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連載小説
[TOP][目次]
お礼の品
「……お待たせ! さっそく作らせてもらうよ!」
 真っ白いキュウコンの隣にドカリと腰を下ろすベロベルト。ミルタンクの顔が描かれたラベルの練乳缶、銀紙で丁寧に包装された板チョコレートを傍らに置いた彼は、ティーセット一式が詰まった箱を手繰り寄せる。
 ソーサーの上にティーカップを置き、銀のスプーンを添えたら準備完了。ヒョイと両手で練乳缶を拾い上げた彼は、キュウコンの顔を覗き込む。
「それじゃあ……コユキちゃん! ミルクとチョコレートの量はいかがなさいますか?」
 恭しく尋ねるベロベルト。口元を前足で拭った彼女は照れくさそうな顔をする。
「うふふっ! どちらもたっぷりで! とびっきり甘くしてくださいな!」
「はぁい! かしこまりました! ミルクもチョコレートもたっぷりだね!」
 注文を復唱したら調理開始だった。親指の爪を蓋に突き立てた彼は、練乳缶に二つの小さな穴を開ける。
「あぁっ、見ているだけで涎が……! あとで舐めさせてもらってもいいですか!?」
 もう我慢の限界だった。トロトロと滴り落ちる真っ白い液体を凝視しながらゴクンと唾液を飲み下すキュウコン。彼女は堪らず声を上げる。
「おっ、コユキちゃんも甘いもの好きだねぇ! 別に構わないよ! どうせ使いきれないだろうし! ……あっ、でも少しだけ残しておいてね! オイラも舐めるの大好きなんだ、練乳! こんなことばかりしているから太るんだろうけど! あははっ!」
 そのまま舐めるもよし、缶ごと湯煎して生キャラメルにしてから舐めるもよし。甘いものに目がない彼の大好物だった。カップに練乳を注ぎ終えた彼は、部屋の隅に堆く積まれた空き缶の山に一瞥をくれる。
「ありがとうございます! ちゃんと残しておきますわ! ……あっ、次はチョコレートですね!」
「そう! たっぷり使っちゃうよ!」
 両前足を合わせて声を弾ませるキュウコン。練乳缶を床の上に置き、板チョコレートを手に取った彼は、銀紙をビリビリと半分だけ剥がし取る。
 うーん、さすがに甘すぎるかなぁ? 不安をよぎらせながらも二つ折りにした彼は、銀紙が付いていない方をバキバキに砕き、その全てをカップの中に放り込むのだった。
「あとはお湯を入れて……!」
「かき混ぜるだけですね! お願いしますわ!」
 シュウシュウと音を立てるケトルを焚き火からおろすベロベルト。ソーサーからスプーンを取り上げるキュウコン。彼女の合図で彼はカップの八分目まで熱湯を注ぐ。
「美味しくなりますように……っと!」
 すかさず底までスプーンを差し込み、おまじないを唱えながらグルグルとカップの中身を攪拌するキュウコン。全てドロドロに溶かし尽くしたら完成だった。ふんわりと泡立つ茶褐色の液体の水面に鼻先を近寄せた彼女は、甘い匂いを胸いっぱいに吸い込む。
「あぁ、いい香り! 完璧ですわ!」
「美味しそうにできたじゃないの! ……よぉし、オイラも作っちゃおうっと!」
 余った板チョコレートの銀紙を剥がしにかかるベロベルト。そんな彼にキュウコンはストップをかける。
「あっ、待ってください。お茶にした方がいいですわ。お礼の品との相性もありますので!」
「おっと、それならお茶にさせてもらうよ。ご忠告ありがとう!」
 後にしておこう。彼は残りのチョコレートを練乳缶の蓋の上に置く。
「……なぁんだ! やっぱりお茶菓子じゃないか! 勿体ぶっちゃってぇ!」
 茶漉しに新しい茶葉を入れながら嫌味っぽく言うベロベルト。その上からケトルの湯を注いだ彼は、カップを琥珀色の透き通った液体で満たす。
「うふふっ、ごめんなさい! 最後まで秘密にしておきたくて!」
 ペコリと頭を下げてカップを取り上げるキュウコン。彼もすぐさま後に続く。
「なにはともあれ乾杯しましょう! 今日はよろしくお願いしますわ!」
「オイラこそよろしく! それじゃあ……乾杯!」
 チンとカップを合わせ、同時にカップの中身を口へと運ぶ二匹。一口、そして二口飲んでカップを口から離した二匹は笑顔で顔を見合わせる。
「あぁ……! 幸せですわ! 舌がとろけちゃいそうです!」
 甘い快楽に身を震わせるキュウコン。口元に茶色い髭を生やした彼女は、チョコレート色に染まった舌をペロリと垂らす。
「お気に召してもらえたようで何よりだよ! 何杯でも作るから遠慮なく言ってね! それじゃあ、そろそろ……!」
「えぇ、お待たせしました!」
 口周りを舐め回してみせるベロベルト。意図を汲み取った彼女は静かにカップをソーサーに置く。
 コホン。小さく咳払いして体の正面を向けるキュウコン。彼は慌てて飲みかけのカップを元の場所に戻す。
「それでは……えぇっと、うんと、その……」
 いきなり言葉に詰まってしまうキュウコン。どうやら上がってしまっているようだった。そう推測した彼は相手の緊張をほぐしにかかる。
「どうしたの、コユキちゃん? 固くならなくて大丈夫だよ? こんなブヨブヨのプルンプルンなオイラが相手なんだからさ!」
 全身の贅肉を揺らしてみせるベロベルト。が、そうではないらしい。彼女は気まずそうに首を左右に振る。
「いえ、違うんです。お名前を伺うのを忘れていたなって……」
 恥ずかしさのあまり小さくなってしまうキュウコン。いくらでも聞く機会があっただけに情けなかった。
「あぁ、名前ねぇ。レナードさんから聞かなかったんだ? その辺の話?」
「えっ……どういう意味ですか、それ?」
 返ってきたのは意外な答えだった。彼女はポカンとした表情を浮かべる。
 その様子だと知らないみたいだな。腕組みをした彼はおもむろに口を開く。
「オイラたちだけど……名前で呼び合う習慣がないんだ。街と違って同じ種族の子が何匹も集まったりしないからね。互いを区別する必要がないのさ。まぁ……カップルや家族は例外だけど……そこは適当なオイラたちのことだからね! どうにでもなっちゃうのさ! あははっ!」
 そう言って思い出すのは、仲良しだった雌のベロリンガと共に過ごした日々の思い出だった。彼は数年前の記憶を蘇らせる。
 他愛もない話をしては盛り上がって、一緒に狩りに出ては好物の虫ポケモンをお腹いっぱい食べて、夏には一緒に星空を見上げたこともあったなぁ。プニプニと柔らかくてモッチリとした肌触りが魅力的だった彼女。大きな尻尾と長くて肉厚なベロが魅力的だった彼女。あと少しで一つに結ばれていたのだろう。あと少しで幸せな家庭を築くことができていたのだろう。それなのに、それなのに……。
「あの……どうかなさいましたか? ご気分でも?」
 心配そうに顔を覗き込んでくるキュウコン。
 いけない、表情に出てしまっていた! ハッと我に返った彼は精一杯の作り笑いを浮かべる。
「あぁ、ごめんよ! ちょっと考え事をね! ……まぁ、早い話がオイラは名無しの権兵衛ってワケ。そういうことだから好きに名前を付けてくれたらいいよ? なんでも大歓迎さ! あははっ!」
「う、うーん? そう言われましても……」
 パッと思いつくものではなかった。ほとほと困ってしまうキュウコン。悩みに悩み抜いた末、彼女は一つの逃げ道を見つけ出す。
「じゃあ……ベロベルトさん、と呼ばせていただきますわね。構いませんかしら?」
「おぉっ!? 敬称まで付けてくれるんだ!? いいのかい、コユキちゃん!?」
 ダメ元だっただけに驚きだった。予想外の好反応に彼女は尻込みしてしまう。
「えっと、良いも悪いも……年長者を敬うのは一族の常識ですから当然ですわ。倍以上も年が離れた相手を呼び捨てにするなんて、私にはとても!」
 何度も前足を左右に振るキュウコン。彼は冷めた視線を送る。
「……ふーん? そういうものなんだ? 別にコユキちゃんより先に生まれたのが偉いとは思わないけど? さっさと年食って死んじゃうだけだし! ま、好きにしてくれたらいいさ。別にこだわらないからね」
「は……はぁ、分かりました」
