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連載小説
[TOP][目次]
娘よ【残】【血】【小】
「あぁっ、綺麗! 本当に来てよかった……!」
 氷に覆われた急斜面を軽々と駆け上がり、切り立った霊峰の頂を四本足で踏み締めたのは――真っ白い毛皮に全身を包んだキュウコンの少女だった。見渡す限りの絶景を視界に収めた彼女は目を輝かせる。
 天候に恵まれたのは日頃の行いが良かったからに違いなかった。長い冠毛と九本の尻尾を風になびかせながら大パノラマを堪能するキュウコン。やがて港町の向こう、水平線の彼方の一点を見つめた彼女は表情を引き締める。
「待っていてね、みんな! 今はダメでも、いつか必ず……!」
 さぁ、帰ってすべきことをしましょう! 慣れた足取りで山を下り始めた彼女の表情がフッと緩む。
「でも……その前に温泉、温泉っと! 美味しいものも食べちゃいましょう! あぁっ、何を食べようかしら!? 食後のデザートも外せないわ!」
 浮いた小遣いの存在を思い出した彼女は、嬉しい悲鳴を上げるのだった。
 それから数十分後。八合目付近の崖道を進んでいた時だった。サッと血の気が引く感覚に襲われた彼女はピタリと足を止める。
 誰かに見られている。それも私の死角から。少なくとも味方でないことは明らかだった。大きく息を吸って、そして吐いて心を落ち着かせた彼女は――勇気を振り絞って背後を振り返る。
「……誰!?」
 が、目に入ってくるのは氷と岩ばかり。怪しい影がないことを確認した彼女は小首を傾げる。
「おかしいわね、気のせいかしら……?」
 そう思い、再び歩き始めようとした――次の瞬間だった。ある考えが彼女の脳裏をよぎる。
「まさか……上!?」
「グオオオォォォーッ!」
 そのまさかだった。咆哮と共に数十メートル上の崖から飛び降りてくる茶色い影。落下しながら丸太のように太い腕を高々と振り上げた彼は――キュウコンの少女をハンバーガーのパティにするべく、着地と同時に力いっぱい両拳を叩きつけてくる。
「……くぅっ!」
 行李を降ろして横っ飛びに回避するキュウコン。あと少しでも遅かったら挽き肉にされているところだった。轟音と共に行李は木端微塵に砕け散る。
「こっ、こいつは……!?」
 素早く起き上がり、元いた場所に目を凝らすキュウコン。そこに立っていたのは、巨大な体躯に鋭利な手足の爪、そして腹部の大きな黄色い輪っか模様が特徴的な熊のポケモン――リングマだった。
「あっ、あぁっ……穴持たず……!」
 それも冬眠に失敗して凶暴化した個体と見て間違いなさそうだった。彼女は腰を抜かしそうになるのを必死で堪える。
 今すぐ背中を見せて逃げ出したい衝動に駆られるも、ここが逃げ場のない一本道であることを忘れるべきではなかった。全身の毛を逆立て、牙を剥き出しにして精一杯の威嚇をした彼女は――乾坤一擲の大勝負に打って出る覚悟を決める。
「……戦うしかなさそうね! 今度は私が攻撃する番よ! 計画性のない間抜けなクマさん!」
 大豊作だった年の冬に外出している時点で明らかだった。軽蔑の眼差しを向けると同時に胸いっぱい大きく息を吸い込み、そして――
「凍りつきなさい! こごえるかぜ!」
 氷点下百度の冷気に作り変え、一気に吐き掛ける。
「グアァァァァアッ!?」
 両腕でガードするも、ドライアイスの暴風を前に為す術などなかった。足元から氷漬けにされていったリングマは――やがて氷柱の内側に閉じ込められ、一ミリも体を動かせなくなってしまう。
「からの……コォォォォォォン!」
 トドメを刺すまで一瞬たりとも油断はできなかった。遠吠えをして気合いを高めた彼女の瞳が青い輝きを放ち始める。母から教わったばかりの神通力を発揮したのだった。
「うふふっ、メッタ刺しにしてあげるわ! もう二度と起き上がれなくなるまでね!」
 体毛から生み出した雪の結晶を固めて産み出したのは――刃渡り数十センチもの氷のナイフだった。それを何十本、何百本と作り上げていった彼女は、その一本一本を念力で宙に浮かせ、相手の全方向に配置する。
 四肢で力強く地面を踏みしめるキュウコン。彼女の青い目が鋭い光を放つ。
「勇猛果敢なる大地の神、カプ・ブルルよ! その恵みの御手もて我に力を注ぎたまえ! ……一族に仇なす者に裁きを! こおりのやいば!」
 詠唱を終える頃には青い光のオーラが彼女を包み込んでいた。技名を叫ぶと同時に氷のナイフが一斉に発射され、音の速さでリングマに襲いかかり――大爆発を起こして半径十メートルあまりを更地に変えてしまう。
「やったかしら!?」
 トドメの一撃を刺すため、クレーターの中心に恐る恐る近寄っていくキュウコン。そんな彼女の期待は――
「グルルルルゥ……!」
 低い唸り声に叩き潰される。
「うっ、嘘……!? どうして……!?」
 出血はおろか傷一つ負っていなかった。何事もなかったように雪煙の中から現れたリングマは、血走った目でギロリと彼女を睨み付ける。
 もうダメ、こんなの勝てっこないわ! そう思う頃には背中を向けていた。麓を目指して全速力で崖道を駆け始めるキュウコン。が、それから数秒後――
「……いやぁぁぁぁぁっ!」
 毛むくじゃらの太い腕で鷲掴みにされ、背中から雪の大地に投げつけられる。巨体に似合わぬスピードで追走してきたリングマに一瞬で追い付かれてしまったのだった。
「やっ、やめて……こないで……! 私を食べないで……!」
 もはや命乞いする以外に術はなかった。舌なめずりしながら迫り来るリングマから少しでも離れるべく、尻餅をついたまま後ずさるキュウコン。程なくして断崖の岩壁に追い詰められ、そして恐怖が最高潮に達した次の瞬間――
 ジョロッ、ジョロロッ、ジョロロロロロロロッ……。
 ホカホカと湯気立つ黄色い液体が股間から迸り、リングマの輪っか模様よりも大きな満月を白銀のキャンバスに描いてしまう。
「あっ……あぁっ! あぁぁぁぁっ!」
 前足で隠そうにも隠せる大きさの絵画ではなかった。屈辱のあまり落涙してしまうキュウコン。そんな光景には目もくれずに彼女の両肩を掴んで持ち上げたリングマは、
 ボギャァァァァァァッ!
