第二話:お掃除(後編)
* * *
早く終わらそうと意気込んだものの、再開後はすぐにやる気も下がっていった。終わり
の見えない単純作業には気が滅入ってくるし、力を入れてごしごし擦っていると手も疲れて
くる。無意識に手だけが動いているような感じだ。
「あー、やだ。もう、やってらんない。疲れたぁ……」
せっせと手を動かしながら、オルガに聞こえないように呟く。あたしは、本当に焦った
り鬱憤が溜まってたりすると、言っても仕方ない独り言をついブツブツと口にしてしまう。
今のもそういう類のものだ。体の中に溜めこんだ苛々を何らかの形で外に出さないと、と
てもじゃないけど耐えられない。
とは言え、相当な時間を掛けて、残り半分くらいにはなった。いや、まだ半分か。ええ
い、物は言い様だ。とにかく始めと比べればかなり進んでいる。もう一頑張りだ。
「ねぇ、もう少し早くできないかな」
……折角自分を奮い立たせたのに、オルガの余計な一言で一気に萎える。
「あのさぁ、真面目にやってるんだから、水差すようなこと言わないでくんない?」
「そうは言っても、このペースだと日が暮れちゃうよ。顎も疲れてきたし、お腹だって空
いてる」
その時、間抜けな調子の低い音が、下の方で鳴った。オルガの腹の音だ。自分の意志で
どうこう出来るものじゃないけど、急かされているようで気に障る。あたしだって空いて
るんだよ!
「だったら、あんたが自分で磨けばいいじゃん。その方が断然早く終わるよ。ちまっこい
あたしだから時間がかかるんだし。不便な思いをしてまで、あたしにこんなことやらせる
必要ないでしょ」
あたしはここぞとばかりにそう提案した。だって、そうだろう。このままあたしが長い
作業を続けたところで、お互い何の得もない。
「うーん、それもそうだね」
オルガは少し考えた後、あたしを口から取り出す。やれやれ、やっと解放される。そう
思ってホッと一息吐いた。
すると、どういう訳かオルガがあたしの体を軽く握った。首から上が拳の外に出ている
という格好だ。
「何するの?」
「何って、自分で牙を磨くんだよ。君の意見に従ってさ」
「牙を磨くのにあたしは関係ないじゃん。離してよ」
「何言ってるの。関係大ありだよ」
オルガはあたしの顔を牙の目の前に持っていく。まだ磨いてない、汚い牙だ。嫌な予感
を覚えて、確認のために口を開く。
「あの、さぁ。もしかして……あたしで*≠アうとしてない?」
「言っておくけど、君に牙を磨かせているのは、口答えへの罰でもあるんだよ。お腹が空
いたなんていう理由で免じてやるほど、俺は甘くない」
オルガはあたしを更に牙に近づける。舌をチロッと出せば牙に届いてしまいそうなほど
の近さだ。
「幸い、君の首から上は細長い造りになってるからね。隙間もしっかり磨けて便利だ」
「嫌、やだっ、やめてっ!」
オルガの手に掴まれているあたしは、唯一自由になっている頭を横にぶんぶんと振って
抵抗した。いくらなんでもそんな乱暴な扱いは受けたくない。
だけどオルガは一切気にすることなく、あたしの顔を牙に押し付けた。
「いやあぁぁぁぁぁ!!」
あたしの視点が全く定まらないほどに、オルガはぐいぐいと力任せに牙の表面で上下さ
せる。お蔭で歯垢はごっそり取れ、顔にへばり付いた。目に入るといけないので目を固く
閉じる。口もがっちりと閉じた。顔の左半分が歯垢でいっぱいになると、次は右半分、そ
の次は首から下顎の裏にかけての部分を使って磨く。そうしてあたしの首から上が歯垢に
埋もれると、一旦口から外に出して、反対の手でちょいちょいと歯垢を落としてから、も
う一度口の中へ戻される。その繰り返しだった。
牙と牙の隙間は、あたしの上顎と下顎を二本の指で挟み、鼻先からあたしの頭を突っ込
んで汚れを掻き出した。そこから顔が出ると、鼻の頭に何とも説明しにくい気味の悪い色を
した塊がくっ付いていた。それが魚の肉なのか、木の実の果肉なのか、判別がつかない。
ただ分かるのは口に入れられて相当経っていることだけだ。
(う゛うぅぅぅ、臭いぃぃっ!!)
