Re: 雪山にて慟哭 ( No.1 ) |
- 日時: 2010/01/29 17:21
- 名前: ホシナギ
- その日もシロガネ山は、その名のとおり白銀に輝いていた。
針葉樹の森に降る雪は深く積もり、わずかな木漏れ日を照り返して目を焼く。 本来であれば、真白い雪があたりの音を吸い、シンと静まり返った森であっただろう。 そして、寒さに強く、厳しい環境で育った屈強な野生ポケモンがある種の平和を享受もしくは作り上げて、生きていたはずである。
その日もシロガネ山は、その名のとおり白銀に輝き、吹雪いていた。 ゴウゴウと逆巻く吹雪は、いとも容易く森の木々の間を駆け回り、荒らしていく。 吹雪は風に乗せ冷気と雪を運び、木々を震わせ、積もった雪を振り落としては森の奥へと消えていく。 吹雪の立てるガサガサ、ゴウゴウ、ドサドサといった騒ぎは森に沈黙を許さない。 また、野性ポケモンたちも今はその姿を潜め、吹雪が去るのを待っている。
その名のとおり白銀に輝くシロガネ山の、吹雪逆巻く森の奥に、少女はいた。 雪に被われた絶壁に小さな室を作り、その中でガタガタと全身を震わせ、座っていた。 少女の傍らにはバクフーンが座り、背にチロチロと炎を灯している。 少女の唇は青く、耳は紫色になっており、目には深く隈が作られていた。 少し色素の薄い、長く伸ばされた髪は乾燥しパサパサと乾いてはいるが、表面には皮脂が膜状に付着していた。
シロガネ山は、その名のとおりの白銀の輝きと吹雪によって、彼女たちを閉じ込めていた。
雪山にて慟哭
少女たちがシロガネ山に挑戦したのは、何日も、いや何週間も前のことだったのかもしれない。もはや少女は覚えてはいなかった。 ただ、きっかけは覚えている。とある噂話を聞いたのだ。 少女は強いポケモントレーナーだった。ジムバッヂも8つは持っていたし、負けた経験もほとんどなかった。 今思えば、彼女は自惚れていたのだ。 だから、こんな噂話に食いついてしまった。
「シロガネ山の山頂に、最強のトレーナーがいる」
そのトレーナーは亡霊だとかチャンピオンだとか、無言だったり饒舌だったり、 よくある噂話のように、細かな差異はあるものの、最も重要な一点は揺るがなかった。 そして、少女もそれに乗ってしまった。 相棒のバクフーンを含む、彼女が信頼する6匹のポケモンと共に、少女は数々の冒険を繰り広げてきた。 幾つもの山を越えた。幾つもの海を渡った。洞窟を抜けた湖に潜った川を下った。 だから、今回も楽勝だと思ったのだ。
その結果がこれか、と少女は自嘲する。 シロガネ山の洞窟を抜けるまでは最高だった。 野性ポケモンは、確かにそこいらで出遭うよりも強かったが、彼女のポケモンの敵ではなかった。 山頂付近の森を探索するまでは良かった。 針葉樹の森は神秘的で彼女の好奇心を満たした。 それからがいけなかった。 探索途中で、風が強くなった。 もとより降っていた雪も強さと勢いを増した。 彼女を魅了した景色は、音をたてて牙を剥き彼女に襲い掛かった。
バクフーンに雪の壁の一部を解かしてもらい、滑り込んだ。 その後は、ずっとここで立ち往生だ。 いや、座っているのでその表現はおかしい。 彼女は自分のジョークに少し喜び、空しくなった。
ここに入ってから、全く寝ていない。 多少まどろみはしたかもしれないが、なんとか起きている。 「雪山で遭難したら、寝てはいけない」 その鉄則を守り、少女はずっと起きている。 少女は一体何日寝ていないのか、考えようとして、考える材料が足りない事に気付く。 この雪の室の中では、太陽は見えない。だから日没の数は数えられない。 眠っていないから、何回目覚めたかで数える事もできない。 他の方法は思いつかない。 とにかく、彼女は長い長い間、眠っていなかった。
手持ちのポケモンはバクフーンのみボールから出し、あとはしまったままだ。 ラッキーやハピナスがいれば、そのタマゴを食べる事も出来ただろうが、いなかった。 ほかに食用となるポケモンも彼女はもってはいなかったし、 この寒さの中出して、消耗させるのもかわいそうだったから、ボールからはだしていない。 バクフーンも、雪を溶かした後ボールに戻そうとしたが、彼がそれを拒否した。 自分のためにずっと炎を焚き、自分にずっと寄り添ってくれている。
