「どうしてこんなになるまで放っておいたんだ」 やや不機嫌な声が浴びせられるのを直斗は遠くで聞いていた。実際の距離はそりゃもう近いものだが、頭痛と、熱から来る耳鳴りのせいで周囲に見えない綿の壁でもあるように感じる。 渡された体温計を眺めていた彼は溜め息をひとつつき、それを横たわる直斗に突きつける。 「見えるか」 「……38度、2分」 読み上げる声は自分でもびっくりするぐらい掠れていて、それで直斗は少しだけ覚醒する。ぼやけていた目の焦点が合ってベッド脇で眉根を寄せる顔がはっきりと見えた。 「喉もやられたみたいだな。熱の出始めにちゃんと休んでおけば良かったんだけどな」 「ごめんなさ……」 謝罪の言葉を口にしようとして咳き込む。苦しさと病特有の後ろめたさで薄く涙を浮かべる直斗の額に手を当てながら彼は表情を緩めた。 「……いや、悪い。本当は俺が気をつけてやらないといけなかったんだよな。体調が悪いのに気付かずテレビの中になんて行ったから……」 「そんなことは――」 ないのに、と否定の声も掠れて消えてしまう。そもそも自分が不調を隠したりしなければ彼に謝罪させることもこんな大事になることもなかったのに。 テレビから帰還して、解散後に彼と少し話をして。そこまでは覚えているのだが、ふと気が遠くなって気付いたら自宅のベッドに寝かされていた。彼によると話している途中で力尽きたのだという。そのまま、堂島家より近い直斗の家まで運んだのだとか。鍵は勝手に鞄を探ったのだと謝られた。どうせ一人暮らしなのだしこんな時だから謝ることでもないとは思うのだが。 直斗が眠っている間に買い込んできたらしい買い物袋からスポーツドリンクのボトルを取り出して傍らに置く。それから枕の下に腕を差し入れられ、上体を起こされた。なにも風邪ぐらいでそこまでしなくてもと思わなくもなかったが、それでも力強く支えてくれる腕が重い体には心地良くて直斗は大人しく体を預けた。 結露したボトルに口を付けると、よく冷えたドリンクの甘みで喉の灼熱感が少し薄れる。咳き込んでしまわないようゆっくりと水分を補給する間、彼はずっと直斗の背を支えていた。 「……ありがとうございます」 「ああ。これから汗かくだろうから、ちょっとでも喉が渇いたらどんどん飲んだ方がいい」 ここに置くからと袋から数本の新しいボトルを取り出して手の届くところに並べる。なんとも手際の良い彼をぼうっと見つめていると今度は小さなゼリーのカップを渡された。 さすがに食欲はないのだけれど。そんなことを考えながら彼の様子を窺うと、今度は袋から小さな箱を取り出したところだった。 「それなら食べられるかなと思って。食欲ないだろうけどちょっとでも食べないと胃に悪いし」 直斗の気持ちを見透かしたかのように言う。彼がちらつかせているそれは、市販の風邪薬の箱だ。 「い、いえ、薬はいいです。寝てれば治りますし」 「却下」 「……それに市販の薬なんて、症状を抑えるだけで菌を殺す効果は」 「駄目だ。これから寒気や痛みも出てくるし、先に飲んでおかないと辛いだけだぞ」 「いや、あの」 どうあっても引いてくれそうもない様子に直斗は押し黙ってしまう。彼の言っていることはもっともだし、実のところ既にあちこちの間接が悲鳴を上げ始めているのだ。このまま寝ていても熱は下がるだろうけれど一晩丸々苦しむ事は目に見えている。だけれど。 ちらりと箱を見る。顆粒タイプの薬。市販の中でも鎮痛効果には定評のある薬だ。よく効くのだけれど別の意味でもそれなりに有名で―― 「……苦いのが嫌だとかいう話じゃないだろうな」 「う」 鋭い。核心を突かれ思わず目を逸らす。 そのまましばしの沈黙が訪れた。顔を逸らしていたもののずっと彼の視線を感じていた直斗は、しかし数十秒後にあっさり根負けして肩を落とした。 「………………ごめんなさい。飲みます」 「よし。じゃあ先にそれ食べてな。水、持ってくるから」 台所に無かう背を見送るとフィルムの蓋を剥がしてプラスチックのスプーンでゼリーを掬う。口に含むとほのかな甘みが広がった。先に甘いものを食べては薬の苦みが増すだけのような気もしたが胃を痛めてしまっては元も子もないだろう。 ほどなくして水の入ったグラスを手に彼が戻ってくる頃にはゼリーは半分ほどに減っていた。