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連載小説
[TOP][目次]
ウンのツキ【下】【大】
 ブオォォォォッッ!
「んんっ、くっさ……!」
 安らかな寝顔を覗かせていた洞窟の主の目を覚まさせたもの――それは大きな屁の音と臭いだった。親指の爪を鼻の穴に突っ込んだベロリンガの顔に苦悶の表情が浮かぶ。
「ふぁーぁ、よく寝た……。もう昼過ぎだろうなぁ……って、おっ……?」
 伸びをして大あくびをするベロリンガ。そこで何かに気付いた彼は、すっかり大便になったカップルの二匹が詰まった下腹部に手を当てる。
「ウンチしたくなってきたかも……!」
 お通じが来たのだった。パチリと目を開けた彼は期待に胸を膨らませる。
「こうしちゃいられない! お花を摘みに行くなら今のうちだ! えーっと、紙、紙。お尻を拭く紙を用意しないと。この中に何かないかなぁ……?」
 体を起こし、昨夜に食べたブラッキーが背負っていたナップサックを漁り始めるベロリンガ。中に両手を突っ込んで探すこと数十秒後、
「……おっ! あった、あった! ツイてるぞ!」
 布製の小袋の中に、十枚近い長方形の紙切れが無数の丸い金属片と一緒に入っているのを見つけ出す。全て引っ張り出して右手で握り締め、床に左手をついて立ち上がるベロリンガ。それが街で流通する最高額の紙幣であることなど、彼は知る由もなかった。
 ズシッ!
「……うぉっ!? 危ない!」
 両足で床を踏みしめた途端に抱いたのは、お腹の底に響くような重量感だった。危うくバランスを崩しそうになるベロリンガ。歪に膨らんだ下腹部に視線を落とした彼は苦笑する。
「ははっ、二匹分だけに凄い量だ! ……この中には済ませない方が良さそうだね。絶対に溢れちゃうだろうから。いつもの場所でスッキリとウンチしたい気分だから、今日は使わないけど!」
 明け方に小便に立ったついでに中身をコンポストに放り込んでおいたのだった。昨夜に食べたブラッキーにトイレとして使わせたバケツを元の場所に仕舞ったベロリンガは、洞窟の出口に向かって歩き始める。
「さぁて、いっぱい食べて蓄えたことだし、ウンチした後は一日のんびり過ごすぞぉ!」
 鼻歌交じりに通路を進んでいくベロリンガ。しかし、洞窟の外に足を踏み出した次の瞬間――
「うっ……!」
 猛烈な立ちくらみのような感覚に襲われる。灼熱の夏の日差しを浴びたからだった。むせ返るような熱気に包まれた彼の体中の汗腺という汗腺からドッと汗が噴き出す。
「ふぅ、今日も最高に暑いねぇ……。こうやって立ち止まっていても暑いだけだから、早く行って涼むとするかぁ!」
 自分の体に鞭打って歩き出すベロリンガ。目指すは裏山の頂上に広がる果樹園の中に拵えたばかりのトイレ、もとい肥溜め。最後に用を足したところで満杯になったので、新しい穴を掘っておいたのだった。
 伸び放題になった雑草を大きな足で踏み潰しながら進んでいくと、やがて彼の目の前に登山道の入口の目印である大きな岩が現れる。その脇を通り過ぎ、彼自身が往来を繰り返すことで自然にできた山道に足を踏み入れるベロリンガ。しばらく斜面を歩いてみて思い知らされるのは――
「ひぃっ、ふぅっ……! 予想はできていたけど……とんでもなく体が重い……!」
 自分がデブの中のデブになっているということだった。みるみるうちに息が上がっていき、全身から滝のように脂汗が流れ出す。
「はぁっ……! あと、改めて思うことだけど……」
 彼は下腹部の膨らみを両手で抱える。
「こっ、この二匹もメチャクチャ重い……! ウンチになってもボリュームたっぷりだね、君たち……!」
 増えに増えた脂肪、そして溜まりに溜まった大便の重さは相当なものだった。暑さと疲労のあまりにダラリと舌を垂らすベロリンガ。たっぷりと贅肉が付いた大きな尻をユサユサと、いっぱいに養分が詰まった太くて長い尻尾をフリフリと、醜く膨らんだ腹をタプタプと揺らしつつ、どれだけ拭っても浮いてくる額の汗を長い舌で何度も舐め取りながら、普段の半分にも満たないペースで山道を登っていくのだった。
「ぜぇっ、はぁっ……! あっ、あと一息……!」
 崖に面した急カーブを曲がり切った先にあったのは、大小様々な石が転がるデコボコ道。ここを抜ければゴールだった。足元に気を付けながら一歩ずつ進んでいくベロリンガ。最後の急斜面をノロノロと登り切った彼は、ようやっと山頂の果樹園に辿り着く。
「……ふぅ! 長かったぁ!」
 両手を膝について深呼吸するベロリンガ。緊張の糸がプツリと切れた途端、
 プスゥゥゥゥッッ!