 真っ白いキュウコンは少し煩わしそうにするのだった。
 コホン。気を取り直してもう一回だった。二度目の咳払いをした彼女は、真っ青な瞳で相手の顔を見つめる。
「それでは改めまして……ベロベルトさん!」
「はいっ!」
 名前で呼ばれると背筋が伸びるものだった。彼は崩していた足を正座に組み替える。
「半年前は危ないところを助けてくださりありがとうございました。心から厚く御礼を申し上げます」
 深々と座礼をするキュウコン。当時を振り返った彼は尻こそばゆい気持ちになってしまう。
「もぉ……恥ずかしくなっちゃうからやめてよ。ウンチしていただけじゃないか!」
「そんなことありませんわ! 私たちに秘密の隠し穴を教えてくださったじゃありませんか! あの機転がなければ今頃どうなっていたことか! 本当にありがとうございました!」
 どぎまぎするベロベルトに彼女は再び頭を下げる。
「ありゃ? そんなことしたっけ? 無我夢中だったから記憶にないや、あははっ!」
 下手すりゃオイラも危なかったもんなぁ。手を頭の後ろに当てた彼は大笑いする。
「それと……もう一つお礼を言わなければならないことがありますわ」
「もう一つ? 他に何かしたかな?」
 視線を巡らせるベロベルト。彼女の口から笑い声が漏れる。
「うふふっ、忘れっぽいんですから! レナードさんから聞きましたわよ! 私たちを襲ったあの大男を倒したって! それも当日だったと聞いたものですからビックリですわ!」
「……あぁ、そうだった! いやぁ、あの日は色々ありすぎて何がなんだか!」
 こんな重大な出来事を忘れてしまうなんて! 彼はペチリと頬を引っ叩く。
「あとで母さんから大目玉を頂戴して知ったのですが……各地で殺戮と略奪の限りを尽くしてきた凶悪犯でしたのね。聞かされた時は背筋が凍り付きましたわ。そんな恐ろしい相手に一匹で立ち向かったなんて……もう言葉が見つかりませんわ。重ね重ね感謝いたします。私達を救ってくださりありがとうございました!」
「えへへっ、どういたしまして! 勇気を振り絞った甲斐があったってものだよ!」
 エーフィ、そしてブラッキーだったっけ? かく言うオイラは例のカップルに感謝しないとなぁ。あの二匹を養分に進化したも同然なのだから……。頭を下げたキュウコンの背中をぼんやりと眺めた彼は、立派な一本糞になって土へと還っていった二匹に心の中で静かに手を合わせるのだった。
「つきましては……ささやかながらお礼の品を用意いたしましたので、どうぞお納めください! 今から一つずつ紹介させていただきますわ!」
「いよっ、待ってました! よろしく頼むよ! ……それと、コユキちゃん! もう堅苦しいのはやめにしない!? 足が痺れちゃったよ!」
 これがオイラに舐め回される感覚なんだよね……。ビリビリと電流が走る足を手でさすりながら、彼はそんなことを思うのだった。
「うふふっ、分かりました! そうさせていただきますわ!」
 あぁ、助かった! ホッと息を吐いた彼は即座に両足を前に投げ出す。
 その傍らで行李の蓋を開けるキュウコン。中から現れたのは三つの木箱だった。
「一品目はこちらです! まずはお一つお召し上がりください!」
「うわっ!? なんだこりゃ!?」
 そのうちの一つが開封されるなり腕で顔を隠すベロベルト。内側から真っ白い冷気が溢れ出したのだから無理もなかった。仰天する彼を尻目に彼女が箱の中から取り出したのは――デフォルメされた真っ白いキュウコンの横顔が描かれた大きな紙カップだった。
「こっ、これって、もしかして……!?」
「そうです! レナードさんから伺いましたわ! いつか食べるのが夢だったと! 開けてみてくださいな!」
 カップ越しに伝わってくる冷たい感触からも明らかだった。蓋に手を掛けた彼は胸を躍らせる。果たしてカップの中いっぱいに満たされていたのは――たっぷりとバニラビーンズが練り込まれたカスタードアイスクリームだった。彼は興奮のあまりに両手を突き上げる。
「やったぁ、アイスクリームだ! 食べてみたかったんだよ、これ! ありがとう、コユキちゃん!」
「礼には及びませんわ! さっ、溶けてしまわないうちに早く! スプーンで一匙すくって、こう……舌の上に乗っけてみてください!」
 彼女はスプーンに見立てた前足をペロリと舐める仕草をしてみせるのだった。
 さぁ、心して食べるぞ! 大きく深呼吸してソーサーからスプーンを持ち上げるベロベルト。直角に突き立てれば食べ頃の柔らかさだった。山盛り一杯すくい取り、伸ばした舌でベロリと舐め取った彼は、危うくスプーンを取り落としそうになってしまう。
「……んんっ! んんんっ! んおおおおおおぉっ!」
 たまらず雄叫びを上げるベロベルト。ほっぺたが落っこちるとはこのことだった。ひんやりとした濃厚な甘さで口の中をいっぱいにした彼は、両手を頬に押し当てる。
「いかがです? 魔法のスイーツのお味は? お口に合いますでしょうか?」
 自信満々に尋ねるキュウコン。彼がブンブンと縦に何度も首を振ったのは言うまでもなかった。
「合わないワケないじゃないか! 美味しすぎて叫んじゃったよ!」
 早くも次の一すくいをパクリと口に運ぶベロベルト。スプーンを口に含んだまま静かに目を閉じた彼は、全神経を舌の表面に集中させる。
「……搾りたてのミルタンクのミルクから作った生クリーム、朝採れのハピナスの卵の黄色い部分、ミツハニーの新鮮な蜂蜜! 素晴らしいね。どれを取っても抜群の一級品だ! こんな贅沢な組み合わせったらないよ!」
「ウソ……!? どうして分かるんです!? 召し上がるのは初めてなのでしょう?」
 全ての素材を言い当てられ、度肝を抜かれた様子で口を覆うキュウコン。ゲラゲラと笑い声を上げた彼は、溶けたクリームに塗れた舌を彼女の鼻先まで伸ばす。
「あははっ! 舐めちゃいけないなぁ、コユキちゃん! オイラたちの味覚は世界一だからね! それくらい朝飯前なのさ! もう一つ言い当ててみせようか?」
 三口目を舌先に乗せた彼は軽く首を傾げてみせる。
「このローストした木の実みたいな香り……コユキちゃんだね? このアイスクリームを作ったのは君でしょ!?」
「あぁ、なんてこと……! 大正解ですわ! おみそれしました!」
 驚きのあまり平伏してしまうキュウコン。したり顔でベロを巻き取った彼は、甘くて冷たいクリームを口の隅々まで行き渡らせる。
「凄いじゃないか、コユキちゃん! こんなの作れちゃうんだ!」
 スプーンを舐めながら興奮した声を上げるベロベルト。彼女の顔に屈託のない笑みが浮かぶ。
「うふふっ、ありがとうございます! でも……材料を混ぜ合わせながら氷の息を吐き掛けるだけですから、作り方そのものは意外と簡単ですわよ? 多い日は母さんと一緒に百個は作りますの!」
「ひゃ……百個だって!? アイスクリーム屋さんにでもなるつもりかい!?」
 今度は彼が度肝を抜かれる番だった。カップのキュウコンの顔を見つめた彼は目を見開く。
「実はもうなった後ですわ! 手に職をということで、試しに作ってみたのがきっかけだったのですが……これが大好評で! レナードさんに材料の調達を手伝ってもらって、去年の暮れから売り始めたんです。完売しない日はありませんわ!」
「ははっ、だろうね! こんなに美味しいんだもん!」
 すくっては舐めを繰り返しながら賛辞を述べるベロベルト。パイントカップも食いしん坊の怪獣にかかればミニカップだった。最後にはスプーンを使うのも忘れた彼は、ものの一分足らずでカップの中身を綺麗さっぱり舐め尽くしてしまうのだった。
「……あぁ、幸せ! こりゃ抜群の組み合わせだ!」
 甘いものには紅茶だった。一面の雪景色となった口の中に琥珀色の液体を流し込むベロベルト。ふぅと一息吐けば気分は最高。食べ終わったカップに蓋をした彼はペコリと頭を下げる。
「ごちそうさまでした! 夢を叶えてくれてありがとう、コユキちゃん!」
「えぇ、こちらこそ! 美味しく召し上がっていただけて光栄ですわ! よかったら、もう一ついかがです? まだまだたくさんありますわよ!」