口を開けないせいで鼻から息をするしかなく、その汚物の悪臭をモロに嗅ぐ破目になっ
た。鼻に沁みる臭いに、自然と涙が滲んで仕方がない。
お構いなしにオルガは牙を磨き続ける。手に持っているのがあたしだということを忘れ
ているんじゃないかと言うくらい、ぐいぐいごしごしとそれはもう熱心に磨いている。こ
こまで物みたいな扱いをされると、あたし自身、そういうものだという気がしてきた。そ
の後は自分がちゃんとした一匹の生き物だという感覚さえ薄れて、ただされるがままだっ
た。
* * *
牙磨きは、オルガに替わった途端、あっという間に終わってしまった。ただ、そのあっ
という間があたしにとってとても長く感じたことは言うまでもない。今度こそ出られる、
と身も心もへとへとだったあたしをオルガは地面に放ると、口の中をゆすぎ始める。その
水は勿論、水タイプのオルガの体内が出処だ。ぐちゅぐちゅと長いこと口の中で水を掻き回
した後、それをわざわざあたしの頭上に吐き出した。オルガの大口いっぱいの水となると
かなりの量で、あたしの小さい体に滝のように打ち付ける。水は温かった。
「いやぁ、ご苦労様。生きるためとはいえ、君も必死だねぇ」
オルガはあたしのことを労いつつ、蔑む。自分は口の中がすっきりしたからいいだろう
けど、こっちはベトベトのぬるぬるで、全身垢塗れだ。特に鼻の辺りには強烈な臭いが纏
わりついている。凄く惨めになった。こんなに酷い扱い、そうそう無い。
「……あんたって、本っっっ当に最低」
腹の底からの低い声で呟く。どんなに言葉を尽くした所で、この憎い気持ちは伝わらな
い。だから、その一言にありったけの不快感を詰め込んだ。
するとオルガは憐れむような目であたしを見る。
「俺の言いなりになるのが嫌なら、俺を倒せばいい。ほら、勝負だ」
オルガはあたしの前に左手の指を一本差し出した。明らかに馬鹿にしている。それでも、
傷の一つでもつけてやろうとオルガの指に齧り付いた。口を目いっぱいに開いて、牙を突
き刺してやろうとする。でも、なかなかそうはいかない。オルガの皮膚は硬くて厚ぼった
く、あたしの牙はこれでもかというほど通らない。更に力を入れるけど、いい加減顎が外
れてしまいそうだった。歯茎もじわじわ痛くなってきた。下手に指を動かされたら牙が持
って行かれるだろう。
とうとう耐え切れなくなってあたしは口を離す。噛む力は殆ど残っていない。この後の
飯はちゃんと食べられるだろうか。
「もう降参? 全然痛くなかったんだけど」
荒い呼吸をするあたしに、笑い交じりの声が降りかかる。頑張りも空しく、オルガは涼
しい顔をしていた。噛みついた部分には牙の薄らとした跡が残っているだけで、こんな程
度じゃ痛みなんて感じるはずもなかった。
「ここまで非力だと悲しくなるなぁ」
そう言って、あたしの腹をピンと弾く。それだけであたしの体は後ろへ引っくり返った。
お腹が痛い。一生懸命攻撃しても何にもダメージを与えられないあたしに対して、この差
だ。
「せめて君が普通の大きさだったら、まだマシなんだろうけど。――いや、そうだったら
そもそも俺なんかに捕まることもなかったか。まあこれも運命だと思って、受け入れるしか
ないね」
調子に乗ったオルガが無遠慮なことを言う。胸元を抉られるような心地がした。オルガの
言うことはその通りだ。あたしがこんな小さな姿に生まれてこなきゃ、こんな思いをせず
に生きてこられたはずだ。だけど、それでもあたしは何とかやってきた。危険で大変な毎
日だけど、小さくても生きる希望を見つけながら暮らしてきた。