 出たのは音のない屁だった。同時に本格的な便意を覚えた彼は顔を綻ばせる。
「おぉっ、きたきた! これはグッドタイミング!」
 汗を撒き散らしながら果樹園の真ん中まで駆けていくベロリンガ。そこにあったのは、地面の上に敷かれた一枚の木の板だった。両手でひっくり返すと、下から現れたのは大きな穴。それこそ彼が新しく掘ったばかりのトイレ、もとい肥溜めだった。
「さぁ、いま大自然に還してあげるからね!」
 その穴に跨り、どっしりと腰を落として両手を胸の前で構え、そして、
「んむっ、んむむむむむむむっ……!」
 ジワジワと下腹部に力を込めていくベロリンガ。力を込めれば込めるほどにグニグニと肛門が押し広げられていき、腿ほどの太さもある大便が尻穴から頭を覗かせる。
「んんっ、太い……!」
 それが彼史上で最も太い大便であることに一点の疑いもなかった。垂らしていた舌を引っ込めて口を真一文字に結び、より一層に強く気張るベロリンガだったが、
「そっ、そして臭い……! 鼻が曲がりそうだ……!」
 直後、凄まじい汚臭に襲われた拍子に思わず括約筋を緩めそうになってしまう。よく熟成された大便の臭気は強烈の一言。両手で鼻の穴を塞いだ彼は身悶えせずにはいられない。
「いけない、集中、集中! ぬぅぅぅぅぅっ……!」
 我に返り、更に踏ん張るベロリンガ。一昨日に食べたエーフィが直腸に溜まって栓になっていたのだった。眉間に皺が寄れば寄るほど、彼の開き切った肛門から、表面に亀裂が入った焦げ茶色の大便がミチミチと絞り出されていく。
「よぉし、もうひと頑張り……! 二匹まとめて一本糞だ!」
 あと少しでエーフィを出し尽くせそうだった。一気にブラッキーも出してしまうべく、鼻から大きく息を吸って、そして止めた彼は――
「……んんっ! んんんっ! んむむむむむむぅっ!」
 いきみ声を上げると同時に渾身の力を下腹部に込める。その踏ん張りの甲斐あって直腸内の硬い便は一掃され、限界まで拡張された彼の尻穴から、ねっとりとした絶妙な硬さの大便と化していたブラッキーがモリモリと排泄され始める。独特の体臭を放つ茶色い大蛇に生まれ変わった二匹は、穴の底に尾を降ろして、グルグルと蜷局を巻きながら堆く積み重なっていく。
「……んあああああああっ!」
 その時の快感といったらなかった。滑らかな極太の大便に肛門を擦られてゾクゾクと背筋を震わせるベロリンガ。我慢できずに喘ぎ声を上げた彼の口から大量の涎が溢れ出す。
 いよいよフィニッシュだった。尻穴の力を緩めることなく排便を続けた彼は、
 ブプッ、ブボッ! ……ベチャッ!
 ドロッとした腸液と一緒に大蛇の頭をひり出し、そして――
 ブウゥゥゥゥッッ!
 思いきり放屁して腸内を空っぽにする。
「ぬっはぁぁぁぁぁぁっ……! スッキリしたぁ……!」
 天にも昇るような爽快感に包まれるベロリンガ。あまりの気持ち良さに目をトロンとさせ、だらしなく舌を垂らした彼は、茶色く汚れた肛門をヒクヒクと痙攣させながら、熱く湿った息を吐き出すのだった。
 いつもなら小便をしたくなるタイミングだったが、明け方に一滴も残らず絞り出していたので、尿意を催すことはなかった。持参したトイレットペーパーを一枚、また一枚と使って、肛門の汚れを綺麗に拭き取っていくベロリンガ。最後の一枚をクシャクシャと丸めて肥溜めに捨てた彼は、ワクワクと胸を躍らせる。
「えへへっ、どんな作品に仕上がったかな?」
 自信作だけに早く見てみたいところだった。ひり出した大便を鑑賞するべく立ち上がろうとした――その時だった。
 ガサガサッ!
 突如として目の前の草むらが大きく揺れる。
「……誰だい!?」
 ビクリと体を揺らすベロリンガ。次の瞬間に草むらから飛び出してきたのは――真っ黒い足と胴体、青い尻尾に首周りの黄色いリング模様、赤い大きな目の周りをマスク状に覆う黒い毛、そして頭から垂れ下がる二つの黒い房が特徴的な、二本足で立って歩く犬のポケモン、リオルだった。そんな彼の行く手を塞いだのは、
 ブニュッ!
 ぎっしりと脂肪が詰まったベロリンガの大きな腹。避けきれずに衝突して全身を埋めたと思う間もなく、
 ドサッ!
 弾力で押し返されて仰向けに転倒する。
 思ってもみなかった出来事に目を白黒させるばかりのベロリンガ。しかし、事態を飲み込めないでいるにもかかわらず、
 ガサッ、ガササッ!
