第一話:わにとドラゴン(前編)
生まれてすぐに見た景色を、あたしは未だに覚えている。厚い殻を漸く破ると、目に映
り込んだ景色はまさに壮観だった。
そして、目に映る全てが、どうしようもなく大きかった。
* * *
「――っ!」
足下を掠めた巨大な手に、羽ばたき疲れて朦朧とする意識を立て直した。
あたしの後方すぐ下には、やんちゃそうなチビ猿と、小生意気そうなこれまたチビの鼬
が追いかけてきている。
――ただ、残念なことに、そいつらに比べるとあたしは更にチビチビチビチビと言える。
つまり、あたしの体は凄く小さいということだ。
昼飯を食べようとしていた時に奴らに見つかって、その後ずっと追いかけられている。
森の中をどれだけ彷徨ったことか。
横目に空を見るといつの間にか、真っ赤な太陽が遠くの山に掛かっていた。ってことは、
昼間中ずっと追い回されていた訳だ。ホントしつこいなこいつ等。
そう思った直後、少し気が緩んでしまい、高さが落ちた。
そこをすかさずチビ猿がジャンプ。影に覆われたと思ったら、次の瞬間にはチビ猿の手
の中にあたしの体は収まっていた。
「へへーん、捕まえたぁ!」
「離せ! このチビ!」
「お前のがチビじゃんか」
ケラケラ笑いながら顔の前にあたしを引き寄せる。必死に足掻いてみるも、奴は結構き
つ目に握り締めていて、びくともしない。息苦しい。加減を知らないガキだ。
炎を吐いてみる。ぶわっと湧き上がったあたしの炎に、二匹とも全く動じなかった。相
手は炎タイプのヒコザルと、水タイプのブイゼル。どっちにも効きやしない。
そもそもあたしが吐く炎なんて、頑張っても火の粉に毛が生えた程度の勢いしかない。
空中でパッとすぐに消えてしまう。
散々逃げ回ったし、昼飯を食いそびれた所為で、そろそろ体力は限界を迎えている。抵
抗は無駄だと悟って、あたしは項垂れた。
「今日はこいつで何しようか」
「そうだねぇ」
悪戯な笑みを浮かべながら、ガキ共は頭を捻る。その間あたしは、来るべき屈辱の時を
ただ待つだけだ。下手に暴れようものなら、抑えようと力加減を誤ったガキに握り潰され
かねない。それだけあたしは小さくて、弱い存在だ。そこは自覚している。悔しいけど、
大人しくしといた方が安全だ。
だからと言って、落ち着いて悪戯を待っていられるわけでもない。こいつ等の悪戯とき
たら、最悪この上ないからだ。見た目は馬鹿っぽいくせに、悪戯のこととなるとあたしの
気が滅入りそうなことを次から次へと考える。
ある時はアーボの住処に放り込まれた。ま
たある時は体を蔓で縛られて、昼寝中のカビゴンの口元にぶら下げられた。一番許せなか
ったのは、地面に掘った穴の中にを入れられて、上から小便を引っかけられたことだ。あ
の時は溺れ死ぬかと思ったし、少し飲んじゃったし、臭いは暫く取れないし――何よりも、
雌としてのプライドをズタズタにされた。
もしもあたしが、せめて普通の大きさのリザードンだったなら、このガキ共を黒焦げに
してやるのに。本当に残念だ。
「……なぁ。もう結構空暗くね?」
「本当だ」
ガキ共が空を見上げる。西の空に僅かに夕日の色が残ってはいるけど、辺り一帯は薄暗
くなっていた。冬が近づいてきていて、日が沈むのが早い。
「どーする?」
「そういえば僕、お腹空いてきたなー。今日は走り回ったし」
「俺も。こいつが逃げやがるから……なっ!」
あたしは、顔の左半分に凸ピンという名の暴力を受ける。指一本で簡単に顔が持って行
かれた。あたしだって好きで逃げていたわけじゃない、というかこいつ等が勝手に追いか
けてきたんだから、理不尽な話だ。
だけど、じんじん痛む頬なんて気にしている暇はなかった。目の前でお腹が空いた
と言われる――これが体の小さなあたしにとって、どれほど絶望的なことか。
ヒコザルの手の中で、橙色の顔から血の気が引いていく。どうか悪戯に結び付かないこ
とを願う。
「帰るか」
「うん」
ホッと。ガキ共に気付かれないほど小さな溜息をついた。
そうだ、その調子。そしたら今度は、「今日はもう遅いから、一旦こいつを逃がそう」
とか言え。そう念じると、ヒコザルの方が口を開く。
「こいつどうしよっか? 逃がしとく? 流石に持ち帰るのは無理だろ。うちは母ちゃん
が虫とか持って帰ってくるなってうるさいし」
よし、よく言った。虫と同じ扱いなのが気に障るけど、お前偉いぞ。
後はブイゼル、お前だ。お前が賛成してくれさえすればいい。さあ、「うん」と言え!