 情け容赦なくトドメを刺しにかかる。
「……ぐふぅっ!?」
 凶器に選ばれたのは、鋭利な爪でも頑丈な顎でもなかった。鳩尾に強烈な膝蹴りを見舞われ、声を出すことも息をすることもできなくなってしまうキュウコン。崩れ落ちた彼女の傍らに腰を下ろし、蹴りを入れたばかりの左膝を彼女の首に乗せた彼は――ジワジワと体重を掛けていき、彼女の気道を完全に塞いでしまう。
 絶体絶命のピンチに死力を尽くして暴れるも、動くのは首から下だけだった。彼女の視界が急速に暗くなっていく。
 ごめんね、みんな……。無念の涙が頬を伝い落ち始めた次の瞬間――彼女の目の前に一匹のキュウコンが現れる。
「どんな時でも決して諦めるな、コユキ!」
 父さん……!?
 正体に気付いた頃には姿を消していた。否、元の視界に戻っていた。どういう訳かリングマの膝の力が緩み、息ができるようになっていたのである。
 この好機を逃す手はなかった。氷を操る能力を使い果たしてしまい、最後に残されたのは両親から受け継いだ健康な肉体のみ。相手の輪っか模様の中心に狙いを定めた彼女は、
「その膝をどけなさい! このクルクルパーがぁぁぁぁぁっ!」
 渾身のドロップキックをお見舞いする。
「グオォォォォオッ!?」
 蹴り飛ばした反作用で空中に躍り出て、クルリと一回転して着地するキュウコン。顔を上げた彼女はハッと息を呑む。
「コユキ、私について来なさい!」
 幻などではなかった。目が合うなり回れ右をした白い影は、風のような速さで雪道を走り始める。
「父さんっ!? 父さんなの!?」
「ウオォォォォオッ!」
「……げっ! もう追ってきた!」
 考えている時間はなかった。背後を振り返って飛び上がった彼女は、尻に火が付いたような勢いで目の前の影を追い始める。
 天気も急速に崩れ始め、さっきまでの晴天が嘘のような猛吹雪となっていった。白一色の世界へ飛び込んだ彼女の脳裏に数年前の記憶が蘇る。
「これは……ホワイトアウト……!」
 地吹雪を巻き起こして敵の目を眩ませ、追跡できなくする――。その技に何べん命を救われたか数えきれないほどだった。前を走る白い影の正体を確信して歓喜するも――
「なっ……なんでコイツには効かないのよぉ!?」
 背後から迫ってくるばかりの殺気に絶望の底へと叩き落されてしまう。
 長らく入浴していないこと、漏らした小便で自分自身をマーキングしてしまったこと、そして何よりも――でっぷりと太った山椒魚の怪獣の汗と唾液と体液に塗れたこと。嗅覚による情報を与えすぎていることが最大の原因だったが、当の彼女は知る由もなかった。
 前を走る白い影も効果が薄いことに気付いたらしい。いきなり崖道から外れた彼は、ほとんど垂直の断崖絶壁に躊躇なく突っ込んでいく。
「こっちだ、コユキ! 一気に下るぞ!」
「こっ、こっちって……そっちは……!」
 気付いた頃には急斜面に吸い込まれていた。ぐんぐんと増していくスピードの恐怖に歯を食いしばって耐えるキュウコン。そんな彼女の胸の内を見透かした白い影は大声を張り上げる。
「お前ならやれる! 決して諦めるな、自分の感覚を信じろ!」
「うぅっ……! 分かった……!」
 その一言で覚悟を決めるキュウコン。第六感をギリギリまで研ぎ澄ました彼女は――落差数百メートルの絶壁に真正面から突撃する。
「おおぉぉぉぉぉっ!」
 一瞬でも足を止めれば奈落の底へ真っ逆さまだった。極限の興奮に雄叫びを上げた彼女は、目にも留まらぬ速さで岩から岩へ飛び移りながら、垂直の崖を自由落下にも等しい加速度で駆け下りていく。突き出た岩をかわし、点々と生える木と木の間をすり抜け、そして――
「跳べぇっ! コユキ!」
「父さぁぁああん!」
 雪の厚く積もった地面を目がけ、高度が百メートルを切った辺りで大ジャンプして空中に躍り出る。
 これが……空を飛ぶ鳥ポケモンたちが見る眺め……! 不思議と恐怖は感じなかった。いっぱいに四肢を広げて風に身を委ねた彼女は――着地の準備を何もしていないことを思い出す。
「あぁっ! 忘れ……!」
 ズボッ!
