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連載小説
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第二話:お掃除(前編)
【警告:嘔吐表現が前編にありますので、閲覧注意です】

* * *

「も、もう無理……」

 夕飯の最中に、口を片手で押さえながらあたしは呟く。本当に限界まで来ていた。腹の
中に一度入れたものを戻すか戻さないかの瀬戸際だ。誰かが冗談であたしの膨らんだ腹を
突こうものなら、そのまま逆流を止められなくなると思う。
 目の前にはこんもりと盛られた魚の肉片。夜の涼しさの中、ほんわか湯気を立てている。
そして、今あたしの腹の中に入っているのもこれだ。

「だーめ。まだ沢山残ってるじゃないか。ちゃんと食べないと大きくなれないよ」
「……」
 
 どんなに食ったって、これ以上大きくはなんねーよ! ていうか、こんなモンばっか食
ってたら病気になるわ!
 心の中では不満を叫び散らしながら、黙って口の中に次の一口を運ぶ。生温かくて、生
臭くて、ねちょねちょとしたその肉片の不味さに吐きそうになりながら、飲み込めるよう
に何度も噛み締める。オルガに飼われ始めてからというもの、ずっとこんな調子だ。
 本当に、何でこんなことになってしまったんだろう――

 何をどう間違ったか、あたしは手乗りサイズの体に生まれ、両親に捨てられてしまった。
だけど、今までしっかりと生きてきたつもりだ。自分の食べるものは自分で調達して、自
分の身は自分で守る。勿論かなり危険な目にも沢山遭ったけど、誰にも頼ることなく毎日
を必死に過ごしてきた。全ては、あたしを捨てた両親にいつかまた会うためだ。こんなに
可愛い一人娘を捨て去りやがって、文句の一つでも言ってやらないと死んでも死にきれな
い。

 そんなあたしの暮らしが変わったのは、少し前のこと。悪戯なガキ共に岩に縛り付けら
れたあたしは、一匹のグラエナに見つかり、喰われそうになった。もう駄目だと観念した
ところで、あるオーダイルが偶然そこを通りかかる。そいつがオルガだった。大きくて厳
つい体に、逞しい大顎を持つオルガは、グラエナのことをいとも容易くぶちのめした。一
応、オルガはあたしの命の恩人ということになる。
だけどそこからが良くなかった。あたしを見るなり興味を抱いたオルガは、あたしのこ
とを無理矢理自分の住処に持ち帰った。そしてすぐに、あたしはこいつがとんでもない奴
だということを知ることになる。今のこの状況が、こいつの変態さを物語っている。

 あたしが食べさせられているのは、オルガが一度口に入れた魚なのだ。オルガが自分の
食事を堪能した後、あたしにその余り物≠ェ回ってくる。よーく噛み砕かれ、たっぷり
と涎の混ざった汚い肉片。臭いは酷いし、食感はもちゃもちゃとしていて最悪。噛む度に
糸を引く。しかも、これを毎食だ。

 量だって明らかに多すぎる。あたしの小さな体にこの肉片を全部詰め込んだら、腹が破
裂してしまう。オルガもそのことを分かっていてこれだけの量を押し付けているんだろう
けど。
オルガの出す食事≠完食したことは一度だってない。とは言え、あたしの好きなタ
イミングで食事≠終えることはできない。その判断はオルガがすることになっている。
勝手にやめることは許されない。もし刃向かおうものなら――あたし自身がこの肉片のよ
うになりかねないからだ。だから、黙って従うしかない。
オルガを上目遣いでチラリと見る。閉じた口の隙間から涎を漏らしながら、あたしが苦
しむ様をにやにやと眺めている。どうやらまだお許しは出ないらしい。

 とは言っても、限界なものは限界だった。今回はもう耐えられる気がしない。オルガの
許しが出るタイミングは、確実に段々遅くなっている。もっともっと苛めてやろうという
魂胆なのか。それならこっちも意地だ、耐えきってやる。辛そうな顔も泣いている顔も、
結局はこいつを喜ばせてしまうだけなんだから。こいつの遊び道具なんかには成り下がり
たくない。

 そう自分を奮い立たせて、あたしは恐る恐る口を開ける。全身がプルプルと震えている。
本当はこんなもの食いたくない。だけど、涎塗れの飯は時間が経つにつれてもっと不味く
なるし、臭くもなる。さっさと食べてしまうに越したことはない。近づいてくる肉片の悪
臭に吐きそうになりながらも、それを口に押しやった。