それなのに、一方的に自由を奪って、どうにもならないほどの力の差を見せつけて、あ
まつさえあたしを馬鹿にして憐れむ。暇潰し程度の目的で、あたしの努力を全部否定する
オルガが許せなかった。
「馬鹿にしないでよ」あたしはポツリと零す。「あんたにとっちゃ、あたしは簡単に捻り
潰せちゃうひ弱な奴かもしれないけどさ……それでも死にたくないから、毎日体を張って、
不味い飯食って、嫌な思いもしながら生きてるんだよ。あんたはふざけてるつもりでも、
こっちは必死なんだ」
にやにやしていたオルガは、あたしの訴えを聞いて真顔になる。顔の位置は殆ど動かさ
ずにあたしを見下ろしているので、いつもの三白眼が更にきつい。どす黒く光る黄色の中
にポツリと浮かぶ細長い瞳が、ただあたしだけを捉えている。全身が震え上がるほど怖い。
「――で?」オルガの発した一つの音が、あたしの次の言葉を封じ込める。「だから俺に
どうしろっていうの。優しくしてあげればいいの?」
オルガは優しく≠フ部分をやたら嫌味っぽく強調した。
「あんたにそんなこと期待してない」その嫌味を振り払うように、あたしはきっぱりと言
い切る。「ただ……せめて、あたしを一匹のポケモンとしてちゃんと見てよ。今日みたい
な目に合うのはもう御免なんだ」
「何だ、この期に及んでまだ俺に刃向かおうっていうわけ?」
呆れた様子でオルガが言う。
「そうじゃない」あたしは強く反論した。「力じゃあんたに到底適わないことは分かって
る。あんたのお蔭で、一応は安全な暮らしができてることも分かってる。だから、不本意
ではあるけど、あんたに尽くさなきゃいけないとは思う。本当に不本意だけど。でも、冗
談でも死ぬほど怖い思いをさせられたり、あんまり乱暴に扱われたりするとさぁ……。毎
日そんなことに耐えられるほど、あたしは強くないんだ。」
最初は声を張り上げていたものの、途中で段々萎んでいき、震えてきた。今まで抱え込
んできた辛さを改めて口にしてみると、どうしようもなく感情が高ぶってくる。
「それ以外だったら、どんなに嫌でもあんたの言う通りにするから。少しはあたしのこと
を思いやってよ……お願い……」
とうとう涙が出てきてしまった。ぽろぽろと止まらなくて、仕方なく汚れた手で拭う。
こんなこと言ったって、こうして泣いてみたところで、オルガが同情してくれるとも思え
ない。同情してもらいたくもない。こんな奴に弱いところを見せたくなんかない。
それなのに、毅然として奴に立ち向かえないあたしの弱さが嫌だ。「体が小さいから」
「雌だから」「捨て子だから」――そんな理由で舐められたくなくって、雄のように荒い
言葉遣いをしたり、意地を張ったりしてきた。でも、最後には辛くて泣き出してしまう。本
当に情けない。
オルガは暫く何も言わなかった。あたしは泣き顔を見られたくなくて、ずっと俯きなが
ら顔を押さえていた。しゃくり上げながらも、オルガが今どんな表情をしているのかが気に
なる。強気なあたしが泣いているのを見て満足げに笑っているのか。それとも、女々しい
あたしの様子に、面倒臭そうに顔を歪めているのか。その答えを確認する余裕も勇気もあ
たしには無かった。
長いこと咽んで、心が段々落ち着いてきた。と同時に、この後どうしようという気持ちに
駆られる。言いたいことを言って、挙げ句に泣いているところをばっちり見られているん
だから、決まり悪いったらない。お喋りなオルガがさっきから黙ったままなのも、嫌に不
気味だ。
すると、ひょいとあたしの体は持ち上げられた。視線の先で、胡坐を掻いていたオルガ