 不時着の姿勢を取ろうとするも時すでに遅し。頭から雪原に突き刺さって犬神家になってしまうのだった。
「……ぷはっ! あぁ、恥ずかしい! 着地は零点だわ!」
 とは言いながらも満面の笑顔だった。脱出するなり全身をブルブルと震わせて雪を払うキュウコン。彼女の背後で口笛が鳴る。
「いいや、面白かったから満点だ! よく最後まで諦めずに頑張ってくれた! 強くなったな……我が娘よ!」
「父さんっ!」
 もはや一点の疑念もなかった。声のする方を振り返った彼女は、父親と二年ぶりの邂逅を果たす。
「ずっと……ずっと会いたかった……! まさか復活して帰ってきてくれるなんて……!」
 涙が止まらなかった。彼女は声を震わせる。
「私もだ、コユキ! だが……一つだけ誤解を解かねばなるまい」
 それまでの笑顔が一転、彼女の父親は表情を曇らせる。
「よく私の足元を見なさい、コユキ」
「足元? 足元がどうかし……ひぃっ!?」
 そこから先は言葉にならなかった。踝から下が透けているのに気付いた彼女は後ろ向きに倒れ込み、そして、
 ジョロッ、ジョロロロロ……。
「おば、おばっ……お化け……!」
 今日で二回目の失禁をしてしまう。ガチガチと歯を鳴らすキュウコン。彼女は震える前足で指差す。
 悪い意味で予想どおりの反応だった。肩を竦めた彼女の父親はガックリと頭を垂れる。
「うぅむ……恐怖が上回ってしまったか。おまけに小便まで漏らされるとは……」
「えっ? あっ……あぁっ! また……!」
 大慌てで局部を隠すキュウコンの少女。彼女の父親は失望の色を隠さない。
「コユキ、父さんは悲しいぞ……。あれだけ幽霊でもいいから会いたいとか言っていたクセに……」
「ごっ、ごめんなさい……」
 最後の一滴まで出しきってしまった彼女は、素直に謝罪の言葉を述べるのだった。
 いつまでも娘の醜態を眺めている訳にはいかなかった。コホンと咳払いした彼は一喝する。
「さぁ、立て、コユキ! 勇気を振り絞るんだ! ……と言っても、ゴースに顔を舐められた程度で気絶する小心者には難しいだろうがな! お前に肝試しは無理だ!」
「なっ……なんで知っているのよ、それ……」
 夏の盛りの苦い思い出を言い当てられた彼女は顔を真っ赤にする。
 そこまで言われては我慢ならなかった。すっくと立ち上がり、黄色い満月に雪を蹴りかけて隠した彼女は、堂々と父と向かい合う。
「ふふっ! 父さんが怖いか、我が娘よ?」
 お化けのポーズで尋ねられた彼女はブンブンと左右に首を振る。
「うぅん、もう怖くないわ! どんな姿になっても……父さんは父さんだもの……!」
「コユキ……!」
 危うく天に召されてしまうところだった。その一言に救済された彼は感動で瞳を潤ませる。ゆっくりと歩み寄って鼻と鼻を合わせようとした次の瞬間――
「オオォォォォオッ……!」
 物悲しい咆哮が空から降ってくる。
「……えっ!? なに!?」
「……むぅ、足を滑らせたか。目に焼き付けておけ。あれが刹那を生きる愚か者の辿る末路だ」
 見上げた先にあったのは――前転を繰り返しながら地面へと吸い寄せられていくリングマの姿だった。落下点を予測した彼女は前足で口を覆う。
「あぁっ、ダメッ! そっちは……!」
 心とは真逆の台詞が口をついて出た次の瞬間――
 グチャッ!
 よく熟れたマトマの実が潰れたような音が響き渡る。アイスバーンの地面に背中から叩きつけられたリングマは――あえなくミートソースになってしまったのだった。
「あーあ、ご愁傷様……」
 前足を合わせて祈りの言葉を唱えるキュウコンの少女。誰もいない筈の方を向いた彼女の父親は歓声を上げる。
「皆の者、集まってくれ! 娘が会いに来てくれたぞ!」
「……えっ、他にも誰かいるの?」
 霧の奥に目を凝らすキュウコン。中から続々と姿を現したのは――
「やっほー、コユキ! 元気にしていたかしら?」
「ははっ、見ろよ! 進化しているぜ! しばらく見ない内に大きくなりやがって!」
「うふふっ! でも顔つきはまだまだ子供ね! 可愛いわぁ!」
「おいっ、お前らばっかりズルいぞ! 俺にも見せろよ!」
 兄姉、そして仲間たちだった。彼女の両目から堰を切ったように涙が溢れ出す。
「兄さん、姉さん……! それに……みんな……!」
 が、感動は一瞬だけだった。ぐるりと周囲を見渡した彼女は崩れ落ちてしまう。
「どうして!? どうして……あぁっ!」
 喜びは悔しさに変わり、そして底なしの悲しみへと変わっていった。突っ伏して大泣きし始めるキュウコンの少女。もはや誰一匹として生き残っていないことを知ってしまったからだった。
 胸が締め付けられる光景だった。寄り添うように腰を下ろした彼女の父親は、重い口を開く。
「我が娘よ、もう大方の予想はついていると思うが……悲しい知らせを伝えねばならん。心を落ち着かせて聞いてくれ」
 泣きじゃくりながらも首を振るキュウコンの少女。彼は断腸の思いで次の言葉を紡ぎ出す。
「昨日の夜明け前……父さんたちの生き残りは最後の突撃を敢行した。老いも若きも雄も雌も、誰もが負の歴史からの解放を求めて全力で戦い……そして死んでいった。どうか許しておくれ、父さんたちは……」
 彼女の父親は鈍色の空を仰ぐ。
「負けてしまったのだ……」
「あああああああぁっ!」
 うつ伏せのまま絶叫するキュウコンの少女。彼女は何度も前足を地面に打ち付ける。
「認めない、認めないっ! そんなの絶対に認められないっ! なんで……なんで私たちを見捨てたの……!? 島の神様は……!?」