 にちゃぁ……
 肉片を噛むと同時に水っぽい音が漏れて、肉片の風味が鼻の奥から漂ってきた。その途
端、あたしの腹の中のものがビクンと急に上へ持ち上げられる感じがした。

「うっ……」

 慌てて両手で口を押える。だけど、もう駄目だった。

「――――うえ゛え゛え゛え゛えぇぇ!!」

 その瞬間あたしは目と口をできる限り開いた。喉の奥から流れてくるものの所為で息が
できず、苦しさに体中がピクピクと引き攣る。どうしようもない気持ち悪さの中、今まで頑
張って食べたものが外へ流れ出る様子が、見ていて酷く虚しかった。


 ようやく逆流が止まった頃には、お腹の中は大分すっきりしていた。それとは逆に気分
は晴れない。咳き込んで、喉に張り付いたものや口内に残ったものを吐き出す。周りには
酸っぱい臭いが立ち込めている。

「あーあ。こんなに吐き出しちゃって、勿体ない」

 オルガはこうなるのを狙っていたかのように笑う。あたしは目に涙を溜めながら、ひた
すら呼吸を確保していた。小馬鹿にされて悔しさが募る。

「食べ物を粗末にするなんて、君は自分の立場がよく分かってないんじゃないかな。いい
? さっき食べた魚は君の代わりに犠牲になったんだよ」

 オルガがまた変な話を始める。とりあえず、食べ物を粗末にしてるのはどっちだとツッ込
んでやりたい。

「だって、いざ魚が獲れなくなったとなると、俺は身近に居る君を食べるしかないでしょ?」

 いや、そこは草の根を齧ってでも逞しく生き延びろよ。そんな簡単にあたしのことを食
べてくれるな。

「だから、君はこの魚に感謝して、残さず食べるのが礼儀ってものだよ。それなのに君と
きたら……」

 出来の悪い子供を憐れむ親のような目で、オルガはあたしを溜息交じりに見つめる。ま
るであたしが悪いみたいだ。ふざけんな。
 そりゃあ、あたしみたいな弱小なポケモンが今日まで生きてこられたのは、他のポケモ
ンや生き物が食べられているからだというのもまあ事実だ。だからその犠牲を無駄にする
ようなことはあってはならないとは思う。
でも、それにしてもオルガの言っていることは理不尽だ。口にするものが涎塗れである
必要はないし、到底食べ切れない量を押し付けられる謂れもない。

 オルガはいつも無茶苦茶なことを言う。加えて説教めいた言い方をするから頭に来る。
あたしのことをどうにでも出来る立場の癖に、あくまでリンのため≠ニいう建前で自分の
変態趣味に無理矢理付き合わせる。きっと本人もそのことは自覚している、というかわざ
となんだろう。どんなに屁理屈を捏ねても、それにあたしが反撃できないのは分かりきっ
ている。タイプの相性も悪ければ、そもそも戦うなんて話にならないくらいの体格差があ
る。何もできないあたしを苛めて、さぞかし愉快に思っているに違いない。

 結局、喉元にまで迫り上げられた全ての不満を呑み込んで、ただ俯くことしかできない。

 こうして食事という一日の一大苦難を終えた。たった一回の食事で身も心もすっかり疲
れ切ってしまった。

「さあ。気を取り直して、食後のお口直しといこうか」

 オルガが陽気に切り出す。咀嚼飯と吐いたもので口の中がとんでもないことになってい
るので、是非ともあたしの好物のモモンの実で口直しをしたいところだ。ただ、この口直
しはあたしのためのものじゃない。
オルガはあたしをひょいと持ち上げると、小さな木の実を食べるような感覚で口に放っ
た。

オルガがあたし≠ナ口直しをするのだ。

* * *

 夜もすっかり更けてきた頃、あたしはオルガの住処の外にいた。すぐ近くの小川で体を
洗うためだ。全身に浴びた涎は放っておくと更に鼻が曲がりそうな臭いを放つので、どれ
ほど疲れ切っていても早めに洗い落としとかなきゃならない。だから、眠い目を手で擦―
―るのは汚いのでパチパチと瞬いて、だるい体を引きずってでもここに来る。

 川の畔に座り込むと、水に両手を突っ込む。とても冷たい。その水で両手を洗う。その後、
左腕を水中に突っ込んで右手でごしごしと擦る。澄んだ綺麗な水を、こんな汚れ落としに
使うのは忍びない。