バクフーンを見やる。 そっと目を閉じ、一見寝ているように思えるが、実際は寝ていないのがわかった。 大きな体で彼女を包むように丸くなり、背では炎が弱く燃えている。 バクフーンがいなかったら、自分はとっくに死んでいただろうと少女は思う。 彼がとってくれている暖もそうだが、きっと1人だったらさみしくて、辛くて、耐えられなかっただろう。
「……………………」
少女は、バクフーンにありがとうと呟こうとしたが、声は出なかった。 無理に声を出そうとしたら、喉が張り裂けそうに痛くて、やめた。
バクフーンは飢えていた。 最後に物を口に入れたのはいつだったか、あまり正確には覚えていない。 遠い昔の事だった気もするが、実際今生きている以上、そこまで昔の事ではないのだろう。 確か、彼の主人である少女が、荷物の中の食料を細かく分けたはずだ。 ふやけた肉の入った缶、干された米、硬いパン、キャラメルやチョコレートなどのお菓子、ポケモンフード。 それらを少しずつ少しずつ、二人で分けて食べてきた。 それから……、そうだ。途中で全部を少女に譲ったのだ。
少女は都会で暮らしていた。 だからあまり苦労もしたことが無かった。 旅に出てからは多少は苦労もしたが、少年少女たちの旅は推奨されており、支援もあつかった。 それに少女は、使役される自分から見ても、バトルが本当に得意だったし、困難など無いように思えた。
そんな少女が、初めて困難に触れ、みるみると弱っていった。 バクフーンは、それを放っては置けなかった。 毎日のようにありがとうとごめんなさいを繰り返し、虚ろな瞳で無理に笑い、 今日の分のご飯、少なくてごめんね、とまた謝り、寒さに震え、やせ細り、衰弱していく少女。 ヒノアラシだった頃から見ていた、強く、優しく、しなやかな美しさを持った少女。 負けを知らない、例え負けても必ず後で勝ち返した少女。 バクフーンは少女の負ける姿を見たくないのだ。 たかが、雪山の吹雪と寒さに、負けてほしくなかった。
それで、バクフーンは自身の食事を全て、少女に譲った。 正面から譲っては、少女は確実に受け取らない。 渡された食事は食べた振りをして、こっそりと鞄に戻した。 少女はそのことに気がつかなかった。そのことがまた、悲しくなった。
バクフーンは目を閉じ、じっと座っている。 背からはチロチロと最低限の暖をとれる程度に炎を燃やし、体で少女を包む。 弱った自分を見せれば、少女はきっと負けてしまう。 少女は、自分にひどい事をした、と思うだろう。 今、少女を守ってやれるのは自分だけなのだ。強くあらねばならない。 無駄な体力の消耗は防ぐ。出来るだけ、動かずに、どっしりと構える。 腹の虫も鳴かせてはならない。弱音も決して吐いてはいけない。 少女が自分に頼れるように、強い自分を保とう。 バクフーンは強く念じた。 バクフーンはずっと、少女のためだけに生きているのだ。
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Re: 雪山にて慟哭 ( No.2 ) |
- 日時: 2010/01/29 17:22
- 名前: ホシナギ
- 少女は手で雪を掬い、小さな鍋に入れ、バクフーンの炎に当てた。
持参した水は、もうとっくに飲みきってしまった。今は雪を溶かした水を飲むしかない。 水で喉を潤し、アーアーと少し声を出す。少し喉が痛いが、無事に声が出た。
「お水だよ、飲める?」
バクフーンに声をかける。バクフーンはゆっくりと目を開け、鍋の水に口をつけた。 その間に、少女は鞄の中を覗き込む。何か食べ物は入ってはいないだろうか。 しかし、何度見ても結果は変わらない。もはや食べられそうなものは入っていない。 少女は落胆した。
そういえば……、吹雪に閉じ込められてから、どれくらい経ったのだろうか。 少女は考える。 まず、ここからでは太陽が見られない。だから、日没では数えられない。 それから、ここに入ってからほとんど寝ていないのも同然だから、眠った回数でも数えられない。 あとは、思いつかなかった。 なんだ、結局わからないではないか。
