こんな奥地まで来たのは初めてだった。寒い。
寒冷地の装備をもってしても、この寒さは命に関わる。
睫毛は凍り付き、バナナが釘をうてるほどカチンコチンになる。

そんな所までわざわざ来たのも、
この地に口承で伝わる竜伝説の調査のためだった。
この民話に登場する竜は、実際に存在する生物の可能性が高い、
そう踏んだ私は、それが何なのかを確かめるために、
この極地まで何度も足を運んでいた。

高緯度のこの地方は現在日没が早く、数時間しか行動できない。
夜までにキャンプを作れなければ、それは即、死を意味する。
岩肌に口をあけたおあつらえ向きの穴をみつけると、
私はすぐさまそこに入り、その日の寝床を確保した。

設営が終わり一息つくと、私はあらためて洞穴の中を観察する。
地面にぽっかりと開いたその中は、風がさえぎられ暖かく、
その巨大な間口は、巨大な生き物が出入りできるほど大きかった。
……不自然な快適さと自らの不用意さに背筋が凍る。
こういう洞穴は何かの棲み家の可能性があった。なんて無用心なんだ!
すると突然、奥の方から音が聞こえてきた。

「誰かおるのか」

聞き慣れた現地の言葉だった。人間だ。
この地域の原住民とはほとんど顔見知りだったから、
きっとそのうちの誰かなんだろう。
凍えた心を包むような、暖かい音だった。
私はほっと胸を撫で下ろすと、
体中にたぎった血が元通りに引いて行くのを感じた。

「こちらへこないか、暖かいぞ」

こちらが人であることを向こうも感じているのか、
久しぶりにかけられた友好的な言葉は、
反動とあいまって私の緊張感を完全に取り去るのに充分だった。
ああ、今行くよ。現地の言葉で答えながら、私は奥へと向かって行った。

今思えばこれが大きな間違いだった。


洞穴はそう深くなかったが、入り口の広さがそのまま続いていた。
そうやって行き止まりまでつくと、小さな焚火がパチパチと燃えていて、

しかし声の主はどこにもみあたらなかった。

これ以上進めない奥には茶色の大きな岩
――少なくともそう見えた――が聳えていた。

どこだ。あたりを見回していると、岩が、喋った。

「おお、このあたりの者ではないな」

岩が喋るなんてあり得ない。
耳を疑って、もう一度岩をよく観察すると、
それは岩ではなかった。

「なにをしている。もっと近くに来てよいのだぞ」

言葉とともに「岩」に数mもの亀裂が入り、
細い隙間からピンク色の内部を見せる。
知っている言葉を借りるならそれは「竜」という奴だった。
伝説の姿にとても近い、巨大なものだった。
うずくまった格好でも地面から背までの高さが4〜5mはあっただろう。
ここの「竜」に翼のようなものはない。
茶色の岩肌のようなのは背中部分だけで、
よく見るとあとは普通の皮膚が露出しているように見えた。
白い腹側の皮膚が竜の呼吸に合わせて見え隠れする。
大型トラックのような体躯は、それにふさわしい巨大な頭を持ち、
大人などひと飲みにしてしまいそうだった。

「そう緊張するな、人間よ」

私が声を出せずにいると、いつの間にか背後にあった尾で
その頭の近くへと背中を押しやってくる。

「それより暖かい場所を知っているのだが」

そう言うと、竜は私の服を全て爪で切り裂いた。
その動作は鈍重そうな見た目に似合わず、とても素早かった。
冷たい空気が肌に触れ、いくら焚き火の近くでも、寒い。
何をするんだ!寒さに、初めて口を開いて抗議する気になった。

「ほう、喋れたのだな。すぐに連れて行ってやるからな」

寒い。
今起こっている事の異常さに気づかないまま、
ただこの寒さから逃れたいという欲求が先行する。
それはどこなんだ。私は竜に聞いた。

「もちろん、我が腹の中だ」

竜は私にその巨大な頭を向けると、
地面に顎を置いたまま大きく口を開いた。
口から唾液の飛沫が飛ぶと、身体や顔中にかかる。
ネバネバが手や頬にまとわりつき気持ち悪い。
中から吹きかけられた湿った息は確かに暖かいが、
そんなことを考えている場合ではなかった。
逃げなくては。
だが、背後には大樹ほどもある尾が退路をふさぎ、
とても逃げられるような状態じゃない。
結局、立ちすくむしかなかった。
もう、遅かった。

「どうした、入らないのなら入れてやろう」

後ろから巨大な尾にぐいぐいと押される。
だんだんと蒸し暑い息が近くになっていく。
あと数センチ。大きく開いた口の中では、
唾液にまみれたピンク色の舌がぼってりと鎮座しており、
時折うごいては、ぐちゅりと音を立てている。
さほど鋭くはない上下の歯の間には、
何本ものよだれが太い糸を引いていた。

べちょり

抵抗はしたが、人の力はあまりに無力だった。
そのまま、その布団ほどもある大きな舌に押し付けられる。
空気のゆるく入った風船のようなそれは、
私の身体を受け止めると、少し沈み込む。
息ができない。必死で抵抗した。
ぶにぶにした舌に両手を突っ張り、
舌から離れようとする。
尻尾が後ろから押してくる。
突っ張ろうとした両手が柔らかい舌に
ずぶずぶと沈み、うまく力を入れられない。
食われる!

