第一話:わにとドラゴン(後編)
* * *
「――あ?」
グラエナの動きがピタリと止まった。あたしの頭上はグラエナの上顎に覆われている。
奴の舌があたしを絡め取ろうとする、まさに
その瞬間だった。
何が何だか分からないけど、すんでのところで命拾いをしたみたいだ。気が付くと、あ
たしは溺れかけたように大きく喘いでいた。
グラエナが顔を上げると、視界が少し明るくなった。色々な方向に対して、鼻をヒクヒ
クと動かしている。
「何だぁ?」
訝しげに呟くと、後ろを振り返った。その際にも、しっかりあたしのことを押さえつけ
ている。
何をしてるんだこいつは。そう思ったけど、あたしも異変に気付くことになった。
――ズン
地面から腹に、幽かな震動が伝わってきた。それも一回だけじゃなくて、何回も。回を重
ねる毎に、大きくなってくる。何かが近付いてきているようだった。
グラエナは体を完全に後ろに向けると、何も見えない闇に向かって、低い声で唸り始め
る。
暫くして、暗闇に何かの姿が浮かんだ。こっちに近付くにつれて、その姿がはっきりし
てきた。
「な……!?」
グラエナが驚いた。あたしも驚いた。
とにかく体がデカい。あまり背の高い木じゃなければ、天辺に手が届いてしまいそうだ。
グラエナが後ろ足だけで立ち上がったとしても、きっとその二倍はある。その水色の体は
筋肉で盛り上がっている。広く厚い胸板。木の幹のような両腕。見るからに重量感のある
上半身を支える、どっしりと太い両脚。
――ただ見るだけで圧倒されてしまう。
怪物のようなそいつは、グラエナの威嚇に全く怯むことなく、とうとうあたしたちの前
で立ち止まった。
黄色い瞳の、蛇のようなきつい目。その目を眇めて、あたしたちのことを見下ろしてい
る。
怪物に対抗して、グラエナは激しく吠えだした。
「お、おい!」
あたしは押さえられたまま、グラエナに声をかける。
「あぁ? 何だ」
「逃げないのか? こんな怪物に勝てるわけじゃんか」
「何? 俺の心配してくれてんの?」
「んなわけあるか!」
あんな怪物に捕まったら、あたしは原型を留めていないかもしれない。
どちらにしても喰われるんだけど、あんなごつい牙でぐちゃぐちゃに噛み砕かれるのも
勘弁だ。
「生憎、敵を前にして逃げるのが嫌いな性分でなぁ」
溜め息を吐いて、あたしの耳元で囁く。
「お前のことは後で喰ってやる。心配すんな」
上の方で乾いた笑い声がする。いやそれは困るという前に、背中から押さえられる感覚
が消えて、入れ替わりに――
ぶにゅり
グラエナの舌が全身に被さった。
「ちょっ、こんな時に何だよ!」
聞こえているのかいないのか、グラエナが舌を退ける気はなさそうだ。
ぬ……ちゃ、く……ちゃぁ、ぴちゃ
さっきまでとは違って、ゆっくりと、名残惜しむように舐め上げてくる。何度も、何度
も。舌と吹きかかる息の熱さで、頭がクラクラしてきた。
やがて体がスッと涼しくなった。頭上の影がのっそりと動いて、巨大な足が顔のすぐ横
を通り過ぎる。あたしに背にしたまま、グラエナは言った。
「そこに居ろよ。逃げようとしても無駄だ。俺の鼻は鋭いからな。逃げようもんなら、速
攻噛み砕くからなぁ?」
「……」
噛み砕かれちゃたまんないな。あたしはフラつきながら、その場に胡座をかいた。
地面に片手をついて、呼吸を整える――と、その腕からポタポタと涎が垂れる。時間が経
つほど、その臭いは空気に触れて強まっていた。鼻をツンと突いてくるこの悪臭が、あた
しから発せられてるというのが、何とも嫌だ。
このまま逃げなかったら、グラエナかあの怪物に喰われるのは必至だ。かと言って、下
手に逃げて見つかったら、絶対に噛み砕かれることになる。
要は上手く逃げられればいいんだけど、そう簡単にいってくれそうもない。飛んで逃げ
ようにも草むらに紛れ込もうにも、音を立てずにというのは難しいし、グラエナは鼻が利
く。それに、あたしの尻尾の炎はこの暗闇の中じゃ良い目印だ。
折角奴から離れられたのに逃げられないなんて……。考えても、考えても、良い脱出案
は浮かんでこなかった。
けたたましくグラエナが吠えだす。その声で、周りの空気がビリビリと震えているよう
に感じる。宣戦布告の合図だ。
叫び声と共に、グラエナは地面を蹴って、怪物の顔を目掛けて跳ぶ。あたしより断然重
いだろう体が、ふわりと浮く。
そしてあたしは、図太い木を振り回すような音を聞いた。
次の瞬間にはグラエナの体が弾き飛ばされる。ポーンといとも簡単に打ち上げられてい
た。グラエナは空中で体勢を立て直すと、静かに着地する。
そうしてグラエナはすぐに怪物に向かって走っていった。
*
実力の差は明らかだった。グラエナは何度も駆けていっては、素っ気なく弾き返されて
いる。遠くから攻撃しない辺り、こいつは接近戦用の技しか覚えていないのかもしれない。
だからって、奴もただがむしゃらに突っ込んでいるわけじゃない。素速さには目を見張
るものがある。相手の一歩手前で急な方向転換をして、揺さぶりもかけている。あたしだ
ったらとっくに飛びかかられている。
だけど遥かそれ以上に、怪物の敏感さが凄かった。仁王立ちしたまま、グラエナの攻撃
を少ない動きで防いでいた。デカい図体のくせして、滑らかで繊細な戦い方だ。
そんな調子で長らく戦闘が続いているんだけど、当然動きの多いグラエナは疲れ始めて
いた。着地の度に荒い呼吸が聞こえてくるし、明らかにフラついている。それでも走り出す
ときには、自分を奮い立たせるように、思い切り頭を横に振っていた。
そんな頑張りも虚しく、怪物の方は涼しげだった。呼吸が乱れている様子は全くない。
それにしても、この怪物の強さならグラエナを捻じ伏せるのはたわいないことなんじゃ
ないか。何でさっさと攻撃しないんだろう。
そんなことを考えていると、グラエナがまた飛びかかる。だけど今回は、何だか中途半
端な高さだった。疲れで踏み切りが甘くなったのかもしれない。自分で「しまった」とい
う表情をしながら、何とか体のバランスを保とうとする。
そこをすかさず怪物の拳が襲った。さっきまでのゆったりとした動きからは想像しにく
いほど、一瞬の、無駄のない攻撃。体を素早く屈めて、下から抉るように、腹の中心を的
確に捕らえていた。
「ガハッ」
体をしならせながら、グラエナの体は空中を舞った。今度は着地の体勢に入らない。今
の一撃が決定的だったみたいだ。
その様子を眺めていると、大変なことに気付いた。
「あれ? あいつ……」
あたしの方に落ちてきてないか?
