しとしとと暗雨が降る事以外は普段と変わらぬ夜の事でした。
一匹のポケモンが我が子に乳を与えつつもその瞳からはどこか物悲しい雰囲気を漂わせています。
雨の音以外は何も聞こえぬ夜の事でした。

にじり寄るポケモンの足音さへも


フローゼルはもともと群の一匹だった。
泳ぎもそこそこ上手いし餌だって一人前に取れる。
仲間達にも慕われ、おまけに他のメスを寄せ付けないほど容貌が美しかった。
今思えばそれが仇だった。
気温が暖かくなるにつれてオスからの求愛は徐々に回数が増していき、
それと同時に他のメスからは嫉妬と恨みの眼で睨まれる日が続いた。
そして遂にはならず者の犬畜生に襲われ、両腕のヒレを命の代償として失ってしまったのだ。
奴等にとってフローゼルを群れから追い出すには申し分無い理由だった。
餌が取れないのはおろか、満足に泳げぬ奴など必要ない。
こんな奴がいると自分達の命さへ危なくなる。
―出て行け。二度と戻ってくるな。
フローゼルは已む無し(やむなし)に川を登った。傷ついた腕を抱えながら。
自然の理(ことわり)とはまさにこの事である。
群れを作るのは一匹でいるよりも安全で尚且つ生き延びる可能性が高いからだ。
そこに弱い奴がいればそいつが足手纏いとなって群れ全体が強い者に襲われてしまう、
仲間全体を危険に晒すよりは一匹を犠牲にするのは当然の事だった。

日が暮れて辺りは夕焼け色に染まっていく頃、
一匹のポケモンが頭(こうべ)を垂れて陸(おか)に這いずりあがっていた。
陸を見る瞳は何かを置いてきたかのように淀み、かつての煌きなどもはや何処にも残っていなかった。
こんな中で孤独感や悲しみを感じてても涙も溜息も出ない。当たり前だった。
命の危険を常に晒される。
背後で燃え盛る恐怖がそんな感情を殺すのには十分すぎるほど大きかったから。
お腹が鳴った。何せ急な事で力がある限り泳いでたから。一呼吸置くと急に空腹感と疲労感が襲い掛かる。
普段なら魚を取って自分で食べて、取れなかった時も仲間に頼めばほらよ、と貰えたのに
川を上ってくる途中ですら一匹も魚は見当たらなかった。
今日はご飯無しか、と頭を上げると森が眼に入る。一瞬戸惑った。
眠っているときの命はどうやって守る。地上での戦いはどう対処する。
自分を守る仲間も守られる仲間もいない。
森へ行こう。空腹という苦痛の前には正常な判断など微塵にも劣り、フローゼルは森に足を踏み入れた。
天の悪戯なのか、孤独と悲愴を味わった償いというべきか、
途方に森の中を歩いていくと早速ポケモンにであった。本当に怖かった。
今までに味わった事の無い程、体中がビリビリと戦慄して破れたヒレを垂らして戦闘の態勢に入る。
しかし、そこにいたのは自分と同じ姿のブイゼルだった。
両者の事情など全く知らない。しかし、ヒレが破れた苦痛。それだけは理解できる。
互いに心細かった。助け合って生きよう、その日、二匹はそう心に誓った。
力を合わせてちっぽけながらも立派なねぐらを作った。
一緒なら魚や木の実も取りに行けたし、時々猛獣に襲われそうになっても戦えた。
灼熱が喉を枯らせ、肌寒さが哀愁を誘い、身の毛が弥立つ極寒に襲われ、
森へ来てから初めて暖かい季節がやってきた。
そして…

フローゼルとブイゼルと間でようやく子供が生まれた。
とても小さな小さな子だったけど二匹は嬉しかった。傷一つ無いヒレがきちんとあったから。
それの日からだろうか。ブイゼルだけで木の実や魚を取りに行ったのは。
ある日、餌を探しに行ってくると普段と変わらぬブイゼルを笑顔で送るフローゼル。
だがその日の夜になってもブイゼルは帰ってこなかった。
最初の1日はいつもより必死に餌を探しているから。そう思っていると気分が落ち着いた。
次の1日は多分、持ち帰れないほどの餌を抱えているから。そう必死に思い込んだ。
森の中には木の実が豊富になっている場所がある。
そこで取ってくるのも日課だったが、そういうポケモンを狙って襲ってくる凶暴なポケモンもいる。
一匹の時ほど危ない時はない。自分は勿論、ブイゼルだってそんなの百も承知だ。
互いにここまで生き残って子供まで授かったんだ。ブイゼルに限ってそんな事は…
そんな事を思っているうちに5日が経った今、フローゼルの元に未だ帰ってこないブイゼルを思うと
フローゼルはこう悟らざるを得なかった。
―他のポケモンの糧に…
このやるせ無い堂々巡りの有耶無耶を押さえ込むには自分を怨む程に一番嫌で合理的な考えだった。


