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【保】淀みに潜みし者 − 旧・小説投稿所A

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【保】淀みに潜みし者

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目が覚めるとそこには美しい湖が広がっていた。

遠目に人間達が舟の上で活気のあるかけ声と共に息を合わせ網を引き上げており、
網に包まれた水面ではキラキラと飛沫を上げ、銀色に輝く小魚たちがはね回っている。
遙か昔に見た姿と寸分変わらない。
もはや見ることは叶わないと、思っていた光景に目が惹き付けられる。

「……これはどうした事じゃ?」
「水蓮どうしたのボーッとして?」
「なっ?!」

声に振り向くとそこには青年がいた。
水蓮の傍らに立ち、ニッコリと穏やかな笑みを彼女に向けている。

「これは一体……うっ……妾もか」
「えっ?」
「いや……何でもないから、そなたは気にするな」

頭を振りながら水蓮は己の体を見つめる。
全長百メートルを超える彼女の体も、かつてと同じ頃まで小さく若返っていた。
こうして普通に頭を擡げているというのに、水蓮の頭は青年と殆ど変わらない位置にある。

(……意外と背が高いのう)

青年の横顔を眺めて水蓮は何となく思う。
こうして対等な背丈で眺めるのも新鮮なモノがあった。

……と、徐に振り向いた青年と目が会う。

「さっきから変だけど、本当にどうしたの?」
「……な、何でもないと言っておろう!!」

思わず顔を背けた水蓮の頭に青年の手が乗せられた。
重みに耐えられず僅かに俯いた水蓮を青年は優しく撫でていく。

「う、、くぅ……屈辱じゃ」
「ははは、水蓮は大げさだね」
「……むぅ」

果てには青年に笑われてしまい、もはやぐうの音も出なかった。
それと同時に気が付きもした。

頭を撫でる青年の手が気持ちよくない。
夢心地に心を誘う、あの暖かな手が暖かくないと……

(そうか………………これは妾の夢じゃな)

傍らにいた青年の姿は跡形もなく、甘美だった夢が終わる。
あり得ない、寂しさが生んだ幻想だと気が付いてしまったから。




今度こそ水蓮は目覚めた。

何時もと変わらない泥の中で、紫の双眸が鈍く輝いている。
澄んだ水のように泥の中を見通す瞳の力は、完全に消失し視界は暗闇に包まれていた。
恐ろしく体が重く感じている。
まるで泥がどこまでも重くなり体を押しつぶしているかのように。

もはや此処にかつての水神・水蓮はいない。
いるのは弱り果てた体の大きな大蛇が泥の中で蹲っているだけ。

「くくくっ……妾も落ちぶれたものじゃ……
 何時消え去っても良いと覚悟は出来ていたはずじゃのに……」

己に嘲笑することを抑えきれない。

声に出せば、自分を傷つけてしまうと分かっているのに……
体だけではない、水蓮の心も少しずつ弱ってきているのだ。





だから、あんな夢を見る。





夢の中に逃避し、あり得ない世界に入り込んで束の間の幸せに浸るなどと。
だが、それでも……会いたかった。

「恐らくそなたは今日も来ぬのだろうな……?」

水面があるはずの方へと目を向けるが、やはり視界は暗闇に閉ざされ何も見えない。
いつもならこの時間に青年の足音が聞こえる頃だった。


あれから一週間が過ぎ、逃げ出した青年が沼を訪れることはついに無かった。

刻々と削れ行く水蓮に残された命の刻。
少しでもそれを先延ばしにしようと、水蓮は一切の身動きを止め、死の運命から懸命に抗った。
その全てが青年ともう一度会うという理由のため。
心の中で、望めないであろうと感じていても、水蓮は己が消滅する前に、
もう一度だけ、青年と言葉を交わしたかった。


そして、あの願いに答えて貰いたい。


小さな願いだった。
神が初めて抱いた願いが他者の名を知ること。
それさえ聞くことが出来れば思い残すことは何もない。

青年の見ている前で、水蓮は感謝と共に静かに消え去るだろう。
少なくとも一人だけ、自分のような不甲斐ない神がいたと知って貰えたのだから、
神としてこれ以上の幸せはない。
最後にこの世界に自分が生きた確かな証を残すことが出来たのだ。

しかし、やはりそれは望めそうにもない。
水蓮の命は今日尽き果てるのだから………………

「……これ以上を望むのは欲張りすぎかのう。
 どうせ残り数時間ほどの命じゃ、ゆるりと昼寝をしてあの夢の続きを楽しむとしよう」

ついに逃避に身を委ね、かりそめの幸せを水蓮は選択してしまう。
あの夢の中なら少なくとも孤独を感じることはないと、
まいていたとぐろの上に頭を置き……ゆっくりと目を閉じる。


”ギシッ…………ギィッ……ゴトッ”


「……ん?」

今まさに眠りに落ちようとしていた水蓮の元に、足音の振動が伝わってくる。
彼女がその足音の主を間違えるはずがない。

一瞬にして頭が覚醒を果たす。

「まさか……?」

待ちわびた青年の訪れに、水蓮は驚きを隠せず声を漏らした。
声とは裏腹に表情には気力が満ち、体に力が戻ってくる。

病は気からと言う人間の言葉を思い出しつつも、水蓮は音のする方へ急いだ。
死んだ沼の泥水は非常に重く、進むのにかなり難儀するが、
今の水蓮にはさほどの障害にもならない。
力づくで泥をはね除け、水面へと浮上する。

そして、水蓮は青年との再開を果たした。





……が、


「そ、、そなたのその有様はどうした事じゃ?!」
「水蓮……良かった、まだ生きててくれたんだね」

青年の体が崩れ落ちる。それを支えるため慌てて水蓮が体を絡めた。

「どうしたのじゃ、このように傷だらけになりおって……?」
「…………っ」

問いかけに青年は答えず、歯を食いしばるような音をたて俯いてしまう。
……かと思えば、涙ぐむ顔を上げ水蓮を見つめた。
何があったのかは水蓮には分からない。
それでも、青年に辛いことがあった事だけは理解できた。