ヤバいと直感したときには、あたしの全身を影が覆っていた。
「ちょっと待っ……!」
――ズウウゥゥン!!
「ぎゃああああああ!!」
予想通り、ナイスポイントに落ちて来やがった。
「痛っ、てぇ……」
幸い潰されるのは何とか避けられた。だけど、あたしの体はグラエナの前足の下敷きに
なっていた。起き上がろうにも、体はびくともしなかった。グラエナは伸びているみたい
だ。意識がない分、架かってくる重さも相当増えているハズだ。
それでも何とか抜け出そうと悪戦苦闘していると、ズンと重々しい足音が響いた。あた
しの動きが瞬間的に止まる。……多分あの怪物の足音だよな、これ。
ズン……ズン……
今の場所からは怪物の様子は見えないけど、足音は確かに近付いていた。
ズン……ズン……
嫌だ! 来るな!
私は目を堅く瞑って、息を押し殺した。
ズンツ……!
足音が止まる。様子は分からないけど、去っていく音がしないから、すぐ近くにいるん
だろう。
尻尾は自由が利くから、地面にペタリとつけてるけど、この暗闇じゃ先っちょにある炎
で居場所がバレる。
頼むから早くどっかに行ってくれ――
そう念じたその時、体がスッと軽くなった。それと一緒に体が持ち上げられる。
「わっ……!?」
あっという間に視界が切り変わる。
あの怪物があたしのことを見下ろしていた。
暗闇で光る黄色い瞳に、ギロリと睨みつけられていた。
「……」
あたしのことを品定めしているのか、無言でただ見つめてくる。ただそれだけで殺され
てしまいそうだ。そのうち逞しい大顎を目一杯に開いて、ギラギラ並んだ牙や、粘っこい
涎が延びた舌を見せてくるかもしれない。そうなったらあたしは――。
自分の顔が青醒めていくのが分かった。
「……ねえ、離してよ」
黙ったままの怪物に、震える声で頼む。
「……」
あたしの言葉には何も返さず、表情もピクリとも変えない。何を考えているのか分から
ないその凶悪な顔が、泣きたくなるほど怖い。
すると、怪物は後ろに向き返って元来た方
へと引き返し始めた。――手にはあたしを持ったままだ。
「ふざけんなぁ! 離せ、離せえぇぇ!!」
無茶苦茶に暴れる。胴体から足にかけては、怪物の手にすっぽり収まっているので、盛ん
に動いてるのは頭くらいだ。大蛇のような極太の指は、締め付けこそしないけど、こんな
簡単にあたしの自由を奪う。改めて自分の無力さを思い知る。目に涙が滲んできた。
「離してよぉぉぉぉ!!」
あたしは精一杯泣き叫ぶ。小さな体から振り絞るように、泣き叫ぶ。その声は誰に届い
ただろう。届いたとして、誰が助けに来るだろう。
伸びたグラエナを残して、怪物はのしのしとその場を静かに去っていった。
* * *
近くでさらさらと水の流れるような音がする。目を覚ましたあたしは、体を包み込む温
かさを感じた。
見回すと、あたしの周りには草や葉っぱが敷き詰められていて、簡単な寝床になってい
る。
此処は何処だろう。あたしは何でこんなところに居るんだろう。ぼんやりした頭で上を
見やると、例の怪物があたしのことを覗き込むようにして見ていた。
「うわっ」
そして記憶が蘇る。あたしはこの怪物に無理矢理連れてこられたんだ。その時は思い切
り抵抗してたんだけど、あまりの恐怖と興奮で、いつの間にか気を失っていたらしい。
多分、ここは怪物の住処だ。
怪物がこっちに手を伸ばしてきた。反応が遅れて、奴の大きな手があたしの頭上に被さ
る。びくりと体を震わせると、私の体は掴み上げられた。一気に怪物の口元が正面に来る。
息を呑んだ。流石にここまで近くに居ると、この怪物の大きさを改めて感じざるを得ない。
口の外にはみ出した鋭い牙は、太さはあたしの胴回りと、長さはあたしの体長とそれほど
変わらない。グラエナのなんて比べものにならなかった。
グパアァッ
獲物の小ささにしては、怪物はやや大袈裟に口を開いた。尻尾の炎が明かりになって、
口内の様子をよく見渡すことが出来た。本当に、今日ほど自分の尻尾の炎を恨んだ日はな
い。
鋭い牙が奥の方まで、粗く並んでいる。その殆どは、さっき見た牙より幾らか小さいけ
ど、噛み砕かれたら痛いのには変わりない。その牙たちに囲まれて、肉厚な舌がでんと待
ちかまえている。こいつの大口を以てしても、この舌を持て余している感じだ。
あたしはここに放られるのか。
絶望的な状況なのに、あたしは喚き叫ぶことも出来なかった。死にたい訳じゃない。こ
こに放られたあたしの成れの果てを想像したら、声も出せなくなったのだ。
――ペチャ
怪物はあたしのことを放り込まず、舌の上に丁寧に乗せた。顔から押し付けられる形で
の着地もとい着舌だった。
羽ばたいて逃げる隙もなく、あたしは舌で口の奥に押し込まれる。
ギュウウゥッ
途轍もない舌の力で、頬の内壁に体が押しつけられる。グラエナのとは違って厚ぼった
い。胸の中の空気がたっぷり押し出されて、呼吸もままならなかった。
すると突然、圧迫が止まる。怪物の舌があたしの体を転がすと、今度は反対の頬へと押
しつけられる。殆ど胸に空気は残っていなくて、頭がぼうっとしてきた。このままじゃ窒
息する……!
