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連載小説
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贅肉を力に変えて
「うぅっ……」
 それから数分後。倒れ伏していたベロリンガの口からうめき声が漏れる。驚くべきことに、彼は一命を取り留めていたのだった。同時に意識を取り戻した彼は薄目を開ける。
「あぁ、生きていたんだ、オイラ。でも……」
 まだ安心するには早かった。彼は表情を硬くする。
「体は……動くかな……?」
 それが全てだった。自分だけが頼りの野生の世界で体の自由を失うことは、死を意味するのである。彼は一つずつ確かめにかかる。
「まずは両手と両足……」
 手足を伸ばしたり縮めたり、回したりするベロリンガ。特に不自由はなかった。彼は小さく息を吐き出す。
「よし。お次は首だ……」
 右に回し、左に回し、そして前後左右に傾ける。どの動作も問題なく行えた。彼は一つ頷く。
「よかった、大丈夫。腰と背中はどうだろう……?」
 左右にひねることも、前後に曲げることもできた。彼は意外そうな表情を隠さない。
「あれ? 普通に動く。じゃあ、尻尾は……?」
 脂肪がギュウギュウに詰まった大きな尻尾を伸ばしたり縮めたり、左右に動かしたりするベロリンガ。ここも異常なしだった。いよいよ彼は困惑してしまう。
「えぇっと、これって、もしかして……?」
 地面に両手をついて体を起こすベロリンガ。どこにも痛みは感じなかった。そのまま立ち上がり、自身の体を眺め回した彼は――驚愕の事実に気が付く。
「どっ、どこも怪我していない……!? あれだけの勢いでぶつかったのに……?」
 怪我どころか擦り傷すら一つもないのである。諸手を挙げて喜ぶべきことだったが、一周回って恐怖を抱いてしまうベロリンガ。彼の中で一つの疑問が浮かぶ。
「じゃ、じゃあ……あの衝撃と音は何だったの……?」
 首を傾げるベロリンガ。その答えは彼が視線を前に向けた途端に明らかになる。
「わっ!? こっ、これは一体!?」
 危うく腰を抜かしそうになるベロリンガ。彼の目に飛び込んできたのは、跡形もなく砕け散り、今や大小様々の石となった大岩の姿だった。衝突で粉々になったのは彼ではなく、大岩の方だったのである。
「……なるほど。物凄い勢いでぶつかったから無事で済んだんだ。転んだ時、とっさに体を丸めたのが正解だったね。あの判断がなかったら危なかっただろうなぁ……」
 まさに危機一髪だった。でなければ、不十分な速度で衝突していたことになり、彼の方がペチャンコになっていたに違いないのである。ベロリンガは額の冷や汗を拭う。
「あっ、そうだ」
 唐突にポンと手を叩くベロリンガ。ある案が頭に浮かんだのだった。
「これ……技として使えるぞ。こんなにも威力があるんだ。アイツだって倒せるかも!」
 アイツとはオーダイルのことだった。期待に胸を膨らませるベロリンガだったが、
「いや、ダメだ。そんな小手先でどうにかなる話じゃない。オイラとアイツじゃ何もかもが違いすぎるんだ……」
 その思いは一瞬で萎んでしまう。深く頭を垂れた彼は何度も首を左右に振るう。
 片や一度も進化の経験がない自分、片や二度も進化を経験した相手。両者の間には途方もない実力差が存在するのである。進化して強大な力を手に入れること。それが埋めがたい溝を埋めるための唯一の方法だった。
「オイラも……進化したいなぁ……」
 切実な思いを吐露するベロリンガ。丸々と太ったカップルの二匹を大便にすることで十分な量の養分を蓄えたこと、転がり移動ができるようになったこと、そして――彼自身が進化を強く望んだこと。全ての条件が満たされた瞬間だった。彼に進化の時が訪れる。
「……うわぁっ!? まっ、眩しいっ!」
 何の前触れもなく真っ白な閃光に包まれるベロリンガ。そのあまりの光の強さに、彼は立ったまま気を失ってしまう。
 最初に変化が起きたのは骨格だった。湾曲した背骨は地面と垂直に伸び、骨盤も変形して全体重が後ろ足に乗る体のつくりに変わり、動物的なフォルムから人間的なフォルムになる。
 骨格の変化が終われば肉体の変化が後に続いた。大きな尻尾にパンパンに詰まった脂肪は胴体に吸収され、ただでさえ太っていた彼を超肥満体型へと変貌させる。頭にはカールした前髪のような突起物が、首周りにはテーブルナプキンのような白い模様が、腹部には黄色い三本線の模様が形成され、養分を吸い尽くされて縮んだ尻尾は硬くなって上を向く。
