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【保】竜と絆の章4 火竜の印 − 旧・小説投稿所A

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【保】竜と絆の章4 火竜の印

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『塔の中に宝がある』


そんな噂が流れ幾月が過ぎていた。
人づてに広まる噂はいつの間にか、遠い街にまで届くようになっている。
……それがとても奇妙だ。
普通の噂話はこんなに長続きなどしない……
何度も話題に取り上げられるような話、世間を騒がせている有名な話ならまた変わってくるのだが、
広がっているのは子供が作ったような根拠もない、信憑性のかけらもない、
まるで御伽話のような単なる噂話が……だ。

それが何時までも消えずに残っている。奇妙だと思わないだろうか?

どうやら、そう思った者達がこの世界にも数多くいたようで、
塔の周辺にある近隣の村や町には、物好きなもの達が集まり賑わいを見せてようになった。
誰が流したのかも分からない噂を頼りに、よくこれ程の数が集まったモノだが、
よくよく考えると分からないから、夢中になるのかも知れない。

だが、それは幾月の時間が経過したいまも、これだけ噂が広がると言うことは、
いまだ塔の真実を確かめて、帰還した者がいないと言うことだ。



          ※    ※    ※



遅すぎるぐらいだが、少しだけ塔のあるこの土地について説明しておく。

地理的には南国……といったふうだろうか?
気温は南国らしくやや高めで、天候は……温帯な地域にしては雨が少ない(ただし、降るときは凄まじいが……)。

雨があまり降らないにしては不思議なほど、鬱蒼と茂るジャングルを連想させる広い森が、
この地域の半分を覆っていて、残りの半分の半分が広い平原になっている。
人間達はこの平原に幾つかの街をつくって住んでいると言った具合だ。
そして、残りの四分の一は川だ。
大きな川が森を東と西に分けるように流れていていて、長い時間の間にできた支流が森の中を
網目模様のように流れている。

このとてつもなく広い森の中央に……塔が立てられていた。


それゆえ塔を目指すには、必ずこの森を通って行かなくてはならない。
それが困難な試練になると分かっていてもだ。

背が高く生い茂る木々が視界を遮り、同じような風景が容易く方向感覚を奪い去る。
もし翼を持つ者ならその心配も要らないだろうが、多くの者はそうはいかない。
進むことも戻ることも困難なこの森を行くには、常に磁石を使用して自分の位置を確認することが必須だ。
それを怠った者はいずれ力尽き、弱り果てたところを森に住む、
獰猛で狡猾な生き物たちに襲われ、食われてその命を落とすことになるだろう。

さらに道を進む者の前に立ちふさがる、幾多もの川。
川と言っても、川幅が恐ろしく広いものもあって運が悪ければコースを変更しなければ、
前進することも出来ないと言う状況もざらである。



          ※    ※    ※



そんな森の中を一人の少年が歩いている。
それも真っ直ぐに塔を目指していて、もうすぐ森を抜けそうなのだ。


あともう少し……そう、目の前の茂みを抜ければ……




”ガサガサッ!”


「はぁ……はぁ……ようやく……着きました……」

茂みをかき分けて急に開けた視界に、安堵する少年の額からは一滴の汗が流れ落ちる。
背丈は小学生の高学年と言ったところだ。
森を舐めているのか、身に付けている衣服も素肌が剥き出しの半袖半ズボンという出で立ちで、
滴り落ちる汗を肩口で拭いさると、疲れたように息を吐き出した。




”ドサッ……ズッ”


汗を拭った際に力を抜いたのか、少年の背中から背負っていたリュックが滑り落ちた。
随分と重そうな音を立て落ちたリュックが、自重で傾きそのまま横倒しになる。
この森を抜けるためや、塔を探索するために用意したものを沢山詰め込んだ大切なリュックだが、
長旅に備えて少々詰め込みすぎ、かつ大きすぎたようだ。
更に付け加えると、少年はリュック以外にも、肩から提げる大きなカバンまで身に付けていた。

見た目からして明らかに重量オーバー……
疲れきっていて当然である。


「……さ、さすがに疲れましたよ。少し休憩にしましょう……はぁ……ふぅ」

呻くように呟く少年の額からは、再び汗が噴き出してポタポタと地面に滴り落ちてる。
汗でびっしょりと身体に張り付く衣服を引っ張りながら、
少年は身体を休めるため下ろしたカバンの上に座り込んだ。

このような少年が、分不相応な荷物を身に付けて、
大の大人も音をあげる程の、過酷な長旅に耐え森を抜けてこられたものだと感心する。

しかし、彼の素性を知る者なら、不思議ではないと納得するかも知れない。



少年の名前は『ライト』

小学生ほどの幼い外見からは想像も付かないが、かなりの腕利きの探検家なのである。
それもかなりの上位資格を持つ、一級の……
信じられないかも知れないが少年……ライトは、世界の各地にある様々な遺跡に潜り、
そこで見つけたアイテムを売りながら生計を立てる生活をしていた。
この年ですでに五年のキャリアを持ち、探検家でも実力はすでに中堅に位置している。

幼い外見の御陰も相まって意外なほど有名人で、『遺跡巡りのライト』が彼の通り名だ。

ライトがここまで探検家として成功したのは、優れた才覚の御陰もあるが、
それよりも彼もまた……『獣人』であることが、もっとも大きな要因である。

どんな小さな物音も逃さない耳。
身に迫る危険に鋭く反応する反射神経。
そして、それらから逃れるための凄まじい逃げ足。
とにかくあらゆる危険に素早く気が付き、危険から逃れる力に長けている。