―貴方を失ってからも私は小さな幸せを手に入れられたわ。貴方のように育って欲しいわ。
 貴方にも見せてあげたいくらい安からな顔をして眠っているわ。

「ねぇお母ちゃん。お父ちゃんは本当に食べ物をたくさん持ってきてくれるの?」
「あら起きてしまったの。お父ちゃんはね、
 すごく沢山の食べ物を見つけたから持って帰るのに苦労しているの。
 だからもう少しこのお乳で我慢しててね。子守唄を歌ってあげるからおやすみなさい」
フローゼルが唄い始めてからどれだけ時間が過ぎたのだろうか。
気が付けば『小さなブイゼル』は再び寝息を立てていた。
暗雨がしとしと……ずり。ずりずり。
気が付けば何かを引きずるような、地面に擦りつけているような鈍い音が聞こえていた。
こんな事に唄で気付かなかった自分に腹を立てて、全神経を耳に集中して音の正体を探る。
…こっちに近づいてくる足音を聞いて、心の奥に隠していた希望が沸騰したように甦ってくる。
―貴方!


希望が絶望に変わった。複数の足音だ。
何故!?どうして…!?何が原因でここに気付いたのか。
唄は雨音で余程耳がいいポケモンでないと探れないはずだ。足跡も雨水で流されてわからないはずだ。
足音の特徴から4つ足の動物。聴こえる幅からして大体4,5匹、方向からしてその陣形は…
『うしろの正面だあれ』
既に囲まれていた。

すやすやと眠る我が子を見つめる目が見る見るうちに緋色に染まっていく。
折角幸せを手に入れられたと思ったら瞬く間に消えてその代わりに貴方がこの子を残してくれたのに。
―この無垢な寝顔すら私の幸せなのよ!貴様らに食われてたまるものですか!
 貴方が残したこの子を守らないと!どうすればいいの!貴方!!
束の間に考えた案など粗末なものばかりだった。
早く策を見つけないとこの子が…!胸が裂けそうな感情が心身を共に嬲るり、
頭の中でぐるぐると何かを絶え間無く巡りまわした結果、ついに感情が破綻した。
気が付けばあまりの悔しさに唇を噛み千切って口から血をだらだらと垂れ流し、
『小さなブイゼル』を抱えている腕も自分の爪痕で傷付け、

喉が裂けるほど慟哭した。
覆い切れぬ感情から逃げ出したい為に。自分に出来る事が何一つも無かった為に。
傍で静かに聞こえる吐息が今にも消えそうで。傷一つもないヒレが今にも毟り取られそうで。
手のひらは仄かに暖かく、頬に寄せて伝わっていく温もりが一時の安堵を与えてくれた。
そして乱れて冷たくなった心に再び火を灯してくれたこの子の為にも…
―絶対守ってみせる!この子だけは!!
それでも足音はにじり寄ってくる。

しとしと…と…と…
唄や足音を消していた雨が 止んだ。


びちゃびちゃ…ざっざっざっざ
ねぐらの外では陣形を囲んで5匹のグラエナが刻々と歩んでいた。
円満な夫婦とその子供がぎらぎらした眼球をねぐらに向け、
いつ食われてもおかしくない老夫婦が口を交互に開いている。
『あの臭いと同じ臭いだ、間違いない、』
『この子が立派に育つように沢山食べてもらいましょうよ。貴方』
『実に5日ぶりの食事だわい。のう婆様』
『わしら年寄りが未だに往生しないのは家族の暖かみがあるおかげかのう』

『ねぇ!早く食べようよ!僕お腹すいちゃった!あの時のように背中からカジりつきたいよ!』


嘲笑を交えた『死の叫び』が辺りに轟いた。肉食動物が獲物を駆るときに発する時の合図だ。
―このままでは…!どうすればいいのよ!貴方!この子を守って!
フローゼルが我が子を骨が折れるほどの力で抱きしめる。
―耳も鼻も目も口も私の物よ!体毛一本貴様らに食われてたまるものですか!
 私にだって幸せを掴む権利があるはずよ!せめてこの子だけでも助けてあげてもいいはずよ!
 そうだわ!何処かに隠してしまえば…!でも何処へ隠せば!…!!
頭の毛を毟って考えた結果、とある方法が思いついた。これならいける!!
その方法が成功する確信を抱くと、気が付けば自然と笑っていた。
「お母ちゃ…?」
化け物だ。子供心でもそう思ったに違いない。
小さなブイゼルの小さな眼で見たフローゼルは変わり果てていたに違いない。
温厚な笑みは消えて口と腕から血を垂れ流し、代わりに緋色に染まった眼で狂気の如くにやけていたのだ。