の足が立ち上がる。そのままずんずんと歩き出した。行く先は住処の外だ。
外に出ると一瞬日の光で眩しく感じた。太陽が丁度空の天辺に浮かんでいる。オルガ
は何も言わずに真っ直ぐ近くの小川に向かい、縁にしゃがみ込む。そこはあたしがいつも
体を洗う場所だった。
「体が汚れてるから、洗ってあげる」
久しぶりに聞いたオルガの声は、陽気でもなく、不機嫌そうでもなく、かと言って優し
いものでもなかった。あまり抑揚のない、なるべく感情を抑えたような落ち着いた声。
体を洗うと聞いて、昨日の晩のことを思い出したあたしは身構える。だけどオルガは、
あたしのことをそっと地面に降ろすと、手で水を掬って、あたしの頭からちょろちょろと
丁寧に流した。きょとんとしているあたしを余所に、オルガはあと数回水を掛け、体中の
歯垢を手で取り除く。仕上げにもう一回水を掛けるオルガを、あたしは不思議な気持ちで
見上げていた。どういう風の吹き回しだろう。
「誤解しないでね。君の言うことを聴いてやったわけじゃない」オルガが不意に口を開く。
「ただ、懇ろに扱ってやるだけの価値を君に見出したっていうだけだ」
オルガはそう言うと、あー汚いと呟きながら川の水で自分の手を洗った。汚いって、そ
れをお前の歯垢だろうが。
それにしても、懇ろに扱ってやるだけの価値≠チて何だろう。上からの物言いがムカ
つくけど、言われたからには気になる。ただ、それを自分で訊くのも少し恥ずかしい。
「――ということで、君とは長〜いお付き合いになりそうだ。これからもよろしくね」
そこで漸くいつもの口調に戻り、オルガは一人でずんずんと住処へ戻っていった。
長い付き合い……っていうことは、あたしの命は保証されたということでいいんだろう
か。こいつとの付き合いが長くなるというのは、複雑な気分になるけど。まあ、とりあえ
ず、オルガの気分次第で殺されかねない状況からは脱したということだ。今の今まで張り
つめていたものからはスッと解放された気がした。
それにしても、オルガがあたしの体をあんなに丁寧に洗うなんて。俄かには信じられな
いけど、本当に起こったことだ。いつもはあんなに性格が悪い癖に、さっきだけは別人の
ようだった。
オルガに飼われ始めてから結構経つけど、未だにあいつのことがよく分からない。弱い
者苛めが好きなのは根っからの性分なのかもしれないけど。ただ、初めて出遭った時に見
せたあの怪け物じみた雰囲気、はたまたさっきの不思議なもの静かさ――もしかしたら、
こっちに本性があるんじゃないかと疑ってしまう。
そんな得体の知れない奴の許にいるのは不安だけど、今のところ逃げ出そうという気は
無い。喰われる恐れが(多分)無くなった今、下手なことをするよりかは大人しくしていた
方がまだ安全だ。
そんな訳で、空腹を満たすためにあたしは住処へと歩き出す。勿論、昼飯も咀嚼飯だろ
う。またあの不味くて臭くて汚い飯を食べると思うとそれだけで全身の力が抜けるけど、
それでも今の命を繋ぐためには必要な食糧だ。いつか自由を手に入れて、まともな飯を食え
る日がきっと来るはず。その日までは、逞しく生きていこう。
【第二話・完】
早く終わらそうと意気込んだものの、再開後はすぐにやる気も下がっていった。終わり
の見えない単純作業には気が滅入ってくるし、力を入れてごしごし擦っていると手も疲れて
くる。無意識に手だけが動いているような感じだ。
「あー、やだ。もう、やってらんない。疲れたぁ……」
せっせと手を動かしながら、オルガに聞こえないように呟く。あたしは、本当に焦った
