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天井のわずかに空いた穴から、月の光が漏れ出してくる。
それは、窓一つないこの真っ暗な空間を照らすにはうってつけであった。
牢獄の中で、一匹の小さな生き物は冷たいコンクリートの壁にもたれ掛かっていた。
天井から差し込むそれをぼんやりと眺める。
ただそれだけを見つめていた。
そしてふと思う。
“そとの世界ってどんなのだったかな”と。
しかし、考えてすぐ顔を横に振る。
それを解き明かすのは、今の自分では無理だ。
やがて、重たい鉄の扉が大きな音をたてて開かれた。
眩しい明かりが目に突き刺さり、おもわず顔を歪ませる。
「実験番号1658番。時間だ、来い!」
今日最後の苦しみが、始まらうとしていた。
これを乗りきれば、また明日も生きることが出来るのだ。
動かない体にムチを打ち、ゆっくりと起き上がる。
【実験番号1658番】
腕に焼き付けられた文字が不意に見えた。
ここで名前を呼ばれたことは一度もない。
母がつけてくれた名前を忘れかけてしまったこともあった。
願わくば、もう一度家族に会いたい。
こんな冷たい場所ではなく、暖かい家族のもとへ帰りたい。
そんなことを思いながら『ヨーギラス』は、とぼとぼと研究員の後をついていくのだった。
「調子はどうだ? 1658番」
「……別に」
「あんまり横暴な態度だと、実験はさらに厳しくなるからな?」
ヨーギラスの縛り付けられた左腕に注射針を突き刺しながら、その研究員は言った。
「っ……。これで血液を採るのは何回目だよ」
いくつになっても慣れない痛みに顔を歪ませる。
少量の血液を採られるだけでも、そこから身体中のエネルギーが抜けるような感じが、するのだ。
それを日に数回繰り返される。
耐えれなくはないが、やはり辛い。
「まぁ、そう言うな。これから投与する薬の前後で何が変わるかを確かめるのに使う、いわば大事な“資料”なのだからな」
薬。
響きはなんだか危ないような気もする、まさにその通りである。
男は、ヨーギラスから採取した血液を立て掛けると、密封された袋に手を入れる。
中から、薄く緑がかった液体の入った、試験管のような容器が出てきた。
危険な匂いしかしないような物だが、それを拒む権利はヨーギラスにはない。
それを注射器に取り付け、ヨーギラスを見つめる。
「そう不安そうな顔をするな。こいつはそんなに対したものじゃない」
ゆっくりと近づいてくる男に少し身構えるヨーギラス。
「べ、別に怖いわけじゃないし」
「ふふ、声が震えているぞ?」
その言葉にハッとして、ヨーギラスは下唇を噛みしめる。
「少し副作用が強いかもしれないが、その辺は了承しろよな」
「なっ! そんなこと聞いてな――」
有無を言わせることなく、再び針を腕に突き刺す男。
じわりと入ってくる液体を感じながら、ふとヨーギラスは袋に書いてあった文字が目に入った。
【進化助長剤】
投与されてすぐ、体が熱く感じられた。
腕から始まったそれは、徐々に体全体に広がっていく。
「う……くぅっ」
身体中から汗が溢れだす。
苦しいというよりも、ただ熱いというだけだった。
それでも、喘いでしまう。
それがしばらく続いた後、体に変化が起きた。
ヨーギラスの体は肥大化し始め、骨格も彼のものではなくなりつつある。
その変化に追い付けず、ヨーギラスを拘束していたロープ状の拘束具が音をたてて裂ける。
ビキビキと骨が軋むような音をあげて、牙と爪が鋭く尖り始めた。
口も前に突き出る。
気がつけば、ヨーギラスの小さな体は大きなバンギラスへと姿を変えていた。
普通のバンギラスとあまり変わらないが、唯一の違いは、目の色が深紅であるということだ。
「ハァ、ハッ……。ぐっ」
「やったぞ! 成功だ。ハハ……」
息をあげるヨーギラス――もといバンギラス――をよそに、表情を喜びのそれへと変える男。
「これは、いったい……」
ゲホッと一回噎せてから、バンギラスは言った。
「君らの進化を促す薬だ。これがあれば、一度に大量の強化ポケモンを生み出せる!」
興奮しているのか、男は早口でそう言った。
症状が落ち着いてきたバンギラスは、震えながら立ち上がる。
そして自分の手を見た。
さっきまでの小さな手は、鋭い爪が生えた大きな手に変わり果てていた。
尻に違和感を感じたのは、慣れていない巨大な尻尾のせいだろう。
「これが、僕?」
「うむ、体は素晴らしい変異を遂げたが性格は変わらんようだな」
確かに、この体格で一人称が『僕』は少し可笑しい
「……なんだか、体がだるい」
「薬がまだ残っているからかもな。今日はもう安静にしておけ」
