嘆きの咆哮
ハラ……ヘッタ……
そう声を漏らすも、すぐに後悔の波が押し寄せる。俯くと、蒼い鱗に覆われた前脚が目に入った。
ウゥ……ドウシテ……コンナスガタニ…………
ぎこちない言葉で嘆くと、喚く腹の音を押さえ込もうとうずくまった。
ふと眼が覚めると、いつもの布団の上ではなかった。
冷ややかな風が吹き抜けていき、どこかで水の滴る音がする。
背にはごつごつした岩の感触、確実に家の中ではないのはすぐに分かった。
眼を開けるのが少し怖くなって、開けるのを躊躇った。
最初は拉致でもされたのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
何度水が滴ったのだろうか、漸く眼を開ける決心が付いて、それでぱっと眼を開けた。
一面に広がる灰色の岩壁。
何だ、どこかの洞窟の中だったのか。
ほっと安堵の溜息を吐いた。
頭の中ではもう少し恐ろしい、それこそ別の次元の世界が待っているのではないかと思っていた。
まさかそんな事はあるまい。
軽く自嘲して地面に手をつき立ち上がっろうとしたとき、違和感に気付いた。
口では言い表せない、普段暮らしているときとは全く違う筋肉の動かし方というか、…何よりもまず、裸であることに気付くべきだったのだが。
そして、混乱しながらも気付いてしまった。
蒼い鱗によって、全身をきめ細かに敷き詰められているのだ。
得体の知れない恐怖におののいて後ろを振り向くと、背中には蝙蝠のような薄蒼色の、膜状の翼が立派に生えている。
恐る恐る手を見た。
ゴツゴツした人間離れした蒼い手、そして5本の指の先から伸びる鉤爪が目に入った。
白く輝くそれを見て怖くなった。
自分のものなのに、それによって自分が傷つけられるのではないかと恐怖した。
そう思った理由は分からない。いずれにせよ、かなり混乱していたのだ。
恐怖、不安、困惑、それらが入り交じって息苦しくなった。
とうとう、その場に四つん這いの状態で崩れ落ちた。
自分の感情ですら何か分からなくなって、前脚の鉤爪で地面の岩をガリガリと削った。
容易く、見事に岩は削られてしまう。
凶器を常に身につけている状態で精神が安定することはないだろう……
グルァァッ…!
うわぁぁ、と叫んだつもりが、それはけだものの咆哮となって口から発せられた。
これは幻だ、夢だ!
そう言い聞かせようとしても、二股に分かれた舌は言葉を発しようとしなかった。
全てがグルァッグルァッという声でしか発せられない。
鉤爪で左の手の甲を引っ掻いてみたが、痛い。
だが、血はほんの少ししか出ない。
こんなに立派な鉤爪なのに、この鱗はそれをも守ってみせた。何もかもが恐ろしい。
立ち上がろうにも、二足よりも四足の方が躯が安定してしまっていた。
少し歩いてみると、ほんの一瞬、何故これまで二足歩行していたのか疑問に思ってしまった。
もう既に、人間であったことが失われ始めていたのに気付いた。
間違いなく夢ではないのだ、これは現実なのだと痛感させられた。
何度か明晰夢は見たことがあるが、いつも夢の中はふわふわした浮遊感があった。
こんなにも五感がハッキリした夢を見たことは無い。
何で、竜になってしまったんだ……
……
仕方がない。
致し方ない。
どうしようもない。
そんな言葉を連ねても自分の心が落ち着く気配はない。
言葉遊びなんてどうでもいい、とにかく洞窟から出ることにした。
もしもタイムスリップでもして恐竜の居る時代にでも迷い込んだのならば、この姿は人間の姿で居るより便利だろう。
そんなこじつけのポジティブを胸に秘めて、ドシッドシッと地を踏みならして、出口へと向かった。
あぁ……
綺麗だ、と思う反面、一種の絶望も含まれていた。
緑が溢れる森のその向こうには、つい昨日まで人間として住んでいた町が広がっていたのだ。
その平凡に過ごしていた頃の記憶が右から左へと流れていく。
人間に戻りたいと強く思った。だが、それは叶わぬ願い…。
何故こんな姿に…
誰がこんなむごいことを…
今まで何一つとして悪行を働いたことはないし、虫一匹も殺せないような小心者だったし、…これといった心当たりがない。
勿論人間だから一つや二つ、いや、それ以上の過ちは犯しているだろう。
そう思ったが、それらは何か重大な、人であることを捨てなければならないような罰に値するとは到底考えにくい。
いつ、自分は神を怒らせてしまったのだろうか?
