『古代ローマではヒョウの息は芳香を持ち、
 動物たちはこれに魅了され、ヒョウに狩られてしまうと信じられていた。
                    −wikipediaより抜粋』





 【雌豹の狩り】





夜の歓楽街。
電飾で看板を飾った酒場の扉から、数人の獣人達が出て来た。
皆、顔が赤みを帯びており、足取りもおぼつかない。
一目で酔っていることがわかる。
その内の一人、狼獣人の男が、他の男達とは別の方向へ歩いて行った。
家の方角が違うのであろう。
歳は二十代前半くらいだろうか。

その狼獣人がだるそうに体を傾けながら電柱に手をあてていると、
ふと肩に誰かの手が置かれた。
驚いた狼獣人が振り向くと、そこにいたのは豹獣人の女性であった。

「あら、ごめんなさい。驚かせてしまったかしら?」

肩に置いた手を降ろしながら豹獣人は微笑んだ。

「あ、いえ…。どうしたんですか?」
「あなたがしんどそうにしていたから…大丈夫?」

平気です、と答えながら、狼獣人は豹獣人を見る。
彼女の容姿や格好は、わかりやすく一言で言うとセクシーだ。
上半身に服と言えるものを着ておらず、革製のブラジャーを着けているだけ。
下半身に穿いているのは緑色のホットパンツ。人を選ぶこのズボンを
穿いているだけあって、太股と尻のラインは実に美しい。
胸もなかなかの巨乳でウエストも細い。
顔も美人だ。自分より大人びて見える、少し年上なのだろうか?

「…ねえ、聞いているの?」

その一言にハッとした狼獣人は、顔を赤くしながら
豹獣人に何を喋っていたのかを聞いた。
どうやら、家が遠いなら途中まで付き添おうか、という旨を話していたらしい。
普段、あまり女と縁の無い狼獣人は、深く考えず
喜んで豹獣人の申し出を受け、自分の家がある方角を教えた。


***


道中聞いた豹獣人の話によると、
彼女はホステスをしており、営業時間を終えて帰る途中だそうだ。
だんだん酔いが醒めていた狼獣人は、その言葉で
自分が結構な時間まで飲み明かしていたことに気付いた。

長引いた仕事が一段落して、自分も含めてみんな浮かれていたのだろう。
明日は休みだし、ゆっくり寝るか…

などと物思いにふけりながら歩いていた狼獣人がふと豹獣人の方を見ると、
彼女が自分の方を見ながら立ち止まっていたことに気付いた。

「…ごめんなさい、帰る前に少し付き合ってくれないかしら?」
「? はい、い……」

いいですよ、と言おうとしたが思いとどまった。
さっきは酔っ払っていたので判断力が鈍り、
美女の申し出だと浮かれて受けてしまったが、
よく考えてみれば彼女が本当にただのホステスであるという確証はない。
怪しい店に連れ込まれて多額の請求でもされるかもしれない。
泥棒か何かで、金品を奪われるかもしれない。他にもいくらでも悪い考え方はできる。
彼女がただ良心でついてきてくれたのなら申し訳ないが、
どちらにせよ自分達は知り合ったばかりなのだし、
その用事とやらも別に自分と一緒である必要性はないだろう。
そう考えて、狼獣人は豹獣人から早く離れることに決めた。

「どうしたの?」
「…あの、すいません…今日はもう早く帰りたいので…それでは…」

と言って、狼獣人は早々に立ち去…ろうとしたのだが、それはできなかった。
背中を向けた途端、突如豹獣人に後ろから抱きつかれたのだ。

「フフ…大丈夫。金が欲しいとか、そんな気持ちで言っているんじゃないの。
 …私が欲しいのは、あなただけよ……だから安心して……ね?」

急変した豹獣人の態度に、狼獣人の頭はついていけず、
ただ狼狽えるしかできなかった。
そんな狼獣人の様子などお構いなしに、豹獣人は官能的なポーズで組み付き、
指先で彼の首筋を優しくなぞる。
…先程までの言動と一致しない。いや、こちらが彼女の本性なのだろう。

「…なんなら、サインでもしましょうか?
 私はこの件に関して、いかなる請求も行いません、と…」
「……い、いえ…………いい……です……」

狼獣人は何も言えなくなっていた。混乱しているのもあるが、
自分に組み付いている豹獣人の腕が、振りほどけそうになかったのである。
この細い腕のどこにそんな力があるのか、甚だ疑問であった。
結局狼獣人は、豹獣人の言われるがままに連れて行かれた。