いつもよりも早い実験終了の言葉に、おもわずニヤリと笑うバンギラス。
その顔だけは、やけにしっくりくるようなものだった。
翌日からバンギラスには、体を慣らすために研究所が提案した『強化プログラム』が行なわれた。
内容はいわゆる筋肉トレーニングである。
ついこの間まで、小さな体で体力など無いに等しい程だったのが嘘のように、バンギラスは力が満ちていた。
それにともない、一度に食す量も倍以上になる。
しかし、わざわざ研究所が只の研究材料にそれほどお金をかけるとは思わない。
案の定バンギラスは、満足な量の食事が出来ずにいた。
「バンギラス、大丈夫?」
そんなバンギラスを救ってくれたのは、一人の少年だった。
「あぁ、ライか。お前こそ僕なんかの相手をしていて大丈夫なのか?」
「そんなこと、今更気にすることじゃないよ」
ライと呼ばれるその短く、金色をした髪の少年は、顔に薄く笑みを浮かべながらそう言った。
彼はこの研究所にいる少し変わった男の子だ。
聞いたことはないので定かではないが、恐らくここの研究員の子供だろう。
でなければ、この辺りを普通に歩き回ることなど出来ないからだ。
「それよりほら、今日の残り物持ってきたよ」
ライはそう言うと、檻越しにパンとチーズをバンギラスに渡した。
さっきまでゆったりとした雰囲気のバンギラスが嘘のように俊敏に動き、それを受け取る。
「ありがとう」と小さく呟き、直ぐにその小麦の塊を口に突っ込んだ。
ポロポロとパンの欠片がこぼれるのも気にしないで、バンギラスはその姿通り野獣の如くパンを咀嚼している。
あっという間にパンは彼の胃袋に収まり、続けてチーズを口に運んだ。
「……よっぽどお腹が空いてたんだね」
「んぁ? なん……んぐ、だって? むく……」
口一杯に頬張る様子は、怪獣というよりも栗鼠と言う方が近いのかもしれない。
もくもくとチーズを噛みしめ、それからゆっくりと燕下し、「ふぅ」と一息つく。
とりあえず空腹は紛らわせたらしく、バンギラスは満足そうに腹を擦っていた。
「けふ、美味かった」
「ホントに味わって食べてるの?」
ふふっと輝かしい笑顔を浮かべて、ライはそう言った。
まったく、かわいいやつだと胸中で思う。
それこそ、食べてしまいたいほどに。
そうバンギラスが思っていると、冷たいコンクリートに囲まれた廊下に、二人とは違う別の音が混じってきた。
「誰かきたね。じゃあ、僕はこれで。またね、バンギラス」
早口でそう言い、そそくさと檻を後にするライの背中に向かって、静かに「ありがとう」ともう一度呟いたのだった。
「実験番号1658番! 時間だ、来い!」
さっきの音の張本人が、檻を勢いよく開け、そう叫んだ。
耳障りな声に顔をしかめ「はいはい」とおざなりに返事をして、バンギラスは研究員についていく。
ちょっと前まで大きいと感じていた人間は、今ではちっぽけな命だなと思う。
きっと、今の体を使いこなせるようになれば、ここからの脱出も夢ではないはず。
そう思い、バンギラスは歩く速度を上げたのだった。
数週間後、バンギラスは研究所の予想を遥かに越え、すさまじい成長をみせた。
もはや、野生のバンギラスと差して変わらないほどである。
「今日はここまでだ、バンギラス。あまりはしゃぐな」
ガラスで隔離された部屋の外から、研究員がバンギラスを呼び止めた。
「グルル……。なんだ、もう終わりか、まだ暴れ足りないんだがな」
いつの間にか口調も荒々しくなり、その横暴さも様になっているバンギラス。
まさに野獣である。
目の前の粉々に砕かれた岩やコンクリートが、そんな彼を更に際立てていた。
「そう言うな。こちらもお前が暴れた後はいろいろ大変なんだ」
「たかが片付けだろう? そんなに大変か?」
「ククク、あんなに小さかったお前も言うようになったじゃないか」
研究員がそう言った刹那、バンギラスのいる部屋に高圧電流が流れ込む。
「っ! があぁっ!」
バチバチと耳をつんざくような音が辺りに響く。
それが終わった後も、その余韻が耳に残っていた。
「な、なに……を」
地面にひれ伏せたまま、バンギラスは必死に言葉を紡ぐ。
電撃の影響で、体が時折びくりと反応する。
「説明する必要はない」
またしても黄色い閃光がバンギラスに襲いかかる。
「――っ! あ゛あぁっ!」
ぼやけだした視界。
薄れゆく意識の中、部屋の扉が開けられ、中から白い服を着た人間どもがみえた。
そこで、バンギラスの記憶は途絶えた。
真っ暗だ。何も見えない。何も感じない。
俺は死んだのか。
そう思った。
そんなとき、誰かが近づいてくる気配がした。
それはどこか懐かしい雰囲気のやつだった。
「バンギラス……バンギラス」