……考えても、答えは分からない。
グギュルルゥゥ……
頭を使いすぎたのか、腹の音が鳴った。
少し人間的な所もあるのだな、と思っていた矢先、得体の知れない恐怖に襲われた。
何を食べればいいのだろう…
試しに近くに生えていた木の葉を数枚口に含んだが、噛むまでもなく吐き出した。
次に木の実だ。これまた隣の木になっていた小さな木の実を口に入れたが、小さすぎて味も分からないし、満腹感はこれっぽっちも無かった。
やはり肉か、そりゃ当たり前だ。
……勝手な自問自答をしても逃げられない現実に、虚無感しか感じられなかった。
近くに動物でも通れば……と思ったが、この森には動物が居ないというのは有名な話だった。
あそこに見える町に住んでいれば、誰もが知っている話だ。
他の所に行こう、そうすれば……
そう考えている中、一人の若い男が草むらを通りかかるのが目に入ってしまった。
その姿を見た時、突如、自分の躯は制御できなくなった。
とてつもなく強くて黒くて禍々しい力が、竜となりし心の奥底から湧き出て疼く。
意識はハッキリしているものの、躯は自分のものでなくなったような感覚に呆然としていた。
呆然としている間にも、地面をダダダダと力強く蹴って猛スピードで駆けていくのを感じ取れた。
慌てて「止まれ」と念じても、その感情は全くの無意味だった。
竜という恐ろしき姿に気付いたのか、若者は焦って転けそうになりながらも、走り出した。
逃げ切ってくれ、そんな願いはいとも簡単に打ち破られた。
若者は走り出してからたった三歩行ったところで、自分の手中でもがいていた。
哀れにも恐怖で顔が歪んでいるのを見て、心がちくちくと痛んだ。
だが既に自分の躯はジュルリと舌なめずりをしていて、それからぐばぁっと口が開いていた。
自分は思いっきり抵抗した。
手の力が抜けるように、開いた口を閉じるように、でも、いくら抗っても無理だ、無駄だ、きっと誰かが縛られた自分の心を覗いて嗤っているのだろう?
バクンッ
少し塩味の効いた肉、いや、早く吐き出せ!吐き出せ……
……正直に言うと、旨かった。
このまま味わい尽くしたいという気持ちも否定できない。
いや、そんな筈はない、何度も言い聞かせたが、舌が口内をごろごろと転がす度に、顔が綻んでしまう。
これが竜の心としての感情だと思いたかった、竜の本能がそうさせているのだと。
仕方がない、ひとまず自分は竜であるとして、その味を貪った。
旨いと感じてしまうものは仕方がない。
そう思ってしまった自分の狡猾さに嫌気がさした。
だが、その若者は美味しかった。
やめてくれ…うわぁぁ〜!
何となくそう聞こえたかと思うと、牙と牙を噛み合わせていた。
柔らかいクッションのような肉に、そこから溢れ出る温かい鉄のような味、そして途切れる叫び声…
その刹那、快楽に溺れそうな微睡みが消え去った。
今、自分は何をした?
自問するまでもなかった。
ヒトヲ…コロシタ…
ウワアァァっ
自分でないにしろ、もう一つの自分が殺したのだ。
けだものの恐ろしき、おぞましき心が!
こんな愚かなけだものの姿はもう厭だ、早く誰か元に戻してくれ!