「そんな情けない顔をしおってからに、どうしても言えぬ事なら言わずとも……」
「……みんな……信じてくれないんだ……」

頑なに口を閉ざしていた漁師が、水蓮の言葉に促されたかのように口を開いた。
ボソボソと水蓮の耳元で何かを告げる。
時間が経つにつれ、水蓮の表情が強張っていく。

その後、全てを聞きとどけた水蓮がまずしたこと、それは……

「戯け者!! む、、村を追い出されたじゃと!」
「……うん」

一喝する水蓮の声に青年が頷く。
青年が村を追い出された理由、それは水蓮を生かそうとした努力の結果だった。



          ※   ※   ※



水蓮の死という運命を認めきれなかった青年は、また昔のように人々に自然の恵みに
対する感謝が戻れば水蓮が力を取り戻すと考えたのである。
そのために青年は寝る間を惜しんで、水蓮から得た知識を使い神に対する信仰を村人達に説いたのだ。
だが、そんな青年の必死さが村人達には不気味に写った。
村で唯一の祠守ではあったが、そもそも祠など要らないという村人が大半を占め、
そんなもの達に信仰心などがあるわけもない。

そんな彼らにとって、新たに信仰を説こうとする青年は邪魔者以外の何者でもなかった。
これ幸いと青年は異端者として村をたたき出されたのである。
その時に祠も打ち壊され、青年の負った傷は祠を守ろうとしたときに受けた傷だった。



          ※   ※   ※



それは思いもよらなかったこと。出会って僅かな愛柄だというのに、
もうすぐ消えてしまう自分のために此処までのことをしてくれた……それが嬉しい。

一度は青年を叱咤した水蓮だが、目に涙が溢れそうになっていた。
その涙を傷だらけの手がすくい取る。

「……水蓮……俺……あんたのことを救えないのかな?」

救いたいと願い行動し、それが無駄に終わってしまった。
自分には何も出来なかったと、絶望の表情を浮かべながら……それでも救いたい。
諦めず伸ばされた顔に触れる手の温かさは幻惑などではない。
水蓮は唸るように声を漏らしてし、本物の手の温かさに心を揺り動かされる。

「馬鹿者め……」

もっと生きてみたい、この人間と共にもっと長く。
生を諦めていた水蓮が、未来を渇望させるほど強く心を揺さぶられた。


しかし、どれだけ望んでも水蓮の命はあと僅か、すでに手遅れなのだ。


例え青年が水蓮に生きて欲しいと祈りを捧げても意味がない。
どれだけ信仰が厚くても一人の人間の祈りの力は微々たる物だから。
水蓮は忌々しげに顔を歪め、目前に迫った己の死が初めて苦しいと、怖いと思った。
それでも死はすでに不可避の事実……

諦めさせようと水蓮が口を開こうとしたとき、青年がうわごとのように何かを呟いた。

「……そうだ……俺が…………れば」
「な、、、に……そなた今何と申した?!」

青年が呟いた声は掠れ消え入るほど小さいモノだった。

だが、断片的に聞き取れた『ある言葉』は決して聞き逃せない。
水蓮の表情が一転して険しくなり、怒りの色を帯びていく。

「えっ……だから…………」
「生け贄……先ほどそう申したな、この度し難い戯け者が!!!!」
「えっ……え……だって、それしかもう手段が無いじゃないか」
「まだ戯れ言をほざくか!」

怒りに頭が灼熱し、水蓮は知らず知らずの内に強く青年を締め上げる。
それだけで青年は呼吸が出来なくなり、頭に靄がかかったように意識が朦朧とし始めた。
抗う暇もない、身動き一つする前に青年は締め落とさ……


”……ズルッ”


意識が闇に呑み込まれる寸前で締め付けが緩む。
急に訪れた開放感が逆に吐き気を催すほど気持ち悪く感じたが、青年は必死に空気を貪った。

「うはぁ……はぁ……はぁっ……」

荒々しい呼吸を繰り返し、少しずつ呼吸を整え青年は批難めいた視線を水蓮に向けた。

「……う……うぅ……す、水蓮……酷いよ」
「それだけそなたが戯けたことを申したからじゃ!
 そもそも、そのような知識をどこで……『人身御供』など妾は教えた覚えはないぞ?」

怒りにまかせ大切な者を絞め殺してしまいそうになり、
一瞬にして熱した頭が冷えた水蓮だが、怒りはまだ心に蟠っている。

ちょっとした拍子でそれはまた表に出てしまうだろう。

それなのに青年はどうして此処まで水蓮が怒り狂うのか理解できていなかった。
ただただ狼狽え、促されるままに、青年は自分が知っている御伽話の一つを水蓮に話す。



それは『進退に困り果てた村が神に助けの奇跡を請う』という話だった。


神が奇跡の代償として、村人の一人に身を捧げろと要求され、
言われたとおり、その者が神の住む場所に赴くと、村では奇跡が起こり救われる。

どこにでもありそうな御伽話だ。
生け贄の悲劇と神の力のすばらしさを歌う物語。
この御伽話を思い出した青年は、この話も実話ではないのかと考えたのだ。
現に彼は本当に神が存在した御伽話を知っている。

ならば、他に真実を語ったお伽噺があるのではないのか?
その中に水蓮を救う方法が隠されているのでないのか?

