初め、言われたことの意味が分かりませんでした。


「……どういうことでしょうか?」

「つまりさ、“生きるための捕食”じゃかったらっていうこと」

「そんなことがあるんですか!?」


 殆ど叫ぶような声で、アスター君に迫っていました。アスター君は指を口の前で立てて、声を落とすように促します。無闇に大声を出しては、危険だからでしょう。

 天真爛漫な彼の表情が、今は異様に真面目でした。


「残念だけど、それが現実なんだ」


 ほんの少しの間、周りの全ての音が消え、彼の声だけが耳に届きました。それからすぐに虫の音が戻ってきます。私は口を僅かに開いたまま、呆然とアスター君を見つめていました。


「どう、して……」


 やっとのことで声を出しました。


「どうしてですか!? どうしてそんなことをしなければならないんですか!? 私には解りません……」


 先程注意されたばかりだというのに、捲し立てるように問い掛けました。


「被食者側にとっては理解ができないかもしれないけど」


 アスター君はちょっと溜息を吐くと、話し始めました。


「食欲を常に満たせるような強いポケモンにはね、他の欲が現れることが多いんだ」

「他の欲、ですか?」


 少し考えてみましたが、全く想像がつきません。やはり弱い立場にいると、物の考え方は違ってくるようです。


「そう。例えば――“自分の存在を、或いは自分の強さを知らしめたい”っていう欲とかね」


 言われて初めて、何となく思い当たる所が浮かんできました。それはまさに、ルルを喰らったあの怪物の行動でした。




 あの時。私たちは怪物から逃げつつも、怪物に向かって攻撃を仕掛けていました。怪物の一歩一歩が大きいため、足留めでもしなければ到底逃げ切れそうもなかったからです。

 しかし、無駄でした。私たちの抵抗など、燃え盛る炎の中に、雫を一滴垂らす程度のものでしかなかったのです。

 やがてルルが捕まりました。ルルが食べられる、私はそう思いました。

 しかし、怪物はすぐにはそうしませんでした。代わりに、ルルへ更に攻撃をしたのです。彼女にはもう為す術がないにも拘わらず。

 殴り、蹴り、投げつける。小さくか弱い身体が、何度も宙を舞います。逃げる際にも攻撃受けていましたから、ルルはあっと言う間に衰弱していきました。

 ぐったりと微動だにしなくなったルルを、怪物は鷲掴みにします。


「お願いです……助けて……ください……」


 辛うじて命を繋いでいた彼女は、蚊の鳴くような声で怪物に助けを乞いました。声は震え、恐怖がよく顕れていました。

 それに対して、怪物は――




「そういう奴らには共通点があってね」


 回想している間に、アスター君の話はまた要所に差し掛かっていました。


「笑ってるんだよ。奴らには、生きるか死ぬかの不安なんてないからね。弱いポケモンを痛めつけた快楽に、浸ってるんだ」

「……」


 アスター君の言葉を受けて、ルルの最期の情景が浮かびました。

 力なく命を乞うた彼女を、怪物は頭上に掲げ、口の端を不気味に釣り上げます。怪物は大きな口をいっぱいに開きました。

 そして、ルルを掴むその手を離したのです。

 小さな身体は口内にすっかり消え、彼女が怪物の喉を下るその音を、私は草陰で聞いたのです。あの恍惚の表情を、私は一生忘れないでしょう。


 アスター君の言うことは、嫌と言うほどあの出来事に当てはまっていました。

 ということは。ルルが食べられたのは、……あの怪物の快楽のため?

 途端にどうしようもなく怒りが湧き上がり、奥歯を強く噛み締めます。生まれてからというもの、ここまで誰かを憎く思ったことはありません。胸の鼓動で全身が打ち拉がれそうでした。

 しかし、その感情はやがて涙となって零れました。私がどれほどあの怪物を恨んだところで、何になるというのでしょう。自分の無力さが悔しくてなりません。


「――ごめん」


 沈んだ調子の、アスター君の声がしました。


「君が自分を責めてるから、このことを話してみたんだけど……かえって哀しませちゃったね」


 談笑していた時の笑顔でも、先程の真面目な顔でもなく、彼は妙にしんみりとした様子でした。薄く微笑みながらも、申し訳なさそうな印象を与える、絶妙な表情をしていました。彼は何も悪くないのに。

 この時不覚にも、私は別の意味での胸の鼓動を感じたのです。


「いえ、いいんです。真実を知ることができて、良かったですから。ただ――」


 私は彼の胸元に寄りかかります。


「暫く、泣いても良いですか?」


 彼は優しく私を受け止めてくれました。


「うん」


 落ち着いた返事に、安心したのでしょうか。私の目は、どっと涙で溢れかえりました。アスター君の目を憚る限界は、もうすぐそこに来ていたのです。

 長い長い時間、私は咽び泣き続けました。その間ずっと、アスター君は黙って抱きしめていてくれました。



 漸く涙が止まってくると、猛烈な眠気に襲われました。泣き疲れてしまったようです。そろそろ帰らなければならないのに、どうしましょう。


 すると、私の様子を察したのか、アスター君が久し振りに口を利きました。


「眠そうだね。僕が見ててあげるから、今晩はここで寝ちゃったら? 暑い季節だから、涼しくて寝やすそうだし」

「でも……アスター君が大変ですよ?」

「大丈夫だよ。夜更かしには充分慣れてるからね」


 心配する私に、彼はにこりと微笑みかけます。


「そうなんですか? 夜更かしはいけませんよ」


 私も少し笑いました。頬には涙の跡が残っていることでしょう。


「でも、今はお言葉に甘えさせてもらいますね」

「勿論どうぞ」

「……ありがとうございます」


 お礼を言うと、頭をアスター君の肩に乗せました。自分でも厚かましい気がして、恥ずかしかったので、さっさと目を閉じてしまいました。もしかしたら、彼は少し迷惑そうな顔をしているかもしれません。

 ただ、こうしているととても気が落ち着きました。ルルを失って以来、こんなに安らかな気分に浸れる夜はありませんでした。その所為か、私の意識はすぐに遠退いていったのです。


『悔しいよね』


 突然、アスター君の声が頭の中に響きました。朦朧とする意識の中では、それが現実のアスター君の声なのか、夢の中のものなのか、判断がつきません。


『僕が手を貸してあげる』


 意味深長な言葉を、辛うじて捕らえました。しかし、それについて考えを巡らす暇もなく、私の意識はそこで途切れたのでした。

 

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