そして、そのまま意識を手放す――かというところで、体が放り出された。ペッと吐き
出されていた。怪物のごつごつした手に受け止められる。
とにかく大きく喘ぐと、どっと空気が入ってきた。外の空気に触れると、体は急に涼し
くなって、同時に体に纏わりつく涎が嫌な臭いを放つ。お陰で目が覚めた。
「どうだった?」
上から声がする。その声の主が怪物だということに気づくまで、少しかかった。野蛮な
声をしているのかとばかり思っていたけど、まるで正反対だった。声だけ聞けば結構かっ
こいい……かも。
だけどそいつは紛れもなく、さっきまであたしを舐め回していた奴なのだ。
「いきなり何してくれんだ! 誰なんだよ、あんた!!」
怪物の問い掛けは無視して威嚇する。口の中から出るのがもう少し遅ければ、本当に死
ぬところだった。
「俺? 俺はオーダイルのオルガだよ。君は?」
「は?」
「俺が名乗ったんだから、君もだろ? 気になるじゃないか」
「はあ。……リザードンの、リン」
「そうか。よろしくね、リン」
小っちゃくて可愛いね、とか言いながらオルガはごつごつとした指先であたしを撫でる。
何がよろしくなんだ。何だか調子が狂う。
「それより、俺の口の中はどう? 苦しかった?」
「……」
あたしの反応にとても興味があるようで、厳つい目をにやにやとさせながらこちらを見
てくる。こいつ、あたしの命の瀬戸際を愉しんでいたんだ。……最低な奴だ。
「何とか言ったらどう?」
黙ったままなのをつまらなく思ったのか、オルガとやらは言った。別に苛立っている様
子はない。
「いきなり舐め回したのを怒ってるのなら謝るよ。でもさ、あの犬っころに食べられそう
になっているのを助けてやったんだ。おまけに怪我の手当てもしてあげたしね。これくら
いのお礼は当然してもらわなきゃ」
言われて腕を見ると、葉っぱを裂いたのが巻き付けられていた。何でも傷によく効くら
しい。器用なことに、蔓で縛ってある。あの太い指でよくできたもんだ。
「誰も助けろだなんて言ってないっ」
精一杯の反発をした。もう自棄糞だった。
あたしの一生懸命な様子を見て、オルガは笑う。何というか、しょうがないなという感
じで。
「素直じゃないなぁ。まぁ、そういうところも可愛いけどね」
そう言ってまたあたしの頭を撫でる。何だか馬鹿にされているようでムカつく。
「でも、お礼を言えないのは良くないね。誰かによくしてもらったら、お礼を言うのは当
たり前だ。分かってる? あの時俺があそこを通らなかったら、今頃君はあの犬っころの
腹の中なんだよ?」
確かにその通りだ。その点は感謝している。でも、急に舐め回された上、そんな恩着せが
ましい言い方をされると、お礼の言葉も喉の辺りで引っ込んでしまう。
「……そうだ」
何か思いついたらしく、オルガは悪戯っぽく口元を歪ませる。
「言葉が無理なら、行動で示してもらおうか」オルガはずいと顔を近づけてくる。「君には
究極の選択をしてもらう」
究極の選択。もはや嫌な予感しかしない。
「俺に“飼われる”か“喰われる”か。――喰うとなったら容赦はしないから、よーく考
えてね」
愕然とした。ふざけるな。こんなの二者択一なんかじゃない。殆ど脅しだ。
「く、喰う≠チて何だよ!? 折角助けたのに」
「言っておくけど、今こうして君を生かしておいてるのはただの気紛れだからね。見ての
通り、俺は肉食なんだ。まぁ普段は魚を食べてるんだけど、たまには君みたいな子の肉も
悪くないかな。っていうか、喰われたくなきゃ飼われればいいじゃないか」
「それも嫌! だったら、お礼言うから。許してよ!」
「だーめ。都合が悪くなったからお礼を言うだなんて、心のこもってない証拠でしょ。も
う君にはこの二択しかないよ」
「うぅ……」
これは困った。変な意地を張るんじゃなかった。自分の愚かさをひたすら反省する。
ただ、そんなに易々と飼われるわけにはいかない。こんな変な提案をしてくる奴のこと
だ。飼われたところでロクなことはないだろう。こいつに散々弄ばれる破目になるのは目
に見えている。下手をすれば、死ぬより辛い苦しみを一生味わわされるかもしれないんだ。
それに、あたしにだってプライドはある。あたしの一生を、こんな怪物に縛られるのは
御免だ。そんなくらいだったら……。
「死んでやるよ」
あたしは呟いた。
「ん?」
「あんたなんかに飼われるくらいなら、死んだ方がマシだっつってんだよ! ひと思いに
噛み殺せ!!」
売り言葉に買い言葉だ。感情に任せて、心の底からの思いをぶちまけてやった。
確かにさっきは「生きたい」と思ったけど……。飼われるということは、こいつに生活