早く!
「いや、ちょっと待って」
……あれ?
「散々追い回して、やっと捕まえたんだ。ここで逃がすのは勿体ないよ」
おい。何を仰っている。
「それもそうだな」
お前も何故賛成した?
「でも、どうするんだ?」
そうだよ。どうするんだ。
「そんなの、蔓かなんかでそこら辺に縛っとけばいいんじゃない? きつーく」
おいいいいいいいいいいいいい!!
もう黙ってなんかいられない。
「ふざけんな! 一晩中身動き取れないじゃんか! 夕飯だって食えないし、お前等が来
なきゃ、明日の朝飯も食えないんだぞ!?」
「うるさい」
「ふぐぅっ」
不満を吐き出す口を、ヒコザルに指で押さえられた。上顎と下顎を挟まれて、どうして
も開かない。
ヒコザルはそのまま話を再開する。
「それ名案! じゃあ蔓を採ってきて」
「うん!」
ブイゼルは頷くと、蔓を探しに行った。その元気な返事、もうちょっと前に聞きたかっ
たよ。ヒコザルの手の中であたしは項垂れた。
ブイゼルが蔓を見つけるのは、恐ろしく早かった。細過ぎず太過ぎず、青青としていて
長い、立派なやつを持ってきやがった。ヒコザルが試しに思い切り引っ張ったけど、びく
ともしない。
かくして、あたしは近くにあった大きめの石に縛り付けられた。縛られる最中、一瞬の
隙を突いて逃げようかと思ったけど、無駄だった。あいつ、余計な力入れ過ぎなんだよ。
「――これでよし。続きは明日だな」
「うん。じゃあねー」
「おう」
ガキ共は本当に帰りやがった。この薄情者。去っていく二匹の後姿を、恨みを込めまくっ
た眼差しで睨む。
奴らが見えなくなった後、脱出を試みる。奴らは蔓をあたしに巻いてから、石へと巻き
つけていた。二重、三重にも重なっていて、それが脚の付け根から、首の辺りにまで及ん
でいる。あたしの首が締まるのを避けてか、首の辺りは少し緩めだ。それでも頭を充分に
は動かせないので、口から炎を吐いて蔓を燃やすことはできない。
結局、どうやっても無理だった。
「……畜生、これから一晩このままかよ」
独り呟いて、空を仰ぐ。辺りはすっかり暗くなっていた。見回しても、ポケモンの気配
は全く無い。いや、あったところで助けてくれる奴なんかいないんだけど。見つかり次第、
あたしは格好の餌食だ。
ふと吹き付けてきた風に、あたしの体はぶるっと震えた。背中が接している石の表面も、
いやに冷たい。
今夜は冷えるだろうな。おなか減ったなぁ。……家に帰りたい。
あたしは俯いて地面を見つめた。
何であたしばかりが、こんな目に遭わなきゃいけないんだろう――
* * *
両親は普通のリザードンだった。一緒に生まれた兄妹たちも、普通の大きさのヒトカゲ
だった。ただ、何か異常なことが、あたしの卵には起こっていたみたいだ。
あたしが産まれた時、当然両親は驚いたらしい。それでも、他の兄妹と同じように育て
られた。兄貴や妹よりも食べ物の取り分が実質多かったのは得だった。
でも、そんな長所より、短所の方が断然多かった。気をつけていないとすぐに踏み潰さ