「とっとと洗っちゃってね。俺眠いんだから」

 後ろで欠伸交じりの声がする。月明かりにぼんやりと照らされた薄暗さの中、空中に黄
色くギラギラ光る鋭い目が浮かんで見える。ぞっとする光景だけど、言うまでもなく正体
はオルガだ。あたしは一瞥もくれずにフンと鼻を鳴らす。どうせあっちにまで聞こえやし
ない。オルガの馬鹿っ、あほっ、くそったれっ!! 大袈裟にバシャバシャ水音を立てて、
奴に聞こえないように悪態をついた。

 奴はあたしが体を洗うとき、住処の出入り口に座り込んでいる。あたしが脱走しないよ
うに監視するためだ。オルガとの距離は、オルガの体長の二倍くらい。どんなに一生懸命
に逃げたところで、オルガの大きな、大きな歩幅ですぐさま追いつかれてしまう。そもそ
も逃げられたくないなら、あたしの体をあいつが洗えばいいのにと思う。でも奴は「何で
もかんでも自由にできなかったら、君だって不満だろ? だから、こういう時くらい君の
好きにさせてやってるんじゃないか」とか、よく分からない心遣いを見せる。そんなこと
言われても、背後から凝視されて気が休まるわけがない。

 はぁ、と溜息を吐く。いつまでこんな生活が続くんだろう。毎日汚くて不味い飯を食わ
され、あいつの口の中で弄ばれて、常にあいつに監視されて……。今まで必死に耐えてき
たけど、こんなことがずっと続くとしたら――そう考えるだけでどっと疲れが増す。いい
加減あいつも飽きないのかな。毎日毎日弱い者苛めして、何が楽しいんだか。
 でも、仮に飽きたとして、あいつはあたしのことを解放してくれるんだろうか。ここ何
日もあいつの酷い扱いを受けてきて、どうもそうは思えない。あたしを怖がらせて喜んで
いるような奴だ、きっと最後にはあたしを恐怖のどん底に陥れるんじゃないか。そう考え
た途端、幾度となく目にしているあいつの牙が頭の中に浮かび、きらりと光った。

「何やってるの?」
「ひぃっ!」

 突然声をかけられて、あたしは心臓が飛び出しそうになった。

「……何もそこまで怯える必要はないでしょ。早くしろって言っているのに、手が止まって
るから様子を見に来たんだよ」
「あ……」

 急に恥ずかしくなって、体が火照り出す。あたしの考えていたことを知る由もないオル
ガからすれば、あの反応は凄く不自然だったに違いない。

「まったく、もう待ってられないね。体洗うの終わりね」
「えっ、でも、まだ洗い残しが……」

 オルガの言葉にあたしは慌てた。まだヌルヌルの残る脇腹や背中が気になる。

「もう、面倒臭いなぁ」

 眠気の所為か苛立った声でそう呟くと、オルガはあたしを鷲掴みにした。そして、その
手を――川の水の中に突っ込んだ。全身に夜の水の冷たさが突き刺さり、眠気が一瞬で吹
っ飛ぶ。オルガはあたしを掴んだままの手を何度か揺らすと、突然その手を水中から引き
上げた。体中から水が滴り落ちる。水をいくらか飲んでしまい、咳き込んだ。

「ほら、綺麗になったでしょ? 帰るよ」

 オルガは手をぶんぶんと振って水気を切ると、住処へと戻っていく。激しく体を揺さぶ
られて頭がくらくらする。
 さっきのは、あたしの体を濯いだみたいだった。あんな乱暴に扱いやがって、あたしの
ことを生き物だと思っているんだろうか。しかも、気になっていた脇腹の方は、まだぬめ
りが残っていた。雑過ぎる。もう最悪。
どうやら、オルガがあたしに体を洗わせていたのは、正しい判断だったみたいだ。

* * *

 次の日の朝も、オルガに舐め回されていた。昨日の洗い残した所はより臭くなっていて、
朝食前に洗ってしまおうかと思ったけど、どうせすぐに涎塗れにされるんだと思うと馬鹿
馬鹿しくなってやめた。その後、やっぱり不味い朝食を終えて、今に至る。

 口内の湿り気とうんざりするような熱気の中、あたしはだらんと俯せになっていた。別
に暢気に寛いでいるわけではなくて、こうすることで余計な体力を使わないようにしてい
るのだ。どうせ敵わないのに抵抗したところで、意味がない。何日もあいつに舐め回され
てきて学んだことだ。食事の度に体力を消耗していたら、到底体がもたない。だからこう
して、舌の動きにされるがまま、終わりの時をぼんやりと待ち続けるに限る。