を縛られるということだ。両親に会うという夢も叶わなくなる。それじゃああたしの生き
る目的が無くなってしまう。どうせさっきグラエナに喰われかけた時に、死ぬ覚悟はでき
てたんだ。死ぬ瞬間が、少し遅くなっただけ。こいつの遊び道具として飼われるくらいなら、潔く死んでやる。
あたしの言葉で、少しの間辺りがしんと静まり返る。
「……言ったね?」
漸くオルガが発した声は、さっきまでと色が変わっていた。あたしを握る大きな手にも、
力が入れられる。見上げると、その瞳の冷たさに身震いがした。だけど、後戻りは出来な
い。ここで死んでやるんだ、と気を確かに持つ。
でも待てよ。一発で胸を噛み抜いてくれればいいけど、急所を外されたら地獄だ。手を
噛み潰され、足を噛み潰され、胴、顔――そうなったら、考えられないほどの痛みに襲わ
れる羽目になる。しかも、生きたまま呑み込まれたら、体が溶かされる痛みもそれに加わ
る。
そう思うと、途端に怖くなってきた。今まで怖くなかったわけじゃないけど、死ぬこと
が現実味を帯びてくると、恐怖は抑えきれなくなっていった。
ハッとすると、斜め上にオルガの前歯があった。オルガはあたしの心を打ち砕きたいよ
うで、ゆっくりとあたしの体は口内に近づいていた。
我慢だ。すぐに終わる。もう二度とこんな仕打ちを受けなくていいんだから。
自分にそう言い聞かせると、オルガの口内が目に入った。岩のような牙、てらてらと光
りながらあたしを待ち構える厚い舌、生温かく何処か血生臭い息。
こんな所にさっきまで居たんだと、そしてこれからまた入っていくんだと思うと、凄く
恐ろしかった。
――怖い。
ぽつりと顔を出した恐怖。それを拭い去ろうと頭を横に振る。
それでも駄目だった。心の中にまた一粒の恐怖が現れようとしている。冷静でいようと
思えば思うほど、逆効果のようだった。無意識にこの後のあたしの状態を想像してしまう。
あの強靭な顎で、あの鋭い歯で、あたしの体を噛み砕く音が頭の中で勝手に響きだす。
怖い。
怖い。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い……。
どうしよう、怖くて仕方がない。とにかく、何も見ないように強く目を瞑った。
すると、意外なことが起きた。体の動きが止まったのだ。目を開けてみると、オルガの
舌の真上で宙ぶらりんにされていた。すぐに後ろへと引っ張られて、また口の外に出る。
「気が変わったかもしれないから、もう一度だけ聞いておくよ」
あたしの顔を見ながら、オルガが勝ち誇った顔で言う。
「俺に飼われてみない?」
「……」
胸が飛び出しそうにバクバクと鳴っているのに気が付いた。そして今、助かったという
気持ちでいっぱいだった。
所詮あたしには死ぬ度胸なんて無かったんだ。
「……はい」
消え入りそうな声で、そう頷く。あたしの顔は涙で酷く濡れていた。
「そうか。賢い選択だよ」
オルガはあたしの頭を指先で撫でた。
くそぉ……!!
悔しくて、奥歯の辺りが酷くむず痒かった。
「さてと」
オルガは、手にあたしを持ったまま立ち上がる。
「ご飯にしようか」
瞬間、全身が凍りつく。
「……あぁ、違う違う。昼間の内に魚を捕っておいたんだよ」
それを聞いてほっと息が漏れる。こいつ、からかうためにわざと言ったんじゃないか?
住処の奥へ入っていって、寝かせてあった魚を徐に持ってきた。大きな魚だ。大きく開
いた口には、あたしの全身が入ってしまう。 全長となると、あたしが何匹並べば届くんだ
ろう。そんな魚を、オルガは左手だけで持っている。
オルガは胡座をかくと、あたしを地面に下ろし、いきなり魚にかぶりついた。そこにあ
った肉は根こそぎ消えた。くちゃくちゃと、オルガの口の中で噛み砕かれている。
一つ間違えれば、あたしがあの中に居たんだよなぁ。そう思うと鳥肌が立つ。
それにしても腹が減った。オルガの豪快な食いっぷりに釣られて、今まで影を潜めてい
た空腹感が復活した。
美味そうだなぁ……。
ぼーっと魚を見つめる。思わず涎が出そうになる。魚なんて親に捨てられてから一度も
食ってない。水は苦手だし、この体じゃ寧ろ魚に食われるのがオチだ。あたしにとって魚
は、滅多に食べられないご馳走なのだ。
あたしの様子に気づいたオルガは、食べるのを一旦止めた。
「ああ、ごめんね。俺ばっかり」オルガは魚を片手に持ちながら頭を掻く。「ほら、“餌
”の時間だ」
そう言うと、オルガは前に屈み込んで舌を出す。そこからべちゃりと何かが地面に落ち
た。
涎塗れの肉片だった。しっかり噛み解されてある。表面は涎でてかっている。
「……え?」
これを、食べろって言うのか?