 またしても草むらが揺れる。
「こっ、今度はなに!?」
 慌てて身構えるベロリンガ。同じく草むらから飛び出してきたのは――大きな尖った耳、そして先端がカールした六本の大きな尻尾を持つ、フサフサした綿毛を頭の上に乗せた狐のポケモン、ロコンだったが、
「……えっ?」
 その姿は一般的な個体と似て非なるものだった。全身を覆う雪のように真っ白い毛皮、そして氷のように透き通った青い目。姿が違えばタイプも異なるらしい。あろうことか、その体から放たれていたのは熱気ではなく、ひんやりとした冷気だったのである。ベロリンガは驚きを隠せない。
 そんな彼の目と鼻の先で真っ白いロコンは地面に崩れ落ち、肩を激しく上下させながら荒い息を吐き始める。仰向けに横たわるリオルも同様の状況だった。
 只事でないことだけは間違いなさそうである。そうこうしている間に先客のリオルが飛び起き、文字通り藁にも縋るかのようにしがみ付いてくる。彼が汗びっしょりであることなど気にも留めない様子だった。
「かっ、匿ってください! おっ、恐ろしい大きな鰐のポケモンに追われていて……!」
 今にも泣き出しそうな顔で懇願するリオル。大体の状況を察したベロリンガはリオルの両肩に手を置く。
「まずは落ち着いて! この子と二匹で来たのかい?」
 リオルは首を縦に振る。
「よし、それなら大丈夫!」
 一安心だった。そこで彼はリオルを抱き寄せて自分と同じ方向を向かせ、右の手で果樹園の一点を指差してみせる。
「あそこに太い木が立っているでしょ? あの木の根元に穴があるんだ。体の小さい君たちなら中に入って身を隠せるハズだよ! 時間がない! その子を連れて行って、早く!」
 その言葉に大きく頷いたリオルは、真っ白いロコンの元へと走り寄り、
「コユキ、もう少しだけ走るぞ! 僕についてくるんだ!」
 その体を抱き起こし、指示された木の根元へと一目散に駆けていく。真っ白いロコンもベロリンガにペコリと一礼してみせた後、最後の力を振り絞ってリオルの背中を追い始めるのだった。あとは運を天に任せるだけ。彼は素知らぬ顔で肥溜めに跨り直し、用を足しているフリをする。
「くっ、来たぞ……!」
 やがて聞こえてきたのは地鳴りのような足音だった。緊張で体を強張らせるベロリンガ。山道を登りきって果樹園に踏み込んできたのは――全身を覆い尽くす鎧のように硬い鱗、巨大な顎と鋭い牙、真っ赤な目に真っ赤なトサカと背ビレ、鋭利な爪の生えた五本指の手と三本指の足が特徴的な、二本足で立って歩く巨大なワニのポケモン――オーダイルだった。
「グルルッ……! すばしっこいガキ共が! どこに隠れやがった!?」
 スンスンと鼻を鳴らしながら辺りを見回すオーダイル。リオルとロコンを追いかけて登ってきたのだった。
「あぁん? あそこにいるのは……?」
 どうやら気づかれてしまったらしい。視線が突き刺さるのを感じたベロリンガは背中を丸めて小さくなる。
「しばらく見ねぇと思ったら、こんな場所にいやがったのか。……おいっ、テメェ!」
 もう居留守は使えなかった。ドスの効いた声で凄まれた彼は反射的に立ち上がってしまう。取り繕ったような笑顔を浮かべて、
「やっ、やぁ! 久しぶり! 元気にしていたかい?」
 隠し事を悟られないよう、底抜けに明るい声で挨拶するも、
「ガキ共はどこだ!? 言え!」
 返事の代わりに浴びせられたのは怒号だった。あまりの剣幕に彼はビクリと身を震わせる。
「えっ、えーっと……ごめんよ。なんの話だい?」
 知らないふりを決め込むベロリンガ。大股で距離を詰めたオーダイルが彼の胸ぐらを掴む。
「とぼけるんじゃねぇぞ、この野郎! ガキ共の匂いを辿って来たんだから間違いねぇ! テメェが見ていない筈がねぇんだよ!」
 耳元で怒鳴るオーダイル。大正解だったが白状する訳にはいかなかった。彼は何度も首を左右に振る。
「なっ、なんの話か分からないし、知らないものは知らないってば! 勘弁してよ!」
 二匹の匂いが便臭に紛れるまで一秒でも多く時間を稼がねばならなかった。シラを切り続けるベロリンガ。そこでオーダイルは運悪くベロリンガの足元にある穴の存在に気が付いてしまう。
「……あぁ!? なんだ、この穴!? おい、ちょっと調べさせてもらうぜ!」
「あっ、それは……」
 オイラがウンチするために掘った穴――。慌てて止めようとしたベロリンガだったが、
「うるせぇ! どきやがれ!」
 ドンッ!
「……うわっ!?」
 口を開くやいなや思い切り突き飛ばされ、背中から地面に倒されてしまう。
 すぐにでも獲物に噛み付けるよう、四つん這いの姿勢になって穴へと近づいていくオーダイル。その手前まで迫ったところで一気に身を乗り出し、穴の底を覗き込んだ彼の鼻先に現れたのは――ベロリンガが産み落としたばかりの巨大な巻き糞。その凶悪な臭いを胸いっぱいに吸い込んでしまった彼は、
「……だぁぁぁぁぁぁっ!? くっせぇぇぇぇぇぇっ!」
 あえなく鼻をもがれてしまうのだった。そこで穴の正体を知ることになった彼は、両手で口元を覆って大慌てで後退する。
「ぷっ、ぷぷっ……!」
 なんとも間抜けな展開に笑いを堪えるのが必死なベロリンガ。親指の爪で下まぶたを引っ張った彼は、青い顔を更に青くして嘔吐きまくるオーダイルの背中に向かって、思いきり舌を出してみせるのだった。
「うぉげぇぇぇぇぇぇっ! ……てっ、テメェッ! こんな場所でクソなんか垂れやがって! ガキ共の匂いを追えなくなっちまったじゃねぇか!」
「ははっ、ごめんよ! 果樹の手入れをしていたら急にウンチしたくなっちゃって! あっ、あいたたた……!」
 ここで大便をするのが日課なので理不尽にも程がある話だった。鼻を押さえたまま怒鳴り散らすオーダイルに作り笑いを見せた彼は怒りを募らせる。上体を起こして立ち上がった途端に腰を襲った痛みが、その感情を一段と強くした。
「あぁ、チクショウ! せっかく追い詰めたっていうのによぉ! テメェのせいで何もかも台無しだ、このクソッタレ! 一昨日に見かけたピンク色の奴も、昨日に見かけた真っ黒い奴もそうだ! どいつもこいつも、あと一歩のところで見失っちまう! 一体全体どうなってやがる!?」
「えっ? その二匹って……?」
 両手で頭を掻きむしりながら地団駄を踏みまくるオーダイル。台詞に心当たりを感じたベロリンガが肥溜めに視線を向けた次の瞬間――
「グルァァァァァァッ!」
 バキィッ!