もともと小さめのサイズだったし、冷たくて柔らかいゼリーはスポーツドリンク同様、火照った体にするすると心地良く染みていった。これなら完食できそうだ。 残りは口直しにすればいいと、カップと引き替えにグラスを渡される。丁寧に封の切られた薬の小袋を受け取り、直斗はそれを黙って眺めた。 飲み込むのは一瞬だ。そんなことは判っている。 「躊躇してると口に残って余計苦いぞ」 「わ、わかってます……一応」 そう、理解はしている。けれどどうにもあの口に残る苦みやら薬特有のにおいやらが鼻について苦手なのだ。といって子供のような駄々をこねて彼を困らせるつもりも毛頭無いのだが。 なかなか覚悟の決まらないらしい直斗をしばし観察していた彼はなんだか少し気の毒な気がしてきて、直斗の手からグラスと薬の袋を抜き取って立ち上がる。 「先輩?」 「ん。ちょっと我慢な」 困惑する直斗にそれだけ告げると彼はグラスの水を煽り、それから自分の口の中に粉薬を一気に開けた。 「えっ……」 呆気に取られている直斗の頭を引き寄せ、顎を掴んで少しだけ口を開けさせる。直斗が彼の意図を理解したのは唇を押しつけられ薬の混ざった水を流し込まれてからだった。 「ん――んぅ」 薬が溶け込んだ液体の苦みが口の中に広がって直斗は呻き声を上げる。が、頭はがっちりと固定されていて逃げることは出来ない。最初は飲み込めずにいたもののやがてその苦みにも耐えかね、少しずつ流し込まれる液体を数度に分けて飲み込んだ。 全部飲み干した頃を見計らってやっと解放される。 「うあ。確かに苦いな、これ」 当然彼の口の中にも後味が残っている訳で、流石の彼も顔をしかめる。直斗の方も未だに舌に感じる苦みのせいで軽く涙ぐんでいる状況ではあるのだが、それすら忘れるほどの衝撃で耳鳴りが酷くなった気がしていた。 「ん?直斗、さっきより顔赤くないか。熱上がったんじゃないだろうな」 「だっ……!」 誰のせいだと思ってるんですか。抗議の声はしかし、急接近した彼の顔に驚いて飲み込まれてしまう。驚きに目を見開いたままの直斗の額に自分の額を当て、彼はうーんと唸った。 「やっぱりちょっと上がったか……?8度5分越えたら病院に連れてくからな」 「い、いえっ!大丈夫ですから!大人しく寝てますからっ!」 熱のせいで元々上気していた顔を更に真っ赤にしながら、直斗は彼の肩を全力で押し戻す。これ以上触れられていたらたったの3分ぐらいすぐに上がってしまってもおかしくはない。 「そうか?まあ、薬も飲んだししばらく様子見ないとだけどな」 「……ほ、本当に大丈夫です」 何が大丈夫なのか自分でもよくわからないが、ともかく彼に背を向けるようにして布団に潜り込む。口移しなんてことをしでかしておいてごく自然に振る舞っている彼のその態度が余計に直斗の羞恥を煽った。 「じゃあ俺、一旦帰って飯食べてくるけど。またあとで様子見に来るから」 「い、いいです。一人でちゃんと寝てますから」 頭まで毛布を被った直斗の耳に彼の言葉が届く。ぎゅうと目を閉じて動揺を抑えるが、やけに早い自分の鼓動が頭の中に反響して、とても押さえるどころではなかった。 「一人だから心配なんだ。熱が下がるまでちゃんとついててやるから……ああ、その間にパジャマにでも着替えておいた方がいいぞ」 言いながら彼が立ち上がる気配を感じて直斗の体から少し力が抜ける。彼がいない間に着替えて眠ってしまえばいい。そう安堵しかけた途端。 「……また薬飲むの、手伝ってやるからな」 耳元で囁かれて心臓が撥ねた。目の辺りまで毛布を下げて顔を向けると間近に悪戯な笑みを浮かべる彼の姿。 病気で弱っているのをいいことに彼にからかわれていた事実に、直斗はやっと気付く。 「ばかっ!早く行って下さい、もう!」 「ははっ、じゃ、またあとでな。鍵借りてくぞ」 枕を投げつけられて彼は笑いながら退散していった。程なく玄関のドアが閉まる音を聞き届け、直斗は不貞て毛布を被りなおす。 ああ、あの人は――いったい自分に治って欲しいのかそれとも悪化させたいのか。 意地悪な恋人をちょっぴり恨めしく思いながらも何故だか胸の奥に心地良い暖かみが広がってゆくのを感じ、彼女はひととき体の痛みを忘れて毛布の中でくすくすと笑った。 目次 / 戻る |