 悪魔の囁きをするキュウコン。彼の顔に困った笑みが浮かぶ。
「ははっ、悪いけど遠慮しておくよ。こういうのは少しずつ食べることに決めているんだ。というか……いくつ持ってきたの? 結構な数みたいだけど?」
 彼は白い霧で満たされた箱の内側を覗き込む。
「うふふっ! サンダースならぬ三ダースですわ! もう少しお持ちしたかったのですが……箱に収まりきらなくて! ごめんなさいね!」
「えっ、そんなに!? 持ってきすぎだよ! 重かっただろう?」
 ない眉を顰めるベロベルト。彼女はケロリとした顔で首を横に振る。
「いいえ、ちっとも! 普段は何十個も背負って売り歩いているんですもの! こんなの軽いくらいですわ!」
「うーん、パワフルだねぇ。オイラだったら死んじゃうよ……」
 歩く機会すら減ったもんなぁ。ベロを伸ばしさえすれば大半の用事は済んでしまうし、遠距離は転がり移動だし……。脂肪だらけになった両脚をさすった彼は、小さな溜め息を漏らすのだった。
「ははっ、なんだか悪いね。有難く頂戴するよ」
 あと三十五個かぁ。こりゃ二日に一個のペースで食べても間に合うか微妙だぞ。雪解けまでの期間から逆算した彼は、嬉しい結論を導き出すのだった。
「……おっと、いけない。食べないんだったら外の雪の中に埋めておかなくちゃ。ここに置いていたらドロドロに溶けちゃうよ。箱ごと貰うね、コユキちゃん?」
 保管しておくには最悪の場所だった。燃え盛る焚き火の存在を思い出した彼は、アイスクリームの詰まった木箱にベロを伸ばす。
「えぇ、どうぞ! 貰っちゃってください! でも……急がなくて大丈夫ですわよ! 明日までは溶けないでしょうから!」
「へっ? どうして?」
 にわかには信じがたい話だった。箱の中に整然と並ぶカップに視線を落とした彼は目を点にする。
「ドライアイスを入れてあるからです! これが残っている限りは心配ありませんわ!」
「ドライアイス……? なにそれ?」
 アイスと名が付くからには食べられるのだろうか? 彼は勝手な妄想を膨らませる。
「うふふっ! ご存知ないでしょうから説明させていただきますわ! まずはベロをお戻しくださいな!」
「あっ……ごめん。邪魔だったね」
 彼は木箱に巻き付けていたベロを慌てて引っ込める。
「これが……ドライアイスですわ! 普通の氷とは少し雰囲気が違うでしょう?」
「……ホントだ。こんなの初めて見るよ」
 箱の中から取り出した白い欠片を前足に乗せてみせるキュウコン。興味津々の眼差しが彼女の肉球に向けられる。
「オイラも触っていいかい? 一つ貰うよ?」
「ダメです! 触らないで!」
 言うが早いかニュルリと舌を伸ばすベロベルト。彼女の絶叫が洞窟中に響き渡る。
「……わっ! びっくりした! 急にどうしたのさ!?」
「よかった、間に合った……! 危ないところでしたわ!」
 伸ばした舌を反らせて身構えるベロベルト。額の汗を拭った彼女は大きく息を吐き出す。
 しばらくは仕舞っておいた方がよさそうだ。ロール状に巻き取った舌を喉奥に送った彼は、その根元から先端までをベロ袋の中に収納するのだった。
「危ないって……氷は氷でしょ? ちょっと舐めようとしただけじゃないか」
 初めて目にするものは舌で触れずにはいられないのである。ベロベルトは無愛想な声で返す。
「とんでもない! 氷の数十倍は冷たいんですから! ベロなんかで触れたら冷たすぎて大火傷するのがオチですわ!」
「へぇ! 面白い表現だね、それ! 温度で言えばどのくらいなの?」
 呑気に尋ねるベロベルト。笑っていられたのはそこまでだった。呆れ顔でココアを啜った彼女の口から衝撃の事実が告げられる。
「……氷点下八十度。作りたてなら氷点下百度に達しますわ。トロピウスの首の房で釘が打てる温度です」
「ひょ……氷点下百度だってぇ!?」
 完全なる未知の領域だった。得も言われぬ恐怖に包まれた彼は、洞窟の壁に背中を貼りつける。
「えぇ、氷点下百度です。煮えたぎる熱湯にベロを浸せば大火傷は免れないでしょう? その逆ですわ」
 焚き火の上で湯気を立てるケトルを顎でしゃくってみせるキュウコン。おっかなびっくりで白い欠片を見つめ直した彼はゴクリと唾を飲み下す。
「い……いったい何を凍らせたらそんな温度に? まさか水じゃないよね……?」
「あぁ、これですわ」
 洞窟の天井を前足で指し示すキュウコン。ベロベルトの頭に疑問符が浮かぶ。
「これって……何もないけど?」
「うふふっ! あるじゃないですか! 空気が!」
「……えっ!? 空気って凍るの!?」
 雷に打たれたような衝撃だった。彼は全身を仰け反らせる。
「えぇ、凍りますとも! その中でも吐く息に多く含まれる成分を凍らせるんです!」
 上を向いた彼女は冷たい氷の息を吐き出してみせる。
「へぇ! 吐く息かぁ!」
 つられて彼女に息を吐きかけそうになったところをパンパンに頬を膨らませて耐えるベロベルト。キュウコンは思わず吹き出してしまう。
「……ぷくくっ! どうしたんです!? いきなり面白い顔をして! にらめっこなら負けませんわよ!」
 とっておきの変顔で対抗してくるキュウコン。よどんだ茶色い息をゴクンと呑み下した彼は、湿った視線を彼女に送る。
「失敬な! 生まれてこの方ずっと面白い顔だよ! 今まで面白くなかったみたいな言い方しちゃってさ! ……はいはい! 気にしない、気にしないの! さっきの話、もっと詳しく聞かせてよ!」
 あぁ、嫌われずに済んでよかった! 両手を叩いて急かした彼はホッと胸をなで下ろす。
「うふふっ! 面白いお方ですこと! ……その吐く息に多く含まれる成分を凍らせて、適当な大きさに砕いたものがドライアイスですわ! アイスクリームはもちろん、傷みやすい食べ物の保冷にも使えますので、暑い夏なんか重宝するんです!」
「なるほど、そりゃ便利だ! このドライアイスもコユキちゃんが作ったのかい?」
 真っ白いキュウコンは即座に首を縦に振る。
「はい、全て私が作りました! なんでしたら今ここでお作りすることも可能ですわよ?」
「そっ、そうなの!?」
 彼はピクリと身を震わせる。
「えぇ! 作ろうと思えばどこででも! ベロベルトさんが吐き出した息からだって作れますわ! いかがです? 試しに作ってみません?」
 好奇心に満ちた眼差しを向けるキュウコン。ベロベルトは両手を前に突き出す。
「ははっ! 面白そうだけど今回は遠慮しとくよ! 実はちょっと風邪気味なんだ! 悪いけどまたの機会に!」
 きっと臭いドライアイスになるんだろうな……。断りの言葉を述べた彼は、わざとらしく洟をすすり上げる。
「あら、それなら止めておいた方がいいですわ。お大事になさってください!」
「うん、ありがとう! 早いとこ治すよ!」
 深刻な顔で一礼するキュウコン。彼は胸にチクリとした痛みを覚えるのだった。
「それじゃ、これは明日まで置かせてもらうね! 助かるよ! ……よいしょ、っと!」
 アイスクリームの箱を壁際にドスンと置くベロベルト。気になったのは残る二つの箱の中身だった。カップの琥珀色の液体を飲み干した彼は彼女に質問する。
「ねぇ、コユキちゃん。これって……二つともオイラへの贈り物かい?」
「そうです! どちらを先に紹介しましょう?」
「ははっ、そんなに用意してくれたんだ! それじゃあ、うーんと……こっちで!」
 どちらにしようかな。心の中で口ずさんだ彼が最後に指差したのは、小さい方の木箱だった。途端に彼は拍手喝采を浴びる。
「おめでとうございます! 大当たりですわ!」
「えっ!? 当たりハズレとかそういう話なの、これ!?」
 狼狽の声を上げるベロベルト。彼女はニンマリとした笑みを浮かべる。
「いいえ、別に! 今度も食べる物を選ばれたので言ってみただけですわ!」
「もぉ、驚かさないでよ! ……で? それはお茶に合うのかい?」
「えぇ、合うと思いますわ!」
 もっとも、アレンジ次第ですけど! 彼女は心の中で付け加える。