そして、たどり着いたのが生け贄という言葉。

「だから俺が身を捧げれば、水蓮の力が戻るんじゃないかって……」
「……そなたは!!」

青年の声を遮るように水蓮が声を張り上げる。
分かっていない……青年は何も分かっていないのだ神に身を捧げるという行為の真実を……
それを分からせるため水蓮は何度でも青年を叱咤する。

「そなたの言う生け贄『人身御供』という、意味を知って言っておるのか?!」

神に身を捧げるとは、肉体のみならず魂も神の物となり一部となる。
そうなれば神の強大な意志に脆弱な人の意志など、軽々と押しつぶされ消え失せてしまうだろう。
転生することもなく、完全に神と同化してしまうのだ。

つまりそれは死だ。
だが、それ以上に度し難いことを青年は犯していた。

神を生かすため身を捧げ、自ら生け贄になると水蓮に言うことは、
彼女に体を喰らえと……慕っている者を生きながら喰らえと言っていることと同義語なのだ……
そんなことを水蓮が欲するわけがない。
そして、それを理解してくれなかったことがより水蓮を激昂させる。

「……妾はそなたが好きじゃ」
「えっ?」
「だから、妾はそなたが好きじゃと言ったのじゃ!
 そんな相手を誰が喰らいたいと思う、じゃからそなたは戯け者だというのじゃ!!」

一気にそれらを吐き捨てるかのように言い切り、水蓮は青年を睨みつけた。
紅潮した顔は怒りか、告白の恥ずかしさか……またその両方か。

「妾にここまで言わせて、まだ分からぬと申すまいな?」
「……ごめん」
「ふん、今更遅いわ……戯け者め」

弱った青年を支えていた水蓮の体が解け離れていく。

「……んっ!」

支えを失った青年は思わず尻餅をついた。
痛そうに打ち付けた部分をさすり、立ち上がろうとしたときにようやく気が付く。
全身に負っていた痛々しいほどの怪我が殆ど治癒している。
傷はふさがり、青あざは見えないほど小さくなっていて……

「これって……水蓮!」

泣きそうな青年の悲鳴が沼地に響き渡った。

目を離していたのは僅かだというのに、その僅かな間に水蓮の肉体は薄れ揺らいでいる。
今にも消滅しかねないほど朧気となっていた。
思わず水蓮に駆け寄り伸ばした青年の手が、半透明な肌の手前で止まる。
触れてしまえばその瞬間に消滅してしまうかも知れないと思ってしまうほどに、
今の水蓮は儚げな存在となっているのだ。

「どうして……水蓮も馬鹿じゃないか!」
「くくっ……そなたのような戯け者に言われる筋合いは無いわ」

その力の殆どを青年の治癒に使ってしまった水蓮は動かず、遠くを見つめ佇む。
悲鳴をあげる青年の方へと振り向かない。
顔を背けたまま……ただ笑う。

「好き相手が傷ついておるのだぞ、治さぬはずがあるまいて?」
「だけど、それじゃ水蓮が……」
「もはや後数刻で尽きる妾の命じゃ、好きに使ったまでじゃよ」

初めて聞いたとばかりに青年が無言で息を呑む。
なら傷を治すため力を使った水蓮の残りの命は後どれだけ残っているというのか。

今の様子を見る限り恐らく半刻も持たないかも知れない……


時間が……とにかく時間がなかった。

「……ねぇ」
「ん、どうしたんじゃ、文句は受け付けんぞ?」
「う、うん……そんなんじゃない」

あくまでも水蓮は青年を見ようとはしなかった。
もし見ていたら……もしも今の青年の表情を見ていたら必ず彼を止めていただろう。

「……どうして此方を向いてくれないの?」

向かないのではない、青年を見ないのではない。
それが出来ないから見ないのだ……何故なら、姿を見ようにも殆どの視力を喪失しているのだから。
水蓮の瞳は神の力を宿していた。
それの源泉たる殆どの力を消失した反動が、水蓮の瞳の機能を失わせたのだ。

紫の双眸は曇り光を失い、朧気に周囲を認識することは出来るが、
形を判別することはもう……
それを青年に気が付かれてはダメだ、気が付かれては笑って別れを迎えられない。
水蓮は己が消滅するその瞬間まで、変わらず青年の前で笑って消えていきたかった。

神として生き抜いた誇りを持って死ぬ、その姿を焼き付けて貰うために……

「ねぇ、水蓮……こっちを見てよ。じゃないと……」
「くぅ……仕方がないのう」

だが、こうも求められては無駄な努力だった。
音を頼りに青年の方へと顔を向ける。

恐らく桟橋の先端に立っているのであろう、青年の輪郭が水蓮の目に留まる。

「これでよいのか?」
「うん。そのままで良いから、話を聞いて……」
「う、うむ……?」

青年の声色に何か変化を感じ、水蓮は少し戸惑う。
別れが目前に迫っているせいとも思えたが……それとは少し違う気がした。

例え何を言われても驚かぬように心を落ち着け、水蓮は耳を傾ける。

「……水蓮の馬鹿!」
「な、何じゃと……?」
「俺ばっかりを戯け者、戯け者ばかり言ってさ……水蓮だって……!
 何も、何も気が付いてないくせに!!」

唐突に馬鹿呼ばわりされ、水蓮は面食らったように惚けた顔のまま青年の訴えを聞き続けた。
しかし、次第に沸々と怒りが込み上げ、それを荒々しく吐き出す!