徐にフローゼルは口を開き、じっと我が子を見つめて涎を垂れ流す。
「何するの!?やめてよ!僕は食べ物じゃないよ!」
戦慄してた。蛇に睨まれた蛙のように。
―大丈夫、怖くないから。と言おうと思ったが既に喋るまでの理性は無く、低い唸り声しか出なかった。
まず足を口に入れる。後から出やすいように。
良かった。丁度良い大きさで。簡単に飲み込めるわ。
「やめてよ!どうして食べるの!?お願い!やめて!」
必死に抗う小さなブイゼルの姿など一匹の魚ほどにしか感じられなかった。
ずりゅ、ずりゅ、と音を立てながら胴体まで飲み込めた。ここまでくれば。
「やめて!助けて!お願い…お…おかあちゃ…!」
最期の力を振り絞って頭を頬張り、これまでに無い程の嚥下運動を行った。
ゴクン、大きな物が喉の奥へと落ちていって腹の中へと収まるのが感じられた。
―これで大丈夫、これで生き延びられる!!
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、
全身からは血流の低い音、上からは規則的に聞こえる鼓動が全身を包む。
小さなブイゼルはベソをかいていた。
「どうしてなの…?何で食べちゃったの…?お腹が空きすぎて僕を食べちゃったの…?
今、お父ちゃんが一生懸命に木の実を取りに行っているんだよ?もうすぐで帰ってくるんでしょ?
お腹が空いたら僕が木の実を取りに行ってあげるよ?それなのに…お母ちゃん…」

『この子に幸せの風が吹きますように』
すべき事をした瞬間、安心して気が抜けたのかぺたんと地面に座り込んでいた。
今まで暮らしてきた出来事が走馬灯のように脳裏に浮かび消えてゆく。
群れから追い出され、川から森へ着き、貴方と逢ってこの子が生まれて、そして貴方が消えて…
―思えば木の実を取りに行く貴方の背中を小さくなるまで見送った時、
 お祈りをしていたわ。元気に、健やかに育つようにと。
 もうすぐこの子がここまで育ったお祝いもしたいけど今…
 私も貴方のように幸せをもたらす風になるわ…ああああ貴方!!

金色に光る双眸が笑いながらねぐらを一瞬で吹き飛ばした。
目の前で5匹のグラエナが悠然と舞う度にフローゼルの体は宙に跳ね上げられて地面に叩きつけられ…
自分は食べられている。その事は認識できていたが、
不思議に痛みという感覚も無く、苦しみという概念も既に感じられなかった。
『ご飯だーーーーー!ご飯だよーーー!』
『この袋は傷つけちゃ駄目よ。この前みたいに中から腐った液が出てきて辺りの肉を溶かすからね』
『はーーーい!頭食べていい?頭食べていい!?』
『どんどん食べて大きくなるんじゃぞ、可愛い子や』
『こんなに沢山食べれば立派なグラエナになるのう。幸せじゃのう』
見上げれば5匹は歪にくねって…時折八の字に笑みながら…
それはそれは美しく楽しく、彩りある煌びやかな食事の光景であった。

―おやすみよ…すやすやと…かわいいこ
 あなたは目を閉じて、ただすやすやと、おねむりなさい。
 貴方と一緒に作ったねぐらは跡形も無く壊されてしまったわ。でもいいの。
 私の食べれそうな所を貪ったら満足そうに帰っていったから…


心臓の鼓動が止まった。周りの血流の低い音も消えた。
お母ちゃんは飛び跳ねて喜んでたんだ。疲れたから今はすやすやと寝ているんだ、
胃の噴門が開いていく…ここから出られる!
何で食べちゃったのか教えてもらわなくちゃ。
酸の海から抜け出し食道を這いずって、最後の力で牙の間を通り抜け。
「うぐぅ…おかあちゃ…」
口から這い上がった。ぼやけて何も見えなかったけど関係なかった。
顔は胃酸で爛れて泡を吹いていたけど生きている。その充実した気持ちでいっぱいだった。
少し落ち着くと目の前がぼやけて全てが霞んで見えた視界が刻々と回復していく。
しかし、辺りを見回した結果、黄色に染まった眼球に映った『もの』を見て全身が痙攣した。
見なくてもよかったのに。見ないで済んだはずなのに。見ないでおくべき『もの』だったのに!!
「あ!ああ!!あ…!おかあちゃ…!!」
その時、雷が光と共に轟音を響かせて一つの影を映し出した。
音にびっくりして振り返ると一匹のアーボックが口を開けてそして
『捕まえた』
食べていい?「いやだ!いやだ!やめて!!」
食べいいかい?「あ…ああ…!そ…!」
逃がすものか
「うわあああああああ!!」
小さなブイゼルがアーボックの口の中にへと

ずりゅ ずりゅ ずりゅ ずりゅ ずりゅ ずりゅ
―ああ、この子が大きくなれば、貴方と過ごした日々がまた…
 せめて私たちの代わりに幸せに育ってほしい。
 お腹が一杯になるほど沢山の木の実があって。
 すやすやと眠れる立派なねぐらがあって、
 この子に負けない程に立派な子を授かって…
ずりゅ ずりゅ ずりゅ ごくん ずずず ずるり

ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、
「あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ・あ!
 出して出して出して出して出して出して出して出して」
しかし、フローゼルの願いが届けられた場所はとある大きな蛇の

―胃の中だった

 

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