 そうしていると、変なことに気が付いた。今日はやけに舌の動きが鈍い。いつもなら獲
物に襲いかかるアーボのように暴れ回るくせに、今は暇を持て余して寝転ぶポチエナの尻
尾のようにのったりとした動き方だ。やる気のなさが滲み出ている。

「あのー、そんなにつまらないならさっさと吐き出してくんない? あたしだって、好き
好んでこんな所に居るんじゃないんで」

 苛ついてきたので、俯せのまま外に向けて不満を放つ。それならばと舌を活発に動かさ
れても困るなと、言った傍から後悔する。だけど、オルガの反応は違った。

「ん〜、だって本当につまらないんだから仕方ないじゃないか。舐め回しの醍醐味は、君
が抵抗してくれなきゃ味わえないのに……。何なんだ、その体たらくは!」

 叱られた。何それ、あたしが悪いの?

「何であたしがあんたの望むように振る舞わなきゃいけないんだよ。口に入れられるだけ
でも嫌なのに」
「君を養ってあげてるんだから、それくらいのお礼はしてしかるべきでしょ」

 ――ほう、あれを養っていると言うのか。脅して無理やり一緒に住まわせ、咀嚼済みの
きったない飯を食わせ、その上自由に外に出ることもできない。毎日の暮らしの中身は、
同棲前と比べて格段に酷くなっている。こいつと一緒に居れば他のポケモンに襲われない
し、自分で食べ物を取ってこなくても済むけど(但し、味は最悪)……別に頼んだ覚えは
ない。事実、今までは一人で生きてきたんだから。一方的に押し付けられた偽物の恩に、
報いる義理なんかない。

「だからって何でもあんたの言う通りになると思ったら、大違いだからな! あたしには
あたしの生き方ってもんがあんだよ!」

 心の中に溜めに溜めていた不満をぶちまけてやった。

「へえ。言う通りにならないんだ」オルガが意外そうに呟く。「そしたらもっと嫌な思い
をすることになるのは分かってるでしょ」
「死ななきゃ何だって耐えてやる!」

 オルガの脅しに対して、挑発的に返す。正直こんなに反抗的なことを言うのは、とても
怖い。でも、ここで怯んだらいつもみたいに丸め込まれてしまう。出るべきところはちゃ
んと強気で出ないと。
 オルガはフンと鼻を鳴らす。

「俺のこと見くびってない? オーダイルっていうポケモンは君が思う以上に凶暴だから
ね」

 凶暴なのは見た目で充分に伝わるから、そんなことは今更言われなくても分かっている。
 そんなんじゃなくて、あたしにだって意地があるっていうだけだ。
 オーダイルは続ける。

「別に、今すぐ君のことを食べちゃっても良いんだよ? 」

 ――これには体が固まった。

「は、はったりだろ? だって、あたしのこと食べたらもう舐め回したりとかできなくな
るんだよ?」
「その舐め回しがつまらないんだもん。役に立たない奴を傍に置いてやるほど、俺もお人
好しじゃないんでね」
「でもっ、でもさっ!! あたしほど小さいポケモンなんて他にいないじゃんっ。食べち
ゃったら、何ていうか……勿体ないよ!?」
「そう、一口で食べられるもんね。生きたままお腹の中に入れてみたら、きっと面白いだ
ろうなぁ」
「うぅっ……」

 オルガがそこまであたしに執着していないとなると、あたしに有利な点なんてもう何も
ない。虚しい自己弁護はあっという間に失敗に終わり、がっくり項垂れる。

「分かっただろ? 食べられたくなければ、君が頑張るしかないんだよ」

 勝ち誇った様子で、自分の口内に居るあたしを諭す。負けを認めるのは嫌で仕方なかっ
たけれど、オルガに敵うものがない。一丁前に反抗したつもりだったけど、オルガにして
みれば自分の掌の上であたしがぎゃあぎゃあ騒いでいるようにしか感じなかっただろう。
 結局、オルガの言いなりになるしかないということだ。

「とは言え、君も必死にやってるんだし、その上で俺のことまで考えるのは確かに大変だ
よね」オルガがまた、さも自分が寛大であるようなアピールをする。「だからさ、君は俺
が言ったことを一生懸命に取り組んでくれさえすればいいからね」

 そして、実際には寛大でも何でもない、というオチだ。これはつまり、「俺の言うこと
は絶対だからね」と言っているのと同じ。本当に癪に障る言い方だ。

「さて、それじゃあ早速お願いしようかな」

 そう言うと、オルガは舌であたしを牙の近くへと運ぶ。

「ちょっと俺の牙を見てくれる? 結構汚れてるでしょ」

 確かに、牙はそれぞれ黄ばんでいたり、茶色がかっていたり、隙間に何やら挟まってい
たり――普段口に入れられるときはそこまで意識していなかったけど、こうして見ると、
結構どころか大分汚い。こんなものの近くに放られていたのだと思うと、うへぇとなる。

「これを全部綺麗に磨いてほしいんだ。素手で」

 突然訳の分からないことを指示されて、絶句した。こんなに汚いものを、しかも素手で?