「何が馬鹿者じゃ、この戯け者!
 そもそもお主が生け贄などと口にしたのが悪いのであろうが!」
「じゃあ、何度俺がそんなこと言ったと思うの!!
 誰だって死ぬのは怖いよ……でも、水蓮には死んで欲しくないんだ!」
「何故じゃ?! どうしてそなたは妾にそこまでする?!」

売り言葉に買い言葉で二人の口喧嘩は、水蓮の一言が青年を押し黙らせる。
いや、青年は僅かに躊躇しただけで、今度は水蓮を黙らせる一言を吐き出した。

「俺だって一緒なんだよ、水蓮が好きなんだ!」
「な……なっ? 妾のことがか?」

その言葉が水蓮の脳内を真っ白に染め上げる。
みるみる間に気勢が削がれ、何かを言いかけるように口をパクパクしながら押し黙った。
『水蓮が大好きなんだよ!』
青年の言葉がゆっくりと脳に染みこんでくるように理解が進むと、
水蓮の表情が面白いように赤く染まってくる。

激しい動揺の末に吐き出された水蓮の声は、嘗て無く弱々しく恥じらいを含むものになった。

「そ、、、そ、そなた……こ、この状況でそれは反則じゃぞ?!」
「嘘じゃないよ、好きだから、死んで欲しくなかったから俺は……」

先ほど残され貴重な力を使い水蓮が青年の怪我を治癒したように、
青年も好きな相手が苦しむのを見ていられなかったのだ。
どうして青年が此処まで水蓮を生かそうと、己を犠牲にした理由が此処に明かされる。

「ぐぅぅ……」
「ふぅ、何か凄く疲れたけど、スッキリしたよ」

何処か吹っ切れたような青年の声が水蓮に届く。
光を失った彼女の目に涙が浮かぶ……嬉しい。嬉しくないわけがない。
今にも青年に巻き付き絞め殺してしまいそうなほど、
心が震えて体に歓喜が満ちている。

そして、それを塗りつぶすほどの悲しみも……

「…………それで、妾にどうしろと言うのじゃ、もうすぐ朽ちるこの身で」
「だから、俺が生け贄になるよ。もうそれしか……」
「嫌じゃ………それだけは絶対に嫌じゃ!!」

生け贄を頑なに拒否する水蓮だが、青年の言葉にはまだ続きがあった。

「うん……そう言うと思ったから、俺は……」
「……んぅ?」

殆ど視力を失った世界……影の陰影のみで周囲を識別している水蓮の目に何故かそれがハッキリと見えた。
今までで最高の笑顔をしてみせる青年の笑顔が……

「ごめんね、怒っていいから」


”バシャーンッ!”


青年の声の後に響いた水音が沼地に響き渡った。
桟橋付近の水面は大きく波打ち、まるで人間大のモノが落ちたかのような波紋が走る。

「……ど、どうしたのじゃ?」

何が起こったか分からず、青年に問いかける水蓮。
だが、返事は返らない。

水蓮はただただ、その場に佇み…………沈黙……そして、理解した。

「こっ…………この、大戯け者が!!!!」


”ドッパァーーン!”


あらん限りの大喝の後に、半狂乱になりそうな意志をねじ伏せて沼の中に潜り込む。
しかし、最初の硬直が致命的な遅れを生んでいた。

水蓮にはどこに青年がいるのか分からない。

目を凝らしても視力を失った目は漆黒の闇を移すだけ。
全てを呑み込む沼地……落ちたモノは例外なく沼底にたどり着く。
なら沼に落ちた青年も底へと向かって沈み込んでいるだろう。

だが、水蓮は大きくなるばかりの焦りを抑え……当てにならない目を閉じた。

変わりに耳を澄ます。
唯一残された彼女の水音を感知する高感度のヒレを使い、青年の位置を探る。
僅か数秒でそれらしい水音がする方へと尾を伸ばし、
焦って潰さないように慎重に尾先に触れたそれを幾重にも巻き取り浮上した。

捕まえたモノを確認するまでもない、肌を通して伝わる暖かさはよく知る青年のものだから。



          ※   ※   ※



その後、青年を岸に引き上げた水蓮は何もせず、その場に佇むしか出来ずにいた。

「…………うっ……水蓮」
「やはり……お主は戯け者じゃったわ」
「ぐぅ……ぁぁっ……水蓮……」
「今やこの沼は毒沼じゃぞ? 以前に教えたであろう……に」

全身を沼の毒に犯され、青く顔色を変えた青年が藻掻き苦しんでいる。
それを水蓮は為す術もなく見ているだけ……
うわごとのように青年が発する自分の名前を聞き続けるだけで、心がはち切れそうになっていた。

「水蓮……がぅ…………すい……」
「ええい! 分かったわ、分かったから……そう何度も妾の名を呼ぶな」

その声が通じたのかは定かではないが、青年のうわごとが止むと、
水蓮はやれやれとばかりに頭を振った。

どうして青年が沼に身を投げたのかは、言わずとも水蓮にも分かる。
分からなければ本当に阿呆だ。
そして、青年はやはり戯け者だ。
どれだけ変わり果てた姿になったとしても、水蓮がそれを望むわけがないのに……




それでも……青年の覚悟が水蓮にもう一つの決断を選ばせたのは事実だ。




「そなたにもう一度言っておく、妾はそなたのことが大好きじゃ、戯け者め……
 此処まで妾の心を病ませ苦しめおって……」

忌々しくも、それ以上に愛おしく感じてしまう青年に水蓮はゆっくりと顔を寄せた。
薄く口を開き青年の耳元で呟く。

「いいじゃろうそなたの言うとおり喰ろうてやるわ……じゃが、妾はそなたにも生きていて貰いたい。
 じゃから……妾は……そなたを救ってみせる」

二人で生き残る手段があるのだ。今までそれを口にしなかったのにはそれ相応の理由がある。
それは神という生き物に定められた禁忌に触れる業。
水蓮は自らその禁忌に触れ……墜ちる……その覚悟を決めた。


『生死を……命を操る奇跡を扱う事なかれ』
『対価無しに人の願いを叶える事なかれ』
『他の神にその領域に干渉する事なかれ』


これが神の不文律……定められた法であり破ることを禁じられている。

無節操に強大な力を持つ神が、大きな奇跡を振るえば世界が可笑しくなるからだ。
世には邪神と呼ばれ、少数ではあるが災害を起こす奇跡を振るう神々も存在している。
そんな神々もこの法だけは守る。
何故なら、法を犯した神々は力を失い墜ちるからだ。