れそうになるし、体が小さい分、他のポケモンに食べられる危険も多かった。
兄妹喧嘩もあっと言う間に決着をつけられる。怒って飛びかかったところで体の大きい
奴等には適わない。すぐさま尻尾を摘ままれて、逆さまに吊るされる。そして大口を開け
てあたしを食べようとするかのような素振りを見せる。食べるわけがないとは思ってても、
その奥に広がる暗闇を見せつけられれば、充分に怖かった。結局、降参するのはあたし。
親の目につかない喧嘩は、いつも悔しい思いをしていた。
そんな頼りないあたしは、両親にいつも守られてばかりいた。兄弟や友達と取っ組み合
って遊ぶこともなければ、狩りの訓練もできない。寧ろ狩られてしまうのが目に見えてい
る。その所為で成長は遅くなり、兄妹がリザードに進化しても、あたしはずっとヒトカゲ
のままだった。
惨めだった。それでも死にたいなんて思ったことはない。体は小さくても、負けん気は
人一倍強いあたしは、いつか立派な姿になって皆を見返してやりたい、そう思っていた。
それなのに――
ある夜、眠っていたあたしは物音に目を覚ました。眠い瞼を擦りながら、体を起こすと、
父さんと母さんがそこにいた。何やら二人で話をしているようだったけど、よく聞き取れ
ない。まだ外は真っ暗で、よく見えなかった。
『お父さん、お母さん』何となしに呼びかける。すると二人はぎくりとした様子であたし
を見た。『どうしたの?』
『何でもないの。ほら、まだ子供は寝てる時間よ、早く寝なさい』
答えたのは母さんだった。あたしの頭を指先で撫でて、いつもの優しい笑顔で微笑んだ。
ぼんやりとした頭で、どうしてこんな時間に二人は起きてるんだろうと思った。だけど、
幼いあたしはどうしても眠気に勝てず、すぐに考えるのを止めてしまった。はあいと寝ぼ
けた声で返事をすると、またゴロンと横になって、忽ち夢の世界へと戻った。今思えば、
あの時もっと疑うべきだったんだ。
再び目を覚ました時にはもう朝になっていた。ぐっと伸びをして、勢いをつけて体を起
こす。いつもは寝坊助なあたしが、その日に限ってすっきりと起きることができた。
そして目に飛び込んできたのは、とても爽やかな朝の風景だった。空は青く晴れ渡り、
日の光が沢山の木を照らしていて、そよ風で木がさわさわと音を鳴らしている。遠くでは
小さな鳥ポケモンの鳴き声がしていた。空気も程よくひんやりとしていて心地いい。
こんなに気持ち良く目覚めることができたら、誰だっていい一日が始まるような気はす
るだろう。――ただ、その時のあたしは違った。
『ここは、どこ……?』
知らない場所だった。慌てて見回してみても、周りには両親も兄妹も、誰もいない。昨
日まではちゃんと家族みんなと一緒に住処で寝ていたはずなのに。その時、昨夜のことが
頭を掠めた。良くない考えが浮かんでくる。胸騒ぎがした。不安を振り払うかのように、
あたしは皆を探して歩き出した。
『お父さぁん! お母さぁん!』
