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バベルの塔 − 旧・小説投稿所A

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バベルの塔
− どうぞ、お先に −
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ジュカインは腰を折り曲げ、体操座りのまま静寂を聞いていた。
完全に意識が孤立していた。視界がぼやけ、目の前に転がっている小石が2つに見える。何より、まだ肉体があることが驚きだった。

カイオーガの部屋を出てから、もう随分と時間が経っていた。
本来ならもう、身体のほとんどは灰となって消えているだろう。
だが心の奥底に眠る、とてつもなく強い意思がそれを許さなかった。
最後のコンマ一秒がやって来るまで、身体の臨界点をどんどん先延ばしにしている。

いや、それ以前にこの状況下で、ジュカインは未だに震えてはいなかった。
「死」という絶対的な未来が、まるで他人事のように思えてくる。
限界まで生きたいという願望はあったが、なぜか、死にたくないという恐怖は微塵もなかった。単に、実感が湧かないだけかもしれないが。

ジュカインは座り直した。奈落のように深いため息を二度繰り返した。
腕から伸びた鋭利なブレードをそっと撫でる。自分の肉体に触れられる幸せを、今いっぱいに噛み締めた。
今度は顔にも手を当ててみた。温かくも冷たくもなかったが、いつの間にか小さな桜の花びらが貼りついていた。手の上にそれを載せ、フッと息を掛けて飛ばす。可憐な踊り子のように飛んでいくその様子を、ジュカインは目で追っていった。


「……あっ」

柄にもなく、女の子のような声を出してしまった。
だがそれも仕方がない。花に釣られて上を向いた視線の先に、カイオーガが悠々とした表情で立ち尽くしていたのだ。
桜の花は、音もなく彼の頬にくっ付いた。


「ジュカイン」

カイオーガはヒレを差し出した。立って、という無言の指示が聞こえた。
ジュカインは呆然として、彼の両ヒレに手を置いた。途端に腰が地を離れ、ふわっと宙を漂うように立ち上がらされた。カイオーガの握力は強かったが、どこか優しかった。

いざ立ち上がってみると、世界が急に膨らんだような気がした。
見回してみても、ルギアやゼクロムの影は無い。もう逝ってしまったのだろうか。

「こっち向いてて」
「……っ…」

ヒレで頬を押さえ付けられ、首の自由をあっさり封じられた。
イルミア島にいた頃とほとんど変わらない彼の顔が、数十センチ先で無邪気に微笑んでいる。
昨日までは何ともなかったのに、今日は頬に血が集まっていくの感じた。
それを揉み消そうと、ジュカインは力押しで声を絞る。いつもの如く陽気に話し掛けたかった。


「な、何だよ…。俺の死に顔でも拝みたいのか!?」

我ながら何という罵言だろう。これが見送りに出てくれた友に対する態度なのか。
即座にジュカインは「ごめん」と呟いたが、一度口に出した言葉は返ってこない。
しかしそれでも、彼の顔から微笑が消えることはなかった。


「………面白い話、してあげよっか…?」

カイオーガは目を閉じ、額から倒すようにして顔を近づける。お互いの額がピタッとくっ付いた。カイオーガの穏やかな吐息が、微かにジュカインの顔をくすぐる。
恐怖とは異なった意味で、彼の動悸は速くなっていた。


「生涯ってね、ながーい線路みたいなものなんだよ? 短いのや長いのがあれば、山や谷を通るのだってある。
でもね、終着駅は誰でも一緒。ひとりひとり線路の長さは違うのに、行き着く場所はおなじ。不思議でしょ?」

不思議な感覚だった。焦燥や恐怖がスーッと引いていき、代わりに勇気のように温かいもので心が満たされていく。
そうだ、ひとりぼっちの孤独な世界に行くわけではない。死は平等に、亡者を同じ場所へと連れていく。

これが彼の激励に隠れた魔法なのだろうか。ジュカインはようやく、死の間際で掛けられる言葉のありがたさを痛感した。


「……なぁ、カイオーガ」

やがて、胸にひとつの決意を決める。



「…頼む。俺の墓標になってくれ」

「……!!」

恐らくカイオーガの脳裏には今、10年前のあの日の光景が浮かんでいるに違いない。
それも当然、ジュカインはあの日と全く同じ願いをカイオーガに託そうとしているのだ。
とどのつまりーーーー自分を食らってくれ、と。


「……分かってるよ。お前は俺を殺したことを後悔してくれてたんだろ? それも10年前からずっと。
…俺も同じだよ。なんであんなことお前に頼んだんだろうって、今でも思う。
メモリの力じゃなくて、自分の鼓動で生きていられたらって……。

……でも過ぎたこと言ったって仕方ないんだ。
あれがあの日の俺の決断であって、お前の判断だったんだから。
でもこれは違う。こんな何処かも分からない土地の空気に散るより、お前の中で息絶えられたらどんなに幸せか!!」