しばらく聞いたことがなかった優しそうな声に呼ばれ、足を前に踏み出す。
とたんに先程まで澄みきった闇の世界が音をたてて崩れ落ちた。
そのまま奈落の底へと落ちていく。
不思議と恐怖はなく、むしろ心地よかった。
「――っ……バ――ス」
またしても自分の耳に聞こえた声。
さっきの声とは違う。
どこかで聞いたことがあるような声だ。
「バンギラス!」
はっとする。この声は、
「ライ?」
気がつくと、目の前にはあのライがいた。
「バンギラス! あぁよかった。何度呼んでも目を覚まさないからっ」
ぼんやりとした視界で辺りを見渡すと、見覚えのない空間に自分はいた。
どうやら気絶していたようだ。
目を擦ろうとして気がついた。
腕に鎖の固定具がついていることに。
「俺は……っ!」
直後、頭を殴られたかのような激痛が襲った。
「あまり無茶しないで突然、高圧電流を流されたんだから」
「う……。何だって?」
力が入らない体を無理に起こして、バンギラスはライを見上げる。
額は汗でぐっしょりだ。
「聞いて、あまり説明してる暇はないから単刀直入に言うよ。ここから逃がしてあげる」
ライはズボンのポケットから黒い鍵を取り出し、鎖の鍵を開けた。
固定されていたバンギラスの腕が力なく垂れる。
その顔はひどく疲れていた。
「このままだと君は、殺される」
その一言は、バンギラスを我に返させるには十分だった。
それでも、「なっ!」と驚いたしか声がでなかった。
「とにかく、付いてきて。話はそれから」
不釣り合いな程に大きなバンギラスの手を握りしめ、ライは走り出した。
それから先は、されるがままにライに付いていくバンギラスだった。
途中何度か見回りの警備員に見つかりそうになったものの、何とか二人は外部に続く扉の前にたどり着くことができた。
「ちょっと待ってて、今扉を開けるから」
そう言って、ライは扉のとなりにある入力装置に触れる。
直ぐに扉が開かれ始めた。
しかしそうとう重たいらしく、勢いよくは開かず、徐々に開かれるといった感じだ。
ただただ扉の開く音だけが鳴り響く。
その沈黙を破ったのは、バンギラスだった。
「なんで、俺にそこまでするんだ?」
ライは一瞬驚いたような顔をして、それから笑顔を浮かべてこう言った。
「だって、僕らは友達だろ?」
風が吹いたのかと思ったしかしまだ扉は開ききっていない。
『友達』ここしばらく、意識していなかった言葉。
その言葉が、バンギラスは素直に嬉しかった。
「友達……か。ふふ、そうだな」
「うん、友達」
恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに顔を赤めるライ。
バンギラスは知らぬ間に、もう一度ライの手を握りしめていた。
「ねぇ、バンギラス」
「ん、何だ?」
一息おいてから、ライはゆっくりと口を開く。
「ここから出たら、ふたり一緒に旅にでない?」
なんだ、そんなことか。
「そのつもりだか?」
ありきたりな返事をして、にっと笑ってやる。
慣れない笑顔は大変だなと今更ながらに思った。
そんなことを考えていると、扉がすでに開いていたことに気がついた。
この扉を、自由への扉といってもいいだろう。
爽やかだ。非常に爽やかな気分だった。
「さぁ、行こう。バンギラス」
「ああ、行こう」
二匹は、開かれた扉を越えて、輝かしい世界へと飛び出したのだった。
「――ぃ。おい、起きろ! 1658番!」
「ん……むぅ……」
「起きろと言ってるんだ!」
まだはっきりとしない意識の中、突如体に激痛が走る。
「がぁっ!――っ!」
「ようやく目が覚めたか、1658番」
声のする方に目を向けると、一人の研究員が檻越しにバンギラスを見ていた。
どうやらどこかに運ばれているようだ。
「こ、ここは? ライは?」
「何寝ぼけていやがる!」
再度体に何かを突きつけられ、激痛がバンギラスを襲う。
「ぐぁっ!!! うっ……」
よく見れば、男の手にはスタンガンが握られていた。
それはバチバチと、まるでバンギラスを威嚇するように唸りをあげている。
「もう着くからな、しっかり準備しておけ」
「じ、準……備?」
埃臭いコンクリートに囲まれた廊下の先。
自動扉を抜けたそこは、眩しい証明が照りつける、ステージのようであった。
「皆さまお待たせ致しました。わが研究所の最高傑作、生物兵器【T-1658】です!」
おびただしい数の人間たの視線が一点に集中する。
その様子に、少し体が強張るバンギラス。
「それでは、その狂暴ぶりをご覧にいれましょう!」
そう言うと、檻の鍵が開けられ、バンギラスは半ば強引に外に引っ張り出された。
そして、目の前に現れたのは……。
「ラ、ライ!」
