1
目が覚めると、僕は真っ暗な空間にいた。
天井に空いた微かな隙間から眩しい日の光が漏れ出してくる。
その天井に手を伸ばし軽く押してみた。
するとそれは左右にぱかりと割れ、途端にさっきとは比べ物にならないような目映い光が目に突き刺さった。
おもわず顔を歪めながら立ち上がると、視界には見慣れない草原の景色が広がっていた。
一瞬頭の中が白一色に染まる。
そして僕は気がついた。
僕がいたあの空間は箱の中だったということに。
箱から出てみると、その箱には何か張り紙が張られていた。
――小さなイーブイです。どうか拾って下さい。
簡素な文字。
いかにも適当に書いであろう乱雑な筆跡。
そしてそれはどこか見慣れていた。
(そうだ、確かにこの字は……)
僕を育ててくれていた大事な人の字だ。
その人がこう言う。「どうか拾って下さい」と。
ここから読み取れる今の状況。
それはあまりにも無惨だった。
そう、僕は捨てられたのだ。
(な、なんで……)
目から涙が溢れ出る。
僕は何も悪いことはしてないのに。
なんで、なんで、なんで。
その三文字が頭の中でぐるぐる渦巻いていた。
その場にうずくまり、顔を押さえ込む。
思えば、確かに最近あまり優しくかまってもらえた記憶があまりない。
自分でも、もしかしたらとは思っていたけど、やっぱり現実となると悲しくてたまらなかった。
(これから……どうしよう)
今の僕には、食べ物も飲み物も帰る家すらもない。
このままでは死を待つばかりだ。
止まらず溢れる涙が、僕の体毛を湿らせてきた頃、目の前の強い日差しが突如何かに遮られるのを感じた。
鼻を啜りながら前を見上げると、そこには僕と同じぐらいの背丈の子が立っていた。
「どうして泣いてるの?」
その子は屈んで僕にそう聞いた。
真っ直ぐに向けられた目は、太陽に反射してキラキラと輝いている。
とても綺麗な目だった。
「ぼ、僕……帰る場所が無くなっちゃって」
ずるずると流れる鼻水を啜り、言葉を必死に繋ぐ。
ちらりと僕の隣にある箱の張り紙を見て、その子は「あぁ……」と呟いた。
「何だかかわいそう。……なんなら、僕の家に来てもいいよ」
思いがけない言葉に自分でも恥ずかしいと思うほど、頭がぴょこんと跳ね上がった。
「え、本当に!?」
「うん、本当さ」
日差しに負けない、優しく輝いた笑顔。
その子の顔を見ていたら、何だか不安な気持ちはどこかへ行ってしまった。
「あ、僕はヒノアラシ。君は?」
「イ、イーブイ」
「イーブイか。うん、よろしくね」
こうして僕は、ヒノアラシの家で暮らすことになったのだった。
ヒノアラシの家は、僕らの体長に不釣り合いなほど大きな洞穴だった。
その洞穴の近くに滝があるせいか、中はひんやりと冷たい空気が流れている。
「ちょっと待って、今火を起こすから」
ヒノアラシは慣れた手つきで乾燥した藁に火の粉を吐き付け火種を作ると、それを薄い木の皮に移した。
パチパチという音をたてながら、徐々に火は強まっていく。
「“火炎放射”が使えれば、もう少し楽なんだけどね」
顔に苦笑いを浮かべながら、ヒノアラシは言った。
僕からしたら、火を吐けるだけでも凄いのだけど。
「後で寝藁を敷いておくね。
その間にイーブイはとりあえずこの辺りを歩いてきたら? 初めてでしょ、この場所」
そうなんだ、僕にとってここは未開の地なんだ。
少しは土地勘があった方が良いに決まっている。
「うん、そうだね。じゃあ少し外に出てみるよ」
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
短く返事をして、僕は外へと飛び出た。
すぐ隣で、滝がごうごうと音をたてている。
随分大きな滝だ。もしかしたら、この場所を起点に川が流れているのかもしれない。
(この川の流れに沿って歩いていこうかな)
そうすれば、迷って帰れなくなることはまずないだろう。
僕はそう思い、見慣れない土地を散策し始めた。
しばらくは高い木々が立つ落ち着いた森の風景が続いていた。
川の水が流れる音や、小鳥のさえずりぐらいしか聞こえず、辺りはとても静かだ。
それこそ、横になって森林浴をしたいほどに。
歩き続けると、徐々に高い木が少なくなり、いつしか僕がいたあの広々とした草原の景色に変わっていた。
見ていてとても清々しい気分になる。そんな場所だと思った。
これがヒノアラシに助けてもらえなかったら、今見えている景色も別のものに見えたかもしれない。
そう思うと、尚更ヒノアラシには感謝しないといけない。
恩返しに何かないかと森に戻ると、ちょうど近くに何か木の実がなる樹が立っていた。
寄ってみると、意外にその樹は小さかった。
それは僕の背丈でも、実に手が届くほどだ。
慣れない手つきで実を枝から切り離す。
ちょうど今が食べ頃のようで、実ははち切れんばかりに締まっていた。
クンクンと匂いを嗅ぐと、爽やかな柑橘類の香りがした。
試しに一口かじってみる。
途端にじゅわっと果汁が溢れ、舌の上に広がった。
酸っぱいような甘いような独特な味だったが、さっぱりしたその味は、何個でも食べられそうなあっさりとしたものだった。
それから僕は夢中で木の実を採っていき、気がつけば両腕一杯にそれを抱え込んでいた。
(ヒノアラシ喜んでくれるかな)
突然のプレゼントに目を丸くするヒノアラシの顔が目に浮かぶ。
爽やかな気持ちで、来た道を戻ろうと踵を返した。
しかし、その帰り道は大きな誰かによって遮られていた。