 吐き出されたのは呪いの言葉だった。透けた前足をポンと背中に乗せた彼は、憐れみに満ちた眼差しを注ぐ。
「見捨てられてなどいないぞ。常に気にかけてくれているからこそ、こうして父さんはコユキのピンチに駆けつけることができたのだ。娘を守ってやれとの命を受けてな。島の神様を恨むのはよしなさい」
 そういうことだったんだ……。少しだけ救われた気がした。優しく窘められた彼女は小さく首を振る。
「それに……どこまで行っても戦いは一族が引き起こしたものだった。全ての責任は我々にあるのだ」
 耳を疑う台詞だった。泣き腫らした顔を上げた彼女は即座に反論する。
「なっ……何を言っているの、父さん!? 私たちじゃないわ! あのマニューラのせいでしょうが! まさかもう忘れたの!?」
「ははっ、覚えているさ! なにもかも!」
 娘の言葉を一笑に付した彼は胸に前足を当てる。
「そして……なにもかも知った上で言っている。あのマニューラに父さんを殺した罪を問うことはできん。それが真実だ」
 頭がこんがらがりそうだった。おぼつかない足取りで立ち上がり、そして父親の前に立ちはだかるキュウコンの少女。彼女は大粒の涙を流しながら絶叫する。
「だったら……だったら誰が父さんを殺すよう仕向けたの!? 私たちをバラバラに引き裂いたのは誰なの!? 教えてっ! 教えてよ、父さんっ!」
「悪いが……」
 言葉を切った彼は残念そうに首を振る。
「これ以上は話せない。島の神様に口止めされているのだ。あまりに大きな影響を現世に与えかねんからな。潔く諦めてくれ」
「うぅ……」
 生殺しにされた気分だった。彼女は深い悲しみに包まれる。
「だが……これだけは言っておく」
 たちまち彼女は顔を上げる。
「いずれはコユキも真実を知ることになるだろう。だから今は気長に待ちなさい。分かったね?」
 父さんの言葉を信じよう。涙を拭った彼女は小さく頷いてみせるのだった。
「さて、話は元に戻るが……悲しいか、コユキ? ……ふふっ、悪かった! 聞くまでもなかったな!」
 たちまちに顔中を涙と鼻水でグチャグチャにするキュウコンの少女。案の定の反応に彼は大笑いする。
「では、一つ小話をしてやろう。お前を悲しませたまま逝くのは不本意だからな」
 皆の顔を見渡した彼は静かに目を閉じる。
「これから父さんたちは天に昇る。悲しみも、苦しみも、憎しみもない世界で……ご先祖様と幸せに暮らすのだ。そういうことだから泣くな、我が娘よ! 父さんたちは……」
 目を開いた彼の顔に屈託のない笑みが浮かぶ。
「誰一匹として欠けることなく救済されるのだから!」
 寂しさ半分、嬉しさ半分だった。彼女は悲しいながらも温かい気持ちに包まれる。
「うん、もう泣かないもん……! でも……」
 これだけは納得できない! 彼女は一族の仇を指差す。
「あいつらは連れて行かなくていいでしょ!? こんなの許せないわ!」
「あぁ、奴らか」
 ちらと横目で見たのは――背中合わせに座りながら項垂れる、食いしん坊な山椒魚の怪獣に命を溶かされてしまった三匹のキュウコンだった。彼は左右に首を振る。
「逆だ、我が娘よ。許せないからこそ連れて行くのだ。ご先祖様の審判を受けさせるためにな。……せいぜい今の内から覚悟しておけ。我々のみならず無関係な者の命まで奪った悪党どもめ。この罪は重いぞ?」
「くっ、くそぉ……! あのベロベルトさえいなければ……!」
 回れ右をして三匹を睨み付ける彼女の父親。オルムと呼ばれたリーダー格の一匹はギリギリと歯噛みをする。
 何がなんだかサッパリだった。やり取りを呆然と眺めていた彼女は目を点にする。
「えっ……? そっ、それって、いつの話? なんでベロベルトさんが出てくるの?」
 今度は皆が目を点にする番だった。その一言で腰を抜かした彼女の父親は、震える前足でキュウコンの少女を指差す。
「わっ、我が娘よ……まさか何も知らなかったとは言うまいな……?」
「知らなかった……? さっきから父さんは何を言っているの? ワケが分からないんだけど?」
 浮かぶのは疑問符ばかり。絶命するほどのショックを受けた彼は大の字に倒れてしまう。
「なっ、なんということだ……。お前にしては上出来だと思っていたが、そういうことだったとは……。うーむ、成仏したくなくなってきたぞ……」
 頭を抱えながら不穏な言葉を口にする彼女の父親。周囲の面々も失笑を禁じ得ない。
「えーっ、ウソーッ!? ヤバすぎでしょ、それ!?」
「あらまぁ、コユキったら! もう少し用心深くならなきゃダメよ!?」
「だははっ、こりゃウケるぜ! しっかりしろよぉ、コユキ! ……なぁ、兄貴!?」
「……全くだぜ。誰に似たんだか!」
 あまり気分の良いものではなかった。モヤモヤを募らせた彼女は大声で叫ぶ。
「だ、か、ら! 兄さんも姉さんも何の話をしているのよ!? 教えてってば!」
「あぁ、一から十まで父さんが教えてやるとも! よく聞きなさい!」
 これ以上も娘を嘲笑の対象にしたくなかった。我慢できずに飛び起きた彼は娘の耳元に口を寄せる。娘が戸惑った顔で頷くのを見届けた彼は――かくかくシキジカと事の顛末を語って聞かせたのだった。
「とっ、ということは……街を出た直後からずっと尾けられていたの、私!?」
 前足で口を覆った彼女は渦中の三匹に目をやる。
「で、ベロベルトさんに挑みかかった挙げ句に食べられちゃった、と。……ぷぷっ!」
 噴き出さずにはいられなかった。彼女の父親も一緒になって大笑いする。
「あぁ! コユキがプレゼントした乳製品と一緒に胃袋の中で溶かされてヨーグルトシェイクにされ、腹の底でブラウニーにされてしまったというワケだ! 明日の朝には尻の穴から絞り出されてチョコレートソフトクリームになることだろう!」
