小さい頃、犬を飼いたいと思った時期があった。誰しも一度はそんな時期があるだろう。余程の犬嫌いでもなければ。 自分の体が小さいほうであるのは自覚していたから大きい犬がいいなと思っていた。例えば祖父に連れられて見学した養成所の凛々しいシェパードだとか、テレビの向こうでソリを引く力強くも無邪気な目をしたハスキーだとか。 ……でも、今目の前にいる『犬』は、どんな犬よりも自分の手に余りそうだ。直斗はまずそう思った。 (番長だから番長犬。略して番犬……なんて) 彼が影で番長なんてあだ名されていることを知っている直斗は、そんなどうでもいい想像をして肩を小さく震わせた。 「笑ったな」 表情に出さないのは流石だが、僅かな仕草を見逃さなかった彼は憮然として呟く。 「先輩だってあのとき笑ったじゃないですか」 そう言い切られては肩を落とすしかない。彼の気持ちを体現するように、真っ白な犬耳がぱたりと色の薄い髪の上に伏せた。 そう犬耳だ。いつかの直斗ネコミミ騒動と同じ事態が今、彼の身に降りかかっていた。ふさふさとしたしっぽがげんなり垂れ下がっている、その様を見て直斗は不覚にもちょっと可愛いかもしれないなどと思ってしまった。 冷静に考えればある程度ガタイのいい野郎のわんこ状態などマニア向けもいいところの筈なのだが、普段がっつりと仲間を引っ張る男前(色々な意味で)な彼を知っているからこそそう思えてしまうのかもしれない。 そもそもこうなったいきさつは前回とほぼ同じで、要はうろついていたらまたあのシャドウに轢き逃げされてこうなったのだった。違うのは、今回は出会い頭にシャドウの方から飛びかかって来たこと。以前ゴルフの打ちっ放しにされたのを覚えていたのかも知れないし、またじゃれついた(?)だけかも知れない。 やはり危害を加えるでもなくしつこく覆い被さられただけで、今度は直斗の鮮やかな蹴り上げでまたもシャドウはお星さまになった。いくらか怨恨も籠もっていた気がするがそこはあまり考えない方がいいだろう。 ともかくあのシャドウにはそもそも直接危害を加えるような力はないのかもしれない。何がしたいのかよくわからないが、とりあえず人にケモミミやらしっぽやら生やすという、損にも得にもなりそうもない力があれの能力らしいことは理解した。 その結果、再び堂島家の居間には気まずい沈黙がやってきた。テレビから出る際、仲間にはペルソナの調整に時間がかかるから先に帰れと直斗に伝えてもらい、帽子を借りてそそくさ引き上げてきた。直斗のそれと比べてだいぶ質量のあるしっぽだけは隠すのにだいぶ難儀した。 経験から言って一晩経てば元に戻るはずである。が、確実だと証明されたわけでもない。もし駄目だったらどうしようか? 何かと考えを巡らせていた直斗は、しかし背中にずしりと重みを感じてそこで思考を中断させる。 「……先輩」 背中に抱きついてきた相手を呆れ声で咎める。 「しっぽで床掃除してないで、ちょっと離れてくれませんか。重いです」 はたはたと音がする。見なくてもわかる、ふさふさのしっぽがぶんぶんと左右に振られている様。どういうわけかこの大型わんこは人にくっつきたがる癖がある。ただでさえ人との触れ合いに疎いというのに、恋人がこうもベタベタくっついてきたら心中どういうことになるのかこの人は判っているのだろうかと、直斗は飛び上がりそうな心臓を押さえながら深呼吸する。 そんな心の内を知ってか知らずか、ぎゅうと抱きついたままの彼は直斗の肩に顔を寄せるようにしてますます密着してきた。 「あの……」 「直斗、いいにおいがする」 「ッ!?」 いい加減文句の一つも言ってやろうかと口を開いた途端、とんでもない台詞を吐かれて直斗は硬直してしまう。 「好きな人のにおいって、心地良いもんだな」 成程嗅覚も犬並みですか。ってそういう問題ではない。二人きりとはいえ少々アレすぎる台詞を臆面もなく吐き続ける彼の口を塞ごうとするも、体勢的にどうにも難しいと、ショート寸前の頭で直斗は辛うじて判断した。 ならばと傍らに置いてあった帽子を引っ掴み、肩越しに彼の目の前に突きつける。 「ん」 突然視界に現れた物体に注意が向いたその瞬間。 「それっ!」 廊下の奥の方へ向かって思い切り投げつけた。悲しいかな犬の習性で彼はそれを追ってしまう。ややあってバツの悪そうな顔で帽子を手にした彼が戻ってくる頃には、色々疲れきった直斗がソファでぐったりしていた。 もうやだこの状況。 食事を済ませてまたも交代で風呂となる。変なところに耳があるせいで水が入らないよう洗うのは難儀した。石鹸のにおいが少し鼻について、彼は風呂を嫌がる犬の気持ちが少し分かったような気持ちになる。もしこの先飼う機会ができたら小さい頃から慣れさせておこうなどと考えながら居間に戻ると、先に風呂を済ませてテレビを見ていた直斗がこたつに入ったまま台に伏せてうたた寝をしていた。 (流石に疲れたか。色々な意味で) 相変わらず眠っているときは無防備だ。本格的に寝る時間まではこのまま寝かせておいてやろうと、手近な上着を一枚背中にかけてやる。近寄るとやはり直斗からも石鹸の香りがして、それに直斗自身のそれが合わさってひどく彼を煽った。 (……まずい) ぴん、と三角形の耳がまっすぐに伸びる。余計な音を聞かないよう伏せるべきと思うのに人間よりもだいぶ優れた聴力を持つふかふかのわんこ耳は、ほんのかすかな直斗の寝息さえしっかりと拾い上げていた。点けっぱなしのまま一人で喋っているテレビの音が遠ざかる。 駄目だ落ち着け、とりあえず素数でも数えろ。脳内で自分自身との睨み合いが始まる。が、必死で思い浮かべている数字が素数ではなく円周率である事実にも気付く余裕はなく、さっさとその場を離れようという考えとは逆に体はじりじりと近付いてゆき。 覆い被さるようにして、けれどすぐに起こしてしまわないよう、こたつに手をついてギリギリ体を離した状態を保つ。自分の腕を枕に眠るその頬に口付ける。身じろぎはしたものの目を開けない。腕の中に隠れてしまっている唇の代わりにまだ湿った髪の間にのぞく耳にそっと歯を立ててみた。 「ひぁっ!?」 流石に飛び起きた。体を起こした直斗は自然、背後の彼の胸に自分から飛び込む形になる。ちょっとうたた寝している間にとんでもない展開になっているので状況が飲み込めていないらしい。向こうから飛び込んできたのを良いことにそのままぎゅうと抱き締める。 「ちょっと先輩、またですか!」 「……すまん直斗」 「謝らなくていいから頭冷やして下さい、今度は水風呂でも入ってきたらどうです!」 「いや、すまない……どうやら俺はとんだ駄犬のようだ」 「え。いやちょ」 不穏な空気に直斗の顔がひきつる。すいませんもう止まりません。ハウスも待ても聞けません。 「本気ですか」 「マジです。ごめんなさい」 謝りながら襲わないで下さい。とんでもない思い違いをしていた事に気付いた頃にはもう全てが遅かった。目の前のこれは犬じゃない、オオカミだ。 必死の抵抗虚しくオオカミさんに転がされてしまった直斗は、日常の躾はとても重要ということを嫌という程思い知ることになった。 その晩ご近所の犬はやたら落ち着かない様子だったとか、悲鳴だか遠吠えだか判らないような声が聞こえたとかいう話がちらほらとあったが、別に噂にはならなかった。 余談ではあるが、次の日には彼はめでたく普通の人間に戻っていて、直斗は学校を休んだ。理由は風邪とのことだったがそれが虚偽であることはお察しいただけるだろう。 さらに次の日には何故か顔に青タンこしらえながらどこか満ち足りた表情をしていた彼だが、結局丸一週間直斗にガン無視され続けた。その後久々の出撃ではやけに殺気立った様子で先陣切ってシャドウを狩りまくる直斗の姿に、事情を知らない仲間達は首を傾げるばかりだったという。 ================================== サーセン。