り鬱憤が溜まってたりすると、言っても仕方ない独り言をついブツブツと口にしてしまう。
今のもそういう類のものだ。体の中に溜めこんだ苛々を何らかの形で外に出さないと、と
てもじゃないけど耐えられない。
とは言え、相当な時間を掛けて、残り半分くらいにはなった。いや、まだ半分か。ええ
い、物は言い様だ。とにかく始めと比べればかなり進んでいる。もう一頑張りだ。
「ねぇ、もう少し早くできないかな」
……折角自分を奮い立たせたのに、オルガの余計な一言で一気に萎える。
「あのさぁ、真面目にやってるんだから、水差すようなこと言わないでくんない?」
「そうは言っても、このペースだと日が暮れちゃうよ。顎も疲れてきたし、お腹だって空
いてる」
その時、間抜けな調子の低い音が、下の方で鳴った。オルガの腹の音だ。自分の意志で
どうこう出来るものじゃないけど、急かされているようで気に障る。あたしだって空いて
るんだよ!
「だったら、あんたが自分で磨けばいいじゃん。その方が断然早く終わるよ。ちまっこい
あたしだから時間がかかるんだし。不便な思いをしてまで、あたしにこんなことやらせる
必要ないでしょ」
あたしはここぞとばかりにそう提案した。だって、そうだろう。このままあたしが長い
作業を続けたところで、お互い何の得もない。
「うーん、それもそうだね」
オルガは少し考えた後、あたしを口から取り出す。やれやれ、やっと解放される。そう
思ってホッと一息吐いた。
すると、どういう訳かオルガがあたしの体を軽く握った。首から上が拳の外に出ている
という格好だ。
「何するの?」
「何って、自分で牙を磨くんだよ。君の意見に従ってさ」
「牙を磨くのにあたしは関係ないじゃん。離してよ」
「何言ってるの。関係大ありだよ」
オルガはあたしの顔を牙の目の前に持っていく。まだ磨いてない、汚い牙だ。嫌な予感
を覚えて、確認のために口を開く。
「あの、さぁ。もしかして……あたしで*≠アうとしてない?」
「言っておくけど、君に牙を磨かせているのは、口答えへの罰でもあるんだよ。お腹が空
いたなんていう理由で免じてやるほど、俺は甘くない」
オルガはあたしを更に牙に近づける。舌をチロッと出せば牙に届いてしまいそうなほど
の近さだ。
「幸い、君の首から上は細長い造りになってるからね。隙間もしっかり磨けて便利だ」
「嫌、やだっ、やめてっ!」
オルガの手に掴まれているあたしは、唯一自由になっている頭を横にぶんぶんと振って
抵抗した。いくらなんでもそんな乱暴な扱いは受けたくない。
だけどオルガは一切気にすることなく、あたしの顔を牙に押し付けた。
「いやあぁぁぁぁぁ!!」
あたしの視点が全く定まらないほどに、オルガはぐいぐいと力任せに牙の表面で上下さ
せる。お蔭で歯垢はごっそり取れ、顔にへばり付いた。目に入るといけないので目を固く
閉じる。口もがっちりと閉じた。顔の左半分が歯垢でいっぱいになると、次は右半分、そ
の次は首から下顎の裏にかけての部分を使って磨く。そうしてあたしの首から上が歯垢に
埋もれると、一旦口から外に出して、反対の手でちょいちょいと歯垢を落としてから、も
う一度口の中へ戻される。その繰り返しだった。
牙と牙の隙間は、あたしの上顎と下顎を二本の指で挟み、鼻先からあたしの頭を突っ込
んで汚れを掻き出した。そこから顔が出ると、鼻の頭に何とも説明しにくい気味の悪い色を
した塊がくっ付いていた。それが魚の肉なのか、木の実の果肉なのか、判別がつかない。
ただ分かるのは口に入れられて相当経っていることだけだ。
(う゛うぅぅぅ、臭いぃぃっ!!)