身体中傷だらけのライの姿だった。
いたるところから血を流している。
「いまからこの小どもを、T-1658に与えます。容赦ない行動をご覧ください」
「なっ!」
ありえない。ただその一言だった。
今まで親しくしてきた者を喰らうなど、バンギラスには考えられないことだ。
ましてや子供を……。
「ほら、どうした。さっさと殺れ」
「……ない」
「あ?」
「できないって言ってるんだ!」
その言葉が意外だったのか、男は大きく目を見開いた。
それから「あぁ」と呟く。
「なんだ、知り合いだったのか。じゃあ殺せないよなぁ」
その一言にほっとしたのもつかの間。
バンギラスの脳裏にある言葉が生まれた。
“ライを殺れ”
よく分からず頭を横に振る。
今、自分は何を考えた……。
「言っておくが、お前に拒否権はないぞ?」
そう言うと男は、ポケットから携帯型の入力装置を取り出した。
「生物兵器が命令に逆らうなどあり得ないからな」
男は、その入力装置のボタンを押す。
するとバンギラスの体に、何か液体のようなものが流れ込んでくるのを彼は感じた。
直後、彼は宙に浮いたような脱力感に襲われた。
「なっ……ん……」
よく見れば、胸に不気味に赤く光る装置が取り付けられていた。
そう気付いた。まさにその時だ、彼の体が言うことを聞かなくなったのは。
意識はあるのに体が勝手に動く。
まるで体を乗っ取られたかのように。
「グルルル……」
(な、なんだ? 声が、勝手に……)
されるがままに、バンギラスは血だらけの少年、ライに近づいていく。
バンギラスも気がつかない間に、彼の目は獲物を捕らえるそれに変わっていた。
「バン……ギラス? ど、どうしたの?」
「グルルルッ」
(何なんだ。まさか……っ)
バンギラスの口から、品なく唾液がぼたぼたと溢れ落ちる。
彼は今まさに、飢えた獣であった。
(嘘だろ。おいやめ――)
意識とは裏腹に、バンギラスの体は勝手に動き、ライを鷲掴みにする。
そして、彼は大きく口を広げた。
「ちょっ、バンギラス! どうしちゃったんだよ! 冗談はやめて!」
ライの言うことも、まさしく馬の耳に念仏だった。
そのままバンギラスは、ライを持ち上げあろうことか口の中に押し込んだ。
(やめろ! 何してるんだ俺は!)
何をどう足掻いても、体は一向に言うことを聞いてくれない。
そうこうしている間にも、ライは口の中に吸い込まれていく。
「んっ! バ……ラス……やめ……んむっ!」
小さく開いた隙間から、ライのくぐもった声が聞こえる。
足を忙しなく暴れさせ、飲み込まれないように必死になっているライをもろともせず、バンギラスは彼を腰辺りまで飲み込み、そして頭をもたげた。
傾斜がついた口内で、重力に従ってライが喉の奥へと滑り込んでいく。
そこまでくると、もはやライの抵抗は皆無だった。
“ゴクリ……”
そんな短い音一つで、小さな体はあっという間にバンギラスの腹の中へと消えた。
「ガァァァァァッ!」
それが泣き叫んだ声だったのか、歓喜の雄叫びだったのかは、バンギラスにですら分からない。
小さな体のライでは、バンギラスの腹を大きく膨らますことはできないが、それでも小さく膨らんだ腹はもこもこと蠢いていた。
「以上が【T-1658】の研究結果でした。ありがとうございました!」
男はそう言うと、一礼をする。
周りからは拍手が送られた。
その後、バンギラスは手錠も何も掛けられることなく、そのまま施設の中へ戻される。
その時の彼は、まるでロボットのようだった。
(今だ、今吐き出せば、まだ助かる! 頼む、動け! ちくしょう!)
そう思うのとは反対に、口周りに付いたライの真っ赤な血を舌で舐めとるバンギラス。
次第に弱まっていくライの動き。
止まらない足。
何もかも、歯がゆくて、歯がゆくて仕方がなかった。
(うわあぁぁぁぁ!)
心の中で叫んだ。もちろん何も変わないのは目に見えている。
それでも、叫ばずにはいられなかった。
「けふっ……グル」
体は、満足そうに腹を撫でていたのだった。
「局長、あのバンギラスどうしますか?」
「あ? あぁ、あいつか。放置すればいいだろう、しょせんプロトタイプだ」
眼鏡を拭きながら、局長と呼ばれるその男は、何でもないようにそう言った。
「餓死させる、ということですか?」
「……。好きにしろ」
どうでもいいという感じで、男はさらりと言い放った。
研究員のほうもめんどくさかったのか、「分かりました」とだけ言って、部屋を後にした。
ため息を吐き、廊下を歩く研究員。
行くところは決まっている。あそこだ。
【T-1658】と書かれた札が視界にはいる。
そいつは部屋の端で、見た目に合わないほど静かに眠っていた。
“ガチャンッ!”