大声で呼びながら、当てもなく歩く。当然見つからない。
一日中歩き回って、飛び回って、それでも見覚えのある場所は見つけられなかった。
三日間探し続けて、幼いあたしはやっと確信した。
あたしは捨てられたのだ。
愛想が尽きたからなのか、あたしの将来を哀れんでなのか。今でも分からない。
とりあえず、あたしを殺そうとしたのは確かだ。で、何処かに放っておけば、その内死
ぬだろうと考えたんだろう。
だったら、その場で殺してくれればよかった。こんなに小さな体だ。首を絞めるなり、
踏み潰してしまうなり、喰ってしまうなり――親心がそうさせなかったのかもしれないけ
ど、そんな中途半端な優しさなんて要らなかった。自分たちの娘に直接手を下したくない
から、遠く離れたところに一人置いてきぼりにするなんて、そんなの身勝手すぎる。
両親は今もあたしが生きているだなんて思わないだろう。勿論、今まで生き延びるのは
楽なことではなかった。誰にも守ってもらえないので、自分の身は自分で守るしかない。
移動するにも、物陰を選んで人目につかないようにしていた。
それでも命の危険には何度も遭った。今生きていることは奇跡だと思う。
食べ物の在処だって、最初は全然見当がつかなかった。空を飛べないから、リザードン
に進化するまでは、地面に落ちた木の実しか採れなかった。自分じゃ狩りはできないから、
他のポケモンのお食事中に、こっそり勝手に頂いていた。これもまた、命懸けだった。見
つかったらもうおしまいだ。
こんな毎日を送っていたから、皮肉なことに、前よりも逞しくはなった。お陰で、リザ
ードンにまで進化することが出来た。
ただ、思ったほど暮らしが変わることはなかった。空を飛べたって、食糧採集が大変な
のも、常に命の危険に晒されているのも、前と同じだ。
そして、あのガキ共に存在を知られ、悪戯されるようになる。住む場所を変えればいい
のかもしれないけど、こんな体だから、漸く慣れてきた場所をそう簡単に去る気にはなれ
ない。
今はただひたすら、我慢の日々だ。
* * *
ガサガサッ
回想に耽っていると、突然何処かで雑草が揺れる音がした。風とかの所為じゃなくて、
誰かが草むらに足を踏み入れたようだ。その後も、繁った雑草の中を突き進む音が続いた。
あちこち往き来しながら、段々あたしの許へと近づいてくる。
体を強張らせながら、あたしはただただ耳を澄ませていた。肉食のポケモンだったら、
という不安で心の中が穏やかじゃない。
そして、音の主が草むらから躍り出た。
「……」
生唾を呑んだ。月明かりに照らされた姿は、狼の形をしていた。グラエナだ。
夜の闇に溶ける黒と、月明かりに煌めく銀灰色の毛を、冷えた微風に靡かせながら歩き
始める。それが、運悪くあたしのいる方向だった。
更に悪いことに、あたしは炎の灯った自分の尻尾の存在を、今の今まで忘れていた。
「ヤバ……!」
思わず口をついて出た声に、心臓がキュッと縮んだ。奴に聞こえてはいないか。見つか
ったら、絶対に喰われるぞ……!