口を開けないせいで鼻から息をするしかなく、その汚物の悪臭をモロに嗅ぐ破目になっ
た。鼻に沁みる臭いに、自然と涙が滲んで仕方がない。
お構いなしにオルガは牙を磨き続ける。手に持っているのがあたしだということを忘れ
ているんじゃないかと言うくらい、ぐいぐいごしごしとそれはもう熱心に磨いている。こ
こまで物みたいな扱いをされると、あたし自身、そういうものだという気がしてきた。そ
の後は自分がちゃんとした一匹の生き物だという感覚さえ薄れて、ただされるがままだっ
た。
* * *
牙磨きは、オルガに替わった途端、あっという間に終わってしまった。ただ、そのあっ
という間があたしにとってとても長く感じたことは言うまでもない。今度こそ出られる、
と身も心もへとへとだったあたしをオルガは地面に放ると、口の中をゆすぎ始める。その
水は勿論、水タイプのオルガの体内が出処だ。ぐちゅぐちゅと長いこと口の中で水を掻き回
した後、それをわざわざあたしの頭上に吐き出した。オルガの大口いっぱいの水となると
かなりの量で、あたしの小さい体に滝のように打ち付ける。水は温かった。
「いやぁ、ご苦労様。生きるためとはいえ、君も必死だねぇ」
オルガはあたしのことを労いつつ、蔑む。自分は口の中がすっきりしたからいいだろう
けど、こっちはベトベトのぬるぬるで、全身垢塗れだ。特に鼻の辺りには強烈な臭いが纏
わりついている。凄く惨めになった。こんなに酷い扱い、そうそう無い。
「……あんたって、本っっっ当に最低」
腹の底からの低い声で呟く。どんなに言葉を尽くした所で、この憎い気持ちは伝わらな
い。だから、その一言にありったけの不快感を詰め込んだ。
するとオルガは憐れむような目であたしを見る。
「俺の言いなりになるのが嫌なら、俺を倒せばいい。ほら、勝負だ」
オルガはあたしの前に左手の指を一本差し出した。明らかに馬鹿にしている。それでも、
傷の一つでもつけてやろうとオルガの指に齧り付いた。口を目いっぱいに開いて、牙を突
き刺してやろうとする。でも、なかなかそうはいかない。オルガの皮膚は硬くて厚ぼった
く、あたしの牙はこれでもかというほど通らない。更に力を入れるけど、いい加減顎が外
れてしまいそうだった。歯茎もじわじわ痛くなってきた。下手に指を動かされたら牙が持
って行かれるだろう。
とうとう耐え切れなくなってあたしは口を離す。噛む力は殆ど残っていない。この後の
飯はちゃんと食べられるだろうか。
「もう降参? 全然痛くなかったんだけど」
荒い呼吸をするあたしに、笑い交じりの声が降りかかる。頑張りも空しく、オルガは涼
しい顔をしていた。噛みついた部分には牙の薄らとした跡が残っているだけで、こんな程
度じゃ痛みなんて感じるはずもなかった。
「ここまで非力だと悲しくなるなぁ」
そう言って、あたしの腹をピンと弾く。それだけであたしの体は後ろへ引っくり返った。
お腹が痛い。一生懸命攻撃しても何にもダメージを与えられないあたしに対して、この差
だ。
「せめて君が普通の大きさだったら、まだマシなんだろうけど。――いや、そうだったら
そもそも俺なんかに捕まることもなかったか。まあこれも運命だと思って、受け入れるしか
ないね」
調子に乗ったオルガが無遠慮なことを言う。胸元を抉られるような心地がした。オルガの
言うことはその通りだ。あたしがこんな小さな姿に生まれてこなきゃ、こんな思いをせず