「よぉ、かわいこちゃん。こんなところで何してるんだ?」
全身が緑色で、怪獣みたいな体格のそれは低い声で話しかけてきた。
たしか、“バンギラス”っていう種族だった気がする。
「えと、ちょっとそこで木の実を……」
自分とは大きさも骨格もまるで違う生き物を目の当たりにして、僕は恐怖を抱いた。
「き、君は?」
「オレか? そうだな、オレもお前みたいに食べるものを探していたところだ」
にやりと口をつり上げてその人は笑う。
なぜか悪寒が背中に走った。
「じ、じゃあ僕はこれで」
そそくさと帰ろうとしたとき、僕の体はそいつの大きな手のひらに掴まれていた。
びっくりして、いくつか果実を落としてしまう。
「ひゃ! な、何?」
「言っただろ? 食い物を探してるって」
全身の毛が逆立つのを感じた。
嫌な予感がする。
お願い、勘違いであって……。
「お前、なかなか美味そうじゃないか」
その一言で、予感は確信へと変わった。
「い、いや……。離して!」
無我夢中で僕は暴れる。
だけどそいつはびくともしない。
突然、僕の頬に生暖かい何かが触れた。
「ひぁ!」
ビクンと過剰に反応した僕に怪獣はニヤリとほくそ笑んだ。
気がつけば目の前に巨大なやつの顔が迫ってきていた。
「ククク、いい反応するじゃねえか」
ベロリと舌舐めずりをして、こちらを睨む姿はまさしく悪魔の顔だった。
「あ……あぁ……」
恐怖のあまり、声が出てこない。
どうすれば良いか考えがまとまらない。いや、考えが浮かばない。
やつの口元からだらだらと流れる唾液を見て、ぐっと体に力がこもった。
その時ハッとした。
さっきの木の実。
上手くいくかどうか分からない。
でも、やらなかったら絶対助からない。
僕は意を決して、手に握り締めていた木の実を、やつの大きな目玉に勢いよくぶつけた。
「がっ! グオオオッ!」
よほど効いたのか、拘束されていた体が少し自由になる。
僕は一目散にやつの腕から離れて、走った。
「くっ、貴様ぁ!」
怒りの声が後ろから聞こえてきたが、僕は振り返らずにただただ走り続けた。
あの滝の近くにたどり着いたとき、もうその声や気配は感じられなかった。
どうやら撒いたらしい。
安心したとたん、その場に崩れ落ちてしまった。
(た、助かったんだ……)
まだ震えている体をギュッと押さえ込んで、何度も息を吐いた。
冷や汗が止まらない。
これからは周りに注意をしないといけないようだった。
なにせ僕はもうペットではない。野生のイーブイなのだから。
さっきの騒動で、抱えていた木の実はほとんど落としてしまった。
(でも死ぬところだったんだ。それだけでも吉だよね)
最後に深く深呼吸をして、ヒノアラシのいる洞穴の中へと入っていったのだった。
「え! ほんなことがあっはの!?」
僕が持って来た果実を口に頬張りながらヒノアラシは驚いた。
「うん、何とか逃げ切れたけどね」
「ほうなんだ。んぐ……でもおかしいな、そんなやつ今まで見たことなかったけど……」
咀嚼していたものを飲み下し、ヒノアラシは首をかしげる。
彼が言うには、自分は産まれたときからずっとここにいるが、他の者に襲われて命の危機に陥ったことはないと言う。
「まあでも、何回か飢えで死にかけたことはあるけどね」
苦笑いを浮かべながらヒノアラシは言った。
「じゃあ、僕が巻き込まれたのは何だったのかな」
「うーん、たまたま通りかかった……とか? 運がなかったんだよ、きっと」
『運がなかった』
なるほど、この言葉ほど何でも丸く収まる言葉はない。
「それより、ほらここが君の寝床だから。それと、さっきみたいに何かあったら遠慮なく言ってね」
「……うん、ありがと」
いつまでもうじうじしてる僕を見て、ヒノアラシはにこりと笑いながら僕の背中を叩いた。
「大丈夫、今回はたまたまだって。それにほら、僕がいるだろ?」
ぐんと胸を張るヒノアラシ。
その姿は、誇らしいというよりむしろ可愛らしかった。
そんな感じで、僕の大騒ぎな一日は終わった。
その次の日からは、何事も起こらず、平和な日が続いていった。
ヒノアラシと一緒に野生で暮らす幸せな日々。
あっという間に月日は流れて、僕らが出会って早くも六年が経とうとしていた。
長い月日が経っても、周りの景色はあまり変わらなかった。
この辺りに人間が住んでいないせいかもしれない。
変わりにヒノアラシは、その体格が凄く変わった。
この六年で彼は進化して、バクフーンになっていた。
「なんかごめん、俺だけ大きくなっちゃって……」
「ううん、気にしないで。仕方ないよ」
いつかは来ることだったんだ。
ヒノアラシは成長の過程で進化することができるけど、僕が進化するには人間が使う道具が必要だ。
当然ここでは手に入らない。
別に進化しようと思っているわけではない。
姿形が変わっただけで友情が変わるわけでもないし。
それでも寂しくないと言えば嘘になる。
「じゃあ、俺は食料を採ってくるからイーブイは水を汲んどいてくれるか?」
「また君が食料調達? そう毎日だと大変じゃない?」
「いいって、俺の方が早いし」
ヒノアラシがバクフーンになってから、僕が食料調達に行くことはあまりなくなった。
楽といえば確かにそうだし、実際バクフーンがやってくれた方が多く手に入る。
だからといって、彼に頼りすぎるにはなんだか悪い気がしてならない。
「じゃあ、行ってくる」
「うん……気をつけてね」
昔と変わらない輝かしい笑顔を向けてから、バクフーンは外へ出ていった。