***


連れて行かれた先は廃ビルの中。当然と言えば当然だが、人気は感じられない。

……まずいことになった。この状況とさっきの言葉を考えれば、
これから行われる事は間違いなく全年齢対象のサイトなどに載せられない事だろう。

逃げ出せるものならなんとか逃げ出したい。しかし、
こんな行き慣れていない所で逃げ出して無事に帰れる自信が自分には無い。
そもそも今現在自分に注がれている彼女の視線が無言の圧力となって足を竦ませる。
考え方によってはある意味チャンスなのかもしれないとも思うが
自分は見ず知らずの相手といきなりそんな事ができるような男ではない。
なんとか断れないだろうか。この状況下で断れるのか?
暴れてでもやめさせるか?
しかし、悔しいがさっきは自分が圧倒的に力負けしていた。
多分また同じ結果になる。…それに正直、下手に彼女を刺激するのが怖い。
自分が最初に申し出を断っていれば…。
……その時はその時で別の手を取ってこうなっていたのかもしれない。
ああ、一体どうすれば…?

などと考えながら狼狽していた狼獣人だったが、
すぐに考える余裕もなくなってしまった。
豹獣人に有無を言わさず押し倒されたのである。

「さあ……始めましょ?」
「ま、ま…待ってくれ!」

無駄な抵抗かもしれないが、とりあえず時間を稼ごう。
そうとっさに思った狼獣人は、一つの質問をした。

「さ、先に君の名前を教えてくれ! まだ俺達名前すら知らないだろ!?」

それを聞いた豹獣人は、そういえば、というような表情をして狼獣人を解放した。
状況が好転するわけではないものの、狼獣人は安堵の息を漏らす。

「ごめんなさいね。…私はジャンヌ。豹獣人ジャンヌよ」

ジャンヌ…。…待てよ、その名前、どこかで聞いたような…?
狼獣人は自分の記憶から、あるニュースを思い起こした。



…最近、この辺りの街のあちこちで多発している行方不明事件。
被害者は老若男女問わず様々だが、共通している事項は
直前に被害者の着けていた服や品物が、綺麗に一ヶ所に置かれていること。
行方不明者の中に死体などが見つかった人が一人もいないこと。
……そして、まとめられた服の中などに、
綺麗な字でこう書かれたカードが必ず入っていること。

『美味しゅうございました     ジャンヌ』



「……お、俺がほしいっていうのは、まさか…!」

腰を抜かして怯える狼獣人を見て、豹獣人…ジャンヌはクスクスと笑った。

「あなた、気付くのが遅すぎるわよ? お馬鹿さんねぇ……
 今までの食料はもう少し頭が良かったのにね?」

食料、という言葉を聞いた瞬間、恐怖で頭が真っ白になった狼獣人は
とにかく全速力で逃げ出そうとした。
しかし物凄い勢いで飛びかかったジャンヌによって再び押し倒され、
先程よりも強い力で床に押さえ付けられた。
目の前でペロリと舌なめずりをされる。

「い、嫌だ!! 誰か、誰か助け……」
「助けなんて来ないわよ? 見ればわかるでしょ?」

笑うジャンヌの口元から涎がこぼれ落ち、狼獣人の鼻先を濡らした。
狼獣人は叫び声をあげる。

「じゅ、獣人が獣人を食うなんて無茶苦茶だ! この殺人鬼!!」

それを聞いたジャンヌの顔から、一瞬で笑みが消えた。
恐ろしい形相で、黙れと言わんばかりに首に食いつく。
…牙は立てていなかったが、威圧効果は覿面だった。狼獣人は何も言えなくなる。
それを確認すると、ジャンヌは口を離して表情を戻す。

「…失礼しちゃうわ、殺人鬼なんて。私は『狩り』をしているだけなのに。
 ……一つ教えてあげる。私のやっていることは犯罪じゃないのよ?」
「なっ!?」

狼獣人は、人を殺しておいて何が犯罪じゃないだ、と言おうとしたが、
それより先にジャンヌが理由を話す。

「ここはね、『禁猟区』じゃないの。
 昔に制定された法律が今も変わっていないから、ね」
「き…禁猟区!?」

それは獣人じゃない、普通の動物に対して使われる言葉だろ、という狼獣人の言葉に
ジャンヌは再びクスクスと笑う。

「獣人はね、昔は獣人同士で食い合うことが当たり前だったのよ。
 だから街の特定の地域を禁猟区として、数の著しい減少を妨げた。
 …今では食べないことが普通になって、殆どの所が禁猟区にされてしまったけど、
 所々管理が行き届いてなくて、禁猟区になっていない場所がある。
 私はそういう所を調べて、胸を張って『狩り』をしているのよ?」

…その言葉が真実なのかどうかはわからない。
しかし先程からのやりとりで極度の混乱と恐怖状態にあった狼獣人には
真偽を疑う余裕も残されていなかった。

冗談じゃない……。
自分はこのまま捕食されて命を落とすのに、
捕食した方は何の罪にもならないというのか…?