『墜ちる』とは、神でもない、生き物でもない中途半端な存在になるということ。
体には禁を破った証としてある変化が現れ、信を受け気を還すというサイクルからはじき出されてしまう。
それは神にとって、心を裂かれるほどの苦痛を感じるのだ。

地獄のような苦痛の果てに待つのは、緩慢な死。
半神へと落ちた神は信を集めることが出来ず、周囲の気をじわりと吸い尽くした末に死ぬ。

まさに今の水蓮のように……


だが、水蓮はそれでも構わない。
彼女にはもっと恐ろしい事があるのだら。

「そなたは……半端な存在の妾を好いてくれるかえ?
 あり得ぬと分かっていても……妾はそなたに嫌われてるのが一番恐ろしい」

他の何よりもそれが一番恐ろしい、それに比べたらこの後味わう激痛など取るに足りないことだ。
水蓮は顔を青年に寄せ、口づけをする。

今から水蓮が振るう奇跡、それは自分の命を相手に移し替えるもの。
口移しで注がれる命は青年の体に少しずつ浸透していった。
移し替えられる命が両者の体を淡く輝かせると、片方は癒やされ片方はゆっくりと衰弱していく。
命を注げば注ぐほど、水蓮は急速な倦怠感に襲われた。
それでも決して水蓮は重ねた口を離しはしない。

青年の命をギリギリでつなぎ止めるまでは決して……!
淡い輝きは時間と共に強さを増す、半身を沼に身を置く水蓮の全身が光で浮き上がるほど強く。

それは残酷であり、誰もが見とれる美しい光景だった。



だが、命を操る奇跡を振るっても……青年を完全に救うには未だ足りない。
沼の毒はそれほど深く青年の肉体を蝕んでいる。

それは水蓮も初めから分かっていた。
例え己の命全てを注いでも、遠からず青年は残された毒で命を落とすだろう。
青年を救うにはもう一つ別の奇跡が必要だった。

だが、それには一つ必要な物がある。
瀕死の青年から受け取らねばならないものが一つ……

だから、水蓮は消滅の危険を承知してでも、青年を一時的に蘇生させたのだ。

「がふぅ……わ、妾は消えぬぞ。共に生きると約束したからのぅ」

その命の殆どを青年に注ぎ終わり、揺らぐ体を必死に支える水蓮。
彼女の目の前で、命を注がれ血色を取り戻した青年が、うっすらと目を開いた。

「あれ……俺は…………」
「よく聞くのじゃ……うぅ……」

状況がよく呑み込めていないようだが、二人にはもはや本当に時間がない。
水蓮は用件だけを速やかに伝える。

「今から妾はそなたの覚悟に従い、その肉体を心を喰らう……覚悟はよいか?」

その問いかけに青年は返事を返さない。
変わりにただ頷く。

もはや二人に言葉は要らなかった。
青年の肉体には水蓮の命が巡り命をつなぎ止め、命が繋がっている今……
二人の思いは言葉以上に相手に通ずる。


軽く水蓮が頭を後ろに引くと一拍の間をおいて、青年を喰らうため口を開いた。
ぬらりと唾液が糸を引き、真下にある青年の体に滴り落ちた。


”ペロペロ”


それを舐め取ったのが青年の腕の太さほどもある細く長い舌。
先の割れた舌が涎を舐め、短い別れを惜しむように優しく体を愛撫する。
しかし、それも僅かな間だけ……

「……んぅ」

心地よさに声を漏らす青年の手が伸ばされると、その指先から舌がすり抜け戻っていく。
空を切った青年の手の平が握られ、また開かれるを幾度か繰り返えした。
気づかぬうちに目の前まで迫った水蓮の大きな口から吐息が吹き付け、暖かなそれが体の表面を流れる。

もはや水蓮は止まらない、一息に青年を頭から丸呑みにするため口を寄せていき、
青年はそれを迎え入れるように両手を大きく開く……そして、呑み込まれた。


”……ガブゥ”


「…………ぁっ!」

背中に鋭い痛みが走り、青年は身を捩ろうとしてもそれは叶わない。
閉じられた顎に体を押さえ込まれていた。
事故だった最初の時とはまるで違う。
支えるのではなく、青年を体内へと取り込むために水蓮は己の牙を突き立てていた。
加減はされているが、一本一本の牙は鋭い。

「……くぅ…………いぁっ!」

どれだけ手加減されていても、やはり肌は傷つき痛みが生じる。
その苦痛に青年は呻き声を押し殺しながら耐える。

正直に言うと、青年は怖かった。

覚悟を決めたとは言え、目の前に開かれているのが水蓮の口だと分かっていても、
生理的に嫌悪感を抱いてしまった。
それが生き物の本能、死を誘う入り口から逃れようとするのは当然のこと。

けれども……水蓮のためならと青年はそれを受け入れたのだ。
だから、痛みも堪える。

上下する蛇の顎の洗礼を受け、苦痛に声を漏らしながら奥へ奥へと誘われていく。

「うぁ…………んっ……あぐぅっ!」

それに伴い痛みも酷くなり、水蓮の咥内から響く青年の悲鳴も大きくなってきた。



それでも水蓮は……止まらない。
顎を絶えず動かし、青年を咥内へと引き入れ頬を歪に膨らませていた。
目からこぼれ落ちる涙が、彼女に青年の悲鳴が届いていることを容易に察せられる。
あの時のように投げあげた勢いに任せ呑み込んでしまえば、
このような悲鳴も聞かずにすむのかも知れない。

それでもあえて青年を自らの牙に晒すのは理由があってのことだ。
そうやって得られるモノを水蓮は必要としている。

だからこそ、乱暴に牙を突き立て青年からあるモノを奪い続けていたが……
それもそろそろ十分だった。
完全に青年を収めきった口をゆっくりと閉じつつ、頭を擡げ愛しいモノを喉の中へと流し込む。


”ゴクリッ”