 最後に待ち受けたのは臓器の変化だった。脳を含む神経系は著しく発達し、極めて高度な思考と俊敏な反応ができるようになる。巨大化した胴体内に収まる内臓も相応に成長し、特に彼の旺盛な食欲を支える消化器官は飛躍的な変容を遂げる。口と喉は大きな獲物も難なく丸呑みにしてしまえる伸縮自在の組織で作り替えられ、腸は消化物から養分を根こそぎ搾り取り、素早く大便にして体外へ排泄することに適した、肉食獣に特有の短く強靭な構造となる。胃袋に至っては数倍のサイズに巨大化し、ウツボットの消化液にも匹敵するほど強力な胃液を分泌して、食べた獲物を一瞬でドロドロにしてしまう灼熱の溶解炉と化すのだった。
 かくして、彼は身長が二メートル近く、体重は百五十キロにも達する山椒魚の怪獣のポケモン――ベロベルトに進化する。変化が終わると同時に白い光は霧散し、その瞬間に彼は意識を取り戻す。
「……はっ!? あぁ、びっくりした! 何だったのかな、今の……って、えっ?」
 目を覚まして最初に違和感を抱いたのは目線の高さだった。右を見て、左を見て、もう一度右を見ても結果は変わらず。前を向いた彼は呆然と立ち尽くす。
「……オイラってこんなに身長高かったっけ?」
 呟きながら足元に目線を落とした彼だったが、それは更なる異変に気付く契機となってしまう。彼の視界に飛び込んできたのは――お腹周りを覆い尽くす贅肉、贅肉、そして贅肉だった。あまりにもショッキングすぎる光景に彼は悲鳴を上げる。
「……ひっ!? なっ、何これ!? こんなに太っていた覚えはないよ!? しかも、お腹の模様まで変わって……!?」
 戸惑いを隠せないベロベルト。やがて彼の頭に一つの考えが浮かぶ。
「もっ、もしかして……オイラ、姿形が変わっている……?」
 ベロベルトは震える声で呟く。
 雨上がりということもあり、確かめる方法には困らなかった。近くにできていた大きな水溜りの前まで駆けていくベロベルト。その正面に立ち、一つ深呼吸した彼は――思い切って水面を覗き込む。
「……やっぱり! 違う姿になってる!」
 そこにあったのは、さっきまでの自分と似ているようで似ていない自身の姿だった。両手で口を覆った彼は素っ頓狂な声を上げる。
「とすると、この姿は……!」
 彼の顔に晴れやかな笑みが浮かぶ。
「進化した姿だ! あははっ、進化したぞ! このオイラも遂に! ……やった! やったぞぉぉぉぉぉっ!」
 歓喜の雄叫びを上げるベロベルト。その声は木々をざわめかせ、山を揺らし、森中にこだまするのだった。
「それは嬉しいんだけど……こんなにもデブにならなくていいじゃないか。もう少しシュッとしてスラッとした格好いい姿になりたかったのに。はぁ……」
 その一点だけが心残りだった。ガックシと肩を落とすベロベルト。しかし、
「でも……オイラらしくて良いかぁ! うん、満足! デブでいいや!」
 それはそれで気に入ったらしい。水面に向かって胸を張った彼は、ぎっしりと脂肪が詰まった巨大な腹をポンポンと景気よく叩くのだった。
「あっ、そうだ。オイラらしさといえば……」
 ふと思い出した彼は視線を宙に泳がせる。
「ベロだ。オイラの一番の特徴はどうなったんだろう……?」
 進化後も存在していることだけは確かだった。口の中で上下左右に舌を動かすベロベルト。しばしの思案の後、彼は笑顔で前を向く。
「よぉし! まずは限界まで伸ばしてみようっと!」
 肩幅に足を開き、進化して一段と大きくなった尻を突き出して前屈みになり、そして両手を高々と挙げたら準備完了だった。少し顎を引いて口を半開きにした彼は、
「そぉれ! ベロォォォォォン!」
 進化前と何一つ変わらぬ間の抜けた掛け声と共に、鮮やかなピンク色の舌を思い切り伸ばす。
「……って、えぇぇぇぇぇっ!?」
 しかし、その掛け声は一瞬で叫び声に変わる。彼が目を飛び出させたのは無理もない話だった。それもその筈、舌は身長の二倍どころか、十倍以上の長さにまで伸びたからである。
「嘘でしょ!? こんなに伸びちゃうの、進化したオイラのベロ!?」
 長すぎて舌先が見えないほどだったが、何度目を擦っても遠くの光景が変わることはなかった。それが現実であることを理解した彼は、ゾクゾクするような興奮に包まれる。
「さっ、最高すぎる! 進化した甲斐があったってものだよ! おまけに……!」
 彼は二十メートルほど先の地面に落ちていた小さな石を舌先で摘まみ上げる。
「とっても器用に動かせる! これさえあれば……!」
 ポイと小石を放り投げた彼は、長い舌を大蛇のようにくねらせ――
 シュルシュルシュルッ! ……ギュムッ!