「どうしたの? 食べないの?」
あたしの気持ちを分かっているくせに、いかにも怪訝な顔で問いかけてくる。こんなの
食べたくない。こんなベトベトの汚らしいものを口に入れるなんて、有り得ない。
だけど、気持ちに反してお腹が鳴る。そう言えば今朝から何も食べてない。もう限界だ
った。
背に腹は代えられない。
あたしはその肉片を口に入れた。
すかさず嫌な臭いが立ち上ってくる。噛む度にベチャベチャニチャニチャ気持ち悪い。
その中から必死に魚の味を探した。段々と美味しさが、僅かだけどこみ上げてくる。
オルガは満足そうに微笑んでいた。自分の吐き出した魚の肉片を口いっぱいに貪る、あ
たしの無様な姿を見て。
屈辱的だ。悔しすぎる。
でも、刃向かうわけにはいかない。そんなことしたら食べ物が貰えないどころか、あた
し自身が食べられるのだ。
「おかわりは要る?」
躊躇いながらも、あたしは頷く。まだお腹は満たされない。同じように肉片が目の前に
落とされた。それをまた頬張った。
こんな所、早く抜け出してやる。ただ、今は我慢するしかない。
あたしはそう胸に誓って、口の中のものを呑み込んだ。
【第一話・完】
「――あ?」
グラエナの動きがピタリと止まった。あたしの頭上はグラエナの上顎に覆われている。
奴の舌があたしを絡め取ろうとする、まさに
その瞬間だった。
何が何だか分からないけど、すんでのところで命拾いをしたみたいだ。気が付くと、あ
たしは溺れかけたように大きく喘いでいた。
グラエナが顔を上げると、視界が少し明るくなった。色々な方向に対して、鼻をヒクヒ
クと動かしている。
「何だぁ?」
訝しげに呟くと、後ろを振り返った。その際にも、しっかりあたしのことを押さえつけ
ている。
何をしてるんだこいつは。そう思ったけど、あたしも異変に気付くことになった。
――ズン
地面から腹に、幽かな震動が伝わってきた。それも一回だけじゃなくて、何回も。回を重
ねる毎に、大きくなってくる。何かが近付いてきているようだった。
グラエナは体を完全に後ろに向けると、何も見えない闇に向かって、低い声で唸り始め
る。
暫くして、暗闇に何かの姿が浮かんだ。こっちに近付くにつれて、その姿がはっきりし
てきた。
「な……!?」
グラエナが驚いた。あたしも驚いた。
とにかく体がデカい。あまり背の高い木じゃなければ、天辺に手が届いてしまいそうだ。
グラエナが後ろ足だけで立ち上がったとしても、きっとその二倍はある。その水色の体は
筋肉で盛り上がっている。広く厚い胸板。木の幹のような両腕。見るからに重量感のある
上半身を支える、どっしりと太い両脚。
――ただ見るだけで圧倒されてしまう。
怪物のようなそいつは、グラエナの威嚇に全く怯むことなく、とうとうあたしたちの前
で立ち止まった。
黄色い瞳の、蛇のようなきつい目。その目を眇めて、あたしたちのことを見下ろしてい
る。
怪物に対抗して、グラエナは激しく吠えだした。
「お、おい!」
あたしは押さえられたまま、グラエナに声をかける。
「あぁ? 何だ」
「逃げないのか? こんな怪物に勝てるわけじゃんか」
「何? 俺の心配してくれてんの?」
「んなわけあるか!」
あんな怪物に捕まったら、あたしは原型を留めていないかもしれない。
どちらにしても喰われるんだけど、あんなごつい牙でぐちゃぐちゃに噛み砕かれるのも
勘弁だ。
「生憎、敵を前にして逃げるのが嫌いな性分でなぁ」
溜め息を吐いて、あたしの耳元で囁く。
「お前のことは後で喰ってやる。心配すんな」
上の方で乾いた笑い声がする。いやそれは困るという前に、背中から押さえられる感覚
が消えて、入れ替わりに――
ぶにゅり
グラエナの舌が全身に被さった。
「ちょっ、こんな時に何だよ!」
聞こえているのかいないのか、グラエナが舌を退ける気はなさそうだ。
ぬ……ちゃ、く……ちゃぁ、ぴちゃ
さっきまでとは違って、ゆっくりと、名残惜しむように舐め上げてくる。何度も、何度
も。舌と吹きかかる息の熱さで、頭がクラクラしてきた。
やがて体がスッと涼しくなった。頭上の影がのっそりと動いて、巨大な足が顔のすぐ横
を通り過ぎる。あたしに背にしたまま、グラエナは言った。
「そこに居ろよ。逃げようとしても無駄だ。俺の鼻は鋭いからな。逃げようもんなら、速
攻噛み砕くからなぁ?」
「……」
噛み砕かれちゃたまんないな。あたしはフラつきながら、その場に胡座をかいた。
地面に片手をついて、呼吸を整える――と、その腕からポタポタと涎が垂れる。時間が経
つほど、その臭いは空気に触れて強まっていた。鼻をツンと突いてくるこの悪臭が、あた
しから発せられてるというのが、何とも嫌だ。
このまま逃げなかったら、グラエナかあの怪物に喰われるのは必至だ。かと言って、下
手に逃げて見つかったら、絶対に噛み砕かれることになる。
要は上手く逃げられればいいんだけど、そう簡単にいってくれそうもない。飛んで逃げ
ようにも草むらに紛れ込もうにも、音を立てずにというのは難しいし、グラエナは鼻が利
く。それに、あたしの尻尾の炎はこの暗闇の中じゃ良い目印だ。
折角奴から離れられたのに逃げられないなんて……。考えても、考えても、良い脱出案
は浮かんでこなかった。
けたたましくグラエナが吠えだす。その声で、周りの空気がビリビリと震えているよう
に感じる。宣戦布告の合図だ。
叫び声と共に、グラエナは地面を蹴って、怪物の顔を目掛けて跳ぶ。あたしより断然重
いだろう体が、ふわりと浮く。
そしてあたしは、図太い木を振り回すような音を聞いた。
次の瞬間にはグラエナの体が弾き飛ばされる。ポーンといとも簡単に打ち上げられてい
た。グラエナは空中で体勢を立て直すと、静かに着地する。
そうしてグラエナはすぐに怪物に向かって走っていった。
*
実力の差は明らかだった。グラエナは何度も駆けていっては、素っ気なく弾き返されて
いる。遠くから攻撃しない辺り、こいつは接近戦用の技しか覚えていないのかもしれない。
だからって、奴もただがむしゃらに突っ込んでいるわけじゃない。素速さには目を見張
るものがある。相手の一歩手前で急な方向転換をして、揺さぶりもかけている。あたしだ
ったらとっくに飛びかかられている。
だけど遥かそれ以上に、怪物の敏感さが凄かった。仁王立ちしたまま、グラエナの攻撃
を少ない動きで防いでいた。デカい図体のくせして、滑らかで繊細な戦い方だ。
そんな調子で長らく戦闘が続いているんだけど、当然動きの多いグラエナは疲れ始めて
いた。着地の度に荒い呼吸が聞こえてくるし、明らかにフラついている。それでも走り出す
ときには、自分を奮い立たせるように、思い切り頭を横に振っていた。
そんな頑張りも虚しく、怪物の方は涼しげだった。呼吸が乱れている様子は全くない。
それにしても、この怪物の強さならグラエナを捻じ伏せるのはたわいないことなんじゃ
ないか。何でさっさと攻撃しないんだろう。
そんなことを考えていると、グラエナがまた飛びかかる。だけど今回は、何だか中途半
端な高さだった。疲れで踏み切りが甘くなったのかもしれない。自分で「しまった」とい
う表情をしながら、何とか体のバランスを保とうとする。
そこをすかさず怪物の拳が襲った。さっきまでのゆったりとした動きからは想像しにく
いほど、一瞬の、無駄のない攻撃。体を素早く屈めて、下から抉るように、腹の中心を的
確に捕らえていた。
「ガハッ」
体をしならせながら、グラエナの体は空中を舞った。今度は着地の体勢に入らない。今
の一撃が決定的だったみたいだ。
その様子を眺めていると、大変なことに気付いた。
「あれ? あいつ……」
あたしの方に落ちてきてないか?