そのたくましい後ろ姿を眺めてから、僕は寝床にごろりと寝っ転がる。
まだ朝早いせいか、薄い眠気が襲ってきて、僕はたまらず欠伸をする。
しかもあろうことか、僕は徐々に意識を手放していき、あっという間に視界は闇に包まれたのだった。
目が覚めたのは、ちょうどあたりが暗くなり始めた時だった。
でも、暗くなっていたのは夕暮れになったからではなかった。空は薄暗い灰色に包まれている。
みるからに嵐が来そうな様子だった。
そう思っていたとき、まるで見計らっていたかのようにポツポツと雨が降り始め、それはあっという間にザーザーと激しい本降りになった。
(バクフーン大丈夫かな……)
バクフーンは炎タイプだ。当然雨は苦手なはず。
僕はとたんに不安になった。
洞穴の入口まで行くと、雨は予想以上に強いことに気がついた。
ますます不安になる僕。その視界に見覚えのある影がひとつ。
それは走ってこちらに近づいてくる。
「あっ! バクフーン! 大丈夫!?」
たまらず僕は外の出た。
「イーブ……! だ――!」
なにやら必死に何かを伝えようとしていたけど、その時僕はバクフーンの言うことが理解できなかった。
僕の肩に、パラパラと何かが降ってくる。
それは雨とは違って、硬い。
上を見上げると、洞穴の入口が今にも崩れそうになっていた。
そしてそれは、現実になったのだった。
巨大な岩の塊が頭上から降ってくる。
「あ……」
「イーブイ!!!」
凄まじい爆音を立てて、岩が崩れ落ちる。
一瞬のことだった。僕の体は、何かに突き飛ばされて後ろに吹き飛ばされた。
「うわっ!」
さっきまで明るく照らされていた洞穴の中が真っ暗になる。
砂ぼこりが舞い、僕は咳き込んだ。
「バ、バクフーン?」
「ケホケホ……。だ、大丈夫か? イーブイ」
なんとか僕らは無事に済んだようだ。
でも、さっきまであった入口はどこにも見当たらない。
「どうやら生き埋めになっちまったようだな、俺ら」
真っ暗な空間に、バクフーンの声だけが鳴り響く。
「生き埋め?」
そう答えた瞬間に、あたりは明るい光に包まれた。
バクフーンが火を吐いたのだ。
「ああ、なんとかここから出ないとな。
幸い食料はある。一週間ぐらいなら持つだろう。その間に俺が何とかするから」
「そんな、また君が」
「気にするな。お前は落ち着いていればいい」
僕の頭に手を置いてバクフーンは微笑む。
僕は本当にこれでいいのだろうか。
「さて、今日はもう寝よう。ちょっと疲れた」
そう言って自分の寝床に転がるバクフーン。
すぐに寝息を立て始める姿は、本当に疲れているようだった。
僕はそれを見て、今日水汲みにいかなかったことを後悔したのだった。
目を覚ましたとき、バクフーンは既に起きていた。
片手に木の実を持ちながら瓦礫の山を掘り出している。
「あ、おはようイーブイ。飯は適当に食っといて」
「ねぇ、本当に一人で大丈夫? 何か手伝おうか?」
「だいじょぶだって。俺に任せてとけ」
そうは言っても、彼の顔色はあまり優れていない。
それは誰が見ても確かだった。
それからバクフーンは穴を掘り続けた。
少しも休まず、ひたすらに手を動かす。
対して僕は、彼の汗を拭うことしかできなかった。
閉じ込められてから四日目。
ついにバクフーンは限界を迎えた。
穴を掘っている最中、その場に崩れ落ちてしまったのだ。
「バクフーン!」
傍に寄ると、バクフーンの顔は今まで見たことないほどに衰弱していた。
疲労だけではない。
何かが体の中で足りないような感じだ。
「待ってて、今水を持って来るから!」
バクフーンの肩を叩いて、僕は貯めておいた水を汲みに行こうとした。
その時、僕はバクフーンに肩を掴まれた。
「イーブイ……」
「な、何? バク――」
振り返った瞬間、僕は生暖かい何かが顔に触れたのを感じた。
それは何となく覚えている感覚。
「お前、美味そう……」
刹那、凄まじい力で僕を地面に押さえつけたバクフーン。
訳が分からず、そのまま地面に叩きつけられる。
「っ! バク――」
バクフーンの目を見て、僕は背筋が凍る感覚を覚えた。
いつかのあのバンギラスと同じ目。
獲物を狩る野獣の目だ。
「い、いゃ……」
バクフーンの顔が近づいてくる。
今まで見たことないぐらい、息を荒げて牙を剥き出す。
これが本来のバクフーンなんだと思うと、悲しすぎて涙すらも出てこない。
バクフーンが僕の顔を舐めた。
愛情表現ではなく、僕を吟味している。
出した舌を口に収めると、満足そうに「グルルッ」と唸った。
「バクフーン! 僕だよ! イーブイだよ!」
必死に訴えても、僕の声は聞こえていないようだった。
(もう、無理なのかもしれない)
捕食者と獲物の関係が崩れることはない。
それを実感した。
「ごめん、バクフーン……」
そう呟き、僕は親友の腕に噛みついた。
小さいけれど、僕にも牙がある。
いくら相手が大きくても、やっぱり肌を突き破られるのは痛いのだろう。
一瞬バクフーンの力が緩んだ。
僕はその一瞬を見逃さない。
するりと彼の手から抜け出ると一目散に走った。
幸いこの洞穴、まだ先があるみたいだ。
真っ暗で何も見えないけど、今は進み続けるしかない。
後ろからバクフーンの唸る声が聞こえてくる。
僕は唇を噛みしめて走り続けた。
「ハッ……ハァ」
息が切れる。
苦しい。でも止まったら間違いなく死ぬ。
そう思っていると、目の前に目映い光が差し込んでいるのに気がついた。
(やった、外だ!)