 腰を低く落として踏ん張るポーズをする彼女の父親。流石に悪乗りが過ぎたらしい。鼻を摘んだキュウコンの少女は白けた目をする。
「父さん、そういうのを食べ物で例えるのはやめて。食べる時に思い出すでしょうが。どれも私の好物なのに……。ほんっと、相変わらずなんだから……」
 この親にしてこの子あり。下ネタを好むのは血筋らしかった。ペロリと舌を出した彼は前足を頭に乗せる。
「ははっ、悪かった! もう言わないさ! コユキは本当に甘い物が好きだな。虫歯には気を付けるんだぞ?」
「うん! 気を付けるよ!」
 ニッと歯を見せて笑うキュウコンの少女。直後に工作員の一匹が悪態を吐いてくる。
「この死に損ないがぁ! 覚えてやがれ! こっちに来た暁には目いっぱい可愛がってやる!」
 口喧嘩なら負ける気はなかった。彼女は両前足で下まぶたを引っ張ってみせる。
「バーカ! あなたたちとは行き先が違うのよ! ウンチはトイレにでも流されていなさい! この……!」
「それくらいにしておくのだ。接近にすら気づけなかったコユキに偉そうなことを言う資格はないぞ?」
「うっ、ごめんなさい……」
 罵詈雑言の応酬はそこまで。痛いところを突かれた彼女は即座に黙り込んでしまうのだった。
「ねぇ、父さん。一つ聞きたいんだけど?」
「うん、なんだ?」
 下を向くキュウコンの少女。視線の先にいたのは――スリスリと足元に擦り寄ってきていた幼いロコンの幽霊だった。
「この子だけ見覚えがないの。父さんは知ってる? ……この卑怯者! こんな幼い子供まで殺すなんて! あなたたちのこと永遠に呪い続けてやるわ!」
 よほど恐ろしい顔をしていたらしい。凄まじい剣幕で怒鳴りつけられた三匹は震え上がってしまうのだった。
「そうか、コユキは会うのが初めてだったな。それなら見覚えがないのも無理はあるまい。……さぁ、ご挨拶なさい!」
「うんっ!」
 促されたロコンは真っ直ぐに彼女の顔を見つめ、そしてペコリとお辞儀をする。
「はじめまして、コユキおねーちゃん! いもうとのツララです! よろしくおねがいします!」
 衝撃の一言だった。彼女は戸惑った様子で辺りを見回す。
「いっ……妹ですって? あなた何を言っているの? 私は末っ子よ? 弟も妹もいないの。ふふっ……何かの勘違いだわ! えぇ、きっとそうよ!」
 信じられなかった、もとい信じたくなかった。自分に言い聞かせるように叫ぶキュウコンの少女。複雑な表情を浮かべた彼女の父親が前に進み出てくる。
「いいや、いたのだ。コユキには妹が。正確には……妹になる筈だった存在が」
「どうして、どうして……!? そんな話……母さんからは一度たりとも……!?」
 悲しさと悔しさを爆発させるキュウコン。彼女の体が小刻みに震え始める。
「お前が年頃になるまで話さないことに決めていたのだ。深く傷ついてしまうことを恐れてな。だが……もうこの際だ。父さんの口から話そう。真実を知る勇気はあるか、コユキ?」
 あろうとなかろうと関係なかった。彼女は怒ったような眼差しを向ける。
「前置きはいいから早く話して。家族どうしで隠し事なんてやめようよ、父さん……」
「すまない、聞くまでもなかったな。……ツララ、あっちで皆と遊んできなさい」
「はぁい!」
 聞き分けよく兄姉たちの元へ駆けていく末っ子の妹。仲良く追いかけっこを始めるのを見届けた彼女の父親は、下から二番目の妹の耳元に口を近付ける。
「もうじき成獣するコユキのためにも包み隠さず話そう。あの事件が起こる前日の夜、父さんは母さんと幸せなひとときを共にした。その結果として授かった子が……彼女だったのだ」
 この世の春を謳歌していた時期である。記憶なら鮮明に残っていた。彼女は唖然とした顔をする。
「そっ、それって……力比べに来ていたジャラランガの族長たちとドンチャン騒ぎして、ベロンベロンに酔っ払っていた時じゃないの! 宴の途中で母さんと一緒にどこかへ行ったかと思ったら……そんなことしていたのね!? どうりで行き先を聞いても教えてくれなかったワケだわ!」
 そこまで覚えられていたのは想定外だった。頬を赤くした彼は視線を逸らしてしまう。
「まっ、まぁ……そういうことだ。お前の願いを叶えてやろうという話になったのだよ」
 私にも弟や妹が欲しい――彼女は毎日のように口にしていた台詞を思い出す。
「だが、その翌日だった。父さんは……」
「殺されてしまった……」
 今にも泣き出しそうな表情で呟くキュウコンの少女。天を仰いだ彼は静かに頷く。
「そう。だが時計の針は元に戻せん。その数日後、悪党どもが二度目の戦いを有志連合に挑んできた時……彼女は卵となって母さんのお腹から生まれ落ちた。それから数ヶ月後、敗色が濃厚となりつつあった有志連合がコユキたちを島外へ脱出させる作戦を決行した時……」
 彼は雪原を無邪気に走り回る末っ子の姿を見つめる。
「母さんは孵化直前の卵を前に苦渋の決断を迫られた。幼い子供を二匹も連れて行けば共倒れを免れないこと、卵を誰かに託すという選択肢も現実的でないこと。両者を勘案した母さんは……」
「卵を、彼女を……神様の元に返した……!」
 もう大体の想像は付いていた。うわ言のように呟くキュウコンの少女。うつむいた彼は祈るように目を閉じる。
「せめて安らかにという思いがあったのだろう。降り積もったばかりの柔らかな新雪を深く掘り……」
 彼は唇を強く噛み締める。
「涙ながらに埋めたのだ……」