「そう? じゃあ、次の一杯もお茶にさせてもらうね! コユキちゃんはココアでいいかな?」
 茶漉しとケトルを手に二杯目を注ぎ始めるベロベルト。彼女は最後の一口を喉に流し込む。
「はい! 次はチョコレート少なめ、ミルクたっぷりでお願いします! ちょっと甘すぎましたわ!」
 ケホケホと空咳をするキュウコン。ソーサーごと差し出されたカップを笑顔で受け取った彼は大きく頷いてみせる。
「ははっ、流石に入れすぎだったね! すぐに作らせてもらうよ!」
 チョコレートを半分に減らした以外は同じ要領だった。彼は慣れた手つきで茶褐色の液体を作り上げる。
「それじゃ、紹介よろしく!」
「えぇ、喜んで!」
 二つ返事で快諾してカップを受け取るキュウコン。一口飲んで幸せな表情を浮かべた彼女は、飲み干したい衝動をグッと堪えてソーサーの上にカップを置く。
「二品目はこちらです! ご用意しますので少しお時間いただきますわね!」
 木箱を開封するキュウコン。緩衝材の新聞紙の中から姿を現したのは――口の広い素焼きの甕だった。同封されていた木製のレードルと器と共に箱から取り出した彼女は、そっと甕の蓋を取り外す。
「……おぉっ、真っ白だ! これは……ミルクか何か?」
「正解です! ミルクから作った食べ物ですわ!」
 レードルで中身を混ぜ合わせながら答えるキュウコン。全体が柔らかな泥状になったところを器に盛りつけ、木のスプーンを添えたら完成だった。器を片手に、もう一方の手でスプーンを高々と持ち上げたベロベルトの口から歓声が上がる。
「うっひゃあ! ドロッドロのネバネバだ! なんていう食べ物だい、これ?」
「ヨーグルトって言います! まずは一匙すくって食べてみてくださいな!」
「はぁい! それじゃあ……いっただっきまぁす!」
 言われるがまま一匙すくって口に運ぶベロベルト。アイスクリームと同様の味を想像したのが運の尽きだった。
「……って、すっ、すっぱぁぁぁぁぁい!?」
 たちまち目をバツ印にして唇をすぼめるベロベルト。肉を主食とする彼が最も苦手とする味だった。長い舌を垂らしてペッペッと吐き出した彼は、恨めしげな視線をキュウコンに向ける。
「ちょ……ちょっと! なんだい、これは!? 酸っぱくなっているじゃないか!」
「えぇ、もちろん! ミルクを寝かせて作るんですもの! 酸っぱくなって当然ですわ!」
 なんてことをしてくれるのだ。床に器を置いた彼は大いに憤慨する。
「ひどいよ! オイラに腐ったものを食べさせるなんて! あんまりじゃないか!」
「ごめんなさい! お詫び申し上げますわ!」
 半笑いで頭を下げるキュウコン。彼女は更に言葉を続ける。
「でも……それは発酵食品と言いまして、良い働きをする菌で食材を腐らせて作った食べ物なんです。ですから召し上がっても問題ありませんわ!」
「問題ないって……腐るのに良いも悪いもあるの? そんなの初耳だよ」
 眉間に皺を寄せた彼は首を傾げる。
「あるんです、それが! 良い腐り方は発酵、悪い腐り方は腐敗と言って、明確に区別されますわ! もちろんヨーグルトは前者です!」
「えっと……その証拠は?」
 馴染みのない存在からすれば腐ったミルクも同然だった。彼は真っ白いドロドロに疑惑の眼差しを向ける。
「最大の証拠はニオイですね。狐に化かされたと思って嗅いでみてください!」
 そう言われたら断れないなぁ。思わずクスリと笑ってしまった彼は、持ち上げた器を鼻先に近付ける。
「……ホントだ。独特だけど嫌な感じはしないね。むしろ良いニオイかも!」
 ろくに確かめもしないで食べたオイラもオイラだったね。スンスンと鼻を鳴らした彼は、己の不覚を恥じるのだった。
「でしょう? それが良い腐り方のサインです! まぁ……例外もありますけど!」
 そう付け加えた彼女は、中までびっしりと青いカビが生えたチーズをレナードにご馳走してもらった時のことを思い出すのだった。
「うーん、なるほど! でも……こんなにも酸っぱいとねぇ? 二口目が進まないよ」
 くるくるとスプーンを回しながら苦笑いを浮かべるベロベルト。真っ白いキュウコンの悪戯っぽい笑い声が部屋中に響き渡る。
「えぇ、そりゃそうでしょう! 味付けして食べるのが普通ですもの! ……はい! というワケで、どうぞ! たっぷり入れちゃってくださいな!」
 丸めた新聞紙の中から蜂蜜の瓶と新しい木のスプーンを掘り起こすキュウコン。ズッコケずにはいられなかった。落とすようにヨーグルトの器を床に置いた彼は、バタリと仰向けに倒れてしまう。
「……もぉぉぉぉぉっ! 先に言ってよ、それ! コユキちゃんの意地悪!」
「うふふっ、ごめんなさい! そのままの味も知っておいてもらいたくて!」
「いや、分かるけど……なんで最初に持ってきちゃうかなぁ、それ。物事には順番ってものがあってだね……」
 ムクリと上半身を起こして蜂蜜の瓶を受け取るベロベルト。ぶつくさ言いながら蓋を回し開けた彼は、大さじ一杯すくってヨーグルトに混ぜ合わせる。
「それで十分ですわ! さぁ、もう一匙すくって食べてみてくださいな! さっきより断然美味しいハズですから!」
 大丈夫だと分かっていても涎が止まらなかった。震える手で二口目を舌に乗せた彼は固く目を閉じる。強張っていた表情がフッと緩み、はち切れんばかりの笑みが浮かんだのは次の瞬間だった。
「おっ、おいしぃぃぃぃっ! まったりしていて濃厚で、そんでもってコクがあって……! まるで柔らかくしたバターをクリームと一緒に食べているみたいだ!」
 感動すら覚える味だった。彼は興奮した口調でまくし立てる。
「うふふっ、それは良かったです! 酸っぱいのは気になりませんでしたか?」
「いいや、ちっとも! 蜂蜜の味に隠れて全く気にならないよ! 最高の組み合わせだね、これ!」
 一口目の味など忘却の彼方だった。すくっては食べを繰り返した彼は、ものの数口で器のヨーグルトを完食してしまうのだった。
「……げっぷ! あぁ、美味しかった! また一つ世界が広がったよ! これもコユキちゃんが作ったの?」
 空になった器を指差しながら尋ねるベロベルト。キュウコンは面目なさそうに笑う。
「これはですね……ツボツボの力を借りて作ったものなんです。ご存知ですか? ツボツボってポケモン?」
「もちろん! あのニョロニョロした黄色いポケモンでしょ? 甲羅の中に蓄えた木の実で作るジュースは絶品なんだってね! いつか飲んでみたいなって思っているんだ!」
 涎を啜るベロベルト。グルメな彼が知らない筈がなかった。
「うふふっ、大正解です! 木の実のジュースは今度お持ちしますわね! ……そのツボツボに一晩ミルクを預かってもらうと、あら不思議! 甲羅の中で発酵してドロドロのネバネバになるんです! それを甕に集めて冷やしたものがヨーグルトですわ!」
 キュウコンは甕の中身を指差してみせる。
「へぇ! そんな能力まで持っているんだ!」
「えぇ! どちらも同じ発酵ですからね! 感覚的には木の実のジュースを作るのと一緒なんですって!」
「うーん、納得! どうりで潮の香りがするワケだよ! ……って、えっ? ちょっと待って?」
 顔を曇らせるベロベルト。とある事実に気付いてしまったのだった。
「ねぇ、コユキちゃん。そのヨーグルト作りを手伝ってくれるツボツボって……海辺に住んでいるんだよね?」
「えっ……えぇ。磯の岩場に住んでいますわ。それが何か?」
 戸惑った様子で返すキュウコン。彼は込み上げる気持ち悪さに耐えながら口を開く。
「……街の海ってヘドロまみれなんでしょ? そんな場所で住んでいる子に手伝わせていいの? これ……本当に食べても大丈夫なんだろうね?」
 なんといっても街の下水を一手に引き受けているのである。相当な汚れと臭いだろう。空の器に視線を落とした彼は不安そうな顔をする。
「へっ……?」
 思いもよらぬ発言に呆気に取られてしまうキュウコン。彼女は不思議そうに首を傾げる。