最後の力を振り絞って、僕は外に出た。
――いや、出ようとしたんだ。
「っ! うわわっ!」
出てきた所は断崖絶壁。道はそこで途切れている。
地面は遥か下だ。
「そ、そんな……」
全身の力が抜ける。
後ろからうるさいほどにバクフーンの足音が聞こえてくる。
もう終わった。
僕はここで喰われて死ぬんだ。
(最後に、君のために死ねるなら……それもいいかな)
後ろを見れば、物凄い速さでバクフーンが走り寄ってきている。
僕は恐怖のあまり、ギュッと目をつむった。
次の瞬間、僕はバクフーンに突進された。
そして、僕はふわりと浮かぶ感覚を覚えた。
「え……」
あまりに飢えていたのだろう、バクフーンは僕に突っ込み、そのまま僕と一緒にぽっかりと空いた崖の中に放り出されたのだ。
「うっ、うわあああ!」
体が宙に浮かぶあの嫌な感覚。
僕はすごい速さで、地面に吸い込まれていく。
すぐ近くでバクフーンも喘いでいる。
結局僕は死ぬんだ。
落ちていくなかで、僕はバクフーンの目を見た。
赤い赤い、野獣の目が驚きのあまり見開かれている。
奇跡的に僕らの距離は近かった。
神様が最後に与えてくれたのかもしれない。
僕はバクフーンの体にギュッと抱き締ついた。
(今までありがとう)
その思いが伝わったのかは分からない。
僕は静かに目を閉じた。
脳裏に今までの思い出が蘇る。
六年間、長いようで短かった年月を、僕は思い出していた。
次の瞬間、僕らは水面に叩きつけられた。
目を開けると、僕は気持ちのいいあの草原の中にいた。
爽やかな風が頬をかすめる。
遠くに、何かが近付いてくる影が見えた。
「バクフーン?」
間違いなく、その影はバクフーンだった。
昔と同じ優しい笑顔を向けて、こちらに近づいてくる。
僕はたまらず走り出した。
でも、バクフーンは僕が近づいてくるのを見るや、すまなさそうな顔をして踵を返した。
「バクフーン? 待って、どこに行くの?」
僕の声が聞こえていないのか、バクフーンはそのまま僕からどんどん離れていく。
僕は走った。でも、いつまでたっても距離は縮まらない。
それでも僕は走り続けた。
いつしかバクフーンの姿は見えなくなっていた。
「ゲフッ! うぅ……」
サラサラと流れる水の音を聞きながら、僕はゆっくりと目を開けた。
体が重たくて、起き上がる時に腕がふるふると震えた。
「こ、ここは?」
まだはっきりしない意識の中、僕は辺りを見渡す。
どうやら僕が落ちた場所は川だったらしい。
水の流れる量からいって、ここは川下なんだろう。
そうすると、僕はだいぶ流されてきてしまったようだ。
げふげふと水を吐き、はっとした。
「バクフーン!」
僕の倒れていた所からさほど遠くない場所に、親友が倒れていた。
「バクフーン! し……しっかりして!」
息を切らしながら走り寄ってバクフーンの体に触る。
それはまるで氷のように冷たかった。
「バクフーン! 目を開けて! バクフーン!」
いくら叫んでも何の反応もない。
さっき彼に睨まれた時とは比べ物にならない寒気が、全身を伝った。
「い、嫌だ。バクフーン目を覚まして! 死なないで!」
顔を叩いたり、胸を押したりしても、何も変わらない。
もしバクフーンがいなくなってしまったら、僕はまた一人になってしまう。
そんなの……そんなの……。
「嫌だ! バクフーン!」
「うるせぇな、さっきから」
後ろから聞こえた聞き覚えのある声。
バクフーンよりも、もっと図太いその声を聞いただけで、全身の毛が逆立つのを感じた。
ゆっくりと振り替えると、そこにはあの緑色の怪獣がいた。
「んっ? お前、いつかの美味そうなやつじゃねぇか」
そいつは無表情のままこちらに近づいてきた。
思わず後ろに引き下がる。
「おいおい、そう怯えるな。残念だが、今は満腹でな。貴様を喰う気はこれっぽっちもねえから」
そう言われても油断はできない。
僕は無言のままバンギラスを見つめていた。
「まあいいや。んで? そいつはどうしたわけ?」
バンギラスはバクフーンを指差して問うた。
「き、君には関係ないでしょ」
僕がそう言うと、やつはピクリと反応し、それから大声で笑った。
「言うようになったじゃねぇか、チビのくせによぉ。ますます美味そうだな」
そう言いながら、バンギラスは僕らに近づき、僕を脇にはじいた。
「な、なにす――」
「いいからどいてな」
バンギラスは慣れたような手つきでバクフーンを観察していく。
「あぁ、こりゃ栄養失調だな」
「栄養……失調?」
「ちゃんと食事はしていたのか?」
記憶が蘇る。
確かにここ数日間、洞穴に閉じ込められたせいで、あまり満足な食事はできなかった。
けれど、それでも栄養失調になるようなひどい絶食はしていないはずだ。
「ちゃんと食事はしていたよ」
「肉は取っていたのか」
「えっ! 肉?」
「……やはりな。というか、知らなかったのか? こいつも俺と同じ肉食動物だぜ?」
知らなかった。でも確かにあの時、僕は我を忘れたバクフーンに襲われた。
それを思い出した途端に体が震えた。
「でも、昔は肉なんて食べなくても大丈夫だったよ?」
「進化の過程で変わってくるんだ。とにかく、今こいつはかなりヤバイ。早く手を打たないと、死んじまうかもな」
「そんな! 助けてよ!」
「何で? 別に俺の知ったことじゃないし」
返事はあまりにも冷たかった。
それでも僕はめげずに頭を地面につけながらも必死に頼みこんだ。
「お願い! 何でもするから!」
その言葉で、バンギラスはニヤリと口をつり上げた。
「……その言葉、忘れるなよ?」
しまった。つい言ってしまった。