そんな力を持つ彼は『兎』の獣人だった。
……正確には獣人のハーフである。
ライトの見た目はほぼ人間の姿を残しており、大きな兎耳とズボンに隠れた丸い尻尾だけが
彼を獣人だと証明してくれる。
逆を言えば容姿に限り、年相応の人間と何ら変わらない姿をしていた。
分かりやすい特徴的の耳がなければ、誰も少年が獣人だと気がつけないだろう。




……と、ライトが唐突に空を仰ぎ見た。


「雨……?」

その呟きに反して、真っ青な空には雲一つ浮かんではいない。
目映い太陽の日差しが燦々と大地に降り注いでいて、普通なら雨の心配などする必要も無いと思われるのだが、


「凄く空気が湿っている。それに妙に蒸し暑いですし……やはり、雨が降るようですね」

敏感に感じ取った、この土地では珍しい雨の気配。
それにライトは表情を曇らせて、少し困った表情を浮かべている。
この辺の土地では非常に雨が少ないと聞いていたので、簡易的な雨具しか持ってきていないのだ。
これでは『スコール』と呼ばれる激しい雨には何の役にも立たない。
少しでも荷物の重さを減らすために必要なことだったのだが、
その所得選択をしたのはライトの判断だ。
だからこれは少年の責任である。それに……誰も助けてはくれない。

もっとも、丁度いい雨避けが目の前にある。
リュックの上に座り込んだままで、ライトは塔を見上げながら呟いた。


「仕方ありませんね。その時は塔の中で雨宿りしますか」

かなり古びた塔で、完全に雨風を防げそうにはとても思えないが、短い雨をやり過ごすにはそれで十分の筈である。
それに今回の探検では、時間の殆どを塔の中で過ごすつもりだったのだから、
雨の問題はそこまで気にする程でもなかったのだ。


「ふぅ、さて……もう少し休憩したら、さっそく探索を始めるとしましょう」

……気まぐれに吹く風に含まれた雨の気配を感じながら、ライトはそう呟いたのだった。




          ※   ※   ※





あれから数十分後、疲労から回復したライトは持ってきた荷物の内、
重量のあるリュックをだけを、その場に残して塔周辺の散策を開始していた。
すぐに塔の内部の探索を初めても良かったのだが、目的はあくまでも調査が優先。
あるかも分からない宝探しよりも、
雨が降り始める前に周囲の探索を済ませてしまいたかったからだ。

最初に彼がいた所では、目の前にそびえ立つ塔以外は特に目に留まるものは無かったが、
そのままグルリと塔の背後に回ると……


「これは……一体何が……?」

それを見つけたライトが、唸るように声を漏らした。
目に映る光景に半ば絶句しながら歩み寄る。

複数の燃え尽きた焚き火の痕。
その中の幾つかには調理に使う竈と鍋まであった。
少し離れたところには、ライトも持ってきた野営のために使う簡易型のテントが
幾つか設置されて放置されている。
明らかに先人達がこの塔にたどり着き、ここで一夜を明かした後だった。


別段……驚くようなことではない。

ライトが驚いたのは他のこと……その一つにこの簡易なキャンプが凄まじく荒れ果てていたことがある。
まるで盗賊襲われたかのように、テントの中は様々なもので散乱し、
酷いものになるとテントそのものが倒壊しているものまで……

それともう一つ……人間の足跡に紛れて、異形な足跡を発見したからだ。
森に住んでいる獣の足跡ではない。何故なら、この足跡は余りにも大きすぎる……


「……まるで、巨大な何かがキャンプ地を襲ったように見えます」

ポツリと口にでた自分の声に、ライトはまるで怯えたように身体を震わせた。




”……パキィッ”


「ふわぁぁっ!」

自然と崩れ落ちた焚き火の燃え痕に、過剰に反応して叫び声を上げてしまう。
鼓動が跳ね上がった心臓に手を当てて、それをゆっくりと落ち着けていくとライトは再び塔を見つめた。


「……いったい、この塔周辺で何が起こってるのでしょうか?」

その問いに答えをくれる相手はいない。


この塔を訪れる前に、ライトは調査は綿密に行った。
古い図書館にも何回も通い詰め、文献を集めそれを調べ上げていく内に分かったことがある。
気が付いたことを纏めた分厚い資料をライトはカバンから取り出した。

徐にそれに目を落とすと、まず最初に自分がつけた簡潔なタイトルが目に入る。




『赤熱の塔について』


この塔は『赤熱の塔』と呼ばれ、手に入れた資料によると、
大昔……酷い水害がこの地方を襲い、大きな被害をもたらしていたと記されていた。
つまり余りにも長く続く被害を止めるためだけに、
この赤熱の塔は建てられたそうなのだ。

その話の中に『宝』という単語は一つも見つけることが出来なかった。

もっとも可能性がないわけではない。
あくまで資料にそう記されていただけだが、この塔が建設された直後から、
確かにの地域で雨の被害が減少したと記述があった。
つまり特別な何かが……

それは強大な魔力のこもったオーブなどかも知れないし……
この塔の造りに秘密が隠されているかも知れない。
また、それまでの常識を覆すような、古代の知識によるものかも。