に生きてこられたはずだ。だけど、それでもあたしは何とかやってきた。危険で大変な毎
日だけど、小さくても生きる希望を見つけながら暮らしてきた。
それなのに、一方的に自由を奪って、どうにもならないほどの力の差を見せつけて、あ
まつさえあたしを馬鹿にして憐れむ。暇潰し程度の目的で、あたしの努力を全部否定する
オルガが許せなかった。
「馬鹿にしないでよ」あたしはポツリと零す。「あんたにとっちゃ、あたしは簡単に捻り
潰せちゃうひ弱な奴かもしれないけどさ……それでも死にたくないから、毎日体を張って、
不味い飯食って、嫌な思いもしながら生きてるんだよ。あんたはふざけてるつもりでも、
こっちは必死なんだ」
にやにやしていたオルガは、あたしの訴えを聞いて真顔になる。顔の位置は殆ど動かさ
ずにあたしを見下ろしているので、いつもの三白眼が更にきつい。どす黒く光る黄色の中
にポツリと浮かぶ細長い瞳が、ただあたしだけを捉えている。全身が震え上がるほど怖い。
「――で?」オルガの発した一つの音が、あたしの次の言葉を封じ込める。「だから俺に
どうしろっていうの。優しくしてあげればいいの?」
オルガは優しく≠フ部分をやたら嫌味っぽく強調した。
「あんたにそんなこと期待してない」その嫌味を振り払うように、あたしはきっぱりと言
い切る。「ただ……せめて、あたしを一匹のポケモンとしてちゃんと見てよ。今日みたい
な目に合うのはもう御免なんだ」
「何だ、この期に及んでまだ俺に刃向かおうっていうわけ?」
呆れた様子でオルガが言う。
「そうじゃない」あたしは強く反論した。「力じゃあんたに到底適わないことは分かって
る。あんたのお蔭で、一応は安全な暮らしができてることも分かってる。だから、不本意
ではあるけど、あんたに尽くさなきゃいけないとは思う。本当に不本意だけど。でも、冗
談でも死ぬほど怖い思いをさせられたり、あんまり乱暴に扱われたりするとさぁ……。毎
日そんなことに耐えられるほど、あたしは強くないんだ。」
最初は声を張り上げていたものの、途中で段々萎んでいき、震えてきた。今まで抱え込
んできた辛さを改めて口にしてみると、どうしようもなく感情が高ぶってくる。
「それ以外だったら、どんなに嫌でもあんたの言う通りにするから。少しはあたしのこと
を思いやってよ……お願い……」
とうとう涙が出てきてしまった。ぽろぽろと止まらなくて、仕方なく汚れた手で拭う。
こんなこと言ったって、こうして泣いてみたところで、オルガが同情してくれるとも思え
ない。同情してもらいたくもない。こんな奴に弱いところを見せたくなんかない。
それなのに、毅然として奴に立ち向かえないあたしの弱さが嫌だ。「体が小さいから」
「雌だから」「捨て子だから」――そんな理由で舐められたくなくって、雄のように荒い
言葉遣いをしたり、意地を張ったりしてきた。でも、最後には辛くて泣き出してしまう。本
当に情けない。
オルガは暫く何も言わなかった。あたしは泣き顔を見られたくなくて、ずっと俯きなが
ら顔を押さえていた。しゃくり上げながらも、オルガが今どんな表情をしているのかが気に
なる。強気なあたしが泣いているのを見て満足げに笑っているのか。それとも、女々しい
あたしの様子に、面倒臭そうに顔を歪めているのか。その答えを確認する余裕も勇気もあ
たしには無かった。
長いこと咽んで、心が段々落ち着いてきた。と同時に、この後どうしようという気持ちに
駆られる。言いたいことを言って、挙げ句に泣いているところをばっちり見られているん