「勿論、やってくれるよね?」

 一本磨くだけでも大変そうなのに、上下合わせれば相当な数の牙がある。しかも、これ
らを全部素手で磨くのだ。考えるだけで嫌だったけど、何でも言う通りにしろとさっき言
われたばかりだ。役に立たない奴だと見做されれば、あたしの命はない。拒否する術なん
て無かった。

 あたしは恐る恐る、目の前にある上段の牙の裏側に指先で触れる。離すと、涎がつぅと
糸を引いた。顔をぴくつかせたあたしは意を決して手全体を押し付ける。牙の表面には薄
く柔らかい感触の層があった。ぐし、ぐしと力を入れて擦る。すると、手に薄汚れた粕の
ようなものが纏わりついた。歯垢というやつだ。あたしが擦った部分だけ歯垢の層が取れ
て、ツルツルになっている。
 何を思ったか、あたしは手にくっ付いた歯垢の塊に鼻を近づけた。

「――おえぇっ」

 えずいてすぐに顔を背ける。口内の臭いを何倍も濃くしたような臭いがした。こんなも
のをこれからひたすら手で取り除いていくのか……。とても骨の折れる作業だ。はぁ、と
腹の底からため息をつくと、嫌々ながら、再び牙に手を磨き始めた。
 そうするうちに、歯垢の量が左手の上にこんもりと山を作るほどになった。捨て場所に
困って、オルガに訊ねる。

「ねぇ、これ、何処に捨てるの?」
「君が食べて処分してよ」
「!?」

 驚きで目をギンと見開く。いやいやいや、ない。絶対にない。こんなの食わされるくら
いなら、いつもの咀嚼飯を喜んで食べてやる。

「嘘だよ。俺の口内で吐かれても困るしね。外に投げ捨てて」

 ……この野郎、からかいやがって。むかついたので、歯垢の塊を振りかぶって外に力任
せに投げ飛ばす。不安定な足場で大きな動作をしたので、足を滑らせて、前に倒れた。頭
が着地したのは運悪く牙と牙の隙間で、鼻と口がすっぽりと挟まってしまった。当然酷い
臭いが鼻を突き、あたしは慌てて左右の牙に手を掛け、顔を引っこ抜いた。

「全く何やってるんだ。あ、内側だけじゃなくて外の方も頼むよ」

 オルガは退屈らしく、欠伸を噛み殺した声で言う。そんなことは分かっているから、わ
ざわざ言わなくていい。指図されると、その分負担が重く感じる。外で座っているだけの
オルガはお気楽なもんだ。
 不満を燻らせながら、言われた通り牙の外側を磨き始める。涎で濡れた翼では上手く飛
べないので、仕方なく口内から身を乗り出す形で作業する破目になった。あまり口を開か
れてしまうと牙の上の方に届かないので、半開きよりもう少し狭くするようオルガに頼ん
だ。

「完全には閉じるなよ!? 絶対な! 絶対だからな!!」

 牙に串刺しにされては大変なので、しつこく念を押す。

「それは完全に閉じちゃってくれ≠チていう振りなのかな?」
「馬鹿ぁ―っ!!」
「嘘、嘘。ただ、あんまりちんたら磨いてると、顎が疲れて閉じちゃうかもしれないから、
きびきび動いてね」

 全然面白くない冗談をかましたオルガは、ゆっくり慎重に口の開きを狭めた。オルガが
忠告した内容は案外起こり得そうなので、あたしは直ちに作業に取り組む。
 こうしてかなりの時間を費やし、たった一本の牙を磨き終えた。もうへとへとだ。それ
でもまだ数十本もの牙が待ち構えている。第一、牙一本があたしの背と殆ど変わらないほ
どなんだから、口内の牙全てを磨き終えるとなると夕方になっちゃうんじゃないか。そん
な考えが頭を過ぎったけど文句も言えないので、できるだけ早く終わらせるために、休憩
もそこそこに隣の牙へ取り掛かった。
12/01/05 22:35更新 / ROM-Liza
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■作者メッセージ
 後篇に続きます。

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