静かだった空間に、鍵の開く音が響き渡る。
そのまま男は、バンギラスに近づいていく。
対してバンギラスは未だすやすやと眠っていた。
その様子を見ていた男は、ゆっくりと深呼吸をして、バンギラスの胸に付いた装置に手をかけた。
そして、力強くそれを引っ張った。
「グァッ!? ガァァァッ!」
バチバチと装置が悲鳴をあげると同時に、バンギラスも同時に声を張り上げた。
やがて、縫い付けられていた糸が一本一本千切れていき、遂にはバンギラスの体から装置が外された。
「グ……ガ……ァァ……。うっ……。」
そのまま地面に倒れ込み、呻くバンギラス。
その声と、男が切り離した装置がショートする音だけが部屋の中で響いていた。
それは、窓一つないこの真っ暗な空間を照らすにはうってつけであった。
牢獄の中で、一匹の小さな生き物は冷たいコンクリートの壁にもたれ掛かっていた。
天井から差し込むそれをぼんやりと眺める。
ただそれだけを見つめていた。
そしてふと思う。
“そとの世界ってどんなのだったかな”と。
しかし、考えてすぐ顔を横に振る。
それを解き明かすのは、今の自分では無理だ。
やがて、重たい鉄の扉が大きな音をたてて開かれた。
眩しい明かりが目に突き刺さり、おもわず顔を歪ませる。
「実験番号1658番。時間だ、来い!」
今日最後の苦しみが、始まらうとしていた。
これを乗りきれば、また明日も生きることが出来るのだ。
動かない体にムチを打ち、ゆっくりと起き上がる。
【実験番号1658番】
腕に焼き付けられた文字が不意に見えた。
ここで名前を呼ばれたことは一度もない。
母がつけてくれた名前を忘れかけてしまったこともあった。
願わくば、もう一度家族に会いたい。
こんな冷たい場所ではなく、暖かい家族のもとへ帰りたい。
そんなことを思いながら『ヨーギラス』は、とぼとぼと研究員の後をついていくのだった。
「調子はどうだ? 1658番」
「……別に」
「あんまり横暴な態度だと、実験はさらに厳しくなるからな?」
ヨーギラスの縛り付けられた左腕に注射針を突き刺しながら、その研究員は言った。
「っ……。これで血液を採るのは何回目だよ」
いくつになっても慣れない痛みに顔を歪ませる。
少量の血液を採られるだけでも、そこから身体中のエネルギーが抜けるような感じが、するのだ。
それを日に数回繰り返される。
耐えれなくはないが、やはり辛い。
「まぁ、そう言うな。これから投与する薬の前後で何が変わるかを確かめるのに使う、いわば大事な“資料”なのだからな」
薬。
響きはなんだか危ないような気もする、まさにその通りである。
男は、ヨーギラスから採取した血液を立て掛けると、密封された袋に手を入れる。
中から、薄く緑がかった液体の入った、試験管のような容器が出てきた。
危険な匂いしかしないような物だが、それを拒む権利はヨーギラスにはない。
それを注射器に取り付け、ヨーギラスを見つめる。
「そう不安そうな顔をするな。こいつはそんなに対したものじゃない」
ゆっくりと近づいてくる男に少し身構えるヨーギラス。
「べ、別に怖いわけじゃないし」
「ふふ、声が震えているぞ?」
その言葉にハッとして、ヨーギラスは下唇を噛みしめる。
「少し副作用が強いかもしれないが、その辺は了承しろよな」
「なっ! そんなこと聞いてな――」
有無を言わせることなく、再び針を腕に突き刺す男。
じわりと入ってくる液体を感じながら、ふとヨーギラスは袋に書いてあった文字が目に入った。
【進化助長剤】
投与されてすぐ、体が熱く感じられた。
腕から始まったそれは、徐々に体全体に広がっていく。
「う……くぅっ」
身体中から汗が溢れだす。
苦しいというよりも、ただ熱いというだけだった。
それでも、喘いでしまう。
それがしばらく続いた後、体に変化が起きた。
ヨーギラスの体は肥大化し始め、骨格も彼のものではなくなりつつある。
その変化に追い付けず、ヨーギラスを拘束していたロープ状の拘束具が音をたてて裂ける。
ビキビキと骨が軋むような音をあげて、牙と爪が鋭く尖り始めた。
口も前に突き出る。
気がつけば、ヨーギラスの小さな体は大きなバンギラスへと姿を変えていた。
普通のバンギラスとあまり変わらないが、唯一の違いは、目の色が深紅であるということだ。
「ハァ、ハッ……。ぐっ」
「やったぞ! 成功だ。ハハ……」
息をあげるヨーギラス――もといバンギラス――をよそに、表情を喜びのそれへと変える男。
「これは、いったい……」
ゲホッと一回噎せてから、バンギラスは言った。
「君らの進化を促す薬だ。これがあれば、一度に大量の強化ポケモンを生み出せる!」
興奮しているのか、男は早口でそう言った。
症状が落ち着いてきたバンギラスは、震えながら立ち上がる。
そして自分の手を見た。
さっきまでの小さな手は、鋭い爪が生えた大きな手に変わり果てていた。
尻に違和感を感じたのは、慣れていない巨大な尻尾のせいだろう。
「これが、僕?」