「ああっ、あああっ! いやぁぁぁぁぁっ!」
 胸が引き裂かれる思いだった。膝から崩れて絶叫するキュウコンの少女。悲痛な叫びを聞きつけた妹が慌てて駆け寄ってくる。
「どうしたの、コユキおねーちゃん!? なかないでっ!」
 心配そうに顔を覗き込む末っ子の妹。無理難題を吹っ掛けられた彼女は号泣してしまう。
「ごめんね、ツララ……! 寒かったろうに、苦しかったろうに……! 許して……お姉ちゃんを許して……! あぁっ……!」
 末っ子の妹は何度も首を振る。
「うぅん、おねーちゃんのせいじゃないよ! それに、もうツララ、くるしくないもん! だから……なかないでっ! ツララまでかなしくなっちゃう!」
 必死に励まし続ける小さなロコン。見るに見かねた彼女の父親も後に続く。
「そうだ、お前は何も悪くない。もし少しでも悪いと思う気持ちがあるのなら、妹の言うことを聞いてやりなさい。できるね?」
 いつまでも情けない姿を見せ続ける訳にいかなかった。小さく頷いた彼女は涙を拭って立ち上がる。
「コユキ、どうか覚えていてほしい。お前の命は彼女の尊い犠牲の上にあることを。……今までも苦労の連続だったと思うが、これからもコユキは数え切れないほどの困難や試練に直面することだろう。何もかも投げ出したくなってしまうこともあるかもしれん。そんな時は……きっと妹のことを思い出してくれ」
「はいっ、父さん! 忘れないからね、ツララ……!」
「うんっ! コユキおねーちゃんのこと、ツララもわすれない!」
 互いに見つめ合った二匹は固く約束するのだった。
 あれだけ降っていた雪も止み、立ち込めていた霧も急速に晴れ始めていた。空模様を確認した彼は末っ子の娘に微笑みかける。
「さぁ、ツララ! 泣き虫のコユキ姉さんを元気づけてあげなさい! 任せたぞ!」
「うんっ! ……コユキおねーちゃん、ついてきて!」
 くるりと背を向けた彼女の妹はトコトコと雪の上を歩き始める。
「えっ? う……うん。ついて行くけど……?」
 事態が飲み込めないながらも素直に従うキュウコンの少女。そんなに遠い場所ではなかった。ほんの数十歩で足を止めたロコンは回れ右をする。
「こっち、こっち! コユキおねーちゃん! ここほれコンコン!」
「ここを? どうして?」
 指し示されたのは何もない雪原の一角だった。キュウコンの少女は面食らった顔で聞き返す。
「いーから、いーから! ほってみて!」
「分かったわ。掘ればいいのね?」
 言われるがまま雪をかき分け、その下から現れた土の地面を両前足で掘っていくキュウコンの少女。出てきたのは泥だらけの石ころばかりだった。それら全てを穴の外に引っ張り出した彼女は、怪訝そうな顔を妹に向ける。
「えっと……なにもないみたいだけど?」
 溜め息まじりに言うキュウコン。お座りの姿勢になった末っ子の妹はパチパチと拍手を送る。
「やったね、コユキおねーちゃん! おくまんちょーじゃ、おめでとう!」
「へっ? 億万長者……?」
 反射的に下を向くキュウコンの少女。よくよく見ると普通の石ではなかった。微かな輝きに気付いた彼女は、そのうちの一つを慌てて拾い上げ、表面の泥を前足の肉球で拭い取っていく。
「こっ、これは……! あぁっ、神様……!」
 疑いの余地などなかった。反射する光で顔を黄金色に染めた彼女は天を仰ぎ見る。泥に塗れた石ころの正体、それは――自然金の塊。彼女は金の鉱脈を掘り当てたのだった。
「……そのとおり。どうか受け取ってくれ。父さんたちからの餞別だ」
 いつの間にか背後に立っていたらしい。声のする方を向いた彼女は目を潤ませる。
「うぅっ……! ありがとう、父さん……!」
「なに、礼には及ばないさ。コユキと母さんが味わった苦しみに比べたら安いものだ。……ただ、一つだけ約束してほしい」
 そこで言葉を切った彼は咳払いする。
「独り占めしないこと! お世話になってきた方々にも分けてあげなさい。絶対にだぞ!」
「うんっ! 約束するよ、父さん!」
 ルカリオ、ボーマンダ、マフォクシー、そして――ベロベルト。他にも数えきれないほどの顔を思い浮かべた彼女は何度も首を縦に振るのだった。
「さて、そろそろか。……見なさい、コユキ。あそこだ」
 辺りを包んでいた霧も完全に消え去り、元の天気に戻りつつあった。唐突に顔を上げた彼は南の空を顎でしゃくってみせる。
「……わぁ、とっても綺麗な虹! あんなに大きいのを見るのは初めてだわ!」
 見上げた先にあったのは――地平線から地平線まで続く七色の完全な虹だった。横に並んだ彼女の父親は小さく頷く。
「あぁ、父さんもだ! ……あの虹を渡って父さんたちは天に昇る。名残は惜しいが……お別れだ、コユキ」
「……えっ?」
 驚いた顔を向けるキュウコンの少女。目に飛び込んできたのは――足先から光の粒子となっていく父の姿だった。肝を潰した彼女は短い悲鳴を漏らす。
「とっ、父さんっ!? それに……ツララ!? 兄さんも姉さんも……みんなまで!? かっ、体が消えて……!?」
 誰も彼も同じ状況だった。訳も分からず右往左往するばかりのキュウコンの少女。そんな彼女の反応を楽しみながら見ていた父親は声高らかに笑う。
「ははっ、言っただろう、我が娘よ! 別れの時が来たと! 父さんたちの役目は終わったのだ!」
「そんなの嫌っ! 行くなら私も連れて行って!」
 何度も首を振りながら絶叫するキュウコンの少女。九本の尻尾を逆立てた彼女の父親は怖い顔をする。
「ダメだ! もう昨晩の話を忘れたのか!? 負け犬になってどうする!?」
「うっ……! ごめんなさい……」
