「直斗は、どうしたんだ?」 「あぁ、ちょっと用事が出来たからって、少し遅くなるってよ」 陽介の言葉に、彼は何故か微かに苛立ちを覚える。 ――――なんで俺じゃなくて、陽介に連絡するんだ。 理不尽なこと、と頭ではわかっている。陽介に怒ることも間違いだと。 だが意思と裏腹に、心は落ち着かない。黒い感情が胸の奥底に溜まっていく。 きっとそれは、まだ直斗の顔を見ていないからだろう。 祭囃子が響く辰姫神社境内。凄惨な事件の最中に行われた去年の夏祭りと比べて、意図的になのだろうが、今年は明るく賑やかになっているように感じられる。 その喧騒は、しかし、彼の心を晴れやかにはしてくれなかったのだった。 想い華 〜Episode : myself 〜 時は少し遡る。 目を開けると、見慣れた天井がそこにはあった。だがそれは、昨日までとは違う光景。 少しだけぼんやりしてから、ああ、戻ってきたんだな、と彼は思う。 八十稲羽市。その一角にある、彼の叔父、堂島遼太郎の家。ほんの五ヶ月前まで、彼はこの部屋を自室としていた。過ごしたのは一年弱だけれど、とても、とても濃厚な歳月。そこで出会った仲間達のことは、海外出張から戻ってきた両親の元に帰っても、忘れることなど無かった。 そして今、久々に彼はこの街に戻って来た。ゴールデンウィークにも一度、こちらに来たから、それから考えると三、四ヵ月ぶりぐらいになるだろうか。 腕時計に浮かび上がる今日の日付は、八月十八日、土曜日。 本当は、夏休みが始まってすぐにこちらに来たかったのだが、彼が向こうの高校で所属したバスケ部がインターハイに出ることになったり、受験必勝対策として特別夏期講習が行われたりと、多忙な日々を過ごしていたのだ。 ようやく諸々落ち着いて、こちらに来ることが出来たのが昨日の夜のこと。それも深夜に近い時間だ。 「よっしゃわかった。皆に声かけて、迎えに行くから」 八十稲羽に行く日取りが決まって、最初に電話をしたのは陽介だった。彼が時間を告げると、陽介はすぐさまにそう返す。迷いの無い、そして待ち焦がれたとばかりの言葉に、だが彼は苦笑しながら首を横に振る。 「別に大丈夫だよ。深夜だからな」 「けどよ……」 「それに、堂島さんが車で迎えに来るし。逆にそんな時間にうろうろしてたら、お前らが怒られる」 何しろ彼の叔父、堂島遼太郎は稲羽署きってのやり手刑事なのだ。高校生が深夜にうろうろしていたら、決していい顔はしないだろう。しかもそのうちの何人かは、女子だというのだから。 「そっか……けどお前、夏休みの間はずっと、こっちにいるんだろ?」 「もちろん、そのつもり」 「なら、時間はあるしな、焦ることもないか。あ、そうだ。ちょうどお前が来る日から、こっちで夏祭りなんだよ。覚えてるだろ?」 去年はクマにいいとこ持ってかれたんだよな〜、と溜息を付く陽介に、彼は笑って言う。 「今年はどうするんだ?」 「どうするって、決まってるだろ。せっかくお前が戻って来るんだから、皆で行こうぜ」 「彼女と二人で行く、って選択肢はないのか?」 「おいおい、相棒。いくらなんでも冷たすぎやしねぇか? それが河原で殴り合って友情を確かめた男の言葉とは思えねえぜ。例え彼女がいたとしても、お前を優先させるに決まってるだろ」 「いもしない彼女のことを比較に出されてもな」 「うるさい!」 笑い交じりの陽介の声に、安堵する。離れていても、彼が変わらず、自分を大切に思っていてくれていることがわかったから。 そして今。 陽介は、変わっていなかった。完二も、クマも、千枝も、雪子も、りせも、以前と同じように彼を迎えてくれた。 だが。 彼は気付かれぬようにそっと、携帯を見、次に腕時計に目をやる。 出したメールの返信も、着信も無く、想い人との距離は計測不能のままだった。 「ちょっち、荷物が多くなっちゃったかな」 昨年と同じ艶やかな浴衣姿の千枝が言ったのは、夏祭りの会場に来てからしばらく経ってからのことだった。