ヤバいと直感したときには、あたしの全身を影が覆っていた。
「ちょっと待っ……!」
――ズウウゥゥン!!
「ぎゃああああああ!!」
予想通り、ナイスポイントに落ちて来やがった。
「痛っ、てぇ……」
幸い潰されるのは何とか避けられた。だけど、あたしの体はグラエナの前足の下敷きに
なっていた。起き上がろうにも、体はびくともしなかった。グラエナは伸びているみたい
だ。意識がない分、架かってくる重さも相当増えているハズだ。
それでも何とか抜け出そうと悪戦苦闘していると、ズンと重々しい足音が響いた。あた
しの動きが瞬間的に止まる。……多分あの怪物の足音だよな、これ。
ズン……ズン……
今の場所からは怪物の様子は見えないけど、足音は確かに近付いていた。
ズン……ズン……
嫌だ! 来るな!
私は目を堅く瞑って、息を押し殺した。
ズンツ……!
足音が止まる。様子は分からないけど、去っていく音がしないから、すぐ近くにいるん
だろう。
尻尾は自由が利くから、地面にペタリとつけてるけど、この暗闇じゃ先っちょにある炎
で居場所がバレる。
頼むから早くどっかに行ってくれ――
そう念じたその時、体がスッと軽くなった。それと一緒に体が持ち上げられる。
「わっ……!?」
あっという間に視界が切り変わる。
あの怪物があたしのことを見下ろしていた。
暗闇で光る黄色い瞳に、ギロリと睨みつけられていた。
「……」
あたしのことを品定めしているのか、無言でただ見つめてくる。ただそれだけで殺され
てしまいそうだ。そのうち逞しい大顎を目一杯に開いて、ギラギラ並んだ牙や、粘っこい
涎が延びた舌を見せてくるかもしれない。そうなったらあたしは――。
自分の顔が青醒めていくのが分かった。
「……ねえ、離してよ」
黙ったままの怪物に、震える声で頼む。
「……」
あたしの言葉には何も返さず、表情もピクリとも変えない。何を考えているのか分から
ないその凶悪な顔が、泣きたくなるほど怖い。
すると、怪物は後ろに向き返って元来た方
へと引き返し始めた。――手にはあたしを持ったままだ。
「ふざけんなぁ! 離せ、離せえぇぇ!!」
無茶苦茶に暴れる。胴体から足にかけては、怪物の手にすっぽり収まっているので、盛ん
に動いてるのは頭くらいだ。大蛇のような極太の指は、締め付けこそしないけど、こんな
簡単にあたしの自由を奪う。改めて自分の無力さを思い知る。目に涙が滲んできた。
「離してよぉぉぉぉ!!」
あたしは精一杯泣き叫ぶ。小さな体から振り絞るように、泣き叫ぶ。その声は誰に届い
ただろう。届いたとして、誰が助けに来るだろう。
伸びたグラエナを残して、怪物はのしのしとその場を静かに去っていった。
* * *
近くでさらさらと水の流れるような音がする。目を覚ましたあたしは、体を包み込む温
かさを感じた。
見回すと、あたしの周りには草や葉っぱが敷き詰められていて、簡単な寝床になってい
る。
此処は何処だろう。あたしは何でこんなところに居るんだろう。ぼんやりした頭で上を
見やると、例の怪物があたしのことを覗き込むようにして見ていた。
「うわっ」
そして記憶が蘇る。あたしはこの怪物に無理矢理連れてこられたんだ。その時は思い切
り抵抗してたんだけど、あまりの恐怖と興奮で、いつの間にか気を失っていたらしい。
多分、ここは怪物の住処だ。
怪物がこっちに手を伸ばしてきた。反応が遅れて、奴の大きな手があたしの頭上に被さ
る。びくりと体を震わせると、私の体は掴み上げられた。一気に怪物の口元が正面に来る。
息を呑んだ。流石にここまで近くに居ると、この怪物の大きさを改めて感じざるを得ない。
口の外にはみ出した鋭い牙は、太さはあたしの胴回りと、長さはあたしの体長とそれほど
変わらない。グラエナのなんて比べものにならなかった。
グパアァッ
獲物の小ささにしては、怪物はやや大袈裟に口を開いた。尻尾の炎が明かりになって、
口内の様子をよく見渡すことが出来た。本当に、今日ほど自分の尻尾の炎を恨んだ日はな
い。
鋭い牙が奥の方まで、粗く並んでいる。その殆どは、さっき見た牙より幾らか小さいけ
ど、噛み砕かれたら痛いのには変わりない。その牙たちに囲まれて、肉厚な舌がでんと待
ちかまえている。こいつの大口を以てしても、この舌を持て余している感じだ。
あたしはここに放られるのか。
絶望的な状況なのに、あたしは喚き叫ぶことも出来なかった。死にたい訳じゃない。こ
こに放られたあたしの成れの果てを想像したら、声も出せなくなったのだ。
――ペチャ
怪物はあたしのことを放り込まず、舌の上に丁寧に乗せた。顔から押し付けられる形で
の着地もとい着舌だった。
羽ばたいて逃げる隙もなく、あたしは舌で口の奥に押し込まれる。
ギュウウゥッ
途轍もない舌の力で、頬の内壁に体が押しつけられる。グラエナのとは違って厚ぼった
い。胸の中の空気がたっぷり押し出されて、呼吸もままならなかった。
すると突然、圧迫が止まる。怪物の舌があたしの体を転がすと、今度は反対の頬へと押
しつけられる。殆ど胸に空気は残っていなくて、頭がぼうっとしてきた。このままじゃ窒
息する……!