 その一言で目を覚ました彼女は、自らの言動を深く恥じるのだった。
 一安心だった。やれやれと言わんばかりに息を吐いた彼は背後を振り返り、そして声を張り上げる。
「さぁ、皆の者! 意気地なしの娘を励ましてやってくれ! 笑顔で見送るぞ!」
 一斉に鬨の声を上げる兄姉と仲間たち。ドッと彼女の元に押し寄せた彼らは、口々に応援の言葉をかけていく。
「楽しく生きるのよ、コユキ! お葬式みたいな顔している暇があったら笑いなさい!」
「気張れよぉ、コユキ! きっと立派な温泉旅館の女将さんになるんだぞ!」
「へへっ、途中で諦めたら承知しねぇぞ!? 祟られたくなかったら死ぬ気で頑張りやがれ!」
「もぉ、兄さんったら最低! ……馬鹿は放っておいてマイペースで頑張りなさい! 期待しているわよ、コユキ!」
 涙と鼻水が止まらなかった。全て聞き終えた彼女は嗚咽を堪えながら口を開く。
「兄さん、姉さん、みんな……! ありがとう……本当にありがとう……!」
 お礼を言い終える頃には顔の一部が残るのみとなってしまっていた。最後の最後までキュウコンの少女に温かい眼差しを送り続けた兄姉と仲間たちは――やがて完全に光の粒子となり、虹の彼方へと飛び去っていったのだった。
「さようなら、兄さん、姉さん、みんな……!」
 南の空に向かって前足を合わせるキュウコンの少女。瞳を閉じた彼女は静かに冥福を祈るのだった。
 そして――最後まで残ったのが例の三匹だった。それぞれの顔を順番に眺めた彼女の父親は小さく舌打ちする。
「ふんっ、往生際が悪いとはよく言ったものだ。さっさと行け、このクソ野郎ども! あぁ、こいつは失敬! これから本物のウンコになるんだったな! ……やーい、ウンコ、ウンコ! 臭いぞお前ら! あははっ!」
「とっ、父さん……恥ずかしいからやめて……。本当に何も変わっていないんだから……」
 目のやり場に困ってしまうキュウコンの少女。そしてプライドを粉々に砕かれて涙目になる三匹。前足を雪原に打ち付けたリーダー格の一匹は、憎しみに満ちた表情でキュウコンの少女を睨みつける。
「我々が滅びても何も変わらぬ! これからも同志たちが貴様の首を狙い続けることだろう! 震えて眠るがよいわ、娼婦のガキめ!」
 捨て台詞を吐き終えるなり粉々に砕け散った三匹は――あっという間に南の空へと吸い寄せられていったのだった。その一部始終を見届けた彼女はフンと鼻を鳴らす。
「……ご忠告どうも。今晩は暖かくして寝るようにするわ」
 いよいよ最後の最後だった。両目いっぱいに涙を浮かべた彼女は、泣いてしまいそうになるのを必死に堪えながら父と妹の二匹と向かい合う。
「さぁ、ツララ! お別れの挨拶をしなさい! 言っておきたいことがあるなら今のうちだぞ!?」
「うんっ! じゃあ……ひとつだけ!」
 小さなロコンは無邪気な眼差しを向ける。
「せんねんいきてね! コユキおねーちゃん!」
 満面の笑顔で言われたものだから尚更だった。キュウコンの少女は吹き出してしまう。
「ふふっ! もぉ、ツララったら! それは伝説に登場するキュウコンの話よ! そんなに長く私は生きられないわ! でも……」
 そこで言葉を切った彼女は妹に微笑みかける。
「きっと充実した一生にしてみせる! みんなから預かった命だもの! 無駄遣いなんかするものですか! これだけは約束するわ、ツララ!」
「やったぁ! やくそく、やくそく!」
 鼻と鼻を合わせる二匹。感極まったキュウコンの少女の瞳から一筋の涙が流れ落ちる。
「じゃあね、バイバイ! コユキおねーちゃん!」
「また会いましょうね、ツララ……!」
 別れの挨拶を交わし終えると同時に光の粒子となった妹は――真っ直ぐに天へと昇っていったのだった。
「さて、我が娘よ。父さんからも一言だ! と、いきたいところだが……」
 入れ替わりで彼女の前に腰を下ろした父は大笑いする。
「ははっ、あのベロベルトに何もかも言われてしまった! というワケで、父さんからは何もナシだ! 代わりに……母さんへ伝言を頼みたい」
 胸から上だけの姿となってしまった父は娘の瞳を見つめる。
「愛している。今までも、これからも、永遠に。……そう伝えてほしい。ツララについて話せば母さんも信じるだろう。ずっと秘密にしていたことだからな」
「うんっ! そのとおり伝えるよ、父さん……!」
 もはや思い残すことは何もなかった。娘の反応に満足した彼は静かに微笑みかける。
「さぁ、立ち上がれ、コユキ! お前が進むべき道を歩むのだ! いつまでも見ていないで行きなさい!」
 ポロポロと涙を流した彼女は全力で首を左右に振る。
「いやっ! このまま見送らせて! まだ父さんから離れたくないっ!」
「やれやれ、呆れた娘だ! この甘えん坊め! ……いいだろう! 好きにしなさい!」
 最後くらいワガママを聞いてやろう! 深く息を吐いた彼は渋々ながら娘の想いを受け止める。
「父さん……!」
「コユキ……!」
 互いに見つめ合う二匹。いよいよ顎から上が残るのみとなった直後――ふと彼女の父親は視線を泳がせる。
「……あっ、一つ言い忘れていた」
 キュウコンの少女は危うくズッコケそうになる。
「……えぇっ!? いっ、いまさら!? 早く言って、父さん! もう生首になっちゃっているわよ!?」
「うっ、うるさいっ! 生首とか言うな! 心配は無用だ! すぐに終わる!」
 顔を真っ赤にした彼は鋭い眼差しを送る。
「羽目を外しすぎないように! 誇り高き一族の名に恥じない行動を心がけなさい! 昨晩の出来事……なにもかも見させてもらったからな!?」
 ボンッ!