でも、今は後悔してはいられない。一刻も早くバクフーンを助けないといけない。
「んじゃ、早速手伝ってもらおうか」
「て、手伝う?」
首をかしげた僕に、にこにことわざとらしい笑顔を向けながら、バンギラスは閉じていたバクフーンの口を無理矢理こじ開けた。
力なく舌がだらりと垂れる。
「今から数時間、こいつの腹の中に入っててくれ」
天井に空いた微かな隙間から眩しい日の光が漏れ出してくる。
その天井に手を伸ばし軽く押してみた。
するとそれは左右にぱかりと割れ、途端にさっきとは比べ物にならないような目映い光が目に突き刺さった。
おもわず顔を歪めながら立ち上がると、視界には見慣れない草原の景色が広がっていた。
一瞬頭の中が白一色に染まる。
そして僕は気がついた。
僕がいたあの空間は箱の中だったということに。
箱から出てみると、その箱には何か張り紙が張られていた。
――小さなイーブイです。どうか拾って下さい。
簡素な文字。
いかにも適当に書いであろう乱雑な筆跡。
そしてそれはどこか見慣れていた。
(そうだ、確かにこの字は……)
僕を育ててくれていた大事な人の字だ。
その人がこう言う。「どうか拾って下さい」と。
ここから読み取れる今の状況。
それはあまりにも無惨だった。
そう、僕は捨てられたのだ。
(な、なんで……)
目から涙が溢れ出る。
僕は何も悪いことはしてないのに。
なんで、なんで、なんで。
その三文字が頭の中でぐるぐる渦巻いていた。
その場にうずくまり、顔を押さえ込む。
思えば、確かに最近あまり優しくかまってもらえた記憶があまりない。
自分でも、もしかしたらとは思っていたけど、やっぱり現実となると悲しくてたまらなかった。
(これから……どうしよう)
今の僕には、食べ物も飲み物も帰る家すらもない。
このままでは死を待つばかりだ。
止まらず溢れる涙が、僕の体毛を湿らせてきた頃、目の前の強い日差しが突如何かに遮られるのを感じた。
鼻を啜りながら前を見上げると、そこには僕と同じぐらいの背丈の子が立っていた。
「どうして泣いてるの?」
その子は屈んで僕にそう聞いた。
真っ直ぐに向けられた目は、太陽に反射してキラキラと輝いている。
とても綺麗な目だった。
「ぼ、僕……帰る場所が無くなっちゃって」
ずるずると流れる鼻水を啜り、言葉を必死に繋ぐ。
ちらりと僕の隣にある箱の張り紙を見て、その子は「あぁ……」と呟いた。
「何だかかわいそう。……なんなら、僕の家に来てもいいよ」
思いがけない言葉に自分でも恥ずかしいと思うほど、頭がぴょこんと跳ね上がった。
「え、本当に!?」
「うん、本当さ」
日差しに負けない、優しく輝いた笑顔。
その子の顔を見ていたら、何だか不安な気持ちはどこかへ行ってしまった。
「あ、僕はヒノアラシ。君は?」
「イ、イーブイ」
「イーブイか。うん、よろしくね」
こうして僕は、ヒノアラシの家で暮らすことになったのだった。
ヒノアラシの家は、僕らの体長に不釣り合いなほど大きな洞穴だった。
その洞穴の近くに滝があるせいか、中はひんやりと冷たい空気が流れている。
「ちょっと待って、今火を起こすから」
ヒノアラシは慣れた手つきで乾燥した藁に火の粉を吐き付け火種を作ると、それを薄い木の皮に移した。
パチパチという音をたてながら、徐々に火は強まっていく。
「“火炎放射”が使えれば、もう少し楽なんだけどね」
顔に苦笑いを浮かべながら、ヒノアラシは言った。
僕からしたら、火を吐けるだけでも凄いのだけど。
「後で寝藁を敷いておくね。
その間にイーブイはとりあえずこの辺りを歩いてきたら? 初めてでしょ、この場所」
そうなんだ、僕にとってここは未開の地なんだ。
少しは土地勘があった方が良いに決まっている。
「うん、そうだね。じゃあ少し外に出てみるよ」
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
短く返事をして、僕は外へと飛び出た。
すぐ隣で、滝がごうごうと音をたてている。
随分大きな滝だ。もしかしたら、この場所を起点に川が流れているのかもしれない。
(この川の流れに沿って歩いていこうかな)
そうすれば、迷って帰れなくなることはまずないだろう。
僕はそう思い、見慣れない土地を散策し始めた。
しばらくは高い木々が立つ落ち着いた森の風景が続いていた。
川の水が流れる音や、小鳥のさえずりぐらいしか聞こえず、辺りはとても静かだ。
それこそ、横になって森林浴をしたいほどに。
歩き続けると、徐々に高い木が少なくなり、いつしか僕がいたあの広々とした草原の景色に変わっていた。
見ていてとても清々しい気分になる。そんな場所だと思った。
これがヒノアラシに助けてもらえなかったら、今見えている景色も別のものに見えたかもしれない。
そう思うと、尚更ヒノアラシには感謝しないといけない。
恩返しに何かないかと森に戻ると、ちょうど近くに何か木の実がなる樹が立っていた。
寄ってみると、意外にその樹は小さかった。
それは僕の背丈でも、実に手が届くほどだ。
慣れない手つきで実を枝から切り離す。
ちょうど今が食べ頃のようで、実ははち切れんばかりに締まっていた。
クンクンと匂いを嗅ぐと、爽やかな柑橘類の香りがした。
試しに一口かじってみる。
途端にじゅわっと果汁が溢れ、舌の上に広がった。
酸っぱいような甘いような独特な味だったが、さっぱりしたその味は、何個でも食べられそうなあっさりとしたものだった。
それから僕は夢中で木の実を採っていき、気がつけば両腕一杯にそれを抱え込んでいた。