天候を操る力を持つ何かが……存在し、
もしも宝が本当に存在するなら、それこそが貴重な宝だろう。


「ですが、人を襲うような化け物の記述なんて無かったはずですし……
 だれかが……宝の守護者ガーディアンの罠でも発動させてしまったのでしょうか?」

それは遺跡に良くある罠である。
重要な宝を盗人達から、守るためにつくられた魔法生物、もしくは使役された魔物達。
そう言った危険なものが塔が崩壊したことによって、
暴走した可能性も無くはない。


「一度、荷物の所まで引き返しましょう
 それから対策を練って……どうにもなりそうに無ければ……」

そこから先をライトは口にしなかった。
もし自分の手に余りそうなら、この場から退却もやむなし。
それはいかなる危険も恐れずに、遺跡に立ち向かう彼等探検家にとってもっとも恥ずべきことだから。

しかし、明らかに無謀なものに挑戦し、命を落とすのはライトの本意ではない。
何にせよ、このまま塔の中へと入るのは危険が大きいと彼は判断した。


……その判断は懸命だったと言える。
だが、運命は時に過酷……事態は一気に動き始めていたのだった。



          ※    ※    ※



「あれ? ぼ、、僕の荷物がないのですが……?」

一度元いた場所に引き返してきたライトは、まずその事に激しく困惑した。
冷や汗混じりに周囲を見渡し、勘違いなどではないことを確認すると、彼の顔から血の気が引く。

ライトは大まかに荷物を二つに分けていた。
細々とした便利品や、いざというときの緊急用のアイテムは肩掛けカバンに、
長旅に必需品なテントや、十分な食料など重量のあるのはリュックへ。
その必需品が詰め込まれたリュックがない。

ここまで来るのに数日かかったのだから、この場から引き返すにも同じだけ時間がかかる。
つまりリュックがないと、この場から引き上げることも出来ないわけで……


「……ど、、、どうしましょう?!! あ、あれですか?! 泥棒でしょうか?!」

ことの重大さをすぐに理解したライトは、すぐに荷物の行方を探し始めた。
とても重量のあるリュックとはいえ、子供の体格のライトが背負えるぐらいだから盗むぐらいは誰にでも出来る。
迂闊にも荷物を置き去りにしたことに自分を叱咤しつつも、
ライトは必死に頭を巡らせて、不自然な痕跡が残っていないかと必死に目を凝らす。

……それは意外なほどあっさりと見つかった。


「……これは足跡……みたいですね?」

実際に冷静になれば、すぐに気がつけるほど足跡が、くっきりと地面に残されていて、
時間にすると探し始めて数分もしないうちの出来事だった。
そもそも彼が荷物のある場所から離れていた時間は、多く見積もっても十分も無かった筈で、
迂闊な旅人から荷物を盗んで逃げられる距離も知れたものだ。

余りにも無造作に付いている足跡を追って、ライトは荷物の行くへと追っていくと……
それは塔の中へと続いていることが分かった。


「ここが塔の入り口ですか、森に逃げないと言うことは……
 まだ、荷物を取り返すチャンスがありますね!」

血の気の引いていた顔色に生気が戻る。
しかし、表情はいまだ硬いまま……


「ですが、そうなると……塔に……大丈夫でしょうか?」

多くの不安が、ライトの足を鈍らせる。

居所の知れない先人のキャンプ地を襲った正体不明の存在に加え、
この塔を根城にしているらしき盗人の問題。

いま一番問題なのは後者の存在だ。
地の利もずっと向こうが有利な上、追跡を予期して罠などを張り巡らせている可能性も十分考えられる。
それをかいくぐり追いかけて、リュックを取り返さなければならない。
戦闘能力が、ほぼ皆無なライトにとってそれは極めて困難だ。


「……上手く相手を出し抜いて、リュックだけを取り返し逃げ出す……
 無力化して捕縛できれば、一番良いのでしょうが……」

考えを口に出しながら、これからの行動を頭の中で整理する。
……ライトの覚悟は決まった。
どちらにせよリュックを取り返さなければ、のたれ死ぬ可能性が高いのだ。
なら……やらないわけにはいかない!


「さて……そうなると、とにかく相手の意表を突かないと行けないのですが、
 どこか良さげな突入場所は……」

慎重な面持ちでライトは塔の様子を探っていく。
壁には破損が激しい部分が幾多も見受けられ、最上階など殆ど吹きさらしと言っていいほど、
大きく崩れ落ちているのが分かった。
これだけ崩壊が酷いのだから、内部の様子も似たようなものだろう。

……それだけ分かれば十分だった。

幼いときから探検家として培った能力、見ることに関しての観察力には自身がある。
速やかに塔の構造が、ライトの頭の中で立体的に構築された。


「……二階から、入ってみましょうか。さすがに罠も無いでしょうし」

言いながらライトは、手持ちのカバンに手を入れる。
何を探しているのかと思えば、取りだしたのは一つの大きな円盤だった。

この世界には様々な遺跡が存在する。
無数に存在するそれら遺跡の中から発見される異物のことを、主にアーティファクトと呼ぶのだが、
その中でも特に奇異なもの、今の技術では到底実現し得ないものを、
魔法のアーティファクトと呼ぶ。
ライトが手に持っている円盤も、それら魔法のアーティファクトの一つだ。


『エアボード』 

発見の事例すら極僅かの貴重な魔法アイテムで、ライトがこれを発見したのはまさに偶然と言えた。
中心に制御の要となる球が埋め込まれており、形状は円盤状である。
さらに名前から察せられるとおり、この魔法の道具は翼を持たぬ者に空を飛ぶ力を与えてくれるのだ。

