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【保】いない − 旧・小説投稿所A

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【保】いない

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段瀑は岩肌を飛ぶように落ちて、いくつもの白い糸を降ろしていました。


水の流れは、積み重なる壇を滑ってはまた新たな壇にぶつかって、
小刻みに分かれながら美しく滝を作っています。
隠れるもののない澄んだ水も、段となる際には光に照らされ、白い幕となっています。
主張しすぎない、謙虚でも確かな美を持った滝が、そこにはありました。


渓畔林は午後の光を一身に浴びて、ときどき風にそよいでかさりと鳴りました。


うららかな日差しが森を照らしています。
じりじりとした厳しさはもうすっかりと影を潜め、
すっかり太陽が昇った今でも、やさしく光は森に降り注ぎます。
木の葉の擦れる音は、水のせせらぎと織り交ざって、しとやかでありました。


足取りはしっかとして揺るがず、けれども一歩一歩が踊るように軽妙でした。


秘めやかなる森のそば。
清らかな滝を追って。
オーダイルは歩いていました。

落ちる滝を横目に悠々と。
葉擦れを遠巻きにしてすいすいと。
鼻歌を歌いながら軽やかに。
彼は滝を降りました。そして、一言つぶやきました。

「んー? ……なんだ、まだいないのか、珍しい」

オーダイルは、シャワーズに会えるだろうと思って、この渓流を下ってきたのでした。
この滝は、彼女が世界で一番気に入っている場所であることですし、
彼自身とても好きな場所でありました。
景観もさることながら、ほとんど誰にも知られてはいないという専有感が、
彼女と二人の秘密であるような気がして、心弾む空間だったのです。

うろうろと散策をしていたため、すでに太陽が真上を少し過ぎてしまったのは失敗でしたが、
今日は天気もいいことだし、きっと彼女はうたたねでもしているだろうと思っていました。
もしも無警戒にも居眠りしているようだったら、どうやって驚かせてやろうか。
そして、彼女はきっとこんな言い訳をするのだろうな、と想像をしてほくそ笑んでいたのです。

べ、別に油断してたわけじゃないんだぞ?
ほら、ダイだし? ダイだってわかってたからボクは寝続けてたんだよ。
いずくにかのなにがしさんだったら、ちゃっちゃと起きてとっくのとうに逃げてるさ。

ところがそこに彼女はいなく、彼は少し拍子抜けしたのでした。


   *   *   *


木々の向こう側で、オーダイルが辺りを見回しているのが見えました。
オーダイルは眉間にしわを寄せて、きょろきょろと周囲を伺っています。
それは、何かを探すかのように。

見つかったか。

そう思って、少し身構えます。
オーダイルはそのまま、こちらに背を向けて、腰をおろしました。
川に足を浸して、右手で水を跳ね上げます。
水は少し宙に舞って、音を立ててまた水面に還っていきました。
どうやら、こちらには気付かなかったようです。

バレては、面白くない。

一安心。思わず息が零れて、慌てて口を抑えます。
オーダイルは退屈なのか気にいったのか、あるいはその両方か、水をもう一度投げました。
見た目に似合わないかわいらしい行動に、少し口元が緩みます。
恐らく、今の自分はものすごく意地の悪い顔をしていることでしょう。
口元の大きく歪んだ、意地の悪い笑顔を。

さて。

木々の隙間を縫うように、そっと森から這い出ました。
オーダイルの青い背中に忍び寄ります。


   *   *   *


「やっほー。ご機嫌いかがかな? ダイ」

「おう? なんだいたのか。隠れてるなんて意地の悪いやつだ……、!?」

「あはは、気付かない方が悪いってば。のんきなやつ」

「お前……、それ、……え?」

「ああ、これ? うーん、やっぱりびっくりしちゃうよねえ」





「こーんな、ドロドロじゃあ、ねえ?」







木々を薙ぎ倒しながらオーダイルに忍び寄ったのは、

ヘドロの体。

見慣れた顔。

少年のようにおどけた喋り。

いつもつるんでいるあのシャワーズの、変わり果てた姿。




   *   *   *


彼女の姿は、彼が最後に見たものとは大きく異なりました。

まず、全身がヘドロで形成されています。
腰から下はドロドロと崩れ、一般のベトベトンのようにとろけています。
這った跡はヘドロで汚染されて、草木が枯死していました。
尾ひれのついた尻尾が、ずるずると引きずられています。
ヘドロの体だというのに、不思議とにおいは感じません。
それから、積もったヘドロの頂点より、シャワーズの上半身が生えています。
背筋がすらりと真っ直ぐ天に向かって伸びて、まるで二足で歩くかのよう。
なぜだか、彼女の顔が近くに感じました。