 怒りを爆発させたオーダイルが、近くに立っていた大木の幹を腹立ち紛れに蹴り飛ばす。
「ああっ……!」
 悲鳴を上げるベロリンガ。彼が手塩にかけて育て上げた果樹の一本だったからに他ならなかった。木の無事を祈った彼だったが、
 ボキッ! メリメリメリッ! ……ドッシャァァァァァン!
 無情にも根元から真っ二つに折れ、彼の目の前で横倒しになってしまうのだった。
「そっ、そんな……! ここまで育てるのにどれだけ苦労したと思って……!」
 怒りと悲しみのあまり反射的にオーダイルの顔を睨んだ彼だったが、
「あぁ!? なんか文句あんのか!?」
「いっ、いや……なんでもないよ……」
 恐ろしい表情で睨み返され、口をつぐんでしまう。
 いつかウンチにしてやる! 彼は拳を震わせながら殺意を新たにするのだった。
「それはそうと、だ。今年は問題なく収穫できるんだろうな? 去年は秋に来た嵐のせいでどうたらこうたらとか抜かしていたが、次は承知しねぇぞ? もしヘマしやがったら……どうなるか分かっているだろうな?」
 労せずして食料を得るために、果樹園の収穫をベロリンガから奪い取っていたのだった。バキボキと指の関節を鳴らしながら怖い顔で尋ねるオーダイル。ブルリと身震いしたベロリンガの頬を冷や汗が伝う。
「もっ、もちろん! 今年こそ上手くやるさ!」
 収穫減が確定したばかりだったが、そう答えるしかなかった。自らを奮い立たせるように言い放つベロリンガ。オーダイルはフンと鼻を鳴らす。
「ケッ、口だけなら何とでも言えらぁ。……そういうワケだから、これから定期的に様子を見にきてやるぜ。テメェがヘマしねぇようにな? どうだ、嬉しいだろ?」
「あっ、ありがとう! 助かるよ!」
 喜んでいるフリをするベロリンガ。恐らくは収穫量を誤魔化せないようにするためだった。言葉の裏に隠された意図を読み取った彼は、暗澹たる気持ちになってしまう。
 もう追跡は完全に諦めたらしい。ベロリンガに背を向けたオーダイルは面白くなさそうな顔で元来た道を戻り始める。未来ある幼い命を守り抜いた喜びに、心の中でガッツポーズを決めるも――
「……そんじゃ、今日のところは帰らせてもらうが、この件は俺様の取り分を二割増しにするってことで手打ちにしてやらぁ。ありがたく思えよ?」
「にっ、二割増しだって……!?」
 それも束の間、彼は絶望の底に突き落とされる。冗談ではなかった。ただでさえ収穫の六割近くを巻き上げられているのである。これ以上も取り分を減らされたら命はなかった。彼は背中越しに手を振るオーダイルを慌てて追いかけ始める。
「そっ、そんな! 困るよ! 生きていけなくなっちゃうじゃないか! これじゃ冬を越せ……」
 ミシッ!