ただ……完全な一人乗り専用であり、操作性にも難があって乗りこなせるものは少なかった。


「よっと、さて……行きましょうか!」

つま先で軽く円盤を蹴り、力を発動させる。
すると音も立てず静かにライトを乗せた円盤が宙に浮かんだ。
中心にある制御球から白い粒子のような光が溢れ、それがライトの意志をくみ取り高度を高めていく。

それからゆっくりと塔の周囲を旋回し……目当ての場所、
一際崩落の激しい壁面を見つけると、そこへエアボードを走らせた。


「此処から入れる……みたい……ですね?」

塔の内部を伺うように視線を巡らせると、懸念していた罠は見あたらない。
ライトの予想通り、ここには仕掛けられていないようだ。
念のため慎重にエアボードを進め、音もなく塔の中へと侵入を果たした。


「……誰もいないですね?」

それでもライトは気を緩めずに、エアボードを降下させて床に降り立つと素早くバックに仕舞う。
それと同時に周囲の気配を探った。
……野生の兎が周囲を警戒するように耳を動かすように、ピンと伸びたライトの耳が動く。

僅かな物音も聞き逃すまいと、耳に全力を傾け……


(下の階には……何も物音がしませんね。
 二階……僕がいる階層も………気配はないですか……
 なら……三階は……?)

しかし、いくら気配を探っても何ら物音すら聞き取ることが出来なかった。
ライトの耳は調子の良いときで、百メートル離れている相手の心音も聞き取れるだけの聴力があるが、
さすがに塔の中では障害物が多すぎる。
彼の聴力を持ってしても、探れるのは三階までが限度だった。

そうなると四階以降が怪しいなと、ライトは気配を探るのを止める。
変わりにカバンから細長い棒を取り出し、


「さて、とりあえず盗賊捜しを開始しますか」

取り出した細長い棒で、罠がないかと床などを叩きながら行動を開始した。





          ※      ※     ※





―― 赤熱の塔 四階 ――


さすがは探検家と言うべきなのだろうか、塔の中でのライトの行動は常に的確だった。
手早く二十分弱で二階の探索を終えてしまうと、すぐに階段を昇り三階へ……
その道中に罠がありそうなところは、ぬかりなくチェック済みである。

まだ、二階と三階しか踏破してないとは言え、遺跡としての難易度は低いとライトは拍子抜けしていた。
手を抜くことはないが、仕掛けられた罠は無く。
内部は迷路のようだとはいえ、ライトにとっては子供だましも良いところ。
すでに先人が殆どの罠や仕掛けを、解除してしまっている可能性も含めて考えても、

『素人にでも、どうにかなるレベル』

……それが、ここまでの塔に対するライトの評価である。
その評価が次の階層―― 四階 ――に入ってから、やや上向きに修正……理由は、


「ここもですか、罠が無いのは良いのですが……こうも足場が悪いのは頂けませんね」

そう言いながらも、ライトは軽く跳躍し目の前の大穴を飛び越えた。
余計な衝撃を与えないように手加減された跳躍は、着地したときも殆ど物音を立てない。

しかし……




”ガラガラララ!!”


「ふひゃあああ! ま、また……っですか!」

殆ど完璧と言っていい跳躍だったが、それでも脆くなった足場を踏み抜くには十分だったようだ。
慌てて飛び飛び退くと、背後には見事な大穴が迂闊な輩を呑み込もうと閉じることのない口を開けている。
それを見つめながらライトは胸に手を当てて、激しく鼓動する心臓が落ち着くのを、
荒い息を吐き出しながらひたすら待つはめになった。


……とまぁ、四階に入ってから万事この調子。

迂闊に気を抜くと足場の床が崩れたり、ちょっとした振動で壁や天井から石が転げ落ちてきたり、
ライトの予想よりもずっと塔の痛み具合が激しい。


「ふぅ……それにしても他に道はないのでしょうか……?」

塔の中に逃げ込んだ盗人も重量のある荷物を背負って、歩いて移動しなければならないのだ。
これだけ脆い床だと、下手をすれば荷物の重量だけで崩れかねない。
恐らく安全なルートが別にあるのだろうと、思いながらもライトにはそれを知る術がなかった。

しかし、それらの問題を一挙に解決する方法はある。


「はぁ、せめてこれを使えれば楽が出来るのですが……」

『エアボード』この塔を探索するのにこれ程便利なものはないだろう。
重力が働く場所なら高度は自由自在。さらに床を崩す心配もせずに塔の探索が出来るのだから、
こんな反則のような便利アイテムを使わない手はない。

そもそもこのエアボードに何度も助けて貰ったことが、
探検家とは言え、子供のライトが大きく広がる森を越えることが出来た要因の一なのだ。



……そして、助けて貰ったから、こうして少し苦労している訳なのだが。


「今回の冒険では、少し無茶させましたから魔力の充電が追いついてないんですよね……」

いくらアーティファクト級の遺物でも、その内包するエネルギーは無限ではない。
ライトの持つエアボードもその例に漏れず、時間の経過で消費した魔力を自動的に蓄えるが、
連続稼働にも限界があった。
持続時間はおよそ一時間。魔力が尽きればタダの円盤になってしまう。
魔力の充電はほぼ丸一日必要なことから、あまり気軽に多用は出来ないのだ。