「えっと、ベロベルトさん? それ……たぶん大昔の話かと。ベトベターたちがヘドロを食べ尽くしてくれたお陰で、今の海は綺麗そのものですわ。海水浴だって楽しめるくらいです。ですから心配されなくても大丈夫ですよ? 安心してお召し上がりください!」
「えっ……そうだったんだ? ごめんよ、コユキちゃん」
 赤っ恥もいいところだった。情報が古すぎることに気付かされた彼は素直に頭を下げる。
 現場を見ていないからこうなるのだ。きっと雪が解けたら街を観光しに行こう。彼は固く心に誓うのだった。
「……うん、分かった! 残りも美味しく頂かせてもらうね!」
「えぇ、ぜひ! これから定期的に届けさせていただきますわ!」
「えっ、いいの!?」
 彼女は笑顔で首を縦に振る。
「もちろん! お安いものですわ!」
「やったぁ! ありがとう!」
 喜びを爆発させた彼はキュウコンの両前足を取るのだった。
「うふふっ! きっと毎日食べてくださいね! とっても健康に良い食べ物ですので!」
「そうなの!? 最高じゃないか! どんな効果があるんだい?」
 美味しい上に健康にも良いなんて! キュウコンの両前足を握る彼の手に力がこもる。
「ヨーグルトは良い働きをする菌でミルクを発酵させて作った食べ物だとお話ししましたでしょう? その良い働きをする菌ですが、胃袋と腸の中に住み着いて、お腹の調子を整えてくれるんです。私も毎日食べていますが……お陰様で毎朝スッキリ快調ですわ!」
「ははぁ、毎朝ウンチもりもりってワケだ! そりゃ気持ち良いだろうなぁ!」
 オブラートを破り捨てられた彼女は両前足で顔を覆う。
「もぉぉ……ベロベルトさんったら! せっかく遠回しに言いましたのに!」
「えへへっ、ごめーん! でも……そういう効果ならオイラには間に合っているかなぁ?」
「えっ、どうしてです?」
 前足を下ろした彼女の顔にがっかりした表情が浮かぶ。
「ははっ、そりゃ見てのとおりさ。オイラは頭に超が付く大食いの種族だからね。そんなオイラの食欲を支える胃袋と腸は、とっても頑丈に作られてあるんだって! 事実、この姿になってから一度もお腹を壊したことがないんだ!」
 なんたって、前の日の夜にペロリと丸呑みにした獲物が、翌朝には丸ごとウンチになって出てくるのだ。それも粘土みたいに滑らかなウンチに。口に出せない秘密を胸の中で呟いた彼は、マシュマロのように柔らかな分厚い腹肉をベロリと舐めるのだった。
「うーん、困りましたわ。どうやったらベロベルトさんにも魅力を伝えられるかしら……?」
 腕組みをして頭を悩ませ始めるキュウコン。ソーサーからカップを持ち上げた彼は、優雅に二杯目を堪能し始める。
 頑張れ、コユキちゃん。アイデアをひねり出すんだ。ズズッと紅茶を啜りながら薄目で見守るベロベルト。会心の笑みを浮かべた彼女がポンと前足を打ったのは――
「そうだ、ベロベルトさん! ……ウンチってどんなニオイがします?」
「……ぶぅぅぅぅぅぅぅっ!?」
 琥珀色の液体を飲み下そうとした次の瞬間だった。気品に満ちた風貌に似合わぬ下品な台詞を口にするキュウコン。気管に紅茶を流し込んだ彼は盛大にむせてしまう。
「きゃっ!? だっ、大丈夫ですか、ベロベルトさん!? しっかりしてください!」
 さっき顔を真っ赤にして恥ずかしがったばかりのクセに……! 両手で口を覆った彼は、慌てて背中をさすりにきた彼女をキッと睨みつける。
「ゲホッ、ゴホッ……! いっ、いきなり何を言い出すのさ!? びっくりするじゃないか!」
「うふふっ、ごめんなさい! これしか思いつかなかったものでして!」
 決まり悪そうに頭を下げるキュウコン。彼は彼女のピンと立った三角耳に口を近づける。
「……ダメだよ、コユキちゃん? そんな露骨な下ネタを食べ物の紹介で使っちゃあ。これも売り物なんでしょ? 気持ち悪がられて買ってもらえなくなっちゃうよ?」
「分かっていますわ! もう二度と使いませんから!」
 両前足を合わせるキュウコン。彼は改めてカップに口をつける。
「で、さっきの質問だけど……そりゃ臭いに決まっているでしょ? 食べた物にもよるだろうけど?」
「そのとおりですわ! ちなみに……ベロベルトさんって普段は何を食べていらっしゃるんですか?」
「おっ……オイラかい?」
 コユキちゃんみたいな子をペロッと丸ごと……とは口が裂けても言えなかった。彼は自分自身を指差したまま固まってしまう。
 とりあえずは植物性の食事についてだけ話しておこう。別に嘘ではないのだから……。自分に言い聞かせた彼は、落ち着いた風を装って口を開く。
「この森で採れるもの全てさ。木の芽、山菜、キノコ、木の実……食べられるものは好き嫌いなく何でも食べるよ。特に今の時期は木の実だね。秋に収穫したのを干して乾かして保存食にしているんだ。去年は大豊作だったから、今年はひもじい思いをすることなく冬を乗り切れそうだよ!」
 彼は隣の食糧倉庫の方をちらと見るのだった。
「よく分かりましたわ! でも……それだけじゃないですよね?」
「えっ、それだけじゃないって……?」
 意味ありげな視線を向けてくるキュウコン。彼は危うく紅茶をこぼしそうになる。
「うふふっ! 隠さなくたっていいんですよ? お肉が大好物だってこと! 私みたいな大きな獲物だって一口で食べてしまわれるのでしょう?」
 パクリと前足を咥えてみせるキュウコン。全て知った上でカマをかけていたのだった。
「あっ、あぁ……!」
 ガチャン、とカップを落とすベロベルト。割れずに済んだのは不幸中の幸いだった。足元の床に琥珀色の液体がぶちまけられる。
 呆然とするベロベルトを横目に、ゴロンと仰向けになって無防備にお腹をさらけ出すキュウコン。ペロリと舌を出した彼女は大胆にも毛繕いを始める。
「お腹の中で暴れられないよう、獲物は食べる前に舐め回して痺れさせるんですよね。それこそ頭の天辺から足の爪先まで舐め尽くされちゃうって聞きました。そう考えると、触られたくない場所だって容赦なく舐め回されちゃうワケで……! きゃっ、恥ずかしい!」
 両前足で顔を隠した彼女はクスクスと笑うのだった。
「えっと、コユキちゃん? オイラのこと……どこまでレナードさんから聞いているの……?」
 震える声で尋ねるベロベルト。彼女は前足の隙間から顔を覗かせる。
「うふふっ、全部ですわ! そうですね、たとえば……エーフィ、ブラッキーと聞いたら何かピンと来ません?」
 わざとらしく顔をしかめて両前足で鼻を覆うキュウコン。意図するところは明らかだった。
「そっ、そんなことまで……」
 そこそこ気に病んでいることなのに酷いよ、レナードさん……。目眩のような感覚を覚えた彼は、がっくりと頭を垂れる。
「うふふっ、そんな顔しなくても! 違法伐採者の一味だったのでしょう? 気にすることありませんわ!」
「えっ? あぁっ……!」
 そういうことだったのか! どうして今まで気付けなかったのだろう? 彼は思わず目を見開く。
「……あら? どうされました? 私の顔に何か付いています?」
「あっ、いや! なっ、なんでもないよ!」
 だから八つも席が用意されていたのか。あの時に丸太小屋で食べたのは六匹。その一週間前に食べたエーフィとブラッキーが残る二匹だったのだ――。慌てて平静を装った彼は、半年越しに疑問の答えに辿り着くのだった。
「そんなベロベルトさんにもう一つ質問ですわ! あの日は二日連続でお肉をたっぷりと食べた翌朝だったと思いますが……踏ん張ってみての感想はいかがでしたか?」
 この子ったら可愛らしい顔して平気で下ネタをブッ込んでくるなぁ……。まぁ、答えてあげるけど! 彼は苦笑いを浮かべて口を開く。
「ははっ、そりゃ鼻が曲がるほど臭かったよ。というか……その場に君もいたでしょ?」
「うふふっ、そうです! くちゃかったですね! それって……お腹の環境が悪くなっていることを示す何よりの証拠なんです。お肉は悪い働きをする菌を増やしやすい食べ物の代表格ですからね。お肉をたくさん食べられるベロベルトさんは要注意というワケですわ」
「うーん……あんまり気持ちのいい話じゃないね、それ」