「ま、わかったところでどうしようもないよね……」
返事は無かったが、赤い目が少女をジッと見ていた。
水は、おいしかった。 少女から渡された水は、本当に五臓六腑に染み渡っているのではないかと錯覚するくらい、バクフーンを潤した。 それから、少し胃が痛くなった。 雪を溶かしただけの冷たい水は、空っぽの胃には少し荷が重かったようだ。
少女をぼんやりと眺める。 少女は、モコモコとした分厚い服に身を包み、手袋やマフラーで冷気に触れないよう身を守っている。 分厚い服の下の華奢な体で、あとどれだけ耐える事が出来るのだろう。 褐色の髪は長く、今はだいぶ汚れてはいるが、それでもきれいだとバクフーンは思った。 少女はこの髪を本当に気にいっていた。 旅の途中でも手入れは欠かさなかったし、みだりに髪に触れると、それが例え自分でも激怒した。
少女は何かを必至に考えているようで、雪の室の入り口を見ている。 少女は遭難してから、かなりの頻度で何かを考え込んでいる。 考える以外に体力を消耗せずにできる事は無いので、仕方の無い事だともいえる。 だが、バクフーンは少女が何かを考え込むたびに、とても怖くなった。 狭い雪の密室で、満足な食事もなく、衰弱しきった中で考える事が、到底まともなことだとは思えない。 だから、怖かった。彼女が最悪の発想に至ってしまうのが、本当に怖かった。
「そうだ」
少女は鞄をガサゴソとまさぐった。
「……あった」
少女は鞄の中からポケギアを取り出す。
「なんでずっと気付かなかったんだろう……」
ポケギアには時計やラジオ、地図などの様々なアプリがダウンロードしてある。 その中には、もちろんカレンダーも入っている。 遭難した当初は、電話で助けを呼ぼうともしたが、残念ながら圏外だった。 ラジオも、電波が届かず、天気予報も聞くことが出来なかった。 それ以来、鞄にしまいこんだままだったのだ。
「えっと……」
少女は震える指でポケギアのボタンを押す。 アドレス帳を開くと、自宅への電話番号を選択し、通話ボタンを押す。 電話はかからなかった。
「そりゃ、そうだよね。 天気予報、聞いてみよう。吹雪がいつ止むか、とかやってないかな……」
少女はラジオを天気予報のチャンネルにあわせた。かじかむ上に手袋をした手では操作しづらかった。 しかし、ラジオから流れてくるのは、雑音ばかり。
「ダメ、か」
少女はため息をつく。白い息がくっきりと見えた。
そういえば……、吹雪に閉じ込められてから、どれくらい経ったのだろうか。 少女は考える。 まず、ここからでは太陽が見られない。だから、日没では数えられない。 それから、ここに入ってからほとんど寝ていないのも同然だから、眠った回数でも数えられない。 あとは、思いつかなかった。 なんだ、結局わからないではないか。 少女はため息をついた。白い息がはっきりと空気中に舞った。
「…………」
心なしか、さっきも同じことを考えた気がした。 少女はポケギアのボタンを押す。 そうだ、カレンダーを見れば、どれくらい時間が経ったのかわかるかもしれない。 少女は少し浮き足立つのを感じた。 わかったところでどうしようもない事でも、何もわからずに呆然と立ち尽くすよりずっとましだ。 少女はカレンダーを開こうとする。 手がかじかみ、指先があまり動かない。手袋も邪魔だ。 少女は手袋を外した。 指先が変色していた。
「ゆ、び……」
衝撃だった。 自分の指先が真っ赤に腫れ、関節部分も赤く痛々しい。 指先は、ひどい所は毒々しい紫色に変色している。黒ずんでいるといっても差し支えはないほどだった。 他にも、全体的に血の気がなく、土気色をして、ガサガサに荒れていた。 慌てて靴を脱ぎ、何重にも履いた靴下も脱ぐ。 足も同じような状況だった。むしろ、足のほうが酷かった。 足の指は焼け焦げたように黒かった。 足の指を動かそうとする。指の感覚は無い。動く様子もない。
凍傷だ。 少女は思った。 ドラマや本でよく見た話だ。雪山で遭難して、凍傷になって、そして。
「ゆび、を、きる……」
そうだ、切断だ。