横目にチラッと見てみると、グラエナは別の方向を向いていた。あたしのことには今の
ところ気づいていないみたいだ。
そもそも、足下の石に小さなリザードンが縛り付けられているだなんて、考えもつかな
いのかもしれない。
グラエナが歩き出した。その行き先を目で追おうとしたけど、石に邪魔をされる。首を
伸ばしてみても、縛られているので見えやしない。
でも、足音は段々と小さくなって、やがて聞こえなくなった。
「……行った、のか?」
あたしの声が響いてしまう(気がする)ほどに、辺りはしんと静まり返っている。
大丈夫みたいだ。深く溜息をついて、ふと上を向く。
「――っ!!」
息が止まった。目線の先いっぱいに、あたしを見下ろすグラエナの顔があった。赤い瞳
が、薄い闇の中でギラギラ光っている。
鋭く尖った牙。それらが綺麗に整った歯並び。その隙間からタラーッと、見るからに粘
っこい透明な汁が細く伸びながら落ちる。それを見て、背筋が寒くなった。
グラエナは次に、あたしの正面に回り込むそして、あたしの頭よりも一回り大きな赤い
鼻を、体に付くか付かないかの所まで近付けて、あたしの匂いを嗅ぎ始めた。ざらつい
た表面が、時々体を擦る。
だけど、擽ったいなんて呑気なことは言っていられない。この後には、あたしの体がこ
いつの腹の中に収まっていても可笑しくはないんだから。
一頻り匂いを嗅ぐと、グラエナは顔を上げる。
「姿は見えねぇのに匂いがすると思ったら、お前か」
そう独り言を言うと、更に続ける。
「小せぇ体だな。初めて見たときには、ちっとばかし驚いたよ。何だって、こんなトコに
縛られてんだ?」
「……何で見ず知らずのお前に、そんなこと言わなきゃなんないんだよ」
ぶっきらぼうに言い放った。正直今、全身が震えている。怖い。だから虚勢を張ってい
る。そうでもしないと、恐怖に打ち拉がれそうだ。
「ハハッ! 威勢がいいな」
上を向いて笑うと、グラエナはあたしの方に顔を戻す。
「――本当、喰っちまいたいぐれぇだ」
周りの寒さ以上に、その言葉があたしを冷たく突き刺した。
ひん剥かれた大きな目の中には、目の前の獲物に狙いを定めた小さな瞳が浮かんでいる。
ちょっと目線を落とせば、開かれた口から、涎でてらてらと光る舌がだらしなく垂れ下が
っている。
ヤバい。こいつ本気だ。
「あんた馬鹿? 少しは考えろよ。腹減ってるんだろ? こんな小さくて痩せた奴を喰っ
ても腹の足しにもなんないじゃん」
「ハハ、必死だなぁ」
グラエナがにやりと笑う。こっちの考えていることはお見通しのようだ。と言うより、
あたしが分かり易いだけか。まさしく図星なことを言われて、そこで言葉に詰まってしま
った。
「腹が減ってるっつってもなぁ、小腹が空いてる程度だ。そんで、何か居ないか探し回っ
てたんだがよぉ――そしたら、丁度いい大きさの奴がいるじゃねぇか」
隠していた震えが大きくなって、自分ではどうしようもなくなってきた。グラエナはそ
の様子を楽しそうに上から見下ろすと、話を続ける。
「それにだ。お前みたいな奴を散々泣き喚かせた挙げ句呑み込んでやるのも、なかなか乙
なもんだと思わねぇか?」
「そんなわけ……」
そう言い掛けて、思わず声が止まった。いつの間にか、グラエナの顔が真正面に来てい
た。
「ククク、当てが外れて残念だったなぁ」
不敵な笑みに吊り上がった口元と、生温かい息。それと、幽かに血の臭い。
多分、今までにこいつの犠牲になった奴らの――そう思うと、激しい寒気と吐き気に襲
われる。
「そうやって縛られてちゃ不憫だよな。俺が自由にしてやるよ」
そう言って、グラエナは徐に大きく口を開く。視界いっぱいに、鋭い牙とピンク色の口
内が映る。そして、その奥の闇までもが露わになった。
「やめ……」
ガッ
すぐ隣で音がした。石に牙が当たったらしい。一瞬のことだった。
「暴れんじゃねぇよ。怪我しても知らねぇかんな」
* * *