そんな諸々の事情で、不本意ながらライトは歩きでの探索を余儀なくされていたわけなのだが、
探検家は元々己の肉体が資本である。


「まぁ、これぐらいなら何とかなりそうですから、とりあえず先を急ぎましょう」

便利な道具が使えないからと言って、立ち止まるようでは話にならない。
けっきょく特に名案も浮かばなかったのだが、ひとまずライトは先に進むことにした。

結果として……それがもっとも功を奏すことになる。


長年の探検家としての経験が生き、しだいにライトはこの塔の歩き方を掴んでいったからだ。
四階の探索が終盤にさしかかると、それが顕著に表れていて、
よほど油断をしていない限り、床を踏み抜いたりはしないようになっていた。

その分だけ探索のペースも上がり、時間にしてみればものの三十分もかからずに
四階の探索を終えてしまい、まだ痕跡すら見つからない盗人を追って、ライトは五階へと階段を登っていった。






―― 赤熱の塔 五階 ――



「…………っ!」

もうすぐ塔の5階へと続く階段を、ライトが登りきろうとした時だった。
彼の耳が何かの物音を聞き取り、反射的に身を伏せる。
……それは微かな話し声、何を喋っているのかは分からないがこの先に誰かがいる気配があった。


(ようやく追いつきましたね……さて、どう動きましょうか?)

そう理解した途端に自然と気が引き締まり、ライトは緊張のあまりゴクリと喉を鳴らす。
馬鹿のように真正面から突入はせず、僅かな逡巡のあとにライトは数歩階段を降りて身を隠すことにした。


「……とにかく、様子見が一番無難でしょうね」

真っ正面から戦いを挑んでも、子供であるライトに勝機はない。
そうなってくると勝機を掴むためには、どうしても相手に気が付かれずに奇襲をかける必要があった。

……ここで、問題なのはどうやってその奇襲を仕掛けるかだ。


ひとまずライトは周囲を伺う。
四階より外壁の痛みが激しく、ライトのいるすぐ傍の壁際が大きく崩れ落ち、
かなり強めの風が吹き付けてきている。
ライトが覚えている限り、他にも壁が崩れているところが幾つかあったはずだ。


(……もしかして)

ちょっとした思いつきで、ライトは落ちないように崩れた壁から少しだけ身を乗り出す。
外壁の状態に探りを入れると、回り込むのには都合の良い位置に穴が開いていた。

怖いぐらい思い通りだが、足がかりになるような所は殆どない。


「回り込んで不意打ちするには丁度良さそうですけど、伝って行くには危険すぎますね。
 まぁ、ここまで来たら出し惜しみする必要も無いでしょうし……」

真剣な顔つきでカバンに手をやるとエアボードを取り出す。
銀色に輝く円盤の中央にライトは目をやった。
そこに収められた宝玉には光が灯っており、それを見てライトは残り時間を推測する。
フルに魔力が蓄えられているときなら、目映い程の光を放っているが、
いまは淡い光に衰えていて、残り魔力は半分もないことを示していた。

それでも必要なときには出し惜しみしないのがライトの信条である。
他にも奇襲に必要な幾つかの道具を取り出し、


「さて、作戦は決まりました。荷物は返して貰いますよ!」

起動させたエアボードに乗り、ライトは塔の外壁の外へと飛び出していった。



          ※    ※    ※



赤熱の塔のある一角に隠されていた秘密の部屋。
ライトは階段を登らなかったから、気づく余地も無かったが階段を登ったすぐ先の曲がり角、
ほとんど壁と見分けが付かない隠し扉を抜けた先にその部屋はあった。

手狭ではあるが、絶好の隠れ家となるその部屋で重そうな音が響く。




”ドサッ!”


「はぁ……はぁ、、、こ……これで、当面の食料は大丈夫かな?」

盗み出した荷物を手荒に下ろし、疲れ切ったように盗みを働いた男が座り込んだ。
みすぼらしく煤けた衣服を身につけ、全身に体毛が生えている姿を見ると男も獣人のようだが……


「……ねぇ…………首領……何時になったら帰って……」

何処か遠くを見るかのように、やるせなく男が呟く。
随分と窶れているが、男の正体はかつてこの塔に挑んだ盗賊団『漆黒』の片割れ、
猫顔の獣人に間違いなかった。

洩らした言葉から察するに、彼の敬愛する首領は戻ってこなかったのだろう。

それなのに彼はずっと待っているのだ。
何時か首領が帰ってくると、あの時そう約束したのだと金貨の入った袋を握りしめながら。
いや、すでに金貨だけではない。
この隠し部屋の片隅に、量は少ないが金貨や銀貨、それ以外にも価値の高そうな物が積み重なり、
はっきり宝の山と言えるほどのものが出来上がっていた。


それらは全て彼が集めた物だ。

留守を狙って塔を訪れたもの達の持ち物から金品を強奪し、時には食料も奪い、
彼は生き延びてきたのである。

しかし、彼にとってはそんなことはどうでも良いのだ、


「……うぅ……何時になったら迎えに来てくれるんですか……」

全ては首領に褒めて貰うためだけに、彼は数多くの盗みを繰り返していただけなのだから。




”ガラッ”


「な、、なに?! 何だこれ……?」


突然、何かが部屋の中に転がり込んできて彼は跳ね起きた。
警戒するようにそれを見つめると、彼には正体も分からない妙な物で……


「…………???」

よく見るとそれは、何か筒状の物だった。
拳大の大きさで少し黒光りするそれに興味を引かれ、視線が集中する。

その瞬間、筒状の物は破裂!