「おっ」
 間の抜けた声を上げると同時に沈黙するベロリンガ。少なくとも彼の目にはそう見えたのだが――瞬間移動してきたオーダイルにボディーブローを食らわされたのだった。分厚すぎる脂肪のクッションも彼の怪力の前では全くの無意味。ベロリンガは呆気なく膝から崩れ落ちる。
「……あぁ? なに寝とぼけたこと抜かしてやがる? 仕留められた筈の獲物を諦めるしかなくなっちまったんだから、これくらい当然だろうが!」
「んっ……んんっ、くっ……!」
 めり込ませた拳を引き抜いて耳元で凄むオーダイル、そして吐くのを我慢するので精一杯のベロリンガ。どうにかこうにか飲み込んで耐えたベロリンガだったが、そこで彼は次なる試練に襲われる。オーダイルが喉首を鷲掴みにしてきたのだった。
「もう一度だけ言うぜ。この件は俺様の取り分を二割増しにすることで手打ちにしてやる。それで文句ねぇな?」
「うぅっ……!」
 鋭利な爪を目の前にして言葉に詰まってしまうベロリンガ。同意したら冬までの命、しかし、拒否したら――どうなるかは火を見るより明らかだった。苦渋の選択の末、彼は首を縦に振る。
「も……文句ない、文句ないよ! 二割増しだね!? その通りにさせてもらうよ!」
 絞り出すような声で答えるベロリンガ。満足のいく回答が得られたオーダイルはフンと軽く鼻を鳴らし、首から手を放してやる。
「そうだろうが。奴隷の分際で生意気な口ききやがって。もういっぺん俺様に口答えしてみろ。その時はテメェの首を握り潰してやる!」
 激しく咳き込むベロリンガを足蹴にしたオーダイルは、今度こそ元来た道を戻り始めるのだった。やがて思い出したように背後を振り返った彼は、
「忘れんじゃねぇぞ? これがテメェを生かしてやっている唯一の理由だってことを、な?」
 ベロリンガに釘を刺してその場を後にする。お腹を押さえて立ち上がった彼は無言のまま下を向くのだった。
 それが二匹の関係の全てだった。食物連鎖の頂点に立つオーダイルがベロリンガを捕食しない理由――それは殺さず生かしておく限り、果樹園の収穫を搾取し続けられるからだった。
「……あぁ、にしても臭ぇ! どんなゲテモノ食ったらあんな臭ぇウンコひり出せるんだ、ったく!」
 果樹園を後にしたオーダイルは、手で何度も顔の前を払いつつ、ぶつくさ言いながら山道を下っていったのだった。
「……君たちのことゲテモノだって。酷い奴だよね」
 オーダイルの姿が視界から消えた後、ようやく完全に咳が止まったベロリンガは肥溜めに向かって呟く。
「あと、アイツが言っていたピンク色の奴と真っ黒い奴って……」
 彼の口から乾いた笑いが漏れる。
「君たちのことじゃないか。いやぁ、本当によかったよ、アイツに捕まらなくて。オイラに捕まったところで、食べられてウンチにされちゃうだけだけど、もしアイツに捕まったら……」
 オーダイルに捕らえられた獲物の末路を思い出した彼は背筋を震わせる。
「壊されるからね、生きたまま……」
 彼には理解不能だったが、それが楽しいらしかった。少しでも口に合わなければ食べ残すのも日常茶飯事であり、なんなら解体するだけして放置することも珍しくなかったのである。
 しかし、これで一安心だった。ベロリンガはリオルとロコンを匿った木の根元を見つめる。
「……行ったよ! もう大丈夫! 出ておいで!」
 両手をメガホン代わりにして無声音で呼びかけるベロリンガ。二匹も薄々は感づいていたらしく、言うが早いかリオル、そしてロコンの順番で穴から這い出てくる。謝意を伝えるべく、ベロリンガの前に整列した二匹が最初に気付いたのは――
「うっ! くっさ……! ベトベトンのゲップみたいな臭いだ……!」
「くっ、くちゃい……! ドラゴンポケモンのオナラより臭いわ……!」
 辺りに立ち込める濃厚な便臭だった。一様に両前足で鼻を覆う二匹。彼らの視線は肥溜めの底に釘付けとなる。
「あ、そんなに臭いんだ、オイラのウンチって……」
 嬉しいような悔しいような複雑な気持ちだった。二匹と同じ方向を見つめるベロリンガ。やがて彼は何度も左右に首を振る。
「……じゃなかった! えへへっ、ごめーん! ウンチしたばっかりだったんだ! 君たちも間が悪い時に来ちゃったねぇ!」
 どこまでも能天気な性格をした彼のことである。自分がひり出した大便を見られたところで恥ずかしいともなんとも思わないのだった。彼は隠そうともせず大笑いする。
「でも、この臭いを嗅いだばかりに鼻が曲がっちゃったみたいでさ、アイツ。君たちの匂いを追えなくなって諦めて帰っていったんだ。いやぁ、君たちも運がツイていたねぇ! ウンチだけに、なーんて! あははははっ!」
 寒いギャグを披露して自分で大爆笑するベロリンガ。ひとしきり笑い終えて我に返った彼の目に飛び込んできたのは――完全に背を向けて肥溜めの縁に腰を下ろし、熱心な眼差しで大便を観察する二匹の姿だった。彼は大いに白けてしまう。
「って、全く聞いてないし……。そして、子供らしくウンチに興味津々じゃないか、君たち……」
 あまりの悪臭で敬遠するかと思えば全くの逆だった。顎に前足を当てたリオルの口から唸り声が漏れる。
「うーん、いったい何を食べたらこんなにも立派なウンチが出せるんだろう……?」
 不思議そうに呟くリオル。頬を真っ赤に染めたロコンは、興奮のあまりにピョンピョンと飛び跳ねる。
「ほんと! ソフトクリームみたい! こんなにも大きくて綺麗なグルグル巻きのウンチ、あたし生まれて初めて見たわ……!」
 丸々と太った栄養満点のエーフィとブラッキーさ! 絶対に教えられない答えを心の中で述べたベロリンガは、二匹の肩にポンと手を置き、
「ふふっ、それは秘密! 教えてあげない!」
 意地悪な声で返すのだった。
 ……ジュルリッ!
 そして、早くも口の中を涎でいっぱいにした彼は舌なめずりをする。
 未熟な子供の獣、それは最高に柔らかくてジューシーでフレッシュな肉の塊だった。とろけるような舌触りを想像して鼻息を荒くするベロリンガ。今すぐ全身を舐め尽くし、丸呑みにして胃袋に収めたいという捕食者の本能を目覚めさせかけた彼だったが――
 ……ゴクンッ!