本能的な恐怖に私は全身の力をこめて
その臭い口の中から出ようと踏ん張った。
すると、ふいに背中を押す力が消え、
私はその舌の抱擁から開放され
しりもちをついてしまう。
粘性の強い唾液がアーチを描いて飛び散り、
私の髪からもどろりと垂れ落ちる。

「食い物の分際で抵抗しおって」

そう言うと後ろにあった尻尾が
ふいに私の身体に幾重にも巻きつく。
その尾は、寒冷地だからだろうか。
その表面は皮下脂肪でまるで硬くない。
巨大なぬいぐるみに巻きつかれたようだった。

そのまま空中へと持ち上げられると、
私は軽く悲鳴を上げた。
下には大きく開けられた竜の口の中で、
舌が獲物を待ちうけうねうねと動いている。
その舌は喉の暗闇へと続いていた。

「久しぶりで腹が減っておるのだ。おとなしく食われろ」

尻尾の拘束が解かれ、
口の中に足から落とされると、
私の身体は舌の上にべちょりと着地した。
そのまま舌で上あごに押し付けると、
逃げられないのが分かっているのか、
竜は口を軽くしか閉じなかった。
うつぶせの状態で口の中から外を見るような形になっていたが、
視界には気味悪い口の中しかほとんど写らなかった。

そのままの姿勢で舌が前後に動く。
味わっているのだろうか。
身体と舌の間で唾液がぐちょぐちょと音をたてた。
嫌だ!出してくれ!何でもするから!食わないで!
必死で叫び暴れたが、舌はぐにぐにと風船のように
衝撃を吸収するだけで竜もまるで意に介していないようだった。

「なんだ嫌だったか。そこまで言うならそこから出してやろう」

竜はそう言うと巨大な頭を傾けた。下ではなく上に向けて。
口の中に急な角度がつき、身体に重力がかかる。
違う!そっちじゃない!
いくら暴れてみても、巨大な舌のクッションは身体を挟んだまま動かない。
そのままゆっくりと、だが確実に奥へと滑り落ちて行く。
身体を纏う唾液のぬめりで摩擦が少なくなっているが、
粘り気も強いせいか落ちるのも遅い。
何かをつかもうとしても舌ぐらいしかなく、
粘液をまとった大蛇のようなそれを掴むことは無理だった。
ねっとりと柔らかな舌と上あごの間で身体中をいっぺんに擦られていく。
息が荒くなるが、周りにあるのは濃厚な竜の息。
暖かく蒸した、ひどい匂いの空気を胸いっぱいに吸い込む。
やがて足のほうが、いままでよりもさらに柔らかい部分に触れる。
ぐちゅぐちゅとそのまま腰、胸とその中に沈み込む。
喉の肉なのだろう。最後に頭が沈む時に見た景色は、
人生最後の外の世界だった。

暗闇と体温、あとは体内の匂い。周りの粘液が擦れる音が聞こえてくる。
喉の肉は体中を包み込み、ぴったりと密着している。
暴れてもそのまま形を変える肉に身体をこすり付けてしまうだけで全く効果がない。

「我が腹のなかでとろけるがよい」

竜の声がその体内で響くと、
周囲の肉が私を下へと押し出した。
食道の中は喉と違いぷるぷると弾力があり、
その粘膜は私を胃袋へとスムーズに送る。
ああ、食われた…
いまさらこれが人生の終わりであることに気がつき、涙が出てきた。
巨大な「竜」の腹の中で生きながら消化されていくなんて。

やがてその蠕動が止まった。
広さはあまり変わらないが、食道よりもはるかに襞が多く、
感触は喉の肉に近かった。胃袋だろうか。
胃袋は空気や食べ物が入らなければかなり狭いと聞いていた。
ためしに襞の一つに手を突っ込んでみると、
身体ごとそこに沈んでしまいそうに伸びる。
胃液の分泌は少ないようだったが、
胃粘液がぐちゅぐちゅと絶えず音をたてている。
全身を挟む胃壁に気味悪さを覚えながら、
暗闇の中無駄だとは分かっていても
胃袋に当り散らす。出せ!畜生!
ぶよぶよと胃壁の間に沈んだり跳ね返ったりするそれは、
よくある空気を使った遊具の中で弄ばれているようだった。

――――――――――――

竜は久しぶりの獲物に満足していた。
久しぶりのその味に、口の端からはまだ唾液が滴っている。
それを巨大な舌でべろりと舐めとると、その腹に目をやった。
中で抵抗しているのが分かるが、分厚いその肉は
その衝撃を外まで届かせずに吸収してしまう。
竜には心地よかった。

「よく暴れておるな、無駄じゃ。おとなしく消化されるがよいぞ」

竜はそういって身体を丸め、満足そうに食後の眠りについた。
極地では獲物が少なく食事の機会も限られるため、
食べ物は数週間をかけてゆっくりと消化されることになる。
洞穴の中では、焚き火も消え、暗闇の中、
ただ竜の腹の鳴る音と、くぐもった獲物の声だけが聞こえていた。

 

 

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