元々、カイオーガに消化されて死んだ身だ。復活する日まで彼の血肉でいたのだから、今さら墓場を替えるつもりはない。むしろそれが本望だった。



「……うん」

ジュカインは時間が無いことも含め、カイオーガがすぐさま動いてくれたのが嬉しかった。
彼の岩々のような牙が露わになると、ジュカインはその先端を撫でた。指先にツンツンとした痛みが走る。奇跡的にまだ痛覚は消えていないらしい。
カイオーガが息を吸うと、若干顔が引き込まれた。逆もまた然り。
彼の口臭は無いも同然だったが、わずかに10年前よりも人間の匂いが濃かった。
きっと今は、島とはまったく異なった生活を送っているのだろう。


アグッ…チュ……はむっ…

「う……あぅ…!!」
「ちょっと我慢してね」

胸板と背筋が牙に挟まれたかと思うと、ゆっくり咥え上げられる。
徐々に頭に血が昇っていき、ジェットコースターが最頂点に達したときのような気分だ。
今更だが、脚から呑んでもらった方が良かったかもしれない。

「……あっ、そう?」

「えっ…!! うわあっ!!」

あろうことか、カイオーガは顎に力を込め、俺をアザラシのように天高く放り投げた。
忘れていた。確か、こいつって触れた相手の思考が読めるんだったっけ……

空中を三回転だか四回転だかした後は、足先からすっぽり口内に収められる。
目の前で牙がガチンと閉まったときは流石に身震いしたが、その一瞬の恐怖も、肉厚な舌の上にいると知った刹那に飛んでいった。質感はまるで、水の代わりにお湯を入れたウォーターベッドだった。
堅い口蓋に挟まれているため身を捩ることは出来なかったが、指先でギュッと舌肉を押してみると、唾液がどっぷりと染み出すのを感じた。

んちゅ……ゴポッ、ポポポポ……ぬちゅぁ…

そんな訳ない、と答える前に舐めまわしの時間が始まっていた。
唾液がジュカインの顔をまみれさせようと、舌や口蓋や側壁からジュプジュプと流れ出る。
そして、それを擦り込むのは巨大な舌の役目。
ゴムよりも柔軟な肉塊が、あっという間にジュカインの身から乾いた部分を消し去った。

時折、カイオーガは甘噛みも仕掛けてきた。一歩間違えばこのまま即死だというのに、彼の牙使いは好戦的というか、敵兵を相手にしたように過激だった。
幾度となく唾液の糸が顔から引き、切れてはまた、グチュッという音とともに新しい糸が生まれる。その繰り返しだった。






「……ジュカイン、もういいよね…?」

舐めほぐされていた数分間。ジュカインにしてみれば死に至るまでの最後の洗礼だった。
既に彼の足元には、押し合いへし合う巨肉の扉が待ち構えている。あとは指一本でもその穴に触れば、ジュカインの肢体を呑み下すのに2秒とかからないだろう。


「カイオーガ……あ、ありがとな…それと…」

人生の終わりに、いったい何を言えばいいのだろう。ヒトよりも小さな脳をフル稼働させ、伝え忘れていた言葉をまとめる。あの日の「ごめん」や、今日の「おめでとう」や……





ーーーー違う。
過去じゃない。今でもない。重要なのはこれからだ。
彼の行く末を労われないまま、「ごめん」で死んでどうする。
死の崖っぷちに立ってもなお、親友の未来に希望を掛けてやれないでどうする。




「俺はこれから死ぬけどさ……お前は違う!!
可愛い嫁さんつくって……子供もいっぱい持って、ヨボヨボになって…。
700年以上の人生、絶対に生き抜けよ!!!! それまで俺とは……」


ーーー俺とは…….


それ以上は言葉が出なかった。ここにきて始めて、涙が止まらなかった。
輝かしい未来を一緒に迎えられない悔しさに、ジュカインはひたすら辛酸を嘗めた。

……何故、あの日、自分は死を望んだのだろう。
……何故、ちょっと不幸に見舞われただけで、無限の未来への架け橋を、自ら落としてしまったのだろう。
あと数時間でも生きていれば、生きる希望のひとつやふたつ、見つかったはずだ。
それをどうしてーーーー




ギュムッ・・・ゴポッ・・

カイオーガは喉を鳴らす直前、舌先で、食道や気管とは違うもうひとつの道へジュカインの体を押し込んだ。
「ゴクリ」という嚥下の音は無い。それもそのはず、その行き先は彼の舌袋なのだから。
右胸の辺りに丸っこい膨らみが生まれ、やがてスウッと幽霊のように消えた。口の中が微かに砂利っぽかった。



「……おやすみ、ザイン」

今思えば、彼を下の名前で呼んだことなどなかった。
喉の奥からせり上がるしゃっくりを抑え、カイオーガは天を仰ぎ見る。
雪のように白い飛行機雲が、見事な直線を描いて青空を走っていた。



バベルの塔 END



ご完読、本当にありがとうございました!!
<2012/03/04 21:11 ロンギヌス>
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