自然に水蓮の喉が蠢き、青年を飲み下した生々しい音が響く。
水蓮の口から真っ赤に染まった舌が覗き、飲み下された青年の膨らみを撫でるように舐める。

「……良い味じゃったぞ」

喉を膨らませ胃袋へと押し込まれていく青年を見るのはこれで二度目。
あの時はこの喉越しを味わう余裕もなかったが、水蓮は思う。

(妾は本当は邪神じゃったのかも知れぬな……
 仕方がないこととは言え愛しいモノを呑み込み、それが気持ちよいと感じてしまうとはのう)

今まで知らなかった新たな感覚の芽生えに水蓮は少し戸惑うが、
次第にその感覚に引かれ……身を任せる。
目で追う膨らみは、沼の中へ続いている長い胴体部分へと落ちていったばかりだ。

まだまだ、この感覚を楽しめる。

「くくく……不謹慎じゃが暫く楽しませて貰うとしよう」

そう言うと、水蓮はまったく動かなくなった。
何も考えず意識を青年に集中させ、彼が体内を移動していく様をジッと感じる。

残りの時間が許す限り……




          ※   ※   ※




視界は呑み込まれた瞬間から暗闇に閉ざされたまま、今まで延々と続いていた。
すでに目を開いているのか、閉じているのかの区別も付かない。

ズキズキと痛む背中はいつの間にか痛みを感じなくなっている。
変わりに全身を強く押さえ込む、『内壁』強靱な筋肉で形成されている食道の抱擁に晒され、
新たな苦痛を味わっていた。


”ジュル……ジュリ……リ…………ジュル……ヌチャ”


内壁に押しつぶされた耳には粘液質な何かが入り込み、余りよく聞こえず。
それよりも永遠に続くかと思えるほど、長く蠕動を繰り返し体を揉み潰そうとする肉の洞窟。
強烈な圧迫感にもがきもしてみたが、咥内よりもより強い締め付けは緩むことはない。

そして、どこまでも落ちていく。
じわりじわりと力を心を削り取られながら……

「……ぁ……あぐぅ…………んっ」

不定期に襲ってくる強い圧迫感の度にあげてしまう呻き……いや、喘ぎ声。
締め付けが強すぎて、殆ど口を開くことが出来ないから、くぐもったように響く。

声もそうだが、呼吸がかなり苦しくなってきた。
息を吸うのを許されるのは、胸回りを締め付ける内壁が広がる僅かな間だけ。
そもそも食道の中、その奥に存在する胃袋の中にどれだけ空気があるのかもわかりはしないのだ。
酸欠で次第に意識も朦朧としてきている。

恐らく胃袋にたどり着くまで持たないだろう……


水蓮は助けてみせると言っていたが、最後にどうなるかまでは分からない。
けれども……例えどんな結果が待っていても受け入れるつもりだ。

でも……出来ることなら、最後まで見届けたかった………………ごめん、先に眠るね。



          ※   ※   ※



水蓮の体内を落ち行く青年は、その半ばで先に眠りについた。
波打つ肉の洞窟に身を任せ運ばれていく、とても安らかな表情を浮かべて……


”ズブ……ズブブ……グジュ…………グジュ……”


僅かに青年の体が湾曲し、体と内壁が強く擦れ泡立つ音が激しくなる。
その原因は内側からではよく分からないだろうが、外から見れば一目瞭然だ。

今までほぼ直線だった水蓮の体が、少しずつとぐろを巻き始めている。
その動きに青年を収めた胴体が垂直から水平へと向きを変えて、胴体が弧を描いた分だけ、
外側の内壁へと青年の体が強く押し付けられた。
膨らみがより鮮明に浮き出て見え、見方によっては醜悪であり、生々しい姿だ。

体内では青年を胃袋へと押し込むため、絶えず蠕動が繰り返され、
膨らみが止まらず移動していく。
見た目ではどこが水蓮の胃袋に当たるのか、
それを彼女の長すぎる胴体から察するには、このままでは難しい。
だが、それもそろそろ時間の問題だ。
送り出される膨らみの動きが徐々に遅くなってきている。
完全に動きが止まったところ、その場所こそが水蓮の胃袋のある場所だった。


”グジュ…………ズッ……ズチュゥ”


果てしなく長い食道の終わり、胃袋の中へと青年が押し込まれる。
広さはさほど食道内と変わらないようだ。
呑み込まれた相手に合わせて周囲の筋肉が、自然と胃壁を収縮させているせいだろう。
蛇のそれのように広さではなく、長細く柔軟な胃袋となっている。

もっとも水蓮がこの胃袋を満たしたことなど、一度たりとも無いのだが……
それを少しなりとも後悔させるほどの感覚が彼女に満ちていた。

「ふぅ……甘美な時間じゃったぞ」

膨れた己の体に水蓮が頭を乗せ呟く。
生死を操る奇跡を振るった反動が痛みとなって全身を蝕み始めているが、
水蓮は顔色一つ変えずにジッとしている。

いや……動いてはいた。
胃袋に収めた青年を取り込み力を得て、恐らく最後になるであろう神の奇跡を振るうために。

通常の生き物なら胃に収めた獲物は、消化液によってドロドロに溶かしてしまう。
それは獣の姿を模した神々も同じ事なのだが、
人身御供として、神の胃袋へと収められた生け贄の運命は少し違う。
より効率よく大きな力を得るために、肉体を丸ごと神の力として取り込まれるのだ。
それこそ身に付けている物、衣服、金属も例外ではない。


問題はどうやってそれを成すかだが……答えは単純な方法であった。


”グジュルッ! グギュウ……ググゥ……!!”