 身長の何倍も離れた場所に突き出ていた岩を舌でグルグル巻きにする。
「狩りだって楽勝だ! えへへっ、もう誰もオイラのベロから逃がさないよ!?」
 岩を獲物に見立てた彼は不敵な笑みを浮かべるのだった。
「あと、やけに口の中がネバネバするから薄々は気づいていたけど……」
 右の手で舌に触れるベロベルト。その手を離すと――
 ……ネバァァァァァァッ!
 濃い唾液が舌と手の間で無数の糸を引くのだった。それを見た彼は歓声を上げる。
「うっひゃぁ! 唾液も凄いことになってるぞ! まるでトリモチみたい! ベトベトのベトベトンだ! これは狩りが捗るなぁ!」
 より多くの獲物を捕食して巨体を維持できるよう、舌も唾液腺も劇的な進化を遂げたのだった。大いに満足するベロベルト。そこで彼の脳裏に素朴な疑問がよぎる。
「それにしても……こんなに長いベロ、オイラの体のどこに収まっていたんだろう?」
 確かめる方法は一つあった。彼の頭上に電球が光る。
「そうだ! ベロを仕舞えばいいんだ! オイラって頭いい!」
 思ったら即行動だった。伸びきった舌を戻しにかかるベロベルト。さながらゼンマイ仕掛けのコードリールのように舌は口の中へ吸い込まれていき、根元から順番に巻き取られ――喉の奥に新しく形成されていた空間の中に収められるのだった。
「……あ、分かった! 大きな袋ができている! この中だ!」
 果たして、目論見は大成功。彼は長すぎる舌の収納箇所を見事に特定するのだった。
「へぇ、面白い! ちゃんとオイラの意思で動かせるぞ!」
 喉の奥の袋を膨らませたり縮めたりするのを繰り返すベロベルト。しかし、力加減を間違えて思いきり縮めてしまった次の瞬間――
 ドピュッ!
「……うわっ!?」
 袋の口から大量の唾液が水鉄砲のように噴き出し、
 ベチャッ! ベチャベチャッ!
 足元の地面に大きな汚いシミを作るのだった。目をパチクリさせた彼は小さな溜め息を吐く。
「あぁ、びっくりした! ……なるほどね。唾液を溜めておく場所でもあるのかぁ」
 概ね正解だった。その正体は進化を経て巨大な袋状の臓器に変化した唾液腺。長すぎる舌の収納箇所になると同時に本来の機能も大幅に強化され、どんな物も溶かす成分がたっぷり含まれた粘着性の唾液を大量に分泌し続ける化学工場へと成長を遂げたのだった。
「さて、と……」
 いつまでも余韻に浸っていたいところだったが、そうはいかなかった。果樹園での出来事を思い出した彼は、どこか達観した表情を浮かべる。
「どうせ抵抗しなかったところで冬までの命なんだ。一か八か、進化の力に賭けてみよう」
 収穫の取り分を更に二割も減らされた上、少なく見積もっても、これまでの倍は食べねば生きていけない巨体の持ち主になってしまったのである。彼はオーダイルとの激突を覚悟する。
「……戦うなら今だ。アイツは狩りの失敗続きで腹ペコだろうから十分に力を出せないハズ。決闘を申し込むなら今しかない!」
 その腹ペコの主な原因こそ、大便になることで彼に絶大な力を授けたカップルの二匹なのだから、もはや奇跡としか言いようがなかった。この運を逃す手はないのである。彼はオーダイルに果たし合いを挑むことを思い立つ。
「よし、行こう! 悪夢を終わらせる時が来た!」
 そうして大いなる一歩を踏み出した彼だったが――
「うっ……!」
 やはり絶大な恐怖には抗い難かった。ピタリと足を止めてしまうベロベルト。絶叫、飛び散る血しぶきと肉片、そして――見るも無残に破壊され尽くした亡骸。嫌というほど目の当たりにしてきた殺戮の光景がフラッシュバックする。
 負ければ最後だった。次が自分の番になるかもしれないのである。彼の心に大きな迷いが生じる。
「……ふっ、冬まで時間はあるんだ! もう少し考えた後でも遅くはないし、もっと良いチャンスに巡り合う可能性だってある! そうだよ! 急ぐ必要なんてないんだ!」
 早くも前言を撤回しそうになるベロベルト。しかし――次の瞬間だった。ハッと何かに気付いた彼は静かに首を左右に振る。
「いや、駄目だ。それだと進化前のオイラと何一つ変わらないじゃないか」
 どれだけ体が成長しても心が成長しなければ意味がないのである。彼は口を真一文字に結ぶ。
「変わらなきゃ。心は自力で進化させるしかないんだ……!」
 悔しさ、悲しさ、そして――怒り。それまで抑圧されていた感情が次々と蘇る。もはや迷いはなかった。彼の顔に悲壮な決意が浮かぶ。
「きっと日常を取り戻してみせる! 生きるため戦うぞ!」
 大声で宣誓した彼は、脇目も振らずに死地へと赴いていったのだった。
24/08/11 07:25更新 / こまいぬ
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