目の前にティラノサウルスの大口が広げられると、 湿り気のある息が体中を包んだ。 俺はまさに食われようとしていた。 昨日叩いた大口が脳裏に浮かぶ。もう叶わないかもしれない。 「この時間旅行から帰ったら、俺結婚するんだ」 俺がいるのはキャンプにしていた浅い洞窟の行き止まり。 もう逃げ場はない。幸いこのティラノサウルスの巨大な身体 ――通常の倍はある。全長おそらく30m程度。 長生きしても成長は止まらなかったようだ。 頭も4mはあり、俺など一口で食べられてしまうだろう。 目の前に開かれた口にはよほど空腹と見えて 粘度の高い唾液が何本も糸を引いている。 べろり 瞬間、熱い物体が視界を遮り身体全体を覆った。 どうやら舌で舐められたようだった。 口の中いっぱいに収まっているそれは、 トカゲや鳥のものに似てそれ自体が粘着質で、 ぬめりのある唾液に包まれていた。 べろぉ 元々3mはあるそれを目一杯に伸ばし、 壁を背にした俺に今度はまるで味わうかのように 圧力をかけゆっくりと押し付けてきた。 巨大な馬に舐められたらこんな感じだろうか。 やわらかな表面に体中、顔までがめり込み、 息もできなくなってしまった。 ねっとりと張り付くようでぬめぬめした感触は なんとも言い表せない嫌なものだった。 そのままゆっくりと、一度に5秒ぐらい、 とても長い時間をかけて舐められた。 それが終わるとネトネトと顔中に張り付いた恐竜の唾液を、 息継ぎをするかのように空気を吐いて吹き飛ばした。 次の息を吸えるか吸えないかのうちにまた同じように 舐められた。酸素が足りない。息苦しい。 体中に唾液が絡み付きネトネト気持ち悪い。 ぶにぶにした肉の塊が体中の表面を同時にこすっていく。 寝込みを襲われてなにも着ていなかったから、 その気持ち悪い感触が直に伝わってくる。 そのまま延々と舐められつづけた。 どれぐらいの時間こうされていたのかわからなかったが、 永遠のように思えたそれは10分程度だったろう。 俺はただひとつの希望にすがっていた。 奴の頭が大きすぎてこれ以上近づけない事実。 このまま堪えれば食われないはずだと漠然と思っていた。 完全な誤算だった。 何十度目かの時に奴は、表面がいくら柔らかいとはいえ 力強い筋肉の塊であるそれを俺の足の間にねじ込むと、 そのまま舌を持ち上げた。 俺の身体は地面を離れ宙に浮されてしまった。 地面と俺との間で白身のような太い唾液の柱ができる。 空中で舌に跨がるような形のまま舌先で背後から その巨大な舌の上にうつぶせに押し付けられた。 そいつはそのまま俺を舌で包み込んだまま口の中へ運んだ。 臭い。俺は舌の中に挟まれたままで、 目の前にはぬらぬらとした唾液の泡しかみえなかった。 視界が暗闇になる。 口を閉じたようだ。 暑い。 と同時に背中に張り付いてた感触が消え、 代わりに蒸し暑い口内の空気が触れた。 舌が持ち上がると上あごに押し付けられ、 これでもかと舌を擦り付けられた。 唯一手に持っていた携帯ライトを点けると、狭い口の中が照らされる。 舌が元の位置にあっても、狭い口の中は所々に唾液の糸が引いている。 うねうねと動く舌の上で、蒸し暑い恐竜の息を吸いながら、 やって来る運命に見を委ねた。 ずるり いっそう強く上あごに押し付けられると、 唾液にまみれた俺の身体は奴の口の奥深くへと滑って行った。 頭がネバネバとした喉の肉に挟まれ、粘液が絡み付く。 ごくり そのまま飲み下される 恐竜の熱い体内の肉に挟まれ、ぐいぐいと逆さまにおりていった。 食道の壁に密着されながらも、抵抗を試みた。 だが、もがいてももがいても 柔らかい周りの肉はぐにぐにと伸びるだけで、 まるで抵抗にならなかった。 ぐにゅり べちょっ 湿度が100%はありそうな空気に顔が触れると、 なんだかネバネした液体のなかに頭から落ち込んだ。 すぐに顔をあげ、空気を求めてたっぷりと息を吸った。 とんでもない臭さだった。 ここは胃袋で、今落ち込んだのは胃液と胃粘液の混ざったプールだろう。 黄色くネバネバした液体の中ではとても動きづらかった。 今吸っている空気は恐竜のゲップ、というわけか。 薄いピンク色の壁がライトに照らされ怪しく光っていた。 突然胃袋全体がぐらりと揺れた。 ゴロゴロという凄い音とともに空間はどんどん狭くなり、中の空気が出て行っていた。 胃袋は皺くちゃになり、今まで触れたどの部位よりも柔らかな粘膜に挟まれた。 ウォーターベッドのような胃壁の隙間にずぶずぶと沈み込んでしまいそうになっていた。 行儀の悪い奴だ、満腹なんだな。 今の現象に妙に納得してしてしまいながら、 俺は空気の出入りでうねうねと動いている胃袋の入口を眺めていた。 恐竜の腹の中より ――――――――― あいつのメッセージはここで終わっている。酔狂な奴だ。 現在の防水加工というのは頑丈な物なのだな。 現代に帰ってきた我々は、彼がその後どうなったのかは知るよしもなかった。 ぼんやり眺めるテレビ画面には、 世界で最も大きい肉食恐竜化石の腹部から サルのような動物の化石がみつかったという ニュースが流れていた。 |