少女は都会暮らしだった。困難など何もなく、せいぜい友人関係で悩むくらいだった。 旅に出てからも、ほとんど困難など無かった。 そんな少女にとって、雪山での遭難は非日常だった。非常事態だった。 あってはいけないことで、ありえないことだった。 それでも、少女がここまで耐えてきたのは、日常へと帰るためだ。 愛すべき仲間たちと、また冒険をし、バトルをし、笑って、少しの怪我をして、眠り、明日を待つ。 そんな「普通」のためだった。それが希望だった。 少女の頭に浮かんだ指を切断すると言う事態は、希望を揺るがすには、破壊するには十分なのだ。 指を失ったら、もう、普通には戻れない。普通に戻れないなら、もう、意味は無い。 そんな意識が少女の頭を横切る。
そして、その意識は、少女に最悪の発想をもたらす。
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Re: 雪山にて慟哭 ( No.3 ) |
- 日時: 2010/01/29 17:24
- 名前: ホシナギ
- 「ねえ、起きてる……?」
「ちょっとさ、お話しようよ」
少女とバクフーンは向かい合って座った。 バクフーンは赤い瞳でじっと少女を見据え、少女は俯いて、ポツリポツリと話し始める。
「食べ物がね、なくなっちゃったの。まあ、これはずっと前の事なんだけどさ。 あたしたち、当分何も食べてないよね。もう、ずっと。いつからかはわかんないけどね。 吹雪も止まないし……、もうずっと止まないかもしれない。 だから、たぶん、あたしたちは二人一緒には助からないと思うんだ。 そう、二人一緒には」
少女はそっと顔を上げる。赤い瞳がじっと彼女を見ていた。 その瞳は、涙がほとんどなく乾いていたが、とても辛そうに少女を映していた。
バクフーンは、一瞬彼女が何を言っているのかわからなかった。 ただ、考えられうる限りの最悪である事だけは確かにわかった。 少女は、負けたのだ。その思いがバクフーンを支配する。 少女は顔を上げ、バクフーンを見た。うっすらと微笑んですらいた。
「まずね、考えたの。 もしも、あたしが生き残って君が死んじゃった場合。 そのとき、たぶんあたしもすぐに死んじゃうと思う。 君が死んじゃったら、あたしはもう寒さに震えるしかなくなる。火が、なくなるからね。 だから、二人一緒に死ぬんだと思う」
「で、次に君が生き残って、あたしが死んじゃった場合。 この場合さ、たぶん、君は生き残れるんだよ。 自分で火をおこしてあたたまる事が出来る。体温を保持できる。 君だけなら、生きていられる」
「あたしさ、君には生きててほしいんだ。 こんなところまで無理につれてきちゃったのに、そのうえ殺しちゃったら、もう、耐えられない。 それに、他の子たちもいる。 ボールの中だから少しは安全だろうけど、それでも大変な事に変わりは無い。 だから、どっちかが生きて、ふもとのポケモンセンターに届けなきゃ。 ……でも、あたしはどっちに転んでも、死ぬ。 だから君に、生きてポケモンセンターまで、行ってほしい」
少女の声はしわがれ、小さかったが、どこかに妙な力が篭っていた。 それが、死を覚悟した少女の願いなのか、日常への回帰を諦めた自暴自棄なのかは、わからない。
「さっきのさ、どっちかが生き残るって、意味わかるよね。 要するにさ、片方がもう片方のために、犠牲になるんだ。 つまり、」
「あたしを、食べてよ」
ボウボウ、ゴーゴーという荒れ狂う吹雪の音だけが響いた。 少女はそれ以上何も喋ろうとはせず、ただバクフーンを見つめていた。 事実だけを淡々と伝え、そこに座っているのだ。 バクフーンは困惑した。 そして、少女から目が離せなくなった。 少女を愚考から救わなければならないと思ったが、そのための力が無いのである。 少女の言葉はバクフーンには伝わるが、バクフーンの言葉は正確には少女には伝わらない。 なんとなくの雰囲気では伝わるが、完全に伝える事は出来ないのだ。 少女は今、危機に怯え、心を閉ざしている。 その心を揺さぶるには、なんとなくの雰囲気の言葉では足りない。もっと直に気持ちを伝えなければならない。 だが、その方法が無い。ただ、見つめる事しか出来ない。 今、目線を逸らしたら、間違いなく少女を守れないだろうと思った。