 そこはグッと理性で抑え込み、口の中に溜まった涎を呑み下して我慢するのだった。腕で口を拭った彼は更に言葉を続ける。
「……でも、一つ言えることは、こんなウンチを毎朝のようにモリモリひり出せるくらい、君たちもいっぱい食べて大きくならないといけないってことさ! 食べ過ぎてオイラみたく横に大きくなっちゃダメだけど! あははっ!」
 食べ応えに欠ける子供の食べ頃――それは大きく成長し、そして肉体的に成熟した時。つまりは彼に子供を食べる気はないのだった。そして何よりも、
「それと、あんな乱暴者みたいになってもダメだよ!? 今日のオイラみたく、困っている子を見かけたら助けてあげられるような大人になってください! 分かった!?」
 あのオーダイルのような落ちぶれた存在にだけはなりたくなかった。彼は上を向いたリオルとロコンの顔を交互に見やる。
「はぁい!」
「うん、よろしい!」
 元気な声で返事をする二匹。それを聞いて満足した彼は大きく頷くのだった。
 あとは説教して帰してやるだけだった。彼は一つ咳払いをする。
「……んんっ! ところで君たち!」
 回れ右をするリオルとロコン。ベロリンガは顔いっぱいに笑みを浮かべる。
「いやぁ、助かってよかったよ! あと少しでも遅かったら危ないところだった!」
 声を弾ませるベロリンガに向かって、コユキという名の真っ白いロコンは深々とお辞儀をする。
「本当にありがとうございました! ……ほら! ブルースも頭を下げて!」
「う、うん……」
 小声で促されたリオルも同じポーズをするのだった。手を頭の後ろに回したベロリンガは照れ臭そうにする。
「もぉ、そこまでしなくていいよ! 恥ずかしくなっちゃうじゃないか! それはそうとして……」
 彼は真顔になる。
「君たちには一つ言っておくべきことがあります。ちょっとだけオイラの話に付き合ってもらうよ?」
 お説教されるのだ。直感で察した二匹は途端に張り詰めた顔になる。あまりにも分かりやすい反応に思わず笑いかけた彼だったが、なんとか我慢して言葉を続ける。
「とても怖い目に遭ったことには心から同情するよ。だけど、ここは食べてウンチにするか、食べられてウンチになるか、二つに一つしかない弱肉強食の野生の世界。酷な言い方になるけど、この件は君たちが蒔いた種でしかないんだ」
 二匹はシュンと項垂れる。
「この森に君たちが来た理由は知っている。オイラも気持ちは分かるよ。お宝が埋まっているなんて聞いたら探したくなっちゃうものね」
 彼はリオルとロコンが背負うリュックから突き出たピッケルに注目する。
 この森のどこかには巨大な金鉱が眠っている――。いつどこで誰が何のために流したのか、そんな根も葉もない噂を信じて森へと探しにやって来る者が後を絶たないのだった。このリオルとロコンも彼らの中の二匹と見て間違いなさそうである。
 かれこれ数ヶ月ぶりだった。彼は頭と両腕から生えた葉っぱ、そして赤い腹が特徴的な、草色をしたトカゲのポケモンを食べた時のことを思い出す。どれだけ探しても金鉱は見つからなかったのだろう。疲れ果てて動けなくなっていたところを見かけて近づき、ベロベロ舐め回して痺れさせ、目を回したところを頭から丸呑みにしたのである。鮮やかな深緑色をした大便になって出てきたのが何よりも印象的だった。彼は更に言葉を続ける。
「でも、繰り返しになるけど、そんな軽い気持ちで、ましてや君たちのような子供が足を運んでいい場所じゃないんだ、ここは。これに懲りたら二度とこんな馬鹿な真似はしないこと。分かった?」
 腰を屈めてリオルとロコンの顔を覗き込むベロリンガ。二匹はしょぼくれた表情で小さく頷き、
「はい、ごめんなさい……」
「ご、ごめんなさい……」
 ロコン、そしてリオルの順に謝罪の言葉を述べるのだった。彼は満足そうに腕を組む。
「うん、分かればよろしい!」
 そこで二匹は互いに向き合う。
「ブルース、いつも探検に誘ってくれるのは嬉しいけど、次からは私たちの身の丈に合った場所だけにしておきましょう、ね?」
 真っ白いロコンに諭されたリオルは目を涙でいっぱいにする。
「ごめんよ、コユキ。もう二度と怖い思いはさせないから……」
 ギュッとロコンを力強く抱きしめるリオル。彼女の表情がフッと緩む。
「うん! 私も気を付けるわ、ブルース!」
 リオルの背中に前足を回すロコン。両者は抱き合う格好になるのだった。
 これにて一件落着。そろそろお引き取りいただこう。リオルとロコンが抱擁を解いたのを見計らい、ベロリンガは二匹に背を向けて歩き始める。
「さぁ、お帰りはこちらだよ! ついて来て!」
 言われるがままついて行く二匹。案内されたのは――果樹園の北端に位置する断崖だった。当然ながら驚いた顔をした二匹に、彼は崖の一画を指し示してみせる。
「あそこだけど分かるかな? あの辺りは崖が階段状になっていてね。麓まで降りていけるようになっているんだ。デブのオイラは絶対に無理だけど、身軽な君たちは簡単に踏破できると思うよ?」
 なるほど、改めて観察すると確かに彼の言うとおりだった。二匹の表情に納得の色が浮かぶ。
「ちなみに、崖を降りきった先は、アイツが引き返していった山道の反対側さ。もう二度とアイツの顔を見ることはないハズだよ。……さぁ、お行き! 寄り道しちゃダメだよ!?」
 崖を顎でしゃくるベロリンガ。大きく頷いて駆けていった二匹だったが、崖を降りる直前にベロリンガの方を振り返り、
「あの! このお礼はいつか必ず!」
「私も! この御恩は絶対に忘れませんわ!」