(ヒノアラシ喜んでくれるかな)
突然のプレゼントに目を丸くするヒノアラシの顔が目に浮かぶ。
爽やかな気持ちで、来た道を戻ろうと踵を返した。
しかし、その帰り道は大きな誰かによって遮られていた。
「よぉ、かわいこちゃん。こんなところで何してるんだ?」
全身が緑色で、怪獣みたいな体格のそれは低い声で話しかけてきた。
たしか、“バンギラス”っていう種族だった気がする。
「えと、ちょっとそこで木の実を……」
自分とは大きさも骨格もまるで違う生き物を目の当たりにして、僕は恐怖を抱いた。
「き、君は?」
「オレか? そうだな、オレもお前みたいに食べるものを探していたところだ」
にやりと口をつり上げてその人は笑う。
なぜか悪寒が背中に走った。
「じ、じゃあ僕はこれで」
そそくさと帰ろうとしたとき、僕の体はそいつの大きな手のひらに掴まれていた。
びっくりして、いくつか果実を落としてしまう。
「ひゃ! な、何?」
「言っただろ? 食い物を探してるって」
全身の毛が逆立つのを感じた。
嫌な予感がする。
お願い、勘違いであって……。
「お前、なかなか美味そうじゃないか」
その一言で、予感は確信へと変わった。
「い、いや……。離して!」
無我夢中で僕は暴れる。
だけどそいつはびくともしない。
突然、僕の頬に生暖かい何かが触れた。
「ひぁ!」
ビクンと過剰に反応した僕に怪獣はニヤリとほくそ笑んだ。
気がつけば目の前に巨大なやつの顔が迫ってきていた。
「ククク、いい反応するじゃねえか」
ベロリと舌舐めずりをして、こちらを睨む姿はまさしく悪魔の顔だった。
「あ……あぁ……」
恐怖のあまり、声が出てこない。
どうすれば良いか考えがまとまらない。いや、考えが浮かばない。
やつの口元からだらだらと流れる唾液を見て、ぐっと体に力がこもった。
その時ハッとした。
さっきの木の実。
上手くいくかどうか分からない。
でも、やらなかったら絶対助からない。
僕は意を決して、手に握り締めていた木の実を、やつの大きな目玉に勢いよくぶつけた。
「がっ! グオオオッ!」
よほど効いたのか、拘束されていた体が少し自由になる。
僕は一目散にやつの腕から離れて、走った。
「くっ、貴様ぁ!」
怒りの声が後ろから聞こえてきたが、僕は振り返らずにただただ走り続けた。
あの滝の近くにたどり着いたとき、もうその声や気配は感じられなかった。
どうやら撒いたらしい。
安心したとたん、その場に崩れ落ちてしまった。
(た、助かったんだ……)
まだ震えている体をギュッと押さえ込んで、何度も息を吐いた。
冷や汗が止まらない。
これからは周りに注意をしないといけないようだった。
なにせ僕はもうペットではない。野生のイーブイなのだから。
さっきの騒動で、抱えていた木の実はほとんど落としてしまった。
(でも死ぬところだったんだ。それだけでも吉だよね)
最後に深く深呼吸をして、ヒノアラシのいる洞穴の中へと入っていったのだった。
「え! ほんなことがあっはの!?」
僕が持って来た果実を口に頬張りながらヒノアラシは驚いた。
「うん、何とか逃げ切れたけどね」
「ほうなんだ。んぐ……でもおかしいな、そんなやつ今まで見たことなかったけど……」
咀嚼していたものを飲み下し、ヒノアラシは首をかしげる。
彼が言うには、自分は産まれたときからずっとここにいるが、他の者に襲われて命の危機に陥ったことはないと言う。
「まあでも、何回か飢えで死にかけたことはあるけどね」
苦笑いを浮かべながらヒノアラシは言った。
「じゃあ、僕が巻き込まれたのは何だったのかな」
「うーん、たまたま通りかかった……とか? 運がなかったんだよ、きっと」
『運がなかった』
なるほど、この言葉ほど何でも丸く収まる言葉はない。
「それより、ほらここが君の寝床だから。それと、さっきみたいに何かあったら遠慮なく言ってね」
「……うん、ありがと」
いつまでもうじうじしてる僕を見て、ヒノアラシはにこりと笑いながら僕の背中を叩いた。
「大丈夫、今回はたまたまだって。それにほら、僕がいるだろ?」
ぐんと胸を張るヒノアラシ。
その姿は、誇らしいというよりむしろ可愛らしかった。
そんな感じで、僕の大騒ぎな一日は終わった。
その次の日からは、何事も起こらず、平和な日が続いていった。
ヒノアラシと一緒に野生で暮らす幸せな日々。
あっという間に月日は流れて、僕らが出会って早くも六年が経とうとしていた。
長い月日が経っても、周りの景色はあまり変わらなかった。
この辺りに人間が住んでいないせいかもしれない。
変わりにヒノアラシは、その体格が凄く変わった。
この六年で彼は進化して、バクフーンになっていた。
「なんかごめん、俺だけ大きくなっちゃって……」
「ううん、気にしないで。仕方ないよ」
いつかは来ることだったんだ。
ヒノアラシは成長の過程で進化することができるけど、僕が進化するには人間が使う道具が必要だ。
当然ここでは手に入らない。
別に進化しようと思っているわけではない。
姿形が変わっただけで友情が変わるわけでもないし。
それでも寂しくないと言えば嘘になる。
「じゃあ、俺は食料を採ってくるからイーブイは水を汲んどいてくれるか?」
「また君が食料調達? そう毎日だと大変じゃない?」
「いいって、俺の方が早いし」
ヒノアラシがバクフーンになってから、僕が食料調達に行くことはあまりなくなった。
楽といえば確かにそうだし、実際バクフーンがやってくれた方が多く手に入る。
だからといって、彼に頼りすぎるにはなんだか悪い気がしてならない。