少女は無言で服を脱ぎ始めた。 不思議と寒さは感じず、むしろ自分が汗ばんでいたことに気が付いた。 肌が雪に揺れても、少し冷たいと思っただけだった。 できるだけ、自分の体を見ないようにした。 その後、鞄から鋏を取り出す。ソーイングセットに入っている、小さな鋏だ。 その鋏で、髪を切り始めた。 パラパラと髪は落ちていく。
バクフーンはその光景を見ることしか出来なかった。 そして、少女が髪を切り始めて、もう、間に合わないのだと気付いた。 少女が自分で髪を切るなんて、ありえないことだ。 あんなにも大事にしていた髪を、乱雑に切っていく少女を見て、悲しさがこみ上げてくる。 少女の髪を切る鋏が立てる、パチンという音が雪に木霊する。 つまり、自分は彼女を守れなかったのだ。彼女を守ってやれるのは自分しかいなかったというのに。 少女の気持ちを変えることは出来なかった。少女のよりどころにはなれなかった。 グウ、と間抜けな音がなった。 バクフーンは自分の腹を殴った。
みるみるうちに髪は短くなり、少女の整っていた髪は今はもう見る影も無い。 少女は正面からバクフーンを抱きしめる。 少女の冷え切った体には、バクフーンは熱かった。 少女はバクフーンを離し、両手で彼の顔を持つ。 すぐそばに口があった。
バクフーンは少女の目に映る自分を見ていた。 今の少女には、自分はどのように見えているのか、そこからは推し量る事は出来ない。 それが、とても悲しい。 そしてまた、グウと音が鳴る。 彼女がとても魅力的に見えた。そして、全身に倦怠感が満ちた。 彼女の手は冷たく、温めなければいけないだろう。 雪の中でずっといたのだ、全身が冷え切っているに違いない。 だが、指は動かない。彼女の手が口内に入る。 彼は彼女に全てを委ねる事にした。
そっと牙を撫ぜる。 白く尖ってはいるが、先端は少し丸くなっている。小さな歯だ。 口内は乾燥し、ザラザラとしている。 少女はバクフーンの口の中に頭を完全に入れている。 片方の手で頭をなで、もう片方の手で口を撫でる。 舌は柔らかく、熱かった。思わず手を離してしまう。 慎重にもう一度触る。そっと押すと、弾力があり気持ちが良かった。 手は優しく口を探っていく。覗き込まれている事に羞恥心が募るが、体は依然として動かない。 動かなくていいとまで感じていた。心地よかったのだ。 外から内から撫ぜる手は、熱を帯びているようだ。 開け放した口から唾液がこぼれる。いつの間に沸いて出てきたのだろう。 舌先に力をこめた。舌は顔を捉え、ベロリと舐める。 いつも愛情を表現する時に舐めるのと、なんら変わりがないように思えた。 しかし、なんだか少し照れくさく、そして、全身に血が巡るのを感じる。 後から後から唾液が染み出し、顔の上から降ってくる。 唾液は久々の仕事に意欲的なようでドロリと濃く、彼女を塗らす。 唾液だけで蕩けていくような錯覚を覚える。 全身が火傷しそうなほど熱い。寒さで抑えられていた血流が活発になっている。 その理由は? なんでもいい、としか思えなかった。 手を奥に伸ばす。喉の奥に触れる。 少しえずくが我慢する。今興を削ぐわけには行かない。 腕がダラリと垂れた。どうやら、もう動きそうだ。巡った血のお陰かもしれない。 両腕で腰を抱え、持ち上げる。骨の浮いた細い腰だった。 フワと体が持ち上がる。腰に爪が刺さり、少し痛い。 気にせず奥を覗き込む。奥まで手が届くようになり、より深淵が見える。 光がなく、暗い奥底。柔らかい壁面が時折動いているように見える。 胸の辺りで動く舌がこそばゆく、背中に触れる唾液が熱い。 たまに触れる歯は出血こそしないが、ひっかかいてくる。 もう少し、奥が見たい。進みたい。 しかし、足で蹴れどもそこに地面はなく、ただ空を蹴るだけで進まない。 あごが重い。だが、止まらない。最初は苦しかった喉もだいぶなれた。 唾液がとめどなく零れ落ちる。大部分は口の中にたまりつつある。 少し、胃が痛い。気が急いているのか。お前の出番はまだ後だ。 バクフーンは少女を持ち上げた。そして、手を持ち替え、今度は太股を掴む。 妙に力が篭っていたようで、少女の腰には爪が刺さった跡があり、傷からにわかに血が溢れ出す。 バクフーンの鼻息は荒い。白い息が飛び散る。 頭に血が上った。腰は痛みから解放されたが、ドクドクと脈打っている。 