そして、そのまま意識を手放す――かというところで、体が放り出された。ペッと吐き
出されていた。怪物のごつごつした手に受け止められる。
とにかく大きく喘ぐと、どっと空気が入ってきた。外の空気に触れると、体は急に涼し
くなって、同時に体に纏わりつく涎が嫌な臭いを放つ。お陰で目が覚めた。
「どうだった?」
上から声がする。その声の主が怪物だということに気づくまで、少しかかった。野蛮な
声をしているのかとばかり思っていたけど、まるで正反対だった。声だけ聞けば結構かっ
こいい……かも。
だけどそいつは紛れもなく、さっきまであたしを舐め回していた奴なのだ。
「いきなり何してくれんだ! 誰なんだよ、あんた!!」
怪物の問い掛けは無視して威嚇する。口の中から出るのがもう少し遅ければ、本当に死
ぬところだった。
「俺? 俺はオーダイルのオルガだよ。君は?」
「は?」
「俺が名乗ったんだから、君もだろ? 気になるじゃないか」
「はあ。……リザードンの、リン」
「そうか。よろしくね、リン」
小っちゃくて可愛いね、とか言いながらオルガはごつごつとした指先であたしを撫でる。
何がよろしくなんだ。何だか調子が狂う。
「それより、俺の口の中はどう? 苦しかった?」
「……」
あたしの反応にとても興味があるようで、厳つい目をにやにやとさせながらこちらを見
てくる。こいつ、あたしの命の瀬戸際を愉しんでいたんだ。……最低な奴だ。
「何とか言ったらどう?」
黙ったままなのをつまらなく思ったのか、オルガとやらは言った。別に苛立っている様
子はない。
「いきなり舐め回したのを怒ってるのなら謝るよ。でもさ、あの犬っころに食べられそう
になっているのを助けてやったんだ。おまけに怪我の手当てもしてあげたしね。これくら
いのお礼は当然してもらわなきゃ」
言われて腕を見ると、葉っぱを裂いたのが巻き付けられていた。何でも傷によく効くら
しい。器用なことに、蔓で縛ってある。あの太い指でよくできたもんだ。
「誰も助けろだなんて言ってないっ」
精一杯の反発をした。もう自棄糞だった。
あたしの一生懸命な様子を見て、オルガは笑う。何というか、しょうがないなという感
じで。
「素直じゃないなぁ。まぁ、そういうところも可愛いけどね」
そう言ってまたあたしの頭を撫でる。何だか馬鹿にされているようでムカつく。
「でも、お礼を言えないのは良くないね。誰かによくしてもらったら、お礼を言うのは当
たり前だ。分かってる? あの時俺があそこを通らなかったら、今頃君はあの犬っころの
腹の中なんだよ?」
確かにその通りだ。その点は感謝している。でも、急に舐め回された上、そんな恩着せが
ましい言い方をされると、お礼の言葉も喉の辺りで引っ込んでしまう。
「……そうだ」
何か思いついたらしく、オルガは悪戯っぽく口元を歪ませる。
「言葉が無理なら、行動で示してもらおうか」オルガはずいと顔を近づけてくる。「君には
究極の選択をしてもらう」
究極の選択。もはや嫌な予感しかしない。
「俺に“飼われる”か“喰われる”か。――喰うとなったら容赦はしないから、よーく考
えてね」
愕然とした。ふざけるな。こんなの二者択一なんかじゃない。殆ど脅しだ。
「く、喰う≠チて何だよ!? 折角助けたのに」
「言っておくけど、今こうして君を生かしておいてるのはただの気紛れだからね。見ての
通り、俺は肉食なんだ。まぁ普段は魚を食べてるんだけど、たまには君みたいな子の肉も
悪くないかな。っていうか、喰われたくなきゃ飼われればいいじゃないか」
「それも嫌! だったら、お礼言うから。許してよ!」
「だーめ。都合が悪くなったからお礼を言うだなんて、心のこもってない証拠でしょ。も
う君にはこの二択しかないよ」
「うぅ……」
これは困った。変な意地を張るんじゃなかった。自分の愚かさをひたすら反省する。
ただ、そんなに易々と飼われるわけにはいかない。こんな変な提案をしてくる奴のこと
だ。飼われたところでロクなことはないだろう。こいつに散々弄ばれる破目になるのは目
に見えている。下手をすれば、死ぬより辛い苦しみを一生味わわされるかもしれないんだ。
それに、あたしにだってプライドはある。あたしの一生を、こんな怪物に縛られるのは
御免だ。そんなくらいだったら……。
「死んでやるよ」
あたしは呟いた。
「ん?」
「あんたなんかに飼われるくらいなら、死んだ方がマシだっつってんだよ! ひと思いに
噛み殺せ!!」
売り言葉に買い言葉だ。感情に任せて、心の底からの思いをぶちまけてやった。
確かにさっきは「生きたい」と思ったけど……。飼われるということは、こいつに生活
を縛られるということだ。両親に会うという夢も叶わなくなる。それじゃああたしの生き
る目的が無くなってしまう。どうせさっきグラエナに喰われかけた時に、死ぬ覚悟はでき
てたんだ。死ぬ瞬間が、少し遅くなっただけ。こいつの遊び道具として飼われるくらいなら、潔く死んでやる。
あたしの言葉で、少しの間辺りがしんと静まり返る。
「……言ったね?」
漸くオルガが発した声は、さっきまでと色が変わっていた。あたしを握る大きな手にも、
力が入れられる。見上げると、その瞳の冷たさに身震いがした。だけど、後戻りは出来な
い。ここで死んでやるんだ、と気を確かに持つ。