 リオル、そしてロコンの順で宣言するのだった。恥ずかしそうな顔で両手を前に突き出した彼は、何度も左右に首を振る。
「いいよ、お礼なんて! 当たり前のことをしただけじゃないか! だけど、もし本気なら進化して立派になってからおいで! 約束だよ!?」
 笑顔で手を振るベロリンガ。二匹は目を輝かせる。
「分かりました! 進化した折には必ず!」
「はい! きっと立派なキュウコンになってお礼に上がりますわ!」
 そう言い残して回れ右をした二匹は、今度こそ崖を降りていく。岩から岩へと次々に飛び移りながら山を下っていった二匹は、瞬く間に崖下に辿り着き――そして森の中へと姿を消していったのだった。
「ちゃんと二匹以上で行動している点は評価できるね。どこかの間抜けなカップルも見習って欲しいものだよ」
 崖を見下ろしながら呟くベロリンガ。次はその間抜けなカップルの番だった。彼は踵を返して肥溜めまで戻っていく。
「……うげっ、とんでもない臭いだ。ちょっと君たちラブラブすぎやしないかい?」
 穴底に溜まっていた臭気が風に乗って顔にぶつかってきたのだった。肥溜めの前に立ったベロリンガは気持ち悪そうに舌を垂らす。
「お待たせ。これ以上も臭い仲を見せつけられたら妬いちゃいそうだから、そろそろ愛の巣に入れてあげるね? まだ何回かウンチできそうな容量はあるけれども、今回は大サービス。夫婦水入らずを邪魔しないよう、特別に君たち二匹だけの肥溜めにしてあげるよ」
 そう言って、穴の隣に山積みにしてあった掘った土を手ですくい、大便になった二匹にかけるベロリンガ。それを何度か繰り返した彼の顔に残念そうな笑みが浮かぶ。
「うーん、あの真っ白いロコンの女の子の言葉どおりだなぁ。埋めるのが勿体ないくらいだよ、こんなにも大きくて綺麗なグルグル巻きのウンチ……」
 名残惜しさを感じずにはいられなかったが、臭いものに蓋をしない訳にはいかないのである。そのまま土をかけ続け、やがて完全に穴を埋めてしまうベロリンガ。仕上げにペタペタと土を盛り付けて、膝くらいの高さの土饅頭を作ったら完成だった。長い舌で顔中の汗を拭った彼は、満足げに頷いて立ち上がる。
「これでよし、と! それじゃ、末永くお幸せに!」
 汚れた手をパンパンと払い、土饅頭に向かって手を振るベロリンガ。炎天下での仕事を終えて気になったのは自分の体だった。首から下に視線を落とした彼は顔をしかめる。
「うへぇ、汗だくになっちゃった。そして、なんだか臭うぞ……?」
 もはや隠しようのない臭気だった。じっとりと蒸れた脇の下に鼻を近づけた彼は――我慢できずに顔を背け、そして盛大に嘔吐く。
「おぇっ! くっさ! あーあ、たった一週間サボっただけでこれだよ。まだ余裕だと思っていたんだけどなぁ……」
 恐ろしい言葉を口にするベロリンガ。とても怠惰な性格をした彼は、一年の中で最高に蒸し暑い時期であるにもかかわらず、入浴を面倒がって汗と垢だらけのままでいたのである。おまけに、丸々と太った脂肪たっぷりの大きな獲物を二日連続で食べたものだから、皮脂の分泌量も格段に増え、いまや彼の全身はヌルヌルとした黄色い油膜で覆い尽くされているという有様だった。
「うーん、どうしようかなぁ……」
 考える余地などないに等しかったが、眉間に皺を寄せて腕組みをするベロリンガ。それから数秒後、
「よし! 嫌な汗もかいたことだし、スッキリしちゃおうっと!」
 心を決めた彼は、長い舌を伸ばして頭から順に自分の体を舐め回し始める。二メートル以上の長い舌で全身舐め回して体を綺麗にする――これがベロリンガである彼の入浴方法だった。
 一瞬で頭を舐め尽くした彼は、上から下の順番を意識しながら他の部位を舐めていく。ほとんど肉に埋もれた首の周り、問題の脇の下、同じく汗で蒸れに蒸れた股と膝裏、臭いと評判だった大きな足、等々の汚れが溜まりやすい部位は時間をかけて入念に、激太りしたことで脂肪に隠れてしまった部分は一つずつ奥まで舌を差し込んで丁寧に舐め回すことを怠らなかった。身長の二倍もある舌を思いきり伸ばせば、手の届かない背中と尻尾もベロンと一舐め。最後に股間の割れ目の内側、極太の大便をひり出して少し緩くなった尻穴の中まで舐め尽くした彼は、ものの見事に体中の皮脂と垢を平らげるのだった。
「ふぅ、気分爽快! さっぱりしたぁ!」
 洗い上がりの肌はまるで剥きたての茹で卵のよう。真っ黒に汚れた長い舌をクルクルと巻き取って口の中に仕舞った彼は歓声を上げる。全身をネバネバの唾液と凶悪な口臭に塗れさせて気分爽快というのは、きっとベロリンガである彼にしか理解できない感覚に違いなかった。
「なんだけど……」
 彼は脱力しきった様子で下を向く。
「もう疲れちゃった。今日は帰って寝よう……」
 厳しい現実に引き戻された彼は、トボトボとした足取りで果樹園を後にするのだった。
「はぁ、二割増しかぁ……。これからオイラどうやって生きていこう……?」
 彼は山道を下りながら溜め息混じりに呟く。
「あぁ、ムシャクシャする……!」
 行き場のない感情を募らせていくベロリンガ。目の前に手頃な大きさの小石が転がっているのを見つけたのは次の瞬間だった。彼は一つの衝動に駆られる。
「……えぇい! 蹴っ飛ばしてやる!」
 言い終える頃には右足を大きく後ろに振り上げていた。そして勢いよく振り下げ、硬い爪先でジャストミートするベロリンガ。彼は最後まで気付かなかった。それが小石ではなく、地面から突き出た岩の一部であることに。
「あっ」
 驚きの声を上げるも時すでに遅し。岩に爪先を引っかけた彼は前のめりに倒れ、そして、
 グシャッ!