太股に刺激が走る。思わず唇を噛む。 奥へとさらに這入っていく。 もはや暗くて何も見えない。そして、狭い。 熱い壁が体を包む。ぬるぬるとしていて、滑ってしまいそうだ。 ギュッと体を締め付けられては、解放される。それが周期的に訪れる。 柔らかい壁の奥で、硬い物があるのがわかる。鳩尾に当たり、少し苦しい。 いや、苦しいのはずっと前からだったかもしれない。 息をするのを忘れていた。大きく息を吸う。 ムワッと温かく湿った空気が肺を膨らませる。と同時に体が締められそのまま空気を吐き出してしまう。 ゲホゲホと咳き込む。唾液が零れ、落ちていく。 もう一度吸う。熱く湿気が多いが不快ではない。 ゴクリと喉が鳴った。喉仏が何かに突っかかり、苦しいが、それすらも快楽であるかのようだ。 必死に鼻から息を吸っているものの、まだ苦しい、酸素が足りない。 温かいものが喉をとおり、熱い何かが頭を駆け、思考を鈍らせる。 一度、たまった唾液を飲み込む。それでも唾液は止まらない。 一体どこから出てくる物なのか、疑問に思う。 体と壁の隙間を液体が滑ってきた。思わずその感触に身を振るわせる。 ドロリと流れる。この液体は、唾液だろうか? 体が滑った。落ちそうになる。足に痛みを感じ、全身が暗い壁に締め付けられる。 手を離したら、喉の奥まで滑り落ちてしまいそうだ。それはいけない。 強く握り締め、落下を防ぐ。 もっと長く苦しむために。もっと長く一緒にいるために。 少女はもはや足しかその姿を見せてはいない。 バクフーンは朦朧とした顔で少女の足を必死に掴んでいる。 喉仏は定期的に上がり、下がる。 足元では、唾液と血液が混ざり、凍り付いていた。 少しずつ奥へと滑り込む、いや、落ち込む? なんでもいい。 伸ばした右手が奥に触れる。折れ曲がっているようだ。 曲がった先は、閉じていた。まさぐると、なにか液体がたまっている。 圧迫感に慣れた体が少し解放される。 痛い、痛い、苦しい。痛みがクラクラした頭に突き刺さる。 忘れていた倦怠感が全身に飛び散る。内臓ごと吐き戻しそうになる。 徐々に胸も、腹も、腰も、落ちてくる。 行き止まりの道で、今まで感じなかった自分の重みで頭が押される。 手から足がはなれたが、それどころではない。 無理に内臓が拡張される。張り裂けそうだが、やめるわけにはいかない。もう、止められない。 痛くて、苦しい。辛い。だが、それがいい。 足が上にある。頭に血が上って、そろそろ辛い。頭が痛い。 もてあました手で体を抱く。とても温かくて心地が良い。 体にまみれる液体が、全身を包む柔らかな壁が、守ってくれているようだ。 目に涙がにじむ。腹が重く、喉に残留感がある。 立っているのが辛くて、そっと横たわった。 温かくて安心したら、なんだか急に眠気を感じた。 そういえば……一体どれだけ寝ていなかったのだろう。 まあ、細かい問題だ。雪山で遭難したわけでもあるまいし、寝ても大丈夫だろう思えた。 そっと体を見る。妙に腹が盛り上がっている。そりゃ、痛いわけだな、となぜか納得した。 腹に手を当て、そっとさする。
鼓動を感じた。鼓動が聞こえた。 自分の鼓動と、もう一つは……。
ドクン トク ドクン トク ドクントク トドクン ト
ク ドクンク トクドクン トク ドクン トク ドクン
トク ドクン トク ドクントク トドクン トク
目を閉じた。なんだか幸せだった。 今は眠ってしまおう。
- - - - - - - -
バクフーンは目を覚ました。そして、眠ってしまった自分を恥じた。 少女の「眠ってはいけない」という言い付けを守れなかったのだ。 あたりは不思議と静かで、隣に少女はいなかった。 ただ、足元でうっすらと赤がにじんだ液体が凍り付いているだけだ。 狭い雪の室で、バクフーンは1人だった。 妙に重い体を動かし、そっと入り口から外を見る。 雪は降っていない。風もおとなしく、木々の間を飛び回っている。 あれだけ激しかった吹雪の爪あとが、あちこちに残っていたが、当の吹雪はどこにもいなかった。
バクフーンの膝から、ガクリと力が抜けた。 膝が雪に沈み込み、ザクリと音を立てる。 眠ってしまったとはいえ、そんな長い時間ではないはずだ。 あと少し、あと少しでよかったのに。 あと少し、耐えられたら、負けなかったのに。