その両手には、元々持ってた巾着以外に、出店で買ったたこやきや焼きソバ、綿菓子の袋がある。 「ったく、ちょっとは考えて買えよ。ってかどんだけ食うつもりなんだ……」 呆れ果てたと言わんばかりの陽介の言葉に、千枝は唇を尖らせて、 「いいじゃない、せっかくのお祭なんだからさ。ねー、雪子。たまにはいいよねー」 「そ、そうだけど……私は、もう、お腹いっぱいかな……」 話を振られた雪子は、少ししどろもどろに答える。彼女の手にも、りんご飴やチョコバナナが握られているが、それは全部、千枝が買ったものを持たされているだけだった。 「私、見てるだけでもう、お腹いっぱい……」 「さっすが里中先輩、食欲大魔王っすね」 「うっるさーい。こちとら受験生、夏休みの間も補習、補習、補習……もういい加減、ストレス溜まりまくってるんだっての!」 下級生のりせと完二の言葉が逆鱗に触れたのか、ものすごい剣幕で詰め寄る彼女の姿に、一瞬の沈黙の後、皆が大きな笑い声をあげる。彼もまた、憂鬱を束の間忘れて笑う。 が、すぐに衝動は過ぎ去り、小さく溜息を付いた。 想うのは、隣にいて欲しい少女のことばかり。 だから、だろう。その様を横目でちらりと見て取った陽介が、意味ありげな視線を仲間に送ったことにも気付かなかった。 「そういや、クマと奈々子ちゃんはどこ行ったんだ?」 「あれ? さっきまで一緒にいたと思ったんだけど」 「アイツ……あれだけはぐれるな、って言っといたのに。ちょっと俺、探しに行ってくるわ」 花村が突然、身を翻して来た道を一人、戻り始める。 「奈々子ちゃんが心配だし、あたしも行くよ。雪子も行こ」 「うん、じゃあ、私達はあっち側だね」 一瞬の間に皆が駆け去って行き、咄嗟の反応が出来なかった彼に、りせが呼びかけると同時に手に持っていたうちわや出店の食べ物を押し付けてくる。 「先輩は、そこのベンチで待ってて。もしかしたら、ここ通るかもしれないし」 言われるがままに、ああ、と頷く。それを見て満足したように笑うと、りせは完二を引き連れて、カランカランと下駄を鳴らして人ごみの中に消えていった。 はぁ。 指示された通りベンチに腰を下ろした彼は、また溜息を付く。今度は、友人達の目を憚る必要もなかったから、大きく、深いもの。 そして、勝手だな、と自嘲する。 奈々子のことが心配でないわけではなかった。だがそれよりも今、彼にとって気になっているのは、まだ会えない恋人、白鐘直斗のことだったから。 もっともそれは、奈々子を本気で心配していないからではなかった。 恐らく奈々子は、クマと一緒にいるはずだ。そしてもしもクマが彼女からはぐれたとしたら、必ず誰かに連絡がいくはず。勿論、自分にもだ。その連絡が無い以上、奈々子もクマも無事だと考えて良いだろう。 着信の無い携帯を見て、彼は苦笑する。こんな風に物事を筋道立てて考えるようになったのは、身近にそれを体現している人間がいたからだ。 だがその彼女との連絡不通には、どんな推理も当てはまらない。理解に苦しむ、とはまさにこのことだった。 否、勿論。 本当は彼自身、目をそらしているだけに過ぎないことに気付いている。 全てに説明を付けられる理由が、一つだけある。 それは、彼女、白鐘直斗が彼に会いたくないから、という理由。 即ち、二人の関係が変わってしまうということ。言葉を変えるなら、終ってしまったということ。 考えたくもない、推理。 だが決して外すことの出来ない選択肢。 十個挙げた推理のうち、九個までが否定されたのなら、残された一個が真実となる。 だとすれば。 感情が否定する。だが理性は――――悔しい程に冷静なこの頭脳は――――その可能性を消し去ることが、出来ずにいた。 葛藤は、しかし。 「先輩」 突然、かけられた声に霧散する。聞き間違えようのない、愛しい人の声。 はっと目を上げたその先にあった姿に、一瞬、息を呑む。 薄い青に染められた浴衣に、紫の朝顔が咲いている。紺の帯に、足元は黒の下駄、鼻緒は薄い紅。 