 顔から地面に激突する。その痛みは言うに及ばず。彼は打ち付けた顔面を両手で覆う。
「いっ、いちちちちっ……!」
 まさに泣き面にスピアー。しかし、これで終わりではなかった。ようやく痛みが鎮まり、地面に手をついて起き上がろうとした次の瞬間――
「へっ?」
 彼は目を疑う出来事に遭遇する。ひとりでに体が前に転がり始めたのである。
「えっ……? ちょっ、ちょっと!? 何がどうなって……!?」
 あたふたし始める頃には天と地が入れ替わっていた。あっという間に一回転し、そのまま二回転、そして三回転目に突入していくベロリンガ。激太りして限りなく球に近い体になったことが災いし、ふとした拍子に坂道を転がり落ち始めてしまったのである。
「いてっ! あたっ! いたたっ!」
 よりにもよって、そこは最後の難所のデコボコ道。そこら中に転がる石に全身を打ち付けて何度も悲鳴を上げるベロリンガ。その痛みに耐えきれず、
「まっ、まるくなる!」
 五体と尻尾を胴体に引っ込めた途端、彼は大きな過ちを犯したことに気が付く。
「って、ダメじゃん! 余計に転がっちゃうじゃないか! そして、この先は……!」
 崖に面した急カーブである。顔面蒼白になるベロリンガ。このまま転がり続ければ――脂身だらけの挽き肉になるのみだった。
「たっ、助けてぇぇぇぇぇっ!」
 悲しきかな。その悲鳴は誰の耳にも届かないのだった。ほぼ完全な球体となった彼は瞬く間に崖へと吸い寄せられていく。
「うわぁぁぁぁぁっ!」
 断崖を目の前にして絶叫するベロリンガ。死にたくない一心で体をひねる彼だったが、その行動が起死回生の一手になるとは夢にも思わなかった。驚いたことに、体は思ったとおりに曲がり始め、難なく急カーブを突破できたのである。
「曲がり……きれた……!? たっ、助かったぁ!」
 絶体絶命の危機を乗り越えた彼は一安心するのだった。
 いったんコツを掴んでしまえば簡単なものだった。彼は危険な地形や障害物を回避しながら順調に山道を転がり下りていく。走るより何倍も速いスピードで転がっているにもかかわらず、目が回ることはおろか、空間識に混乱が生じることもなかった。思わぬ形でポテンシャルを発揮した彼は舌を巻かずにはいられない。
「……知らなかった。こんな能力がオイラに備わっていたなんて。目からウロコだよ」
 その後も危なげなく山道を進んでいくベロリンガ。登山口も近くなり、そろそろ止まる準備をする頃だった。そこで彼の中に大いなる疑問が湧き上がる。
「……どうやって止まるんだろう?」
 上の空で呟くベロリンガ。今すぐ答えを出さねばならなかったが、もう考えている時間はなかった。登山口には大岩が、その先には鬱蒼と生い茂る木々が立ちはだかっているのである。数秒の沈黙の後、彼は次善の策を取ることにする。
「とっ、とにかく転がり続けよう! どこかで止まるハズ!」
 言い終える頃には登山口の大岩が目の前に迫っていた。これを回避しなければ先へは進めないのである。その先で何本、何十本もの木々を連続で避けなければならないことを考慮し、必要最小限の動きでかわすことにした彼は、
「よし、今だ!」
 大岩をギリギリまで引き付けてから旋回を開始する。
「……えっ?」
 が、その目論見は完全な失敗に終わってしまう。想像の半分も曲がらなかったのである。その原因は単純明快。山道を転がり続けたことでスピードがつきすぎ、アンダーステアを起こしてしまったのだった。
「ひっ、ひいぃぃぃぃぃぃっ!? ぶつかるぅぅぅぅぅぅっ!」
 万事休すだった。ベロリンガは真正面から大岩に突っ込んでいき、そして――
 ドガァァァァァァン!
 最大速度で激突する。彼が意識を保っていられたのはそこまでだった。
24/08/18 00:15更新 / こまいぬ
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