自分の心の中で涙を流して乞い願った。
ゴクリ…
そんな願いは誰にも届かず、ついにはその人間を呑み込んでしまった。
喉越しは、それはそれは気持ちの良いものだった。
人間の嚥下とは違い、何よりも獲物が食道を無理矢理広げて滑っていくのが、人間にはない心地よさを生み出しているらしかった。
悔しい、感情はただその一言に集約された。
何故自分が人を殺さねばならないのか、人間が目の前で死んでいくのを止められないもどかしさ、それらは自分の胸を精根尽きるまで締め付けた。
とうとう獲物が胃に入り、獲物の温もりを感じつつ、いつの間にか腹を手でさすっていた。
どんな黒い顔をして撫でていたのだろうと考えただけでもぞっとした。
だけど、心地良かった。
命を喰らう、それはおぞましくも、気分を高揚させるものだった。
しばらくすると、人間だった肉の塊がジュワーっと溶けていく音がした。
何かは分からないが、躯の隅々まで力の源が沁み渡った心地がした。
これが、命を喰らうという事なのか?
もし自分が溶かされる側ならば、どれほど気が楽だったか。
死にたいわけではない、ただ、生きることよりも死んでいることの方が楽であるのは確かだと、実感していたからだ。
獲物はもう死んでしまって動かない。
恐ろしい満足感に包まれていた中、突如として自分の躯が戻ってきた。
一瞬は吐き出そうとしたものの、「もう無駄だ」と唸る声が聞こえた気がした。
否定したかったが、確かにそうだ。
自分がついさっきその尊き命を奪ったのだ。
蘇生術など有り得ない。いや、もしもこの世界の何処かで有り得たとしても、自分にはそんな親切な能力は無いだろう。
神は自分の哀れな姿をケラケラと嗤うために、こんな醜い姿にしたのだから。
本能の赴くままならば、きっとこれから先、欲望のままに人間を食らいつきながら幸せに暮らせるのだろう、と思った。
だけど自分は人間だ、人間なんだ。
ニン……ゲン……
ぽろりと懐かしい響きが聞こえた。そのとき、頭に閃光が走った。
そうだ、人間であった証を残せばいい、せめて人間の言葉を話すことはしておきたい。
竜のままでいなければならないならば……いや、自分は人間だ、竜の姿をした人間なんだ、人間と何ら変わりは無いんだ、けだものはそう信じようとした。
だが、また一人、運悪くすぐ近くを人間が通りかかった。
今度はさっきのように竜の心は現れなかった。
いや、現れてはいたが、「お前自身で食ってみろ」と、そう竜の心が言っている気がした。
もう人間を殺したくない、だけど、
マダ……クイタリナイ……
ふと気がつくと、自分の口の周りにま新しい血がついていた。
口の中はさっき“竜”が味わったものとは全く別の血の味がしていた。
ゴチソウ…サマ…
ジュルリと口の周りの鮮やかな血を舐めとった。
美味しい、また喰いたい。
頬に一筋の涙が伝った。
それ以降の悪行は、話さずとも分かるだろう。
“自分”の行為だとしても、それが終わらない現実逃避だとしても、思い出したくないからだ。
なんとか一年で人語を操ることは上達して、カタコトならば話すことは出来るようになった。
だが、それ以上うまく話すことはできなかった。
舌の構造上出来ないのだろう、二股に分かれた舌を恨んでいる。
依然として竜の心は自分の心の中に現れる。
だが、昔のようにひどく排斥することはなくなった。
友だった人間を喰い殺したときは除いてだが。
もう一つの選択肢を選ぶことは、自分にはできなかった。
死ねば楽になる、何度も思ったが、ただ単に死ぬのが怖かった。
こんな巨躯を持つ竜であっても、自ら死ぬ勇気は持ち合わせていない。
生き物とはそういうものなのだろう、死ぬ恐怖から逃れるために、他の命を奪ってまで死から逃げることしかできない存在のなのだろう。
だけど、そんな不条理なシステムの全てが憎らしかった。
そんなシステムごと何もかも壊してやりたい、と投げやりな気持ちに何度もなった。
命という遣る瀬無い存在に、終止符を打ってやろうと……
だが、きっと、受け入れなければならないのだ。
天の気まぐれを、誰から笑われても、誰からも信じられなくとも、与えられた苦境に、おとなしく従って……
数年この姿で暮らしてきた自分は、そう悟った。いや、悟らねばならなかった。
ダケド……
人間の心は叫ばずにはいられなかった。
誰もいない森に、嘆きの咆哮は虚しく駆け抜けていった。
15/03/24 00:21更新 / 長引