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連載小説
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恩返し【下】【小】
「うーっ、今晩は一段と冷え込みそうだなぁ……」
 ちらちらと小雪が舞い落ちる夕暮れ時。一面の銀世界となった樹海の真ん中で仁王立ちになって、プルプルとした腹周りの分厚い贅肉を両腕いっぱいに抱え上げたのは――森の主たるベロベルトだった。股間に伸ばした長いベロで雄の象徴を引っ張り出し、深く雪が降り積もった地面に砲口を向けて肩幅に両足を開いたら準備完了。彼は立ち小便のポーズを決める。
 違法伐採者の一家を森の肥やしにしてから半年後、何もかもが凍りつく真冬――。夏に親友のジャローダと二匹二脚で始めた果樹園の拡大プロジェクトも順調に進み、秋には運良く大豊作に恵まれ、万全の体勢で冬を迎えることができた彼は、春までに平らげきれないほどの食べ物に囲まれながら、悠々自適の冬眠生活を送っている最中だった。
 する事と言えば、焚き火の炎が揺れる洞窟の奥底に片肘をついて寝転がり、空いている方の手で鼻クソをほじっては丸めて飛ばし、腹が減ったらベロを伸ばして好きなだけ飲み食いし、臭い屁をこき、たまに用を足しに立ち――後は鼻提灯を膨らませて爆睡するだけ。ぐうたらな彼にとっては天国のような毎日が続いていたのだった。
「あーあ、トイレも中で済ませられたら最高なんだけどなぁ……」
 そんな極楽の日々の唯一の悩みは、今まさに彼が真っ白い溜め息を吐きながら口にしたとおり。こればかりは起き上がって洞窟の外に出てからでないと始まらなかった。去年までなら蓋付きのバケツに排便する手段も通用したが、今年からはそうはいかないのである。
 半年前に食したブラッキーの置き土産のティーセットを気まぐれに引っ張り出し、熱い湯を沸かして数杯も堪能すれば猛烈に催すものだった。神経を一点に集中させ、込み上げる尿意を解き放った彼の下腹部と雪原の間に黄金のアーチが架けられる。
「ふぅぅぅぅ……良い気持ち……!」
 アーチの着地点に穿たれた黄色い大穴を眺めつつ、惚けた表情を浮かべるベロベルト。これぞ真冬の立ち小便の醍醐味。白銀のキャンバスを自分色に染め上げた彼は、得も言われぬ征服感に満たされる。
「うぅっ! 寒い……!」
 が、余韻に浸っている暇はなかった。気温は氷点下十度を下回ったところ。たっぷりと脂肪が詰まった胴体は平気だったが、両手足と頭の先端、特に唾液で濡れそぼった長いベロは痺れるほどの冷たさだった。濛々と立ち上る小便臭い湯気に包まれた彼の口から悲痛な叫びが漏れる。
 早く終わらせて暖かい焚き火にあたらないと! 我慢できずに身震いし始めた直後――彼は度肝を抜かれる出来事に見舞われる。
「あぁ、やっと見つけられた! こんにちは!」
「うわっ、うわわわっ!?」
 他所から足を踏み入れてくる者など滅多に存在しない筈の厳冬期に、いきなり背後から若い女性の声が呼びかけてきたのである。驚いて飛び上がった拍子に放水の軌道を狂わせてしまうベロベルト。その先にあったのは――寒風に晒されてすっかり冷え切った自身の長いベロだった。
 ビチャッ、ビチャチャチャッ!
 決定的瞬間は否が応でもスローモーションで見えるものだった。空中で無数の水玉となった黄色い液体が次々とベロに衝突して弾け飛ぶ様を網膜に焼き付けてしまうベロベルト。それから独特の苦しょっぱさを感じるまでに大した時間はかからなかった。
「べべべぇぇぇぇぇっ!?」
 思わず片足立ちになり、垂らしたベロを死に物狂いで振るって生温かい雫を払い落とすベロベルト。それだけでは足りず、降り積もった雪に幾度となくベロを擦り付けた彼は、付着した尿を何とかして全て拭い去ることに成功する。
「あぁ、もう! ばばっちいなぁ! ……って、ごめんよ! オシッコの最中なんだ! ちょっ……ちょっとだけ時間をくれない!?」
 未だ水勢は衰えなかった。アーチの軌道を元に戻したベロベルトは顔を横向けて叫ぶ。
「きゃっ!? わっ、私こそごめんなさい!」
 動揺した様子の声の主。視線を感じなくなったのは目を伏せたからに違いなかった。
 相手を待たせているのである。一刻も早く用を済まさねばならなかった。その一心で残りの尿をひり出していくベロベルト。最後の一滴を絞り終えるなり雄の象徴を股の裂け目の中に押し込み、紫色になりかけていた舌をクルクルと巻き取って喉奥のベロ袋に納め、黄色い窪みに足元の雪を蹴りかけてカモフラージュしたら後始末は完了。気配からも敵でないことは明らかだった。彼は微笑みを浮かべて回れ右をする。