「じゃあ、行ってくる」
「うん……気をつけてね」
昔と変わらない輝かしい笑顔を向けてから、バクフーンは外へ出ていった。
そのたくましい後ろ姿を眺めてから、僕は寝床にごろりと寝っ転がる。
まだ朝早いせいか、薄い眠気が襲ってきて、僕はたまらず欠伸をする。
しかもあろうことか、僕は徐々に意識を手放していき、あっという間に視界は闇に包まれたのだった。
目が覚めたのは、ちょうどあたりが暗くなり始めた時だった。
でも、暗くなっていたのは夕暮れになったからではなかった。空は薄暗い灰色に包まれている。
みるからに嵐が来そうな様子だった。
そう思っていたとき、まるで見計らっていたかのようにポツポツと雨が降り始め、それはあっという間にザーザーと激しい本降りになった。
(バクフーン大丈夫かな……)
バクフーンは炎タイプだ。当然雨は苦手なはず。
僕はとたんに不安になった。
洞穴の入口まで行くと、雨は予想以上に強いことに気がついた。
ますます不安になる僕。その視界に見覚えのある影がひとつ。
それは走ってこちらに近づいてくる。
「あっ! バクフーン! 大丈夫!?」
たまらず僕は外の出た。
「イーブ……! だ――!」
なにやら必死に何かを伝えようとしていたけど、その時僕はバクフーンの言うことが理解できなかった。
僕の肩に、パラパラと何かが降ってくる。
それは雨とは違って、硬い。
上を見上げると、洞穴の入口が今にも崩れそうになっていた。
そしてそれは、現実になったのだった。
巨大な岩の塊が頭上から降ってくる。
「あ……」
「イーブイ!!!」
凄まじい爆音を立てて、岩が崩れ落ちる。
一瞬のことだった。僕の体は、何かに突き飛ばされて後ろに吹き飛ばされた。
「うわっ!」
さっきまで明るく照らされていた洞穴の中が真っ暗になる。
砂ぼこりが舞い、僕は咳き込んだ。
「バ、バクフーン?」
「ケホケホ……。だ、大丈夫か? イーブイ」
なんとか僕らは無事に済んだようだ。
でも、さっきまであった入口はどこにも見当たらない。
「どうやら生き埋めになっちまったようだな、俺ら」
真っ暗な空間に、バクフーンの声だけが鳴り響く。
「生き埋め?」
そう答えた瞬間に、あたりは明るい光に包まれた。
バクフーンが火を吐いたのだ。
「ああ、なんとかここから出ないとな。
幸い食料はある。一週間ぐらいなら持つだろう。その間に俺が何とかするから」
「そんな、また君が」
「気にするな。お前は落ち着いていればいい」
僕の頭に手を置いてバクフーンは微笑む。
僕は本当にこれでいいのだろうか。
「さて、今日はもう寝よう。ちょっと疲れた」
そう言って自分の寝床に転がるバクフーン。
すぐに寝息を立て始める姿は、本当に疲れているようだった。
僕はそれを見て、今日水汲みにいかなかったことを後悔したのだった。
目を覚ましたとき、バクフーンは既に起きていた。
片手に木の実を持ちながら瓦礫の山を掘り出している。
「あ、おはようイーブイ。飯は適当に食っといて」
「ねぇ、本当に一人で大丈夫? 何か手伝おうか?」
「だいじょぶだって。俺に任せてとけ」
そうは言っても、彼の顔色はあまり優れていない。
それは誰が見ても確かだった。
それからバクフーンは穴を掘り続けた。
少しも休まず、ひたすらに手を動かす。
対して僕は、彼の汗を拭うことしかできなかった。
閉じ込められてから四日目。
ついにバクフーンは限界を迎えた。
穴を掘っている最中、その場に崩れ落ちてしまったのだ。
「バクフーン!」
傍に寄ると、バクフーンの顔は今まで見たことないほどに衰弱していた。
疲労だけではない。
何かが体の中で足りないような感じだ。
「待ってて、今水を持って来るから!」
バクフーンの肩を叩いて、僕は貯めておいた水を汲みに行こうとした。
その時、僕はバクフーンに肩を掴まれた。
「イーブイ……」
「な、何? バク――」
振り返った瞬間、僕は生暖かい何かが顔に触れたのを感じた。
それは何となく覚えている感覚。
「お前、美味そう……」
刹那、凄まじい力で僕を地面に押さえつけたバクフーン。
訳が分からず、そのまま地面に叩きつけられる。
「っ! バク――」
バクフーンの目を見て、僕は背筋が凍る感覚を覚えた。
いつかのあのバンギラスと同じ目。
獲物を狩る野獣の目だ。
「い、いゃ……」
バクフーンの顔が近づいてくる。
今まで見たことないぐらい、息を荒げて牙を剥き出す。
これが本来のバクフーンなんだと思うと、悲しすぎて涙すらも出てこない。
バクフーンが僕の顔を舐めた。
愛情表現ではなく、僕を吟味している。
出した舌を口に収めると、満足そうに「グルルッ」と唸った。
「バクフーン! 僕だよ! イーブイだよ!」
必死に訴えても、僕の声は聞こえていないようだった。
(もう、無理なのかもしれない)
捕食者と獲物の関係が崩れることはない。
それを実感した。
「ごめん、バクフーン……」
そう呟き、僕は親友の腕に噛みついた。
小さいけれど、僕にも牙がある。
いくら相手が大きくても、やっぱり肌を突き破られるのは痛いのだろう。
一瞬バクフーンの力が緩んだ。
僕はその一瞬を見逃さない。
するりと彼の手から抜け出ると一目散に走った。
幸いこの洞穴、まだ先があるみたいだ。
真っ暗で何も見えないけど、今は進み続けるしかない。
後ろからバクフーンの唸る声が聞こえてくる。
僕は唇を噛みしめて走り続けた。
「ハッ……ハァ」
息が切れる。
苦しい。でも止まったら間違いなく死ぬ。
そう思っていると、目の前に目映い光が差し込んでいるのに気がついた。
(やった、外だ!)