絶望して口を半開きにしたまま硬直している狼獣人に、ジャンヌの顔が迫る。
しかし、それに気付いた狼獣人は最後の抵抗だと言わんばかりに
体をジタバタと暴れさせ、なかなか食らい付くことができない。

「まったく……諦めが悪いわね」

何度食い付いても、狼に口をつけることはできなかった。
生死の境の底力というやつだろうか。
やがてジャンヌの腹の音が鳴ると、一度顔を遠ざけて溜め息をついた。

「…仕方ないわね。恐怖に満ちた相手を食べるのも嫌いじゃないけど、
 今夜は余計な苦労をせずに食事をしたい気分だから」

そう言うとジャンヌは、狼獣人の顔に息を吐きかけた。

「!? ……あ…」

その匂いを嗅いでしまった狼獣人の視界がピンク色に染まる。
脳がボンヤリして、物を考えることができない。
体も動かせない。いや、そもそも動かそうと考えることすらできなかった。
…抵抗をやめた狼獣人に、ジャンヌが話しかける。

「豹の吐息は魅惑の吐息…。一たび嗅げばたちまち虜、よ…
 まぁ、今のあなたにはこの声も届かないんでしょうけどね」

――ヒョウの息は芳香を持ち、
  動物たちはこれに魅了され、ヒョウに狩られてしまう――

「……あ…あ……」

虚ろな目をしている狼獣人を見て、ジャンヌはもう一度舌なめずりを見せる。
今度は狼獣人に怯える気配などない。
ジャンヌは胸から首筋、そして顔の順に、狼獣人の体に舌を這わせた。
舐める度に喘ぎ声が出るが、嫌がる素振りは一切見せなかった。
味見を終えると、顔を少し遠ざけて問いかける。

「…食べていいわよね?」

微笑むジャンヌに対し、狼獣人はコクリと頷いた。
先程までの感情をもった男は、もうそこにはいない。
ただ、自分を「食べてくれる」のを待つだけの、大きく新鮮な肉があるだけだった。
涎にまみれた口を大きく開け、ジャンヌの頭が狼獣人の頭に近付いていく。


「  い  た  だ  き  ま  す  」


…静かな廃ビルに、ゴクリ、と大きな嚥下音が響いた。


***


夜空に浮かぶ月を眺めながら、ジャンヌは腹をさする。
はち切れんばかりに膨らんだ大きなお腹に、細いウエストの面影はもうない。
右腕には唾液がこびりついている。食後に口を拭ったのであろう。

「美味しかったわよ……と、そう言えば名前を聞くのを忘れていたわね…」

まぁいいわ、と、仰向けになって寝転がる。
遺品を調べれば名刺でも入っているかもしれないが、それをしようとも思わなかった。
食事の名前を全て覚えられる程、自分は記憶力がよくないのだから。

「やっぱりいいものねぇ……狩りは」

次はどんな相手を狙おうかしら。
哺乳類か鳥類か爬虫類か。肉食獣か草食獣か。男にするか女にするか。
今日のような簡単に狩れる獲物はなかなかいないから、
しっかり準備をしておかないとね。
いきなり息を吐きかけるだけじゃ、つまらないもの……

と、そこに思考を遮るように睡魔が襲ってきて、大きなあくびが出る。
満腹だと眠たくなってくるのは、生き物の性だろうか。

「フフ…彼がまだ原型を保っている間に、一眠りしようかしら」

今はお腹を重たくしているこの狼も、
このまま胃の中で骨までゆっくりと消化され、私の体の一部になる。
だから、まだ獲物の余韻が残っている内に眠ってしまおう。
そして起きた時に、いつものカードを書こう。
御馳走に敬意を表して、美味しゅうございました、と。
次の狩りの計画は、それから決めればいい。

最後に一つ、礼を伝えるかのようにポンと腹を叩くと、
コポコポと自分の腹の中に響いている消化の音をBGMにして、
ジャンヌはゆっくりと目を閉じた。





翌日、歓楽街の片隅に、衣服と鞄、そしてカードが置かれていた。
その持ち主も今までの事件同様、影も形も見つかる事はなかったという。



そしてまた、どこかの街に嚥下音が響く……。





THE END

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