「…………ぎゃっっっっっ!!!!!」

音もなく割れた筒の中から飛び出してきたのは、目映いばかりの閃光。
一瞬にして部屋を埋め尽くす光が、猫の獣人の彼が悲鳴をあげる姿すら覆い隠していく。
それでも衰えない目映い光は、そのまま彼のに意識を闇に呑み込んだ。





          ※    ※    ※





少し高い位置に開いた穴から隠し部屋に入り、足下に転がっているそれを見てライトは呟いた。


「さすがにねぇ……もう少し警戒しましょうよ」

どこか哀れむような視線の先では、完璧に気絶した様子の猫顔の獣人が大の字になって倒れている。
すでに手際よく猫顔の獣人の両手を、後ろ手に固定するように手持ちのロープで縛り上げ、
両足も同じく動けないように足首を固く縛り上げていた。

抜かりはないつもりだが、こういった盗人を捕縛した経験はなく。
こうもあっさり捕まえられたことに、ライト自身も拍子抜けなのは否めない。


今回のライトが取った作戦は、実にシンプルな物だった。
まず、声のする方へとエアボードを走らせ、姿を隠したまま適当な穴から中の様子を密かに伺い、
何個か目の穴からついに盗人の姿を捕らえると、相手の隙を作るため秘密兵器を投入する。
秘密兵器とは簡単に言うと、自作の『手投げしきの閃光手榴弾』だった。

ただ……どんな手を加えたのか、放つ光の強さは通常の数倍の光量を誇る。

それを気づかれやすいように部屋の中に放り込んだ後、盗人が逃げ出すなり、
怯んだところを不意打ちするつもりだったのだが……まさか、興味げに閃光手榴弾をジッと見つめた据え、
まともにその光を浴び、一瞬にして失神してしまうとは……

さすがに相手のこの間抜けっぷりにはライトも呆れてしまった。


「まぁ、僕としては手間がかかりませんから、そっちの方が良いんですがね」

はっきり言って、自分の荷物さえ無事に戻ってくればそれで良かったのである。
問題なのは、この後どうするかだが……

足下に転がしてある盗人に関しては、あえて放置することに決めていた。
出来ることなら、ライトとしても町に連れ帰って警備隊に突き出したほうがいいと思うのだが、
足手まといを連れて森を抜けるのはかなり至難と言っていいだろう。
このまま放置してしまえば、手足を縛ってあるため、最後まで抜け出せずに餓死する可能性もあるが、
この世界では犯罪者に対する同情は少ない。

それに職業柄、ライトはこの手の相手とは事を構えることも多い。
普段は自分から逃げるが、こうして捕まえた相手に対して、ある程度見切りをつける覚悟を持っていた。


「……自業自得ですし、恨まないでくださいよ」

喋りながら、ライトは自分の荷物の状態を確かめる。
何度か引きずった痕があり、リュックの底の布地が擦れてきているが、
この程度なら致命的な問題にはならない。


「ふぅ、無事なようです。破れでもしていたらどうしようかと思ってました」

荷物が無事なことに、ライトは安堵したようだ。
その際、彼の視線が宙を泳ぎ、取り戻した荷物の傍に小袋を見つける。


「おや……これは?」

見覚えはなく、すぐに捕縛した盗人の物だと分かりそれを手に取ってみた。
袋の中でカチャカチャと音が鳴り、中身は何かと袋を開いてみる。
すると袋の中から金色の輝く光が溢れだした。

誰が見ても決して見間違えることのないそれに、ライトは目を見開き驚きを口にした。


「これは金貨ですね、これも盗んだ物なのでしょうか?」

再び盗人に目を向け、次ぎに部屋の片隅にある宝の小山へと目を向ける。
一見するだけでライトには分かった。
あの小山一つだけで、慎ましい生活をするなら恐らく一生食べて暮らすには困らない価値があると……


しかし、ライトは目の前にある宝の山に手を伸ばそうとはしなかった。

取り返したリュックを背負うライトの姿を見ただけで、その理由の見当は付く。
これだけの宝を持ち帰るには、彼の持っている装備では到底無理なのだ。
そもそも根拠の知れない宝の存在など信じずに、塔の探索だけを目的に訪れていたライトは、
大量の宝を持ち帰る用意をまるでしていなかったのである。

ライトとしても目の前に、宝をちらつかされては心が惹かれる物があるが……


「持って帰れない物は、仕方がないですよね……残念です。
 まぁ、記念にこれだけでも貰っていきますね」

そういって、ライトは隠し部屋から出ていく。
その手には金貨が入った古ぼけた小袋が、しっかりと握られていたのだった。



          ※    ※    ※



荷物も無事に取り返したライトは、どういう訳か未だ塔の五階の探索を続けていた。
すでに盗人の問題は片づいたが、まだ別の問題が残っているというのに……

いまだ姿を現さない正体不明の生き物。
まだ、ライトがお目にかかったこともないような凶悪な生き物が、
この塔の中を徘徊しているかも知れないのだ。
勿論……それはライトも分かっている。
彼もこのような危険な場所に長居をしたいわけではなかった。



『雨』


エアボードで外に出たときに、見えたのだが……遠くから真っ黒な雲がこちらへと近づいてきている。
ライトの目測が正しければ、雨雲は一時間ぐらいで到達するはずだ。


前にも説明したが、この土地で雨が降ることは非常に稀である。
数ヶ月に一度も降れば多い方で、それぐらい珍しい。
だが、やっかいなことに一度雨が訪れると、凄い……いや、凄まじい豪雨が大地に降り注ぐ。
その豪雨の直撃を受けよう物なら、瞬く間に体温は奪われ、体力を無駄に消耗することになってしまうだろう。
いくら何でもそんな状態で、森を抜けようとするのは自殺行為だ。