「うむ、体は素晴らしい変異を遂げたが性格は変わらんようだな」
確かに、この体格で一人称が『僕』は少し可笑しい
「……なんだか、体がだるい」
「薬がまだ残っているからかもな。今日はもう安静にしておけ」
いつもよりも早い実験終了の言葉に、おもわずニヤリと笑うバンギラス。
その顔だけは、やけにしっくりくるようなものだった。
翌日からバンギラスには、体を慣らすために研究所が提案した『強化プログラム』が行なわれた。
内容はいわゆる筋肉トレーニングである。
ついこの間まで、小さな体で体力など無いに等しい程だったのが嘘のように、バンギラスは力が満ちていた。
それにともない、一度に食す量も倍以上になる。
しかし、わざわざ研究所が只の研究材料にそれほどお金をかけるとは思わない。
案の定バンギラスは、満足な量の食事が出来ずにいた。
「バンギラス、大丈夫?」
そんなバンギラスを救ってくれたのは、一人の少年だった。
「あぁ、ライか。お前こそ僕なんかの相手をしていて大丈夫なのか?」
「そんなこと、今更気にすることじゃないよ」
ライと呼ばれるその短く、金色をした髪の少年は、顔に薄く笑みを浮かべながらそう言った。
彼はこの研究所にいる少し変わった男の子だ。
聞いたことはないので定かではないが、恐らくここの研究員の子供だろう。
でなければ、この辺りを普通に歩き回ることなど出来ないからだ。
「それよりほら、今日の残り物持ってきたよ」
ライはそう言うと、檻越しにパンとチーズをバンギラスに渡した。
さっきまでゆったりとした雰囲気のバンギラスが嘘のように俊敏に動き、それを受け取る。
「ありがとう」と小さく呟き、直ぐにその小麦の塊を口に突っ込んだ。
ポロポロとパンの欠片がこぼれるのも気にしないで、バンギラスはその姿通り野獣の如くパンを咀嚼している。
あっという間にパンは彼の胃袋に収まり、続けてチーズを口に運んだ。
「……よっぽどお腹が空いてたんだね」
「んぁ? なん……んぐ、だって? むく……」
口一杯に頬張る様子は、怪獣というよりも栗鼠と言う方が近いのかもしれない。
もくもくとチーズを噛みしめ、それからゆっくりと燕下し、「ふぅ」と一息つく。
とりあえず空腹は紛らわせたらしく、バンギラスは満足そうに腹を擦っていた。
「けふ、美味かった」
「ホントに味わって食べてるの?」
ふふっと輝かしい笑顔を浮かべて、ライはそう言った。
まったく、かわいいやつだと胸中で思う。
それこそ、食べてしまいたいほどに。
そうバンギラスが思っていると、冷たいコンクリートに囲まれた廊下に、二人とは違う別の音が混じってきた。
「誰かきたね。じゃあ、僕はこれで。またね、バンギラス」
早口でそう言い、そそくさと檻を後にするライの背中に向かって、静かに「ありがとう」ともう一度呟いたのだった。
「実験番号1658番! 時間だ、来い!」
さっきの音の張本人が、檻を勢いよく開け、そう叫んだ。
耳障りな声に顔をしかめ「はいはい」とおざなりに返事をして、バンギラスは研究員についていく。
ちょっと前まで大きいと感じていた人間は、今ではちっぽけな命だなと思う。
きっと、今の体を使いこなせるようになれば、ここからの脱出も夢ではないはず。
そう思い、バンギラスは歩く速度を上げたのだった。
数週間後、バンギラスは研究所の予想を遥かに越え、すさまじい成長をみせた。
もはや、野生のバンギラスと差して変わらないほどである。
「今日はここまでだ、バンギラス。あまりはしゃぐな」
ガラスで隔離された部屋の外から、研究員がバンギラスを呼び止めた。
「グルル……。なんだ、もう終わりか、まだ暴れ足りないんだがな」
いつの間にか口調も荒々しくなり、その横暴さも様になっているバンギラス。
まさに野獣である。
目の前の粉々に砕かれた岩やコンクリートが、そんな彼を更に際立てていた。
「そう言うな。こちらもお前が暴れた後はいろいろ大変なんだ」
「たかが片付けだろう? そんなに大変か?」
「ククク、あんなに小さかったお前も言うようになったじゃないか」
研究員がそう言った刹那、バンギラスのいる部屋に高圧電流が流れ込む。
「っ! があぁっ!」
バチバチと耳をつんざくような音が辺りに響く。
それが終わった後も、その余韻が耳に残っていた。
「な、なに……を」
地面にひれ伏せたまま、バンギラスは必死に言葉を紡ぐ。
電撃の影響で、体が時折びくりと反応する。
「説明する必要はない」
またしても黄色い閃光がバンギラスに襲いかかる。
「――っ! あ゛あぁっ!」
ぼやけだした視界。
薄れゆく意識の中、部屋の扉が開けられ、中から白い服を着た人間どもがみえた。
そこで、バンギラスの記憶は途絶えた。
真っ暗だ。何も見えない。何も感じない。
俺は死んだのか。
そう思った。
そんなとき、誰かが近づいてくる気配がした。
それはどこか懐かしい雰囲気のやつだった。
「バンギラス……バンギラス」
しばらく聞いたことがなかった優しそうな声に呼ばれ、足を前に踏み出す。