「お前、それっ、どうしたんだよ! 大丈夫か!」

「わわ、だめだってば!」

「……っ!」

オーダイルは彼女に掴みかかりましたが、
手の平が少し触れた途端に走った痛みに、思わずその手を離しました。
触れた部分が少し、赤く爛れています。

「あ、悪ィ……」

「一応今のボクの身体はベトベトンなんだから、触っちゃだめだよ! 見てわかるだろう!?
 ……あーあ、ほら言わんこっちゃない。手がとけちゃうよ?」

「ごめん」

「なーに謝ってるのさ。まったく、お人好しなんだから」

「それでも、やっぱり突然こんなことされたら、傷つくだろ」

むしろ。
ボクがこんなんでも、迷わず掴みかかろうとしてくれるのは、少し、ううん、かなりすごくとっても嬉しいかもね。
そんな照れくさい言葉は噛み殺して。
焦りながら少ししょげるオーダイルにかけるのは、別の言葉でした。

「別に、当たり前だろう? ベトベトンは毒なんだから」

「……どうして、こんなことに?」

「かくかくしかじか」

「意味わかんね―よ」

「ジョークジョーク」

「ふざけてる場合じゃないだろ!!」

オーダイルの怒る様に、彼女は少し驚いて目を見開きました。
なんだか、彼が怒るのはすごく久々な気がします。
殊、自分に向かって怒るのは。
それだけ自分のことが心配なのかな、と思うとなんだか嬉しくなりました。
一方彼は、彼女が予想以上に驚いたので若干申し訳なくなり、あー、と声にだして呟いていました。
ちゃんと教えてくれよ、という意味もこめて、真剣な顔で彼女をじっと見つめます。
吸い込まれるような眼差しに、彼女は顔に血が昇りそうでした。
昇る血なんて、もはや通っていないのに。

「だって、お前それ……、大丈夫、なのか? 辛くないのか?」

「当面のところ、不調はなさそうだよ」

「どうして、そうなった?」

「ベトベトンに襲われて、一体化しちゃったみたい」

「……喰われたってこと?」

「いや、一概にそう決めつけられるわけじゃなくってだね……、
 話すと長くなるんだけど、しかもボク自身あんまり理解してないんだけど、
 簡潔に言うとね、ボクはたぶんベトベトンに勝ったんだよ」

「はァ?」

「いやまあまずは取り込まれちゃって、それからたぶん、精神面で勝った。
 誰があいつにボクなんて差し出してやるもんか」

それがダイならいざ知らず。

「精神的に優位だったのは、ボクの方なんだよ。
 そうだね、”ボクはベトベトンに取り込まれた”んだけど、
 ”意識でボクはベトベトンに打ち勝った”んじゃないかな?
 だから、ベトベトンの身体でボクの意識の、極めて奇妙な複合体が誕生した、んじゃない?」

「んー、そんなことが本当にあるのだろうか? なーんて言ってみたとして、
 現実には、そうなってるわけだもんなあ……。
 起こってしまったことは変えられないよな、うん」

ちょっと俯き、腕組みをして考えるオーダイルの姿はなんだか妙に様になっていて、
少し惚れ惚れとしてしまいました。
何かを考える際に腕を組むのは彼の癖でしたが、
うつむくのはあまり見たことがないなあ、とのんきなことを彼女は思います。

「何か、変わったことはあったか?」

「うーん、ボク、臭いかなあ? 自分のにおいは自分じゃ気付けなくってね」

「……そういえば、全然臭くないな」

「あ、そうなの? 良かった、それはちょっと救いだな。
 ベトベトンはけっこうにおってたから、心配だったんだよ。
 これでも女の子なワケだし? やっぱり臭いのは恥ずかしいよ、ごめんこうむりたいね」

なんといっても、君の前であるわけだし。
そんなこそばゆい言葉は呑みこんで。
オーダイルは呆れながら次の言葉を紡ぎます。

「ていうかさっきからお前、すっごくのんきだな……。
 どっちがのんきなやつだって話だよ。
 どうせあれだろ? ベトベトンに襲われたのだって、のんびり惰眠をむさぼってるからだろ?」