 腹部に視線を落とすベロベルト。グルーミングを終えた彼女はお座りの姿勢を取り直す。
「おっしゃる通りです。様々な病気を引き起こす原因になると言われていますわ」
 顎に手を当てた彼は眉間に皺を寄せる。
「おっと、いよいよ怖くなってきたぞ? 食べる物を見直した方が良いのかな?」
 答えは否だった。彼女は笑顔で首を左右に振るう。
「いいえ、そこまでする必要はありませんわ! むしろ変えない方が健康的です! ベロベルトさんの体に最も合った食べ物はお肉ですので!」
「あっ……やっぱりそうなんだ?」
 色々と心当たりがある話だった。彼は大いに納得する。
 ネバネバした麻痺性の唾液、舐め回すにも絡め取るにも適した伸縮自在の長いベロ、マルノームにも負けず劣らずの大きな口、そして――なんでも溶かし尽くす巨大な胃袋。より効率よく肉を食べて栄養を得られるよう進化した結果だとすれば辻褄が合った。オイラも立派な肉食獣なのだ。彼は妙な優越感に包まれる。
「そこで……これの出番です!」
 ヨーグルトの甕を持ち上げるキュウコン。ベロベルトの頭上の電球に光が灯る。
「なるほど! 良い菌で悪い菌をやっつけちゃおうってワケだ! これなら簡単だね!」
 それこそが伝えたかったことの全てだった。彼女の顔に満足の表情が浮かぶ。
「うふふっ、いかがです? 食べ続けてみる気になりましたか?」
「もちろん! いつまでも健康でいたいもん! これから毎日食べさせてもらうよ!」
 魅力が伝わってよかった! 彼女は大きな喜びを噛み締めるのだった。
「ところで……コユキちゃん。ちょっと聞いてもいい?」
 レナードさんも余計なことを喋ってくれたものだ。ひっくり返ったカップをソーサーに戻した彼は不満を募らせる。
「さっきの話だけど……オイラのこと怖いとか思わなかったの? レナードさんから何もかも聞かされたんでしょ? よく一匹で来る気になれたね?」
 ある意味すごい勇気だよ。彼は感心してしまう。
「あら、どうして命を懸けて私を守ってくださった方を怖がる必要があるんです? 私はそんな薄情者ではありませんわ!」
「こっ、コユキちゃん……!」
 心の底から信用してくれていることを知った彼は瞳を潤ませるのだった。
「……次のお礼の品、紹介させて頂きますわね! これはベロベルトさんと私の友好の証に! 開けてみてください!」
「うん! それじゃ、早速!」
 残る木箱の蓋を開封するベロベルト。中から現れたのは――雪のように真っ白いフェルトで作られたニット帽、ミトン、ブーツの三点セットだった。
「防寒着じゃないか! ……ははっ、こりゃ芸が細かいね! ちゃんと親指の爪の部分を分けてある! こんなの誰に作ってもらったの!?」
 彼が最も必要としていた品々だった。ミトンを両手に持った彼は声を弾ませる。
「うふふっ! 難しい部分は服屋さんや靴屋さんに手伝ってもらいましたが……ほとんど私一匹で作りました! 褒めてくださいね!」
「えっ、そりゃ凄い! ということは、この白い毛ってもしかして……?」
 ミトンとキュウコンを交互に見るベロベルト。ふわふわとした長い冠毛を前足で梳いた彼女は笑顔で首を縦に振る。
「よくお気づきで! 原料は私の抜け毛ですわ! 柔らかく手触りの良い冬毛だけで作りました!」
「やっぱり! ははっ、まさにコユキちゃんの愛情が詰まった一品ってワケだ! とっても嬉しいよ!」
 ミトンを鼻に当てた彼は、キュウコンの匂いを胸いっぱいに吸い込むのだった。
「喜んでいただけて光栄ですわ! ……さっ、どうぞ試着してみてください! 気になるのはブーツですね。ピッタリの寸法に仕上がっているといいのですが……」
「よしきた、ブーツだね! ……おおっ、これも本格的だ! ギザギザの底が付けてある! これなら凍った雪道も安心だよ!」
 ミトンを戻してブーツを取り出すベロベルト。紐なしのスリッポンタイプなので着脱は楽チンだった。ブーツに両足を通した彼はすっくと立ち上がる。
「いかがです? 爪先とか痛くないですか?」
「ううん、ちっとも! ぴったりのサイズさ!」
 元気よく足踏みをした彼は部屋の中を歩き回り始める。
「履き心地も最高だね! ぬくぬくのぽかぽかだ! 陽だまりみたいな暖かさだよ!」
 爪先までボアが施されているお陰で保温性は抜群。一周し終えて元座っていた場所に腰を下ろす頃には、足全体が汗ばむほどだった。
 すぐに臭くなっちゃうだろうなぁ……。投げ出した両足を見つめた彼は苦笑いを浮かべる。
「いかがです? お気に召しましたでしょうか?」
「もちろん! それにしても……よくオイラの足のサイズなんか分かったね? 進化して形も大きさも変わったのに?」
 ベロリンガだった頃の姿しか知らない筈なのにどうして? 足を左右に動かした彼は疑問を募らせる。
「うふふっ! レナードさんと最後に会った時のこと……何か覚えていません?」
「レナードさんと最後に会った時のこと? あっ、そういえば……」
 思い当たる節があった。彼は数ヵ月前の記憶を辿り始める。
「体の色々な部分を測定されたよ。足型まで取られてね。何に使うかって聞いたら秘密だって! そっか、あれはそういうことだったんだ!」
 そこで彼はもう一つ気が付く。
「ということは……数ヶ月かけて作ったのか。手間を掛けさせちゃったね。なんだか申し訳ないよ」
「何をおっしゃいますやら! これくらい当然ですわ! ……さっ、ニット帽とミトンも着けてみてください! きっと気に入られると思いますわ!」
 嬉しい反面、裸で暮らすのが当たり前だったので恥ずかしかった。ニット帽を被り、親指の爪を引っ掛けないよう注意して両手にミトンをはめた彼は、はにかんだ顔で彼女の方を向く。
「よくお似合いで! ……お洋服は今のところ必要なさそうですね!」
「えへへっ、そうかな? ……って、ちょっと! コユキちゃん! いまオイラのこと遠回しにデブって言ったでしょ!? 聞き捨てならないなぁ!」
 目の色を変えるベロベルト。ココアを啜った彼女は前足を口に当てて笑う。
「うふふっ、ごめんなさい! だって見るからに暖かそうなんですもの!」
「うん、とっても暖かいよ! 何十枚と重ね着しているもん! ……ほら! こんなこともできちゃう! 寒い季節には意味ないけどね! あははっ!」
 弛みきった腹の贅肉を両手で引っ張り上げ、団扇のように扇いでみせるベロベルト。前足を顔にやった彼女は呆れ笑いを漏らす。
「もぉぉ……だらしないんですから! 扇がないでくださいな!」
「えへへっ、ごめんよ! お下品すぎたね!」
 両手を離した彼は小さく頭を下げるのだった。
「……ふぅ! 冬なのに汗かいちゃった! ひんやり冷たいコユキちゃんの温もりに溢れた一品だね! 大切に使わせてもらうよ!」
 じっとりと汗にまみれた足をブーツから引き抜けば、モワッと白い湯気が履き口から立ち上った。そのままミトン、ニット帽の順で脱いだ彼は、三点セットを元どおりに箱の中へ収めていく。
「ありがとうございます! 丈夫に作ってありますので長持ちすると思いますわ! ……あっ、そうそう。言い忘れていました。縮んでしまいますので洗濯はしないでくださいね。汚れは拭き取るようにしてください。直射日光も避けた方がいいですわ。濡れてしまったら日陰で乾かすようにしてくださいね」
「分かった、気を付けるよ!」
 うーん、とっても臭くなりそう! まぁ、防寒には影響ないから気にしないけど! 全て元通りに直して蓋を閉めた彼は笑顔で応じるのだった。
「それでは続きまして……最後のお礼の品を紹介させていただきますね!」
「ありゃ? さっきのがそうじゃなかったの? ……もう何もなさそうだけど?」
 後は雑多なものしか入っていなかった。行李の中を覗き込んだ彼は怪訝な顔をする。
「うふふっ、そこにはありませんよ! 最後のお礼の品は……私自身ですもの!」
「えっ……!?」
 ドキリとさせられる一言だった。顔を真っ赤にした彼はギョッとした表情を向ける。