最後の力を振り絞って、僕は外に出た。
――いや、出ようとしたんだ。
「っ! うわわっ!」
出てきた所は断崖絶壁。道はそこで途切れている。
地面は遥か下だ。
「そ、そんな……」
全身の力が抜ける。
後ろからうるさいほどにバクフーンの足音が聞こえてくる。
もう終わった。
僕はここで喰われて死ぬんだ。
(最後に、君のために死ねるなら……それもいいかな)
後ろを見れば、物凄い速さでバクフーンが走り寄ってきている。
僕は恐怖のあまり、ギュッと目をつむった。
次の瞬間、僕はバクフーンに突進された。
そして、僕はふわりと浮かぶ感覚を覚えた。
「え……」
あまりに飢えていたのだろう、バクフーンは僕に突っ込み、そのまま僕と一緒にぽっかりと空いた崖の中に放り出されたのだ。
「うっ、うわあああ!」
体が宙に浮かぶあの嫌な感覚。
僕はすごい速さで、地面に吸い込まれていく。
すぐ近くでバクフーンも喘いでいる。
結局僕は死ぬんだ。
落ちていくなかで、僕はバクフーンの目を見た。
赤い赤い、野獣の目が驚きのあまり見開かれている。
奇跡的に僕らの距離は近かった。
神様が最後に与えてくれたのかもしれない。
僕はバクフーンの体にギュッと抱き締ついた。
(今までありがとう)
その思いが伝わったのかは分からない。
僕は静かに目を閉じた。
脳裏に今までの思い出が蘇る。
六年間、長いようで短かった年月を、僕は思い出していた。
次の瞬間、僕らは水面に叩きつけられた。
目を開けると、僕は気持ちのいいあの草原の中にいた。
爽やかな風が頬をかすめる。
遠くに、何かが近付いてくる影が見えた。
「バクフーン?」
間違いなく、その影はバクフーンだった。
昔と同じ優しい笑顔を向けて、こちらに近づいてくる。
僕はたまらず走り出した。
でも、バクフーンは僕が近づいてくるのを見るや、すまなさそうな顔をして踵を返した。
「バクフーン? 待って、どこに行くの?」
僕の声が聞こえていないのか、バクフーンはそのまま僕からどんどん離れていく。
僕は走った。でも、いつまでたっても距離は縮まらない。
それでも僕は走り続けた。
いつしかバクフーンの姿は見えなくなっていた。
「ゲフッ! うぅ……」
サラサラと流れる水の音を聞きながら、僕はゆっくりと目を開けた。
体が重たくて、起き上がる時に腕がふるふると震えた。
「こ、ここは?」
まだはっきりしない意識の中、僕は辺りを見渡す。
どうやら僕が落ちた場所は川だったらしい。
水の流れる量からいって、ここは川下なんだろう。
そうすると、僕はだいぶ流されてきてしまったようだ。
げふげふと水を吐き、はっとした。
「バクフーン!」
僕の倒れていた所からさほど遠くない場所に、親友が倒れていた。
「バクフーン! し……しっかりして!」
息を切らしながら走り寄ってバクフーンの体に触る。
それはまるで氷のように冷たかった。
「バクフーン! 目を開けて! バクフーン!」
いくら叫んでも何の反応もない。
さっき彼に睨まれた時とは比べ物にならない寒気が、全身を伝った。
「い、嫌だ。バクフーン目を覚まして! 死なないで!」
顔を叩いたり、胸を押したりしても、何も変わらない。
もしバクフーンがいなくなってしまったら、僕はまた一人になってしまう。
そんなの……そんなの……。
「嫌だ! バクフーン!」
「うるせぇな、さっきから」
後ろから聞こえた聞き覚えのある声。
バクフーンよりも、もっと図太いその声を聞いただけで、全身の毛が逆立つのを感じた。
ゆっくりと振り替えると、そこにはあの緑色の怪獣がいた。
「んっ? お前、いつかの美味そうなやつじゃねぇか」
そいつは無表情のままこちらに近づいてきた。
思わず後ろに引き下がる。
「おいおい、そう怯えるな。残念だが、今は満腹でな。貴様を喰う気はこれっぽっちもねえから」
そう言われても油断はできない。
僕は無言のままバンギラスを見つめていた。
「まあいいや。んで? そいつはどうしたわけ?」
バンギラスはバクフーンを指差して問うた。
「き、君には関係ないでしょ」
僕がそう言うと、やつはピクリと反応し、それから大声で笑った。
「言うようになったじゃねぇか、チビのくせによぉ。ますます美味そうだな」
そう言いながら、バンギラスは僕らに近づき、僕を脇にはじいた。
「な、なにす――」
「いいからどいてな」
バンギラスは慣れたような手つきでバクフーンを観察していく。
「あぁ、こりゃ栄養失調だな」
「栄養……失調?」
「ちゃんと食事はしていたのか?」
記憶が蘇る。
確かにここ数日間、洞穴に閉じ込められたせいで、あまり満足な食事はできなかった。
けれど、それでも栄養失調になるようなひどい絶食はしていないはずだ。
「ちゃんと食事はしていたよ」
「肉は取っていたのか」
「えっ! 肉?」
「……やはりな。というか、知らなかったのか? こいつも俺と同じ肉食動物だぜ?」
知らなかった。でも確かにあの時、僕は我を忘れたバクフーンに襲われた。
それを思い出した途端に体が震えた。
「でも、昔は肉なんて食べなくても大丈夫だったよ?」
「進化の過程で変わってくるんだ。とにかく、今こいつはかなりヤバイ。早く手を打たないと、死んじまうかもな」
「そんな! 助けてよ!」
「何で? 別に俺の知ったことじゃないし」
返事はあまりにも冷たかった。
それでも僕はめげずに頭を地面につけながらも必死に頼みこんだ。
「お願い! 何でもするから!」
その言葉で、バンギラスはニヤリと口をつり上げた。
「……その言葉、忘れるなよ?」
しまった。つい言ってしまった。
でも、今は後悔してはいられない。一刻も早くバクフーンを助けないといけない。
「んじゃ、早速手伝ってもらおうか」
「て、手伝う?」
首をかしげた僕に、にこにことわざとらしい笑顔を向けながら、バンギラスは閉じていたバクフーンの口を無理矢理こじ開けた。
力なく舌がだらりと垂れる。
「今から数時間、こいつの腹の中に入っててくれ」
12/08/14 07:15更新 / ミカ