた。
 手を離すと、水銀はすぐに室温まで冷えて、時間が本来のゆっくりだが確実で容赦のない流れを取り戻した。
「時間を盗む機能とでもいうのかな。ただの錯覚だけど、少し面白いだろう?」
 顔を赤くした直斗は、彼の手から自分の手を離して言う。
「とっても素敵な機能だと思います」
「でも、扱いには気をつけるんだよ」
「分かってますよ。割れたら大変ですしね」
 直斗はしばらく水銀時計を優しく撫でていたが、感極まったようにぽつりと言った。
「大切にします。ずっとずっと」
 どうやら自分の狙いは当たり、直斗は気に入ってくれたようだ。彼は安堵すると、反動なのかここ数日分の精神的な疲労が一気に襲ってきたのを感じ、思わず大きなあくびをした。止めようと思ったが無理だった。
「す、凄いあくびですね」
 直斗は驚いたように目を見開いてから、おかしそうに笑って言う。
「ごめん。興ざめしたかな?」
 彼は指で涙を拭きながら笑って言う。
「昨日おとといとちょっと驚いたり疲れたりする事が続いてね。精神的疲労が溜まると、身体は元気でも眠くなってくる。コーヒーも一杯程度じゃ効かないか」
「日中に眠気が出た時は、コーヒーを飲んでからニ〜三十分仮眠をとるのがいいですよ。すっきり目覚められますし、疲れもとれます。ちょうどこの水銀時計は25分ぐらいを測れるみたいですし」
「君がいるのにもったいなくて眠れないよ。せっかく二人きりなんだから」
 直斗はそれを聞いて何か思いついたようで、恥ずかしそうに目を逸らして言う。
「じゃあ、これはあくまで一つの案なんですけど。良かったら、その」
 言いよどんだが、結局は続ける。
「僕の、膝で、寝るというのは、どうでしょうか」
 直斗の声は徐々に小さくなり、最後のほうはほとんど聞こえないほどだった。
「素敵なプレゼントも貰いましたし、お返しっていうか」
 彼は直斗を見つめたまま、言われた事を数回、頭の中で反芻してから言った。
「膝枕を? それは極めて魅力的なお返しだけど。でも、君から言い出すなんて珍しいね? いや、俺も膝枕をしてくれなんて言った事はなかったな。そうだ、膝枕なんて初めてだ」
「そ、そんなに強調しないでください」
 直斗は頬を赤らめつつも、彼の目を見つめて言う。
「二人きりになれるのって、一週間ぶりぐらいですから、離れていた分、できるだけそばにいたいんです。膝枕なら、あなたが寝ていても触れていられるし」
 添い寝では危険なところまで行ってしまいかねないし。と彼は心の中で照れ隠しの茶々を入れた。
「俺の記憶だと四日だった気がするけど」
 直斗の痛いほどに真っ直ぐな愛情にあてられて、彼も頬を赤らめながら微笑みを浮かべて言う。
「でも、俺の気持ちも一緒だ。君に触れていたい。君の提案に甘える事にするよ」
 彼はテーブルを部屋の隅に寄せると、畳んである寝具から毛布を取り出した。
「ここでいいですか?」
 直斗は電気ストーブの近くに正座して恥ずかしそうにしている。
「ああ」
 そして彼は、正座する直斗の太ももにゆっくりと頭を乗せて寝転ぶと、毛布を腹にかけた。
 頭を乗せた瞬間、直斗はぴくりと身体を振るわせた。ほとんど石になったように全身を硬直させているせいで、彼女の太ももは硬くなっていたが、薄っすらと伝わってくる彼女の熱が心地よかった。
「力を抜いて」
 彼は優しく促す。
「そうしたいんですけど、力を抜いたら、そのまま崩れ落ちちゃいそうです」
 見下ろしながら直斗が言うと、彼には彼女の甘い吐息が感じられた。
 彼は右手を伸ばして直斗の左手を握り、なめらかな肌の感触を楽しむように撫で回す。直斗もそれに応えて指と指を絡み合わせてくるうちに、徐々に力が抜けてちょうどいい柔らかさになった。
「こうやっていると、人生が甘いケーキみたいに思えてくるよ」
 直斗を見上げながら彼は言った。
「こんな事、誰にも話せませんね」
 切なげな微笑みを浮かべながら直斗が言う。
「全くだ。特に糖尿病の人には」
 彼も微笑みを返す。
「それでも、どうしても話さなきゃいけない人も、何人かはいるんじゃないかな」
「そうですね。薬師寺さんやお祖父ちゃんにはいずれ話さないと。今はまだいいですけど、春からの事を考えたら、いつまでも嘘をついてアリバイ作りをするわけにもいきませんし」
「正式に仲を認めてもらったほうが、気兼ねがなくていい」
「ええ。でも、ちょっと不安です。薬師寺さんはともかく、お祖父ちゃんが何て言うか」
 直斗のやや不安げな表情を見ながら彼は、自分が毎日、一日中誓っている事を改めて確認した。
 彼女の笑顔を守ると言う目的には、一生をかける価値がある。彼女の幸せのためなら、自分は何でもする、と。ビストロで敬意と軽い嫉妬心とを互いに交感した時、薬師寺も同じような事を言っていた。当然の事ながら、それは直斗の祖父とて同じはずだ。彼女が深い愛情をもって育てられた事は、彼女自身を見ていればすぐ分かる。
 そう考えれば、いずれやってくるであろう、恋人をもつ男なら逃れられない儀式とて恐れるには足りない。結局のところ、自分も彼らも目的は同じなのだから、どういう経過を辿るにせよ、最後には分かり合えるはずだ。自分はただ彼女に対して誠実である事さえ心がけていればいいのだ。彼女の人生のために自分に何が出来るのか、常に考えてさえいれば。
 それに心強い味方もできた事だし。
 彼は直斗を見上げながら優しく微笑んで言った。
「心配は要らないと思うよ」
「どうしてですか?」
 直斗は不思議そうに首をかしげる。
「何となくね、そう思った。おやすみ、直斗」
 彼は笑いながら誤魔化すように言って、まどろみに身を任せるべく目を閉じた。数秒後に、直斗が水銀時計を引っ繰り返したのか、木と金属のぶつかる音がして、彼はその音の余韻に隠れるような声でささやいた。
「君のために生きてる男もいるって事さ」


               fin.


******

補足:

水銀……純度特級の金属水銀で500g/8000円前後。購入・所持に資格は要りません。
膨張率0.181%/℃なので実際はこんな見て分かるほどの膨らみ方はしないでしょう。





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