 まさか食べられたいワケではあるまい。ということは……。下衆な考えを巡らせた彼は鼻息を荒くする。
「レナードさんから聞きました! この森を果樹園に変える夢をお持ちだと! ぜひ私にも手伝わせてください! なんでも力になりますわ!」
 あぁ、なるほど……。要はオイラと一緒に働きたいってことね。誤解を招く言い方しないでよ、コユキちゃん……。彼は二重の意味で残念な気持ちを募らせる。
「ここに来る途中で見ましたわ! もう随分と広い範囲に苗木を植えられたのですね! 去年の秋口に始めたばかりだと聞きましたが……ここまで進んでいるなんて! ベロベルトさんったら凄いですわ!」
 褒められちゃったよ。彼の顔に照れ笑いが浮かぶ。
「えへへっ、まぁね! 本気を出せばこんなものさ! ……というのは嘘で、他のもう一匹と協力しながら作業を進めてきたんだ。オイラ一匹じゃここまでは無理だよ!」
「あっ、知っています! ジャローダさんでしょう? ご挨拶してきたばかりですわ!」
 この子ったら行動力だけは凄いなぁ……。感心を通り越して呆れるほどだった。彼は唸ってしまう。
「おっ! ということは食べられずに済んだワケだ! いやぁ、おめでとう! 無事でよかった!」
 冗談交じりに拍手を送るベロベルト。彼女は途端に頬を膨らませる。
「酷いですわ! とても親切な方でしたのに! 帰りしなに言いつけてやるんですから!」
 ツンとした表情でそっぽを向いてしまうキュウコン。彼は真っ青な顔で彼女に縋りつく。
「うわーっ!? だめだめ、コユキちゃん! それだけは勘弁して! 絞め殺されちゃうよ!」
「もぉ……冗談が過ぎますわ! 二度と言わないでくださいね!?」
 ピシャリと雷を落とされた彼は何度も頭を下げるのだった。
 さて、話を元に戻そう。キュウコンから離れた彼はエヘンと咳払いをする。
「オイラの夢を応援してくれるんだね! ありがとう! ところで……お母さんは手伝わなくていいの? 一匹だけになっちゃうワケだけど?」
 きっとアイスクリーム売りに影響するだろう。彼は不安になってしまう。
「大丈夫です! ちゃんと許しはもらっていますわ! ベロベルトさんのもとで貴重な経験を積ませてもらいなさいって! 商売のことは気にしなくていいと言っていました!」
 こりゃ参ったぞ。お母さんまで失望させることになるとは……。やる気に満ちた眼差しを向けられた彼は罪悪感を募らせる。
 とにかく事情を話して諦めてもらう他なかった。大きく息を吸い込んだ彼は重い口を開く。
「なるほど、お母さんに感謝だね。でも……今は気持ちだけ受け取っておくよ。当分はオイラと彼女の二匹だけで頑張ろうと思っているんだ」
「そんな、どうして!? 私じゃダメなんですか!?」
 ショックを受けた様子のキュウコン。情けない限りだった。深い溜め息を吐いた彼は静かに首を左右に振る。
「いいや、むしろ大歓迎さ。問題は……これなんだ」
 彼は垂らしたベロで円を作ってみせる。
「なるほど、お金ですか……」
 無力感に苛まれるキュウコン。その切実さは無一文で街に移り住んできた彼女が誰よりもよく知るところだった。ベロベルトは小さく縦に首を振る。
「皮肉な話さ。野生で暮らすオイラには縁のない代物の典型だったのにね。トイレットペーパー代わりに使っていた時分が懐かしいよ」
「えっ!? そんなことしてたんですか!?」
 びっくり仰天するキュウコン。彼は満面の笑顔で頷く。
「うん! だって仕方ないじゃないか! 他に使い道がなかったんだもん! なんなら今からでも発掘しに行くかい? お小遣いにしてくれて構わないよ!」
「結構です! そこまで貧乏していませんので!」
 彼女はブンブンと勢いよく首を左右に振るのだった。
「それはさておき……深刻な問題ですね。お給料を払えなければ辞められてしまうだけですもの。とはいえ、誰も雇わなければ仕事が前に進みませんし……悪循環ですわ」
 冷静に分析するキュウコン。ベロベルトの口から乾いた笑いが漏れる。
「ははっ、コユキちゃんったら気が早いなぁ! よーいドンでスタートした後の話なんかしちゃって! ……オイラが言っているのはそれ以前の話だよ。オイラたちはまだスタートラインにすら立てていないのさ」
 洞窟の壁に背中を預けた彼は宙を見上げる。
「それは……どういう意味で?」
 ベロベルトは親指の爪を立ててみせる。
「そんなコユキちゃんに一つ質問です。ここまで街から来るのにどのくらいかかった?」
「ここまで街から? 半日ですわ」
 即答するキュウコン。目を閉じた彼は大きく頷く。
「そんなもんだね。行って帰って一日ってワケだ。じゃあ、もう一つ質問です。ここまで街から働きに来るとして……一日に働けるのは何時間でしょうか?」
 答えは明白だった。彼女は返答に窮してしまう。
「それは……一秒も働けませんわ。行って帰るだけで日が暮れてしまいますもの」
 目を開けた彼は再び大きく頷く。
「そういうこと! 要は住み込みじゃなきゃ働けないってワケ。食う寝るところに住むところを用意できない限り誰も雇えないのさ。お弁当を持って日帰りで働きに来られるような場所ならよかったんだけど!」
 彼は肩を竦めてみせる。
「うーん……厳しいですね。特に住むところですわ。とんでもない額の出費になりますでしょう? 私も母さんも独り立ちする日を夢見て色々と情報を集めているのですが……高嶺の花ばかりですわ」
 彼女は物憂げな表情でココアのカップを口に運ぶ。
「ははっ、コユキちゃんも似たような状況なんだね! ……掘っ立て小屋くらいならオイラでも造れるけど、しっかり設備が整った宿舎となると話は別さ。寒くなる少し前に、街で工務店を営んでいるゴーリキーとドテッコツの二匹を呼んで、見積書なるものを作ってもらったけど……目玉が飛び出るとはこのことだったよ。あまりに辺鄙な場所だから経費が嵩んで金額が跳ね上がっちゃうんだって。思いどおりに行かないものだね」
 共感しかなかった。彼女は何度目になるか分からない溜め息を漏らす。
「はぁぁ……世知辛い世の中ですよねぇ。どこかに大金でも落ちていないかしら?」
「ははっ、全くだよ! ……そうそう! 大金と言えば、オイラも金鉱探しを始めたんだ! 一獲千金を狙ってね! 良い暇つぶしにはなるよ!」
 彼は傍らから手製のピッケルを引っ張り出す。
「あら、ベロベルトさんまで! うふふっ! きっと見つけたら山分けしましょうね!」
「もちろん! みんなで億万長者になっちゃおう!」
 彼は手にしたピッケルを高々と掲げるのだった。
「……あの、話は元に戻りますが、どうしてもダメでしょうか? タダ働きでも構いません。食べ物だって自力で何とかします。雪山に比べたら豊かな環境ですもの。あとはどうにでもなりますわ!」
 恩を返さない訳にはいかなかった。彼女は必死に食い下がる。
「あーっ、ダメダメ! タダ働きなんてしちゃ! オイラたちのために汗を流してくれる相手にそんな冷たい真似できないよ!」
 両手を突き出すベロベルト。薄笑いを浮かべた彼は更に言葉を続ける。
「それと……コユキちゃんったら笑わせてくれるじゃないか。あの時も言わなかったっけ? ここは弱肉強食の危険な世界だって。進化して強くなった気でいるみたいだけど……ちょっとでも油断したら食べ物にされちゃう側だってことを忘れないようにね!」
 伸ばしたベロでキュウコンをぐるりと取り囲み、ナイフとフォークを持つ仕草をするベロベルト。効果は抜群だった。完全に委縮してしまった彼女はガックリと肩を落とす。
「わ……分かりました。そこまで言われては仕方ありません。なにかあったら取り返しがつきませんものね……」
「そういうこと! 繰り返しになるけど、まだ受け入れられる体制が整っていないんだ。ちゃんと安全が確保できた後で声を掛けさせてもらうよ!」
 もう確保できているけどね。かつての仲間もジャローダの彼女を残して全滅しちゃったし……。ベロを巻き取って口に仕舞った彼は、寂しい気持ちを募らせるのだった。
「うーん……待ちきれませんわ! せめて収穫の時期だけでもいかがです? 二匹では大変な作業になりますでしょう?」