きつく青年の肉体を締め付けていた胃壁が、柔らかく軟化を始め蠕動するように蠢き始めた。
何をしていなくとも沈み込んでしまうほどに柔らかくなると、
それらの胃壁が隙間無く青年を包み込んでいく。
脇の間や鼻の穴などの僅かな体の隙間にもそれらは侵入していった。
そうやってあらゆる隙間を埋めると融合が始まる。

変化は青年の四肢の先端から始まり、包み込んだ胃壁と青年の体との境目がゆっくりと癒着を始めた。
時間が経てば経つほど境目は消えてしまい、最後には完全に胃壁の一部とかしてしまう。
この一連の動きは胃壁全体で起こり始めており、
すでに青年の肉体は半ばを胃壁に取り込まれていた。

取り込まれた部位はすでに水蓮の物となり、彼女の力の糧となる。
それ以上に彼女を愛する青年の肉体は、彼女に対する純粋な信仰心に満ちあふれ……
より大きな力を水蓮に与えてくれた。

そして、水蓮は青年を完全に融合を果たす。
愛する者と完全に一つになる一体感は、水蓮に震えるほどの衝撃を与えた。

「くふぅ……ぁぁ…………心地よい」

青年の全てを取り込んだ水蓮は、全盛の力を取り戻していた。
消滅しかけた肉体は元に戻り、当面の死からは免れたと言っていいだろう。


……が、それと同時に水蓮は神ではなくなりつつもあった。


激痛以外の異変が体の何処かで始まっている。
墜ちた証がゆっくりと水蓮の肉体に刻まれようとしているのだ。
それが体に表れたら最後……水蓮の賭は失敗に終わり、二人とも死という運命をたどるだろう

だが、水蓮は賭に成功しつつあった。
彼女の体にはそれを成し遂げるだけの十分な力が満ちている。

「……くくくっ、次ぎにそなたが目覚めたとき、どんな顔をするのかが妾は楽しみじゃ」

満ちた力が光り輝く胴体が解れ、とぐろが崩れていく。
再び鎌首を擡げた水蓮の紫の双眸は、光を取り戻し直ぐ先の未来を見つめている。


それを現実の物とするため、水蓮は最後の奇跡を振るった。



          ※   ※   ※



最初に青年を目覚めさせたのは、肌を刺す冷たい寒さだった。

「う……うぅ…………寒い」

寒い……とにかく寒い。
まるで自分が衣服を何一つ身につけず、真夜中の外に放りだされたかのような寒さだ。
身を出来るだけ縮こませて青年は寒さに耐える。

「……あ……あふぅ」

震える身体にすり寄る何かが、寒さに凍える青年を温めてくれた。
まるで子を守る母の手に抱かれるようなそれに包まれて、青年が再び微睡みに陥りそうになったとき……

「これまた寝るでないぞ、それでは依然と変わらぬではないか」

聞こえた声に青年は全てを思い出して覚醒を果たす。

「……ぅ……水蓮?」

まだ、寝起き特有の軽い脱力感から、体を起こす気にはなれず青年は目だけを動かし水蓮の姿を探す。
ところが目に飛び込むのは、綺麗な星の海が見えるだけで、
水蓮の姿はどこにも見あたらなかった。

「くくく……分からぬのかえ?」
「えっ? す、水蓮……何処にいるの?」

楽しそうに笑う水蓮の声が夜の闇のどこからか響いてくる。

「……意地悪しないでよ」
「別に妾は意地悪などしておるつもりは無いぞ?」
「だって、隠れてるじゃないか」

自分が一向に姿を見つけることが出来ていないことを棚に上げ、青年は身を起こして文句を言う。

声の大きさと方向から直ぐ近くにいるのは分かっている。
今も触れ合う肌の暖かみも続いているから、
直ぐに見つけられるはずなのに……どうしても見つからない。

それがもどかしい……すでに体には力が戻り、青年は今すぐにでも水蓮に抱きつきたかった。
でも、それが出来ないのが凄くもどかしく感じていた。

「これ、そのような泣きそうな顔をするでないわ」
「だって……」

涙ぐみ俯く青年には、やはり水蓮の姿を見つけることができなかった。
彼はまだ新たな瞳の使い方が分かっていない。

その事に気が付いた水蓮は、彼に瞳の使い方を教える。

「妾の姿がそなたに見えぬのは、そなたがしっかりと瞳を開いておらぬからだ。
 もっと目を凝らせ……ゆっくりとじゃぞ? ゆっくりと目の前を見つめてみるとよい」
「えっ? ……うん」

さほど難しい事ではない、要領を掴めば今の青年なら容易いことだった。
言われたとおりに青年は何度か瞬きしつつ、目を凝らす。

「あ……れ?」

最初は何も見えなかった暗闇に、うっすらと何かの輪郭が見えだしてきた。
直ぐにそれが水蓮の頭だと判別できるようになり、青年はもっとよく見ようと目を凝らす。
するとさらに視界が明るくなる。
夜の闇に目が慣れてきたというレベルではない。
まるで昼間のように夜の世界を見渡せるほどになっていた。

「これって……どういう?」

青年が驚くのも無理はなかった。
だが、夜を昼間のように見通す目が青年の新たな瞳なのだ。

自分の身に何が起こったのか、今の青年はまるで自覚がない。
不安に駆られ、自然と水蓮に答えを求めようとして……声を失った。

「くくっ……ようやく気が付いたようじゃのう」
「水蓮……その姿は?」
「……そうじゃの、奇跡の代償と言うところか?」


そう……水蓮は代償を支払った。
生死を操る奇跡を二度も使い、命を弄んだ代償に彼女は墜ちた。

その証が、今の水蓮の姿……漆黒の鱗に包まれ黒光りする大蛇の姿である。
更に額に見えるもう一つの証……第三の巨大な目。
軽く開いて見せた口には以前より大きく、鋭さを増した牙が二本……漆黒の毒牙だ。