だから、決まり悪いったらない。お喋りなオルガがさっきから黙ったままなのも、嫌に不
気味だ。
すると、ひょいとあたしの体は持ち上げられた。視線の先で、胡坐を掻いていたオルガ
の足が立ち上がる。そのままずんずんと歩き出した。行く先は住処の外だ。
外に出ると一瞬日の光で眩しく感じた。太陽が丁度空の天辺に浮かんでいる。オルガ
は何も言わずに真っ直ぐ近くの小川に向かい、縁にしゃがみ込む。そこはあたしがいつも
体を洗う場所だった。
「体が汚れてるから、洗ってあげる」
久しぶりに聞いたオルガの声は、陽気でもなく、不機嫌そうでもなく、かと言って優し
いものでもなかった。あまり抑揚のない、なるべく感情を抑えたような落ち着いた声。
体を洗うと聞いて、昨日の晩のことを思い出したあたしは身構える。だけどオルガは、
あたしのことをそっと地面に降ろすと、手で水を掬って、あたしの頭からちょろちょろと
丁寧に流した。きょとんとしているあたしを余所に、オルガはあと数回水を掛け、体中の
歯垢を手で取り除く。仕上げにもう一回水を掛けるオルガを、あたしは不思議な気持ちで
見上げていた。どういう風の吹き回しだろう。
「誤解しないでね。君の言うことを聴いてやったわけじゃない」オルガが不意に口を開く。
「ただ、懇ろに扱ってやるだけの価値を君に見出したっていうだけだ」
オルガはそう言うと、あー汚いと呟きながら川の水で自分の手を洗った。汚いって、そ
れをお前の歯垢だろうが。
それにしても、懇ろに扱ってやるだけの価値≠チて何だろう。上からの物言いがムカ
つくけど、言われたからには気になる。ただ、それを自分で訊くのも少し恥ずかしい。
「――ということで、君とは長〜いお付き合いになりそうだ。これからもよろしくね」
そこで漸くいつもの口調に戻り、オルガは一人でずんずんと住処へ戻っていった。
長い付き合い……っていうことは、あたしの命は保証されたということでいいんだろう
か。こいつとの付き合いが長くなるというのは、複雑な気分になるけど。まあ、とりあえ
ず、オルガの気分次第で殺されかねない状況からは脱したということだ。今の今まで張り
つめていたものからはスッと解放された気がした。
それにしても、オルガがあたしの体をあんなに丁寧に洗うなんて。俄かには信じられな
いけど、本当に起こったことだ。いつもはあんなに性格が悪い癖に、さっきだけは別人の
ようだった。
オルガに飼われ始めてから結構経つけど、未だにあいつのことがよく分からない。弱い
者苛めが好きなのは根っからの性分なのかもしれないけど。ただ、初めて出遭った時に見
せたあの怪け物じみた雰囲気、はたまたさっきの不思議なもの静かさ――もしかしたら、
こっちに本性があるんじゃないかと疑ってしまう。
そんな得体の知れない奴の許にいるのは不安だけど、今のところ逃げ出そうという気は
無い。喰われる恐れが(多分)無くなった今、下手なことをするよりかは大人しくしていた
方がまだ安全だ。
そんな訳で、空腹を満たすためにあたしは住処へと歩き出す。勿論、昼飯も咀嚼飯だろ
う。またあの不味くて臭くて汚い飯を食べると思うとそれだけで全身の力が抜けるけど、
それでも今の命を繋ぐためには必要な食糧だ。いつか自由を手に入れて、まともな飯を食え
る日がきっと来るはず。その日までは、逞しく生きていこう。
【第二話・完】
12/01/05 22:24更新 / ROM-Liza