 諦めきれない彼女だったが、それこそ誰の助けも必要ない作業だった。ベロベルトは大笑いする。
「あらら、残念! それなら間に合ってまぁす! 得意中の得意だもん! オイラのベロの長さ……知らないでしょ?」
 ダラリと垂らした舌を指差すベロベルト。同じ格好をした彼女は小首を傾げる。
「えっと……身長の二倍でしたっけ?」
 たちまち彼は口を尖らせる。
「ぶぶーっ、不正解! そりゃ進化前の話さ! よしきた! コユキちゃんにも見せてあげるよ!」
 やおら身を起こして洞窟の入り口の方を向き、例の珍妙なポーズを取り始めるベロベルト。お尻を大きく後ろに突き出して両手を上げ、入り口までの道筋を意識して口を半開きにし、少し顎を引いてタメを作り――
「そぉれ! ベロォォォォォン!」
 間の抜けた掛け声と共に、身長の十倍以上の長さを誇るベロを発射する。
「きゃあっ!?」
 衝撃的な光景を目の当たりにして尻餅をついてしまうキュウコン。一瞬でベロを伸ばしきった彼は、目玉だけを動かして彼女の顔を見る。
「はぁい! コユキちゃんに質問です! オイラのベロはどこまで伸びているでしょうか!? ……って言われても分からないよね! 闇に紛れちゃって見えないし! というワケで証拠を見せてあげるよ!」
 ぐるりと舌先を一周させ、ひんやりと冷たい何かを絡め取るベロベルト。伸ばす時と同様の速さでベロを引っ込めた彼は――証拠の品をキュウコンに提示する。
「この質問は簡単だね! これは何でしょうか?」
 フワフワとした真っ白い綿のような物体。答えは一つだった。キュウコンは声を震わせる。
「ゆ、雪ですわ! つまり……!」
「そう! ここから洞窟の外まで伸びていたってこと! ……それっ!」
 雪の塊をぽいと真上に放り投げるベロベルト。大きな口で見事にキャッチした彼は両手を額に持っていく。
「うーん、冷たい! ……採寸のついでに測ってくれたレナードさんが教えてくれたよ。二十五メートルあるんだって! 長いでしょ?」
「えぇ、とっても! それだけ長ければ収穫も楽々でしょうね。私の出番はなさそうです……」
 しょんぼりと俯いてしまうキュウコン。とあることに気付いた彼女はハッと顔を上げる。
「それなら……獲物だって……!」
 当然だった。彼は笑顔で首を縦に振る。
「もちろん! 離れた見えない場所からベロベロ舐め回してゴックンチョさ! オイラに襲われていることすら気付けないまま食べられちゃう子ばかりだよ! ネバネバのベットベトにされてね!」
 何もない宙をベロリと舐めてみせるベロベルト。全身の毛を逆立てた彼女はブルリと身震いする。
「うーん、気持ち悪い! 想像しただけで鳥肌が立ってしまいそうです! でも……とっても優しい食べ方ですわ! 舐められるのは痛くないですし、血も出ないですし……。食べられる頃には痺れてヘロヘロになっているでしょうから、怖くもなんともないんでしょうね、きっと!」
「あははっ、まぁね! 傷付けたら食べ物としての価値が下がっちゃうし……なによりオイラ痛いのも怖いのも嫌だもん! あと苦しいのもね! 自分がされたくないことは獲物にもすべきじゃないと思うんだ。舐めて、舐め回して、舐め尽くすのがオイラ流だね。コユキちゃんの狩りのスタイルはどんなだい?」
 彼は何気なく尋ねる。
「うふふっ! 氷の息でカチンコチンに凍らせて頭からガブリですわ! シンプルでしょう?」
 にっと笑ったキュウコンの口から鋭い牙が覗く。
「あ……うん。シンプルというか……ワイルドだね」
 聞かなきゃよかった……。サーッと血の気が引く感覚を覚えた彼は大いに後悔するのだった。
「まぁ、とにかく……ここは焦らず気長に待ちなよ。これからどんな作業が出てくるかオイラたちにも分からないんだ。コユキちゃんにピッタリの作業が見つかったら必ず相談させてもらうよ! お給料の話も一緒にね!」
「はい! よろしくお願いします!」
 ピンと背筋を伸ばした彼女は深々と座礼をするのだった。
 最後にもう一度お礼を言っておこう。元座っていた場所に腰を下ろした彼はキュウコンに体を向ける。
「というワケで……ありがとう! 三つ、いや四つだね! コユキちゃんの気持ち、確かに受け取ったよ! お父さんとお母さんによろしく伝えといて! あと、ブルース君とレナードさんにもよろしく!」
 キュウコンの前足を握るベロベルト。もう片方の前足を添えた彼女は笑顔で首を縦に振る。
「承りました! 皆に伝えさせていただきます! 父は……二年前に……」
「えっ? あっ……」
 しまった。とんでもないことを言ってしまった。目を伏せた彼は握手の手を離してしまう。
「ごめん……コユキちゃん。謝るよ」
 深く頭を下げるベロベルト。彼女はゆっくりと首を左右に振るう。
「いえ、どうかお気になさらず。ベロベルトさんは何も悪くありませんわ」
 黙って頷くベロベルト。キュウコンの背中に両腕を回した彼は、ひんやりと冷たい氷の体をギュッと抱き締める。
「うふふっ! ありがとうございます! ベロベルトさんの体……とっても柔らかくて温かいですわ!」
 同じく背中に両前足を回して全身を預けるキュウコン。二匹は冷たくて熱い抱擁を交わすのだった。
「あれ……ちょっと待って?」
「うん? どうしました?」
 ふと顔を上げた彼はキュウコンの青い瞳を見据える。
「コユキちゃん。君が街にやってきたのはいつだっけ?」
 いきなり何を? 彼女の顔に戸惑いの色が浮かぶ。
「ええっと……二年前ですわ」
「お父さんが亡くなったのは?」
「二年前ですわ。さっき言ったとおりです」
 やっぱりそうだ。確信に至った彼は静かに口を開く。
「もう一つ質問いいかな?」
 彼女は小さく頷く。
「コユキちゃんが南の島を離れたのは……お父さんの死が原因かい?」
「あ……」
 短く声を漏らすキュウコン。彼女の瞳から光が消え失せる。
「お父さん……殺されたんだ?」
 雰囲気からも明らかだった。詮索してはいけないと知りつつも彼は聞いてしまう。
「……勘がいいんですね。嫌になってしまいますわ」
「……ごめん。つい気になってしまったんだ。もう何も聞かない。本当にごめん!」
 返ってきたのは冷たい笑みだった。彼の顔に虚ろな眼差しが突き刺さる。
「ふふ……そうはいきませんわ。私の父の命を奪った存在がベロベルトさんを狙っているかもしれないと言ったら……いかがです?」
「お……オイラだって!? どっ、どうしてオイラが狙われなきゃいけないのさ!? オイラ何もしてないのに!?」
 対岸の火事かと思ったら大間違いだった。自分自身を指差した彼は大いに取り乱す。
「いいえ、そんなことありません。私とブルースを襲った例の大男を倒したでしょう? ベロベルトさんのこと……悪い奴らの間で有名になっているんです」
 そんなの全く嬉しくないぞ!? 彼は心の中で叫ぶ。
「でっ、でも……コユキちゃんのお父さんの命を奪った奴は南の島にいるんでしょ? だったら気にする必要ないじゃないか」
 諦めきれないベロベルト。そんな彼の希望は無残にも粉砕される。
「この地方に来ているから言っているんです。各地で複数の目撃情報が寄せられていますわ。つい三日前には……新たな犠牲者とみられる遺体も見つかったばかりです」
「さ、最悪だ……」
 もう二度と御免だった。彼は血相を変えてキュウコンに縋りつく。
「ごめん、前言撤回! もっと詳しく聞かせて! そもそもだよ! いったい……コユキちゃんたちに何があったの?」
 何度も揺さぶられるキュウコン。やがて彼女は観念したように口を開く。
「分かりました。こうなってしまっては仕方ありませんね。お話しさせていただきましょう。私たちの身の上に起こったことの全てを……」
 ココアを飲み干すキュウコン。二匹の長い夜が幕を開けるのだった。
24/08/11 07:44更新 / こまいぬ
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