とたんに先程まで澄みきった闇の世界が音をたてて崩れ落ちた。
そのまま奈落の底へと落ちていく。
不思議と恐怖はなく、むしろ心地よかった。
「――っ……バ――ス」
またしても自分の耳に聞こえた声。
さっきの声とは違う。
どこかで聞いたことがあるような声だ。
「バンギラス!」
はっとする。この声は、
「ライ?」
気がつくと、目の前にはあのライがいた。
「バンギラス! あぁよかった。何度呼んでも目を覚まさないからっ」
ぼんやりとした視界で辺りを見渡すと、見覚えのない空間に自分はいた。
どうやら気絶していたようだ。
目を擦ろうとして気がついた。
腕に鎖の固定具がついていることに。
「俺は……っ!」
直後、頭を殴られたかのような激痛が襲った。
「あまり無茶しないで突然、高圧電流を流されたんだから」
「う……。何だって?」
力が入らない体を無理に起こして、バンギラスはライを見上げる。
額は汗でぐっしょりだ。
「聞いて、あまり説明してる暇はないから単刀直入に言うよ。ここから逃がしてあげる」
ライはズボンのポケットから黒い鍵を取り出し、鎖の鍵を開けた。
固定されていたバンギラスの腕が力なく垂れる。
その顔はひどく疲れていた。
「このままだと君は、殺される」
その一言は、バンギラスを我に返させるには十分だった。
それでも、「なっ!」と驚いたしか声がでなかった。
「とにかく、付いてきて。話はそれから」
不釣り合いな程に大きなバンギラスの手を握りしめ、ライは走り出した。
それから先は、されるがままにライに付いていくバンギラスだった。
途中何度か見回りの警備員に見つかりそうになったものの、何とか二人は外部に続く扉の前にたどり着くことができた。
「ちょっと待ってて、今扉を開けるから」
そう言って、ライは扉のとなりにある入力装置に触れる。
直ぐに扉が開かれ始めた。
しかしそうとう重たいらしく、勢いよくは開かず、徐々に開かれるといった感じだ。
ただただ扉の開く音だけが鳴り響く。
その沈黙を破ったのは、バンギラスだった。
「なんで、俺にそこまでするんだ?」
ライは一瞬驚いたような顔をして、それから笑顔を浮かべてこう言った。
「だって、僕らは友達だろ?」
風が吹いたのかと思ったしかしまだ扉は開ききっていない。
『友達』ここしばらく、意識していなかった言葉。
その言葉が、バンギラスは素直に嬉しかった。
「友達……か。ふふ、そうだな」
「うん、友達」
恥ずかしそうに、しかし嬉しそうに顔を赤めるライ。
バンギラスは知らぬ間に、もう一度ライの手を握りしめていた。
「ねぇ、バンギラス」
「ん、何だ?」
一息おいてから、ライはゆっくりと口を開く。
「ここから出たら、ふたり一緒に旅にでない?」
なんだ、そんなことか。
「そのつもりだか?」
ありきたりな返事をして、にっと笑ってやる。
慣れない笑顔は大変だなと今更ながらに思った。
そんなことを考えていると、扉がすでに開いていたことに気がついた。
この扉を、自由への扉といってもいいだろう。
爽やかだ。非常に爽やかな気分だった。
「さぁ、行こう。バンギラス」
「ああ、行こう」
二匹は、開かれた扉を越えて、輝かしい世界へと飛び出したのだった。
「――ぃ。おい、起きろ! 1658番!」
「ん……むぅ……」
「起きろと言ってるんだ!」
まだはっきりとしない意識の中、突如体に激痛が走る。
「がぁっ!――っ!」
「ようやく目が覚めたか、1658番」
声のする方に目を向けると、一人の研究員が檻越しにバンギラスを見ていた。
どうやらどこかに運ばれているようだ。
「こ、ここは? ライは?」
「何寝ぼけていやがる!」
再度体に何かを突きつけられ、激痛がバンギラスを襲う。
「ぐぁっ!!! うっ……」
よく見れば、男の手にはスタンガンが握られていた。
それはバチバチと、まるでバンギラスを威嚇するように唸りをあげている。
「もう着くからな、しっかり準備しておけ」
「じ、準……備?」
埃臭いコンクリートに囲まれた廊下の先。
自動扉を抜けたそこは、眩しい証明が照りつける、ステージのようであった。
「皆さまお待たせ致しました。わが研究所の最高傑作、生物兵器【T-1658】です!」
おびただしい数の人間たの視線が一点に集中する。
その様子に、少し体が強張るバンギラス。
「それでは、その狂暴ぶりをご覧にいれましょう!」
そう言うと、檻の鍵が開けられ、バンギラスは半ば強引に外に引っ張り出された。
そして、目の前に現れたのは……。
「ラ、ライ!」
身体中傷だらけのライの姿だった。
いたるところから血を流している。
「いまからこの小どもを、T-1658に与えます。容赦ない行動をご覧ください」
「なっ!」
ありえない。ただその一言だった。
今まで親しくしてきた者を喰らうなど、バンギラスには考えられないことだ。
ましてや子供を……。
「ほら、どうした。さっさと殺れ」
「……ない」
「あ?」
「できないって言ってるんだ!」
その言葉が意外だったのか、男は大きく目を見開いた。