それらのどちらもが、夜の闇よりも暗い漆黒を湛えていた。


「言っておくが……妾だけではないぞ? そなたもじゃ……よく自身を見てみい」
「えっ……ええ?! この姿は……ええええ?!」

青年の驚く悲鳴が夜の闇に木霊する。
無理もない……変化したのは水蓮だけではなかったのだ。

彼女に取り込まれ、一度は存在そのものが消し飛んだ青年も元の姿に再生することが出来なかった。

「……すまぬ、こんな形でしか二人一緒に生き残るのは無理じゃった」
「うぅん……構わないよ。一緒にいられるのなら……」

三目の黒蛇となった水蓮を見つめる青年の姿は、『白蛇の大蛇』。

全長は八メートルほどと、水蓮と比べるまでもなく小さいが、
美しい紅い双眸を持ち、汚れのない純白の鱗を持つ白蛇へと姿を変じていた。

更にその体から湧き上がる淡い光……

白蛇となった青年の体には、注がれた水蓮の命……神の力が宿っている。
もちろん本物の神ではないから、神名を授かった訳ではない。
行使できる奇跡も極小さな物に限られるだろう。

「でも、一体……どんな手段を使ったの?」
「……くくく、内緒じゃよ」

その問いには水蓮は答えなかった。
何かを言いたそうな顔する青年だが、追求は意図的に避けた。


二度目の奇跡……生死を操る奇跡で青年を別の存在へと転生させたのである。
それも半ば強引な方法で。

一度は存在を消し飛ばされ青年の魂は水蓮と同化した。
本来ならこれで終わりだ。
水蓮はただ一人生き残り、当面の間は消滅を免れ生き続けるだろう。

だが、それでは同じ事の繰り返し。
『二人で生きる』それを叶えるために水蓮が必要とした物……それは血液。


牙を突き立て青年から奪った血液を媒介に、水蓮は同化した青年の魂を無理矢理引きはがしたのだ。
同時に毒素も自身が引き受ける。
それが漆黒に染まった毒牙の正体……青年を蝕む毒素を受け入れた証。
長年沼に体が慣れていた水蓮の肉体は、毒に蝕まれるどころか逆に順応してしまう。

結果だけを語るのなら、水蓮は賭に勝ち、成功を収めたと言っていいだろう。
しかし、言うだけなら容易いが、行うのは至難の業だった。

下手をすれば失敗し、青年の魂を壊してしまう可能性も十分にあったのだ。
そうならないために水蓮が利用したものが、もう一つある。
……それは青年に注いだ自身の命。
それが青年の魂を包み込み、崩壊から守ったのだった。

そして、その命は青年の中に取り込まれ、息づいている。
どれが一つ欠けても成功しなかった奇跡。

その奇跡の御陰でこうして二人は一緒にいられる。

「……ところでのう、そなたにお願いがあるのじゃが」
「僕の名前のことだね?」

だが、水蓮はその言葉に違うと頭を振った。

「えっ? でも、僕の名前を知りたいんじゃ……?」
「そなたの名前はすでに知っておる……くくくっ、妾とそなたは一度一つになったのじゃぞ?」
「……あっ」

魂の融合…それは全てが相手に筒抜けになると同義語だ。
あの瞬間から、水蓮は青年の全てを知り得た。

つまり青年の名前もだ。

「『コルト』……何とも、可愛らしい名前じゃのう」
「あぅぅ……だから、知られたくなかったのに」

今や白蛇となった青年は顔を赤くし俯いてしまう。
それを意地悪な笑みを浮かべ、黒蛇となった水蓮が楽しそうに笑う。

姿形が変わっても……やはり二人は変わらない。

「それで……願いてなんなんだよ?」
「そういじけるでない、可愛らしい顔が台無しじゃぞ?
 ……妾は神から墜ちたもはや神ではない。つまり妾は神名を失ったのじゃ」

神名を失い……今や水蓮は水蓮ではなかった。
名前のないただの黒蛇……だから、水蓮はコルトに願う。

「コルトや……そなたが妾の名前を付けてくれぬか?」
「えっ? い、いきなり言われても……やっぱり、水蓮は水蓮で良いと思うな」

姿が変わっただけ、中身は何も変わらない……
どんな姿になっても水蓮は、コルトの大好きな水蓮のままなのだ。

だから、名前も水蓮のままでいい。
そう訴えかけるコルトの言葉に、再び水蓮と名付けられた黒蛇は嬉しそうに笑う。

「ならば、妾は水蓮じゃ……それでよいな」
「うん!」
「ではコルトや、これからが大変じゃぞ……
 何せ妾達が二人で生きるためには、色々としなければならぬ事が多くあるからのう」

確かに二人の前には課題が多くの課題が残されていた。


彼らが生きるための念や気の問題。
そのために犠牲になる自然をどう維持していくのか。
荒れ果ててしまった沼地をどうやって戻すのか。



しかし、今だけは……

「でもね……今日だけは……二人で静かにこうしていたいよ」
「………………妾もじゃよ」

そっと黒蛇の体に寄り添った白蛇が幸せそうに目を閉じる。
それを支える黒蛇は何も言わない、動かない……
静かに眠りについた白蛇の鼓動を感じて、自分も静かに目を閉じたのであった。



          ※   ※   ※


それから…………気が遠くなるほどの年月が流れ、あの沼はやはりそこにあった。
そして、あの二人も変わらずに……

「のう……コルトや」
「なに?」
「そう言えば、何時から妾の事が好きになったのじゃ?」
「えっ? それは……もうっ! そっちはどうなの?」
「わっ妾か? う、うむ……分からぬ、気が付いたら好きになっておった」
「そうなんだ……俺は……やっぱり秘密にしよっと」
「なっ! コルト卑怯じゃぞ!」
「あははははっ!」

変わらぬ二人の関係……でも、心の絆はより強く結びついていた。
一対の白と黒の蛇が沼の中へと消えていく。

波打つ水面が収まると……二人の姿は影も形も見えなくなっていた。


The end


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