「やぁ、お待たせ! どちら様……」
 声を失うとはこのことだった。神秘的なまでの美しさにポカンと口を開けて固まってしまうベロベルト。横幅の広い切れ長の青い目、ピンと立った三角耳、ふわふわとした長い冠毛、首周りを覆う小さなたてがみ、スラッと細い三本指の足、豊かな毛に覆われた九本の長い尻尾。振り返った先にいたのは――冷気をまとった純白の毛皮に全身を包んだ、世にも珍しい姿格好をしたキュウコンだった。
 まだ成年して間もない個体らしい。どこか幼さの残る愛くるしい顔つきに彼は呆気なく心を奪われてしまう。
「コユキです! ほら、覚えていますか? 半年前に助けてもらったロコンです! お約束どおりお礼に上がりました!」
「……あぁっ! あの時の! まさか本当に来てくれるなんて!」
 金鉱探しの最中をオーダイルに見つかって助けを求めてきた二匹のうちの一匹だ。確かもう一匹はリオルだったっけ。そこまで思い出した彼は、お座りの姿勢で弾けんばかりの笑顔を振りまくキュウコンの周りをぐるりと見渡す。
「あれ、もう一匹の子は? 今日は見えないみたいだけど?」
「あぁ、ブルースのことですね! 今日は置いてきちゃいました! 凍え死んでしまうから勘弁してくれって言って聞かなくて!」
「だっ、だろうね。オイラが彼でも同じことを言ったと思うよ……」
 困り笑いを浮かべるキュウコン。彼は呆れ気味に返す。
「それにしても……よくこの場所を覚えていたね? コユキちゃんったら凄い記憶力じゃないか」
 感心した様子で腕組みをするベロベルト。前足で口元を隠したキュウコンは少し照れ臭そうにする。
「うふふっ! 実を言うとレナードさんに地図を書いてもらって来たんです! ご存知ですよね? マフォクシーのレナードさんのこと!」
「あっ……そっか。その手があったんだ」
 すっかり忘れていた。二匹は知り合いなのである。半年前に湖のほとりで焚き火を囲みながら談笑した時の記憶を思い起こすベロベルト。なにかの機会に自身のことが話題になって色々と教わったのだろう。おおよその経緯を察した彼はポンと手を打つ。
「とすると……ひょっとして、今日に行くよう勧めたのもレナードさん?」
 コクリ! キュウコンは元気よく首を縦に振る。
「そうです! 冬眠中で暇だろうから話し相手になってあげなさいって!」
「あははっ、お節介なんだから! レナードさんらしいよ!」
 両手を腰に当てた彼は大笑いする。
 ゆきがくれ。この時期の訪問をマフォクシーの猟夫が勧めた本当の理由だった。それを良いことに油断しないよう、特性について知らない彼女には、あえて伏せたままにしておいたのだった。
「……ささ! こんな所で立ち話もなんだから上がっていって! いやぁ、本当に良いタイミングで来てくれたよ! お茶している最中だったんだ! すぐにコユキちゃんの分も用意するからね!」
「まぁ、素敵! ぜひともご一緒させてくださいな!」
 洞窟の方へと手招きするベロベルト。胸の前で両前足を合わせたキュウコンの大きな瞳がキラキラと輝く。
「あ……そうだ。一つ言い忘れてた」
 先導するべく歩きかけた次の瞬間だった。彼はキュウコンの足元を指差す。
「その辺だけど……気を付けた方が良いよ。今朝にお花摘みをしたばかりなんだ。それも結構な量をブリブリッ、とね。いやぁ、ありゃ立派な三段巻きのウンチだったなぁ。埋めるのが勿体ないくらいだったよ」
「きゃあっ!?」
 キョトンとした表情で真下の地面を見守っていたのはそれまで。短い悲鳴を上げた彼女は、身長の倍近い高さまで飛び上がって後退する。
「そっ、そういうことは先に言ってください! 汚いじゃありませんか!」
 恥ずかしさといったらなかった。顔を真っ赤に染めた彼女は後ろ足で何度も地面の雪を蹴る。
「えへへっ、ごめんよ! ついうっかり!」
 頭の後ろに手を回した彼は、くるりと背を向けてキュウコンを案内し始める。
「さぁ、ついて来て! もう何ヶ所かあるから注意してね! 歩くのはオイラの足跡の上だけにしておいた方が良いかも! 当たり前だけど、踏んづけたら臭いよ? あははっ!」
「はっ、はぁい! お……お邪魔しまぁす!」
 小刻みに全身が震えているのは寒さからではなかった。凍り付いた笑顔で返事をした彼女は、抜き足差し足忍び足で地雷原の上を歩いていく。
「……はぁ、怖かった!」
 やがて無事に突破して眉を開くキュウコン。洞窟の真ん前で息を整えた彼女は、前を歩くベロベルトの背中を追って、駆け足で闇の奥へと消えていったのだった。
24/08/11 07:42更新 / こまいぬ
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