グラエナは、自分の牙を蔓と石の間に引っ掛けようとしていた。引っ掛けた蔓を引っ張
る度に、あたしの体はきつく締められる。痛いと訴えても、止める気配はない。
――ベロン
「ひゃあ!?」
急にグラエナがあたしの全身を舐め上げる。ぬるぬるした涎の下に、ざらついた感触があ
った。
「な、何すんだ!」
「へへへ、悪い悪い」
グラエナは一旦舌を口の中にしまうと、味わうように転がす。
「それにしてもよぉ、思ったよりもお前って旨いなぁ」
「は……?」
「謙遜するこたぁねぇだろ」
ケヘヘと下品な笑い声を漏らして、蔓を切る作業に戻った。身震いがした。
その時、ブチッという音がした。蔓の切れる音だ。2、3巻き分の蔓が地面に落ちる。
圧迫される感じは少し和らいだけど、それはそのまま、グラエナの腹に収まる時が近くな
ったっていうことだ。何とか脱出しないと。
考えあぐねていると、首筋に掛かっていた蔦が切られた。
占めた。頭さえ自由になれば、蔦を焼き切れる。そして、後は全速力で逃げればいい。
ある程度高くまで飛べば、まず捕まる心配はない――その段階までいけるか分からないけ
ど、何もせず喰われるのを待つよりかはよっぽどマシだ。
幸いグラエナは蔦を噛み切るのに専念している。なかなか上手く牙が引っ掛からないら
しく、完全にこっちの様子を見ていない。不意を突けば、逃げ切れる見込みはある。
あたしはグラエナの陰になる部分の蔦に、そっと火を点けた。ジリジリと静かに蔦は焼
けていく。
そして遂に、全部の蔦が一斉にプツリと焼き切れた。それを見計らって、あたしは足の
裏で石の表面を力強く蹴り、空中に飛び出した。ここでグラエナも異変に気付いたみたい
だ。
すかさずあたしは、両翼を広げ精一杯に羽ばたいた。そこに横からグラエナが飛びかか
る。でもそれは予想の内だ。羽ばたきながら顔を横に向けて、奴の鼻頭にありったけの炎
を吐いてやった。
「熱チィッ!」
グラエナはそう叫ぶと、前足で鼻を押さえて、地面に転がり込んだ。
よし、上手くいった!
逃げ切れることを確信して、ざまあみやがれと悪態を付くと、あたしは前を向く。
すると突然、背中に途方もないほどの重しを乗せられたような感じがした。目の前の景
色が急降下して、あたしの体は地面に強く叩きつけられる。
声にならない痛さだった。特に痛かったのは背中から腹にかけてで、そこにはまだ押さ
えつけられている感覚があった。痛みと相まって、息が上手く出来ない。
「ううっ……」
「随分とナメた真似をしてくれたなぁ。お陰で鼻を火傷しちまったじゃねーか」
上から不機嫌そうなグラエナの声がした。最悪だ。
グラエナはあたしが思っていたよりも、怯みからの立ち直りは早く、おまけにジャンプ
力もあったらしい。
「雑魚は雑魚で、大人しく喰われるのを待ってりゃ良かったのによぉ」
グラエナは前足で、あたしの背中をぐりぐりと押す。背中と腹が猛烈に痛む。今なら血
が吐けそうだ。
「悪い子にはお仕置きだ」
不敵に笑うと、グラエナは舌を見せながら顔を近づけてきた。その時、たっぷり湧き出
ていた奴の涎が体にかかる。奴の口元は涎で溢れかえっていた。
ベロ……
全身が寒気に震えた。またのこと、下から舐め上げられる。
奴は同じように2、3回舐めると、今度は部分的に舐め始めた。顔、首筋、胴、股の間、足――あたしの体は顔を顰めたくなる臭いを
放ちながら、てかっていた。
舐めている間、奴は前足をあたしの背中から退けていた。それもあって、息苦しさから
は少し解放され、何とか喋れるくらいまでに痛みも引いた。
「あぁ、旨ぇ」
散々舐めた後、満足そうにグラエナは言う。
あたしはというと、口に入った奴の涎を吐き
出して、肩で息をしていた。舐め回されただけで相当体力を消耗した。
もう、逃げられそうもない。
「それじゃあ、そろそろお別れだな」
もはやグラエナの言葉をぼんやりと聞いていた。
――ああ、もう死ぬんだな、あたし。
恐怖はいつしか薄れて、代わりに諦めの気持ちが強まