放課後、まっすぐ玄関に向かう。 下駄箱を開けて靴に手を伸ばすと、指先が紙のようなものに触れた。 ――またか。軽く嘆息しつつ紙のようなものを取り出す。案の定、手紙だ。 見てすぐ“それ”とわかる仕様。淡い色のハートが散った、ピンクの封筒だ。 “一年一組 白鐘直斗様へ”。下手とも言い難いが、決して上手くはない丸文字だ。 裏を返すと、差出人の名前はなかった。この類いの手紙で名前がないのは致命的だ。恐らく中に書いてあるのだろう。 封を開けることなく鞄にしまう。読む意味が見出せない。 直斗が女性であるという事実はすでに公になっている。 あれだけ一生懸命隠してきたのに、今は隠そうという気は起きない。 性別も年齢もなく受け入れてくれる仲間ができたから。青臭い表現になるが、理由はそれだけだ。 ただ、いまだにラブレターは減らない。同性とわかっているのに、なぜ減らないのか直斗には理解できない。 絶対に結ばれるはずがないのに。本気なのか疑いたくなる。 ぽん、と突然肩を叩かれて、心臓が飛び出しそうになる。 慌てて振り返ると彼が立っていた。 八十高は規模が小さいので、一年から三年まで同じ玄関を使うことになっている。 二年生と鉢合わせするのも決して珍しくはないのだが、今はあまり会いたくなかった。 気持ちが少しばかりささくれている。 「ひとり? 一緒に帰らないか?」 彼はいつものように穏やかに誘う。 たった一学年しか違わないのに、彼にはいくら努力しても適わないような気がする。 尊敬している相手の前ではわずかでも醜態を晒したくはない。 だが、自分でもよくわからないのだが、気づかないうちに直斗は頷いていた。 引きずられるようにしてジュネスのフードコートまでやってきた。 気持ちがささくれていることもすでに見抜かれていたようだ。オレンジジュースをおごられる。 子供のようにくだらない理屈をこねて話をしないなど、この人の前では通用しない。 観念して今日下駄箱に入っていたラブレターの話をぽつりぽつりとし始めた。 いつしか話は長くなり、ラブレターに対する自身の理不尽な気持ちまで吐露していた。 「同性なのにラブレターを送る人間の気持ちがわからない、か」 向かいに座っている彼は、メロンソーダをすすると軽く唸った。直斗は思わず身を乗り出す。 「ええ。だってそうでしょう? 無意味ですよ」 「まあ、“無意味”かもしれないな」 「そうです。無意味ですよ。レターセットを買うお金も、手紙を書く時間も、僕の下駄箱に入れる行為も。 すべて無意味です。何の生産性もありません」 思わず語気が強まる。 話し始めて気づいた。誰かに話を聞いてほしかったことに。 彼には直斗の深層心理がわかっていたのだろうか。仮にも探偵を名乗る者としては、少しばかり悔しくもある。 ふと、彼が尋ねる。 「直斗は一度でも中身を読んだことがあるのか?」 「いいえ。読む手間も無意味ですから」 持って帰るのはを少しでも無駄を省くため。それ以外の何物でもない。 学校のゴミ箱に捨てて帰ることもできる。だが、万が一見つけられると面倒だ。 以前、読む気がないとその場で捨てたらたまたま現場を見ていた“差出人の親友”とやらに詰め寄られた。 何人もの“親友”に囲まれると鬱陶しいので、次の日から持って帰って燃えるゴミとして捨てている。 「今日もらったその手紙、読んでみるといいよ。何かわかるかもしれない」 「何か? 何かって…何です?」 「例えば――人を好きになる気持ちは自分ではどうにもできない、とか」 目を見張る。彼の口からそんな言葉が出るとは意外だった。 彼は直斗の視線を認めると、苦笑気味に笑う。 「もう少し鈍感じゃない相手を好きになれば良かったとか、余裕のあるふりしてないでもっと強引に押していこうかとか。 そのくせ今の関係が壊れるのが怖いとか。…やっぱり悲しい顔させるより笑っていてほしいからさ」 やけに具体的だ。まるで、その姿があるかのような。 「せ、先輩。好きな人…いるんですか?」 「いるよ」 ほぼ即答だった。 胸の奥がちくりと痛む。不思議と彼の顔をまともに見られなくなる。 視線を下に落として、膝に置いていた拳に力をこめた。 「…全然気づかなかったです。さすがは先輩ですね…」 驚きすぎたせいだろう、声が少し震えた。 「言っただろ? 悲しい顔させるより、笑っていてほしいって」 「そ…その人のこと、本当に大事なんですね…」 「まあ、こういうのは惚れたほうの負けだから」 彼は困ったように、だが穏やかに笑った。 脈拍が速い。一体どうしたのだというのだろう。 そのくせ体温が手足の先から奪われるように、体が冷たくなっていく。 しばしの沈黙の後、彼が肩で大きく息をした。 「やっぱりもう少し強引に押したほうがいいか…」 「え?」 顔を上げると、彼が笑顔を作って見せた。 「いや、ごめん。何でもない」 意中の相手のことでも考えていたのかもしれない。そう考えると、ぐらぐらと足元が揺れるようだった。 わざわざ後輩の面倒を見てくれるのだから、本当に優しい人だと思う。 彼が好きな相手も、きっととても魅力的な人なのだろう。 一体誰なのだろうか。元いた高校の生徒なのだろうか。それとも同じ八十高生なのだろうか。 クラスメイトかもしれない。例えば里中先輩や、天城先輩――ふたりとも自分と向き合っていて、とても魅力的だ。 「…あ、あの! すみません、急に用事を思い出しました!」 「え、直斗――」 「ごめんなさい。あとごちそうさまでした。それじゃ、また!」 鞄を抱えて、帽子を押さえて、走り出す。 いたたまれなかった。なぜか胸が痛んで、苦しくて。冷たい泥の沼に引きずりこまれていくようで。 ――泣いてしまいそうだった。 家に戻ってから、差出人の名前のないピンクの封筒を手にした。 こんなふうにラブレターをまじまじと見るのは初めての気がする。 余計に気持ちが乱れてしまった。今の状態で読んだところで、何かわかるとは思えない。 それでも、彼に言われたように封を開けてみた。 封筒の厚みからある程度予想はついていたが、中には便箋が一枚しか入っていなかった。 “白鐘直斗様へ とつぜんのお手紙でごめんなさい あなたのことが好きです” 思わず目を見張る。 受取人の名前を合わせても、たった三行しかない手紙だ。見返しても差出人の名前はない。 「…あなたのことが…好きです、か…」 特に三行目の文字が乱れていた。悩んで悩んで、結局ここまでしか書けなかったのだろう。 証拠として、便箋は大部分が空欄になっている。 続けて書こうとして、止まってしまった。そう考えるのが自然だった。 「あなたのことが、好き…」 もう一度繰り返してみる。 彼の姿が脳裏に浮かんだ。すぐに想像の内にある彼の隣には誰かが寄り添った。 ふたりは仲良さそうに歩いていく。まるで恋人のように。 「…推理するまでもないな…」 思わず自嘲的な笑みが漏れた。 相談して、好きな人がいると聞いて、動転して、逃げ出して。 醜態を晒した挙句、こんな事実がわかったところでどうなると言うのだろう。 「あなたのことが…好き、です…」 知らず、視界が揺らいだ。 瞬きをすると頬に涙の粒が落ちる。 “人を好きになる気持ちは自分ではどうにもできない”―― 彼の言葉が不意に浮かんで、ボロボロと涙がこぼれた。 (終) 目次 / 戻る |