「むぐぐ、耳に痛いお言葉」

「しかも身体がヘドロになっちゃったというのに、妙に飄々としてやがる。
 挙句の果てには、気にするものがよりにもよってにおいときたもんだ。
 まったく、心配する気も失せるだろうが」

「あは。心配してくれてありがとう。
 でも腫れ物を扱うように接されるのはごめんだね。ヘドロだけど」

「とにかくさ、なんとかしなきゃいけないだろ?」

「なんとか?」

「お前を元通りにする。シャワーズとベトベトンに、分ける」

彼は彼女を見つめて、そう言いました。
いつだってこいつはそうだ。何かがあっても、大抵は隠す。
それが強がりだってことくらい、こちとらわかってるんだよ。
本当は不安だろう。怖いだろう。精一杯虚勢を張って、ごまかしているんだろう。
君には迷惑をかけたくないんだ、とでも気取るつもりか?
いいじゃねーか。迷惑ぐらいかぶってやるよ。
その分おれだってお前に迷惑かけてやんよ。それでいいだろ。
本当に一番辛いのは、突然わけがわからないことに巻き込まれた、お前なんだから。

彼女は彼に見つめられて、そっと息を吐きました。
まーたお節介なことを考えてるんだろうなあ。
まったくもう、昔っからほーんと、お人好しなんだから。やんなっちゃう。
そりゃあ、心配してもらって嬉しいよ? 構ってちゃんみたいでちょっとみっともないけどね。
これだけ真剣にボクのこと考えてくれるんだもん、嬉しくならないわけないじゃないか。
でもさ、でもね。
その”心配”は、何に起因する感情?
その”心配”の対象は、君にとっての、何?
ちくりと痛んだのは、彼女の胸の、なんなのでしょうか。

「……そんなことできるのかな」

「おれができなくとも、誰かにさせてみせるさ」

「なんだよそれ、無責任なやつ」

「世界は広いんだ。絶対どこかにそんな芸当ができるやつがいるだろう」

「いやいや世界は案外狭いんだよ? 君とボクが出逢えるくらいに」

「それなら話はもっと早い。狭い世界ならそいつを探すのも楽ちんじゃないか」

「もう、なんでそんなにポジティブなのさ」

「ネガティブよりかはよっぽどましだろ?」

「おれを頼れと言わんばかりのやつがネガティブだったら責任問題に発展するね」

「見つかるまで、ずっと一緒に探してやるよ」

「……へえ。ずっと?」

「ああ」

「一緒に?」

「一緒に」

「男に二言はないね?」

「もちろん」

「ふうん」

ヘドロのからだをぐにょりと伸ばして、オーダイルを覗き込みます。
品定めをするように目前まで接近しても、彼はこちらを見据えたままでした。
ヘドロの彼女に触れたら大変だというのに、少しも避ける素振りを見せません。
触れても別に、即なんとかなるわけじゃあありませんし、
そもそも自分が言い出したことなのですから、それに対する覚悟を見せるのは当然のことに思われたからです。

「……ふうん」

彼女はもう一度呟いて、身体を元に戻します。
これで避けられでもしたら、どうしていたことでしょう。
彼が避けないだろうという確信があったのですが、それでも不安は不安でした。
けれども、やはり彼は避けませんでした。
触れば毒に侵される、そんな自分が触れそうになっても、全然気にしませんでした。
やはり彼は、他の誰とも違う、たった一人の決定的な、彼であって……。

「な、行こうぜ」

「そだね、うん。
 …………ありがとうね」

「……お前さあ」

「ん? なあに?」

「バレバレだって。
 本当は、不安なんだろう?」

「あは、べっつにー? なんでボクが不安がらなきゃならないのさ」

「嘘つけ。お前、わかりやすすぎんだよ。
 最初っからずーっと、不安を押し隠したような顔してさ、
 自分の顔見てみたか? すごく泣きそうな顔してるぞ? 超涙目なんだぞ?
 まったく、どこが不安じゃないって?
 そんな顔されたら、」


放っておけるわけ、ないじゃねえか。









放っておけない? 放っておけない。
放っておけない、ねえ……。

ねえ、ダイ。






<2011/12/16 21:53 ホシナギ>消しゴム
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