バクフーンは哭いた。 哭いた。
「Gaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaahhhhhhhhhhhhhhhhhh」
哭いたのだ。
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Re: 雪山にて慟哭 ( No.4 ) |
- 日時: 2010/01/30 01:39
- 名前: 名無しのゴンベエ
- これはすごい…
とにかくキャラの心理描写が上手すぎてため息が出ました。 主人公が置かれている状況や物語の展開も、容赦がなくとてもリアルで良かったです。 精神的にも肉体的にも極限に立たされているのが伝わってくる分、捕食からの流れがよりいっそうグッときました。 良作乙です!
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Re: 雪山にて慟哭 ( No.5 ) |
- 日時: 2010/01/30 20:33
- 名前: ケイル
- おおお、なんだかまた新しい方向性を感じさせる捕食小説ですね。
最初は、どう見ても鬱展開バッドエンドで、悲しすぎるwwと思いましたが、 捕食シーンは、とっても官能的で幻想的ですらあって それまでのツライ現実描写が、逆に開放される喜びを与えてくれた気がします。
最後の、両者生還できたみたいな可能性はちょっと悲しくなっちゃいますがw 楽しく読ませていただきましたっ
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Re: 雪山にて慟哭 ( No.6 ) |
- 日時: 2010/01/30 23:29
- 名前: 醒龍
- おいィ?また神が降臨したんだが?
これ練習ってレベルじゃねぇ! ホシナギさん執筆乙&gjですよー そんで個人的な感想になりますが、中々に長くて読み応えのある作品、また丁寧な描写もなかなかにそそりますねー! ですがちょいとキャラの視点がわかり辛いかなと想います、捕食場面ではそれが残念かなと。 しかしこれは次作品を期待出来る内容ですので、是非これからもどんどん執筆なさって下さいなと言ってハードルを上げてみた。
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Re: 雪山にて慟哭 ( No.7 ) |
- 日時: 2010/01/31 17:27
- 名前: ホシナギ
- 誤字が……酷い……。あれだけ推敲したつもりなのに……。
微妙に修正しました。
>名無しのゴンベエさん 心理描写、頑張りました。ありがとうございます! 主人公をいじめるのが楽しくなりすぎてやりすぎかなあ思っていましたw ぶっちゃけ自分でもドン引きするほどでしたが、後に生きた?なら良かったです。
>ケイルさん あ、新しい方向性!やった! 捕食シーンでは、本人たちをひたすら陶酔させてみました。 いや、むしろ自分が陶酔してただけかもしれないです。 現実やばい→解放いえい→また現実しんどいの流れで役者たちを翻弄して、こちらも楽しく書いてましたw
>醒龍さん ね、ねし……ん…………? 発想力不足なタチなので描写しか頑張れる所がないのですけれども、誉めていただいて光栄です! お食事シーンは二人が一体化するように視点を織り交ぜて……、 はいはい言い訳言い訳。力不足でした、精進します!
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Re: 雪山にて慟哭 ( No.8 ) |
- 日時: 2010/03/17 15:32
- 名前: くじら
- 愛があってとっても素敵です!
特に導入部が少女の人柄をとっても感じさせるというか、 きゅんきゅんさせてもらいました。陶酔しちゃいます。
食べられちゃうシーンも、二人の視点がザッピングされて不思議で新鮮でしたっ。
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