それから「あぁ」と呟く。
「なんだ、知り合いだったのか。じゃあ殺せないよなぁ」
その一言にほっとしたのもつかの間。
バンギラスの脳裏にある言葉が生まれた。
“ライを殺れ”
よく分からず頭を横に振る。
今、自分は何を考えた……。
「言っておくが、お前に拒否権はないぞ?」
そう言うと男は、ポケットから携帯型の入力装置を取り出した。
「生物兵器が命令に逆らうなどあり得ないからな」
男は、その入力装置のボタンを押す。
するとバンギラスの体に、何か液体のようなものが流れ込んでくるのを彼は感じた。
直後、彼は宙に浮いたような脱力感に襲われた。
「なっ……ん……」
よく見れば、胸に不気味に赤く光る装置が取り付けられていた。
そう気付いた。まさにその時だ、彼の体が言うことを聞かなくなったのは。
意識はあるのに体が勝手に動く。
まるで体を乗っ取られたかのように。
「グルルル……」
(な、なんだ? 声が、勝手に……)
されるがままに、バンギラスは血だらけの少年、ライに近づいていく。
バンギラスも気がつかない間に、彼の目は獲物を捕らえるそれに変わっていた。
「バン……ギラス? ど、どうしたの?」
「グルルルッ」
(何なんだ。まさか……っ)
バンギラスの口から、品なく唾液がぼたぼたと溢れ落ちる。
彼は今まさに、飢えた獣であった。
(嘘だろ。おいやめ――)
意識とは裏腹に、バンギラスの体は勝手に動き、ライを鷲掴みにする。
そして、彼は大きく口を広げた。
「ちょっ、バンギラス! どうしちゃったんだよ! 冗談はやめて!」
ライの言うことも、まさしく馬の耳に念仏だった。
そのままバンギラスは、ライを持ち上げあろうことか口の中に押し込んだ。
(やめろ! 何してるんだ俺は!)
何をどう足掻いても、体は一向に言うことを聞いてくれない。
そうこうしている間にも、ライは口の中に吸い込まれていく。
「んっ! バ……ラス……やめ……んむっ!」
小さく開いた隙間から、ライのくぐもった声が聞こえる。
足を忙しなく暴れさせ、飲み込まれないように必死になっているライをもろともせず、バンギラスは彼を腰辺りまで飲み込み、そして頭をもたげた。
傾斜がついた口内で、重力に従ってライが喉の奥へと滑り込んでいく。
そこまでくると、もはやライの抵抗は皆無だった。
“ゴクリ……”
そんな短い音一つで、小さな体はあっという間にバンギラスの腹の中へと消えた。
「ガァァァァァッ!」
それが泣き叫んだ声だったのか、歓喜の雄叫びだったのかは、バンギラスにですら分からない。
小さな体のライでは、バンギラスの腹を大きく膨らますことはできないが、それでも小さく膨らんだ腹はもこもこと蠢いていた。
「以上が【T-1658】の研究結果でした。ありがとうございました!」
男はそう言うと、一礼をする。
周りからは拍手が送られた。
その後、バンギラスは手錠も何も掛けられることなく、そのまま施設の中へ戻される。
その時の彼は、まるでロボットのようだった。
(今だ、今吐き出せば、まだ助かる! 頼む、動け! ちくしょう!)
そう思うのとは反対に、口周りに付いたライの真っ赤な血を舌で舐めとるバンギラス。
次第に弱まっていくライの動き。
止まらない足。
何もかも、歯がゆくて、歯がゆくて仕方がなかった。
(うわあぁぁぁぁ!)
心の中で叫んだ。もちろん何も変わないのは目に見えている。
それでも、叫ばずにはいられなかった。
「けふっ……グル」
体は、満足そうに腹を撫でていたのだった。
「局長、あのバンギラスどうしますか?」
「あ? あぁ、あいつか。放置すればいいだろう、しょせんプロトタイプだ」
眼鏡を拭きながら、局長と呼ばれるその男は、何でもないようにそう言った。
「餓死させる、ということですか?」
「……。好きにしろ」
どうでもいいという感じで、男はさらりと言い放った。
研究員のほうもめんどくさかったのか、「分かりました」とだけ言って、部屋を後にした。
ため息を吐き、廊下を歩く研究員。
行くところは決まっている。あそこだ。
【T-1658】と書かれた札が視界にはいる。
そいつは部屋の端で、見た目に合わないほど静かに眠っていた。
“ガチャンッ!”
静かだった空間に、鍵の開く音が響き渡る。
そのまま男は、バンギラスに近づいていく。
対してバンギラスは未だすやすやと眠っていた。
その様子を見ていた男は、ゆっくりと深呼吸をして、バンギラスの胸に付いた装置に手をかけた。
そして、力強くそれを引っ張った。
「グァッ!? ガァァァッ!」
バチバチと装置が悲鳴をあげると同時に、バンギラスも同時に声を張り上げた。
やがて、縫い付けられていた糸が一本一本千切れていき、遂にはバンギラスの体から装置が外された。
「グ……ガ……ァァ……。うっ……。」
そのまま地面に倒れ込み、呻くバンギラス。
その声と、男が切り離した装置がショートする音だけが部屋の中で響いていた。
12/06/02 20:41更新 / ミカ