少なくともライトには自殺願望など無い。
そんな理由から、少なくとも一時間以上は塔に留まざるを得なくなったというわけだ。


「ふぅ……それにしても、この文字は何でしょうか?」

空いた時間を使い、塔の探索を続けていたライトは歩きながら周囲の壁に興味深そうに目をやっていた。
これまでは荷物を取り返そうとする焦りと緊張からか、まるで気が付いていなかったのだが、
塔の内壁には所々奇妙な文字が描かれている部分がある。

しかし、残念ながら、余りにもかけている部分が多すぎて、このままでは解読不能だ。


「……塔に何か関係が?
 ふむ……いえ、…………ん……違いますね」

多少の古分や古代語の知識があり、ライトは壁に書かれている文字の形状を復元しようとして、
頭で思い描くものが、断片的にライトの口をついて出る。

こうした理解が出来ない分を補うように、色々と想像を重ね遺跡の昔の姿を考えるのは
彼としても嫌いではない。
そんな感じで幾つかの文字を、手持ちの資料に書き留めながら、
塔の探索そのものは順調に進み、ライトはさらに興味深いものを発見することとなった。



          ※    ※    ※



壁に書かれた文字を書き留めながら、ライトが歩いていると通路の行き止まりまで来てしまう。
まるで文字に誘導されたような錯覚を覚え、徐に道を塞ぐ壁に触ると……


「これは、妙ですね手触りが……もしかして!」

それに怪訝な表情を浮かべ、ライトは強く壁を押してみると、
壁に偽装された扉が容易く開かれた。


「……昔は……ここも隠し部屋だったのでしょうか?」

過去形なわけは、部屋全体が無惨にも崩壊しており、隠し部屋としての役目を果たせない状態だったからである。
それだけなら特に興味を引くことでもないのだが、
部屋の中に入ったライトは驚きに目を見張り、激しい興奮で身体が震えた。


「こ、これは……!」

見渡す限り部屋の中の壁という壁に、びっしりと文字が刻まれて埋め尽くされているのだ。
大半が部屋の崩壊に巻き込まれて、台無しになっているがそれでも今までの中で最大の発見である。


「もしかして、ここがこの塔の秘密の中枢でしょうか?!
 いや、それにしては崩壊が酷すぎますし、塔の機能も停止しているはず……?!」

明らかに何か重要な役割が、この部屋にはあったのだろう。
その何かを想像、推測を繰り返しているライトの目が、子供のように輝いている。
出来ることなら、時間の許す限り調査をしたいのだろうが……

そう都合良く彼の運命は回ってくれなかったようだ。




”ひゅんっ!”


鋭い風切り音。何かが空気を切り裂き高速で飛来する。
狙われた当人……ライトは発見に夢中になりすぎていて気が付いていない。
その致命的な隙を狙われた。
銀色に光るそれは、隙だらけのライトの背に向けて吸い込まれるように命中する。




”ドスッ!”


鈍い音を立ててそれは突き刺さり、ライトの身体が衝撃で震えた。


「ふわっ! な、投げナイフ…?!」

背中に伝わる軽い衝撃と物音に、慌ててライトがリュックを背中から下ろすと、
小振りのナイフが深々とリュックに突き刺さっている。
運が良かったのか。それとも狙いが甘かったのか。
奇跡的にライトの背負っていたリュックが、背後に襲い掛かった危険から彼を守ったのだ。

もし狙いが頭だったとしたら。

……ゾッとするような想像が頭を過ぎるが、休む暇を与えては貰えない。
恐ろしい早さで迫る足音に我に返ったライトは、後ろを振り向く暇も惜しんで横っ飛び。
部屋の入り口の壁に張り付き……振り向く。 

その僅かな間に先ほどまで、ライトがいた場所へナイフが振り下ろされていた。
だが、攻撃を回避されるやいなや、襲撃者はライトに反撃する機会を許さず素早く身を翻して距離を取る。


「ええっ! ど、どうやって抜け出し……」
「……を……返せ!」

ようやく襲撃者を視認したライトが、驚愕に声を荒げるが、
それを遮るように襲撃者……捕縛しておいた筈の猫顔の獣人が構え直したナイフを片手に叫ぶ!
思わず聞き逃しそうなほど、恐ろしく低い声色。

そして、冷たく……怒気……いや、殺気を伴った声だった。


「……ぅ……な、なにをそんなに怒ってるんですか……?」
「黙れ! 早く金貨の入った袋を……返せ!」

狼狽えてまるで見当はずれな事を喋るライトに向かって、猫顔の獣人は自分の要求を再度叫ぶ。
その間にもジリジリと間合いを詰め、途中でライトのリュックに刺さっていた投げナイフを回収する。
それをもう片手に握り締めると……


「返さないなら……殺して奪い取る!」

先ほどと同じ声で叫び、恐ろしい早さで距離を詰めライトに飛びかかった。
冷たい光を放つナイフが、首筋の目掛けて容赦なく振り下ろされる!