薄く化粧をしたのだろうか、唇は桜色。だが頬が朱に染まっているのは、チークのせいではないだろう。 「直斗……か?」 忘れたことなどない、愛しい人を前にして、そう聞いたのは。 彼女の髪が、背にかかる程に長かったからだった。 「……はい」 恥ずかしそうに笑う彼女に、持っていた荷物を落としながら、彼は近づく。 「え?」 驚く彼女を、否応無く、彼は抱きしめる。 「あ、ちょ……」 逃げようとする直斗、だが彼は決して離さない。 強く、強く。少しでも自分に近づけて、一つにならんとせんばかりに、強く。 やがて抵抗は無くなり、おずおずと彼女の手も彼の背に回される。 時折通りがかる人の目や、冷やかしの口笛にも構うことなく。 二人はしばらくの間、じっと、ただそうして抱き合っていたのだった。 「これ、皆さんが用意して下さったんですよ」 まだほのかに頬を染めたまま、直斗はそう言って自分の浴衣を指差した。 「浴衣を?」 「ええ。せっかくあなたが帰ってくるんだから、驚かさないと、って、無理矢理……」 僕は反対したんですけどね。と、わずかに目を伏せる彼女に、彼はさらに尋ねた。 「その髪は?」 「あ、これ、久慈川さんが持ってきたウィックです。もっと女の子っぽく見せたいから、とかなんとか」 そう言ってから、不安げに直斗は彼を見上げた。 「……怒ってますか?」 「ま、な」 彼の言葉に、彼女はシュンとする。その頭をポンポンと叩いて、 「けど、その姿が見れたから、よしとしよう」 「……? 意味がわかりませんけれど」 くすぐったそうにしながら、首を傾げる直斗に彼は、わからないだろうな、と心の中だけで呟く。 不安。疑惑。焦燥。彼の胸の中で渦巻いていた全ての負の感情は、今はもう消え去ってしまっている。 抱きしめたぬくもりは、まだ彼の腕の中に残っている。 それに応えてくれた彼女の想いは、彼の心に優しく火を灯した。 変わってしまったのか、と疑った自分を、彼は恥じる。 彼女はこんなにも、自分のことを想ってくれていて。 こんなにも、愛してくれていて。 「ごめんな」 ポツリと呟いた言葉に、直斗は怪訝そうにした後、 「謝るのは、こっちです。その、連絡するのもダメだって言われて」 「確かに心臓に悪かったな。寿命が縮むかと思った」 「すいません……その、僕が強く断れば良かったんですけど」 「いいさ、別に。皆には感謝してるさ」 サプライズを用意してくれたばかりか、こんな風に二人きりにさせておいてくれる。その心遣いと優しさが、嬉しい。 「こんな風に、直斗と祭を見て回りたかったからな」 「……僕もです」 はにかむような笑顔が、たまらなく愛しい。 そして気付く。 自分もまた、こんなにも、彼女のことを愛している。 それは再確認だったけれど、どこか新鮮な気持ちでもあった。 「まさか、浴衣を着てきてくれるとは思ってなかったけどな」 「変じゃないですか? 髪とか。その……全部、久慈川さんや天城さんにお任せしたっきりなんで」 「大丈夫、すごく似合ってる」 可愛いぞ、と耳元で囁く。それだけで真っ赤になる直斗。 その時。 ヒューーーー パーン 夜空に突然、艶やかに咲き誇る大輪の花。 「あ、もうこんな時間ですか」 「去年は無かったぞ、あんなの」 次々と打ちあがる花火を眩しそうに見上げて、彼は言う。 「今年から始まったらしいですよ――――綺麗ですね」 しばしの間、光の乱舞に二人は見惚れる。 ふと、彼は横を見る。 夜空を見上げる彼女の、瞳にも花。透けるように白い肌も、ほのかに色づく。長い髪に浴衣、少年探偵と呼ばれた少女は、今はあまりにも女で。 また胸がかき乱される。激しい愛しさに、彼は耐えることなど出来ず。 「直斗」 「はい?」 キスをする。いや。 唇を奪う。 彼女が驚いていたのは、ほんの数瞬。 すぐに瞳を閉じて、直斗は。 彼の想いに、応えたのだった。 天に華、咲き乱れる中。 二人の影は、ずっと、一つのままだった。 目次 / 戻る |