でも待てよ。一発で胸を噛み抜いてくれればいいけど、急所を外されたら地獄だ。手を
噛み潰され、足を噛み潰され、胴、顔――そうなったら、考えられないほどの痛みに襲わ
れる羽目になる。しかも、生きたまま呑み込まれたら、体が溶かされる痛みもそれに加わ
る。
そう思うと、途端に怖くなってきた。今まで怖くなかったわけじゃないけど、死ぬこと
が現実味を帯びてくると、恐怖は抑えきれなくなっていった。
ハッとすると、斜め上にオルガの前歯があった。オルガはあたしの心を打ち砕きたいよ
うで、ゆっくりとあたしの体は口内に近づいていた。
我慢だ。すぐに終わる。もう二度とこんな仕打ちを受けなくていいんだから。
自分にそう言い聞かせると、オルガの口内が目に入った。岩のような牙、てらてらと光
りながらあたしを待ち構える厚い舌、生温かく何処か血生臭い息。
こんな所にさっきまで居たんだと、そしてこれからまた入っていくんだと思うと、凄く
恐ろしかった。
――怖い。
ぽつりと顔を出した恐怖。それを拭い去ろうと頭を横に振る。
それでも駄目だった。心の中にまた一粒の恐怖が現れようとしている。冷静でいようと
思えば思うほど、逆効果のようだった。無意識にこの後のあたしの状態を想像してしまう。
あの強靭な顎で、あの鋭い歯で、あたしの体を噛み砕く音が頭の中で勝手に響きだす。
怖い。
怖い。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い……。
どうしよう、怖くて仕方がない。とにかく、何も見ないように強く目を瞑った。
すると、意外なことが起きた。体の動きが止まったのだ。目を開けてみると、オルガの
舌の真上で宙ぶらりんにされていた。すぐに後ろへと引っ張られて、また口の外に出る。
「気が変わったかもしれないから、もう一度だけ聞いておくよ」
あたしの顔を見ながら、オルガが勝ち誇った顔で言う。
「俺に飼われてみない?」
「……」
胸が飛び出しそうにバクバクと鳴っているのに気が付いた。そして今、助かったという
気持ちでいっぱいだった。
所詮あたしには死ぬ度胸なんて無かったんだ。
「……はい」
消え入りそうな声で、そう頷く。あたしの顔は涙で酷く濡れていた。
「そうか。賢い選択だよ」
オルガはあたしの頭を指先で撫でた。
くそぉ……!!
悔しくて、奥歯の辺りが酷くむず痒かった。
「さてと」
オルガは、手にあたしを持ったまま立ち上がる。
「ご飯にしようか」
瞬間、全身が凍りつく。
「……あぁ、違う違う。昼間の内に魚を捕っておいたんだよ」
それを聞いてほっと息が漏れる。こいつ、からかうためにわざと言ったんじゃないか?
住処の奥へ入っていって、寝かせてあった魚を徐に持ってきた。大きな魚だ。大きく開
いた口には、あたしの全身が入ってしまう。 全長となると、あたしが何匹並べば届くんだ
ろう。そんな魚を、オルガは左手だけで持っている。
オルガは胡座をかくと、あたしを地面に下ろし、いきなり魚にかぶりついた。そこにあ
った肉は根こそぎ消えた。くちゃくちゃと、オルガの口の中で噛み砕かれている。
一つ間違えれば、あたしがあの中に居たんだよなぁ。そう思うと鳥肌が立つ。
それにしても腹が減った。オルガの豪快な食いっぷりに釣られて、今まで影を潜めてい
た空腹感が復活した。
美味そうだなぁ……。
ぼーっと魚を見つめる。思わず涎が出そうになる。魚なんて親に捨てられてから一度も
食ってない。水は苦手だし、この体じゃ寧ろ魚に食われるのがオチだ。あたしにとって魚
は、滅多に食べられないご馳走なのだ。
あたしの様子に気づいたオルガは、食べるのを一旦止めた。
「ああ、ごめんね。俺ばっかり」オルガは魚を片手に持ちながら頭を掻く。「ほら、“餌
”の時間だ」
そう言うと、オルガは前に屈み込んで舌を出す。そこからべちゃりと何かが地面に落ち
た。
涎塗れの肉片だった。しっかり噛み解されてある。表面は涎でてかっている。
「……え?」
これを、食べろって言うのか?
「どうしたの? 食べないの?」
あたしの気持ちを分かっているくせに、いかにも怪訝な顔で問いかけてくる。こんなの
食べたくない。こんなベトベトの汚らしいものを口に入れるなんて、有り得ない。
だけど、気持ちに反してお腹が鳴る。そう言えば今朝から何も食べてない。もう限界だ
った。
背に腹は代えられない。
あたしはその肉片を口に入れた。
すかさず嫌な臭いが立ち上ってくる。噛む度にベチャベチャニチャニチャ気持ち悪い。
その中から必死に魚の味を探した。段々と美味しさが、僅かだけどこみ上げてくる。
オルガは満足そうに微笑んでいた。自分の吐き出した魚の肉片を口いっぱいに貪る、あ
たしの無様な姿を見て。
屈辱的だ。悔しすぎる。
でも、刃向かうわけにはいかない。そんなことしたら食べ物が貰えないどころか、あた
し自身が食べられるのだ。
「おかわりは要る?」
躊躇いながらも、あたしは頷く。まだお腹は満たされない。同じように肉片が目の前に
落とされた。それをまた頬張った。
こんな所、早く抜け出してやる。ただ、今は我慢するしかない。
あたしはそう胸に誓って、口の中のものを呑み込んだ。
【第一話・完】
12/01/05 22:22更新 / ROM-Liza