 今度は彼女が恥ずかしさを爆発させる番だった。一瞬で顔を紅潮させた彼女はヘナヘナと膝から崩れ落ち――そのまま死んだように動かなくなってしまうのだった。
「そういうことだ、コユキ。もし今後も悪い遊びを続けるようであれば……化けて出てやるから楽しみにしておきなさい。ついでに母さんにも言いつけてやろう。分かったね?」
 おどろおどろしい顔で凄まれた彼女は平伏して謝るのだった。
「……以上! では、さらばだ! いつも父さんはコユキのことを見守っているぞ!」
「ありがとう、父さん……!」
 笑顔で頷くなり光の粒子となった彼女の父親は、一直線に青空の向こう側へと消えていったのだった。
「あぁっ、あぁぁっ……! なにもかも見られていたのね、昨晩の私……! はっ、恥ずかしすぎて死にそう……いや、死んじゃダメなんだけど……」
 父の昇天を見届けると同時に込み上げてきたのは、底なしの羞恥心だった。両前足で顔を覆って雪原の上をのたうち回るキュウコン。背中を丸めてうずくまった彼女の肩に――何者かの手が乗っかってくる。
「きゃぁぁぁぁぁっ!? おばけぇぇぇぇぇっ!」
「やっ、やっぱり! どこだっ、どこにいるっ!? 姿を見せろっ!」
「えっ!? その声は……!?」
 飛び上がって絶叫した直後に聞こえてきたのは、聞き覚えのある中年男性の声だった。正気に戻ってクルリと背後を振り返るキュウコンの少女。彼女の視界に飛び込んできたのは――
「レナードさん! とんだ勘違いだったわ! あぁ、びっくりした!」
 冬山登山の完全装備に身を固めたマフォクシーだった。構えた木の枝を下ろした彼は目を吊り上げる。
「アホ! こっちのセリフだ! 心臓が止まるかと思ったじゃないか!」
 胸に手を当てて深呼吸するマフォクシー。同様に大きく息を吐いた彼女は深々と頭を下げる。
「それは……ごめんなさい。でも、なんでレナードさんがここに? どうかしたの?」
 ハッと思い出した彼はキュウコンの少女の前に跪く。
「どうしたもこうしたも! お前を救出しにきたんだ! 妙な胸騒ぎがしたもんだから、居ても立ってもいられなくなってジャローダとベロベルトの元を訪ねてみたら……案の定だった!」
 痛恨の極みだった。額に手を当てた彼は天を仰ぐ。
「まずは謝らせてくれ! 本当にすまなかった! 全てはコユキを一匹で行かせた俺の責任だ! お前だが、どうも街を出た時から……」
「あぁ、それなら!」
 彼女は早々に口を挟む。
「父さんから全て聞いたわ! 悪い奴らに尾けられていたって話でしょ!? だけど……もう大丈夫! ベロベルトさんが食べちゃったから……って、あっ!」
 そこで口を噤むも時すでに遅し。ポトリと木の枝を落とした彼は表情を凍り付かせる。
「お前……なにを言っているんだ? 父親なら二年前に亡くしたんじゃなかったのか? それに……どっ、どうしてお前がそれを知っている!? 誰から聞いた!?」
 怯えた様子で周囲を見回すマフォクシー。誰もいないことを再確認した彼は、血の気の失せた顔を彼女に向ける。
「あえて聞かないでおくつもりだったが……さっきまで誰と話していた?」
 その声からは恐怖がにじみ出ていた。答えに窮した彼女は無言のまま下を向いてしまう。
「……そうか。だったら確かめるまでだ。悪く思うな、コユキ」
「……ひっ!?」
 拾い上げた木の枝の先端を手で擦って着火させるマフォクシー。苦手な物の代表格を突きつけられた彼女は両前足を上げる。
「いや……ダメだ。やめておこう」
「……へっ?」
 が、直後に彼の口から発せられたのは意外な一言だった。ジュッと先端を雪に突っ込んで消火した彼は、大人しく木の枝を腕の体毛の中に戻し――そして力強く頷く。
「信じよう、コユキ! 疑って悪かった!」
「わぁぁぁぁぁぁぁん! ありがとう、レナードさん!」
 たちまち号泣して飛びついてくるキュウコンの少女。危うく押し倒されそうになった彼の顔に困り笑いが浮かぶ。
「ははっ! こらこら、抱き付くな! 溶けちまうぞ……って、うっ!」
 彼女の背中に両腕を回した瞬間に鼻をついたのは――あまりにも強烈すぎるベロベルトの体臭だった。たまらず両手を離した彼は鼻を摘む。
「おっ、お前……どんだけ臭い体しているんだ!? しかも、こいつは……!」
 その中から特徴的な臭気を嗅ぎ分けた彼は言葉を失ってしまう。
「正直に言え、コユキ。お前……彼と何をした?」
 軽蔑の眼差しを隠さないマフォクシー。顔を真っ赤にした彼女は再び下を向いてしまう。
「……白状しろ。俺の鼻は誤魔化せんぞ?」
 もはや言い逃れはできなかった。観念した彼女は震える前足を合わせ、そして――
「お願い、レナードさん。母さんだけには内緒にしておいて……」
 そう一言、今にも消えてしまいそうな声で呟くのだった。
「まったく、お前という奴は! ……まぁいい! 説教は後にしてやる! 今は麓の街まで下りるのが最優先だ! さっさと出発するぞ!」
 そこで立ち上がった彼は地面に掘られた穴を指差す。
「その前に、だ! 用を足したなら埋めていけ! 下手に痕跡を残すな!」
「えっ? あっ、あぁ……ごめんなさい。すぐに埋めるわ」
 本当は違ったが今は説明している場合ではなかった。勢いに呑まれた彼女は泥まみれの石ころを穴底に落とし、掘り起こした土と雪で元どおりに穴を埋め戻す。
 どうせ雪が溶けてからでないと本格的に採掘できないのである。打ち明けるのは春の訪れを待ってからでも遅くはなかった。場所を頭に叩き込んだ彼女は、グッと我慢して立ち上がる。
「お待たせ! 行きましょう!」
「あぁ、行こう! 大好きな温泉が待っているぞ!」
 左右に並んで山道を歩き始める二匹。なんとなく抱いていた違和感の正体に気付いた彼は背中に手をやる。
「……そうだ。あの馬鹿デカい行李はどこにやった? ベロベルトのところに置いてきたのか?」
「それなんだけど……色々あって捨てちゃった! その話は温泉に浸かりながらするわ! 凄かったんだから!」
「はっ? なんじゃそりゃ!?」
「うふふっ! 今はヒミツ!」
 ポカンと口を開けた彼を尻目に青い空を見上げた彼女は――
「……ありがとう、父さん!」
 そう一言、晴れやかな笑顔で呟くのだった。
24/08/11 07:54更新 / こまいぬ
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