3月21日。 叔父の堂島に断って、朝早く家を出た。 列車の時間に間に合うようには帰ってくるから、と念を押して。 どうしてもふたりきりで逢いたい人がいる、そう告げると、堂島は察してくれたようだった。 相手が誰であるかは言わなかった。仕事上堂島も知っている相手だが、今後顔を合わせづらくなるかもしれない。 何より、ふたりの関係はふたりだけの秘密にする。それが彼女の願いだった。 稲羽に来てから、こんなに空を青いと感じたのは初めてかもしれない。 鮫川の河川敷を小走りで歩く。一秒でさえ時間が惜しい。 東屋にはすでに見覚えのある人影があった。 向こうもこちらの姿が見えたのだろう。すぐに立ち上がる。 「先輩、おはようございます」 「ごめん、待たせた?」 「いえ。…少し早く来ちゃいました」 直斗は帽子を右手で押さえながら、穏やかに微笑した。 いつもと変わらない、何気ない会話。だが、明日になったら思うに任せて逢えなくなる。 「少し、歩きませんか?」 直斗に促されて並んで河川敷を歩き始めた。 手を取ると、直斗の指先が少し冷えている。約束の時間よりもかなり早く来ていたのが知れた。 鮫川の河川敷には桜が植えられていて、手入れの行き届いた並木道になっている。 すでに桜は散り始めていた。花びらの降る中を、ふたりで歩く。 まるで桜色の雨のようで、桜が花の終わりを惜しんでいるかのようだ。 桜並木が紅く染まっていた秋も、雪化粧をしていた冬も、蕾が膨らみ始めた春先も、こうやって歩いた。 恋人になってから、一日一日が大切だった。 「あ、猫」 直斗がそう言って、繋いだ手を解いた。 足元に茶色の猫が擦り寄ってくる。 本屋の常連に頼まれて魚を一匹あげてからつい癖になって、何度もあげているうちに馴染みになった猫だ。 「猫って可愛いですよね」 直斗はしゃがみこんで猫の頭を撫でた。 猫は気持ち良さそうに目を閉じて、直斗にされるままになっている。 「先輩が稲羽に来た頃は桜は咲いていたんですか?」 「いや、もう葉桜だったよ」 「そうですか。綺麗ですよね、ここの桜。でもソメイヨシノみたいだからすぐ散ってしまうのが残念ですけど」 「ソメイヨシノ?」 「ええ。パッと咲いてパッと散る。日本に一番多い品種なんですけどそういう桜なんです。 それでソメイヨシノの歴史なんですけど意外と浅くて――」 「直斗」 思わず口を挟んでいた。 立て板に水のように話す恋人、その違和感に口を挟まずにいられなかった。 「…はい?」 「顔上げて」 「……」 直斗は無言で帽子を押さえた。帽子をきつく押さえている指先が震えているのが見て取れた。 「直斗…」 溜め息混じりに手首を掴む。半ば強引に立たせると、直斗は帽子を目深に被って抑えていた。 「今は隠さなくていい。今だけは全部吐き出してくれ。そうして欲しくて、ふたりだけで逢いたかったんだから」 「……、……」 表情は窺えないが、唇をきつく噛んでいる。その唇も震えている。 まるで毟り取るように直斗の帽子を奪う。シャーロック・ホームズを連想させるような、ディアストーカー風の深い青の帽子だ。 すでに頬には涙が落ちていた。目が合うと、堰を切ったように直斗の双眸から涙が溢れ出す。 「…だって! 行かないでって言ったって先輩はいなくなっちゃうじゃないですか! 明日も明後日も逢いたいって言ったって駄目じゃないですか! 春からも八十高にいてって言ったって駄目じゃないですか! ずっと離れないでって言ったって…先輩はいなくなっちゃうじゃないですか! 僕にどうしろって言うんです!?」 「ごめん…ごめん!」 怒鳴り散らした直斗を、狼狽気味に抱き寄せる。 もともと遠慮する性質なのは知っていたが、こんなに我慢させていたなんて知らなかった。 恋人としてまだまだだったと胸中で嘆息する。 直斗がぎゅっと抱きしめ返してくる。そして、まるで猫のように頬を摺り寄せてくる。 「行かないで。どこにも行かないでよ…」 胸の奥が裂かれるように痛む。かけがえのない仲間や直斗のいる稲羽に残れたら、どんなにいいだろう。 だが、時間はすぐそこまで来ている。今日の夜にはもう実家での元通りの生活が始まるのだ。 「…電話する。メールもする。休みには逢いに来る」 何の慰めにもなりそうにはなかったが、そう言うのが精一杯だった。 直斗はまだ泣いている。時折嗚咽を漏らしながら。 「…不安?」 宥めるように尋ねると、直斗が小さく頷いた。 もちろん、自分にも不安がないわけではなかった。明日からは別々の生活が始まる。 来年は受験を控えているし、直斗も稲羽を拠点にしても探偵業は続けていくと言っている。 お互いに日々に忙殺されるうちに、気持ちの距離が離れてしまうかもしれない。 その気持ちは、ふたりとも同じだ。 ジャケットのポケットを探る。 「直斗、これ」 差し出したのは小さいリングケースだ。蓋を開けると、シンプルな銀色のリングが納まっている。 「本当はプラチナにしようと思ったんだけど、やっぱり高校生のバイト代じゃ手が出せなくて。 結局ホワイトゴールドにしたんだけど…」 呆然としている直斗の左手を取って、薬指にはめた。あつらえたように直斗の細い指にぴったりと合う。 直斗は不思議そうにはめられた指輪に見入っている。 「…どうして?」 「いや、直斗が眠ってるときに、ちょっと」 一体何が“どうして?”なのかはよくわからなかったが、苦笑気味に答える。 気づかれないように、直斗が傍らで熟睡しているのを確認してからこっそりとメジャーで測った。 我ながら滑稽な作業ではあったが、どうしても直斗に気づかれるわけにはいかなかった。 かと言って、サイズが合わない状態で渡したくはなかった。それだけの話だ。 「大丈夫だから」 頬の涙を拭う。ようやく直斗の表情から不安の色が薄らいでいく。 「指輪、受け取ってくれる?」 「…はい」 直斗が頷いて答えた。 我が儘だとはわかっていたが、直斗の気持ちを縛っておきたかったのかもしれない。だからこその、指輪だ。 本当は攫って行ってしまいたいくらいなのに。 直斗が背伸びをして、唇を寄せてくる。そっと唇が重なった。 「浮気…しちゃ駄目ですよ?」 「しないよ」 破顔して、直斗を強く抱きしめる。 「ごめんなさい、怒鳴ったりして」 「いいよ。嬉しかった」 「…指輪、大事にします。ずっと…」 腕の中で、直斗が左手を愛おしそうに右手で包みこんだ。 次に逢えるのは、いつだかわからない。 それでもきっと、ふたりの気持ちの距離は今このときのまま変わらない。 (終)