「ふひゃあああ! 絶対初めからその気だったでしょう!!」
「五月蠅い、避けるな!」

明らかに殺すつもりの一撃を、ライトは咄嗟に身を捩り大きく転がって回避する。
首筋をナイフが掠めたような冷たい感触。
思わずライトは首に手を当てて、切られて無いことを確認するが、
安堵している暇もなくナイフの連続攻撃は執拗に続く。


共に獣人……両者の動きは恐ろしく速かった。
だが、二人の争いにはすぐに大きな差が現れる。

猫顔の獣人がこれほど怒る理由も、事情を知っている者なら理解できるだろうが、
まったく事情を知らないライトには、鬼気迫るような相手の迫力に呑まれてろくな反撃が出来ない。
身体を掠めるように突き出されるナイフを避けるので精一杯だ。
それに生業としているモノの差か、格闘戦は猫顔の獣人の方が一歩上手のようだ。

それでもライトがナイフを未だに回避できているのは、


「……くぅっ……避けるな!」
「避けますよ! それ……に、逃げることだけは自信があります!」

鋭敏な反射神経、特に戦闘の緊張で集中力が高まっている今のライトの急所に
ナイフを押し当てるのは至難と言っていいだろう

それに猫顔の獣人のナイフの扱いが、玄人には及ばないのも大きい。
身体能力にまかせて繰り出される一撃は早いが大振り、ナイフ特有の回転の速い攻撃や、
予測不能な変幻自在な責めが見られないのだ。
さらに時間が経つにつれ、疲れが出てきたのか相手から早さが少しずつ失われて来ている。

しかし、疲れてきているのはライトも同様。
相手が警戒していない今だけが、この場を切り抜ける唯一の機会だ。


(……これなら、どうにか隙を作りさえすればっ)

それはライトも分かっている。

必死に目で相手の動きを追いかけ、隙を逃すまいと更に集中力を高めながら、
突き出された何度目かのナイフを避けると、


(い、いまです!)

踏み込みすぎたのか相手の戻りが若干遅い。
その大振りの隙を狙い、ライトは勇気を振り絞って自分から間合いを詰めた。
今まで逃げ回っていた相手が、攻勢に転じたことに猫顔の獣人には驚きの表情が浮かぶ。


「……くそぉっ!!」

不十分な体勢で突き出してきたナイフは掠りもせず、ライトはナイフを持つ手を掴んで思いっきり引っ張った。
そのため猫顔の獣人の身体が大きく前につんのめる。
ここで猫顔の獣人は大きなミスを犯した。
無理に倒れるのを堪えようとして踏ん張ってしまったのだ。
そのせいでますます体勢が悪くなり、致命的な隙――完全に動きが止まる――が生まれる。

もたつく相手の様子を尻目にライトは素早く体勢を整え、
自らがつくりだした、有利な状況……勝機をライトは逃さず掴み取る!


「これで……どうです!」

渾身の一撃。相手の最大の弱点……軸足目掛けて思いっきり蹴りを放った。
体重の軽いライトの蹴りは、たいした威力はない。

それでも体勢が最悪に近い相手のバランスを崩すには十分だった。


「うわぁ!!」

膝裏を打ち抜く蹴りに、猫顔の獣人は見事に転倒する。
僅かに宙に浮く感覚の後に、だらしなく尻餅をついた衝撃で彼の手から武器がこぼれ落ちた。
すぐに拾わなければと手を伸ばそうとするが……

そんなことはライトが許さない。




”ガッ!”


素早く二本のナイフの柄頭を蹴り飛ばし、片方は部屋の隅へ、
もう片方は床を転がり、崩れた外壁を飛び出して落下していった。

それを見届け、ある程度相手を無力化したと悟ると、


(よしっ……さぁ、逃げましょう!
 何時までも、こんな危険な人を相手してられません!)
 
このまま放っておくと、再びつけ回されることになるかも知れない。
その可能性は高いが……ロープで拘束しても無駄なのはすでに分かっている。
もはや無理に相手を取り押さえるようなことはせず、ライトは即座に踵を返し脱兎の如く逃げ出した。
リュックを片手に回収し、素早く背負い直すと、
部屋から飛び出して、見事な逃げ足で通路を駆けていく。


「ぐぅっ……まっ、、待てっ!!」

後ろから恨めしそうな叫び声が、聞こえてくるがライトは止まらない。
逆に声からも逃げだそうと足を速め、曲がり角を曲がり姿を消した。


……猫顔の獣人は、為す術無くそれを見送ることになった。


「……うっ……ぐぅぅぅっ……絶対に逃がすものか!!」

血走った目がライトの逃げた通路をとらえ、猫顔の獣人は走り出した。
ライトよりも更に早く、通路を駆け抜けていき……その背中を追って姿を消した。


……そして、


「ふわぁああ! もう追いついて来たんですか!」
「返せ、お前が盗んだ物を返せ!! じゃないと……殺す!」
「どちらもお断りです、そもそもあなたが僕の荷物を奪ったのが原因じゃないですか!?
 それにあんなにいっぱいあるんですから、ちょっとぐらい見逃してくださいよ!」
「見逃さない……返さないならっ!!」
「えっ……ええ! 何本ナイフ持ってるんですか!!」

予想通りの展開……二人の間には叫び声と、ナイフが飛び交い。
無我夢中で逃げるライトには分からない、自分がどこに向かっているのかを……
狂気で我を忘れている猫顔の獣人は気が付かない、自分がどこへ相手を追いつめているのかを……

命がけの鬼ごっこはもう暫く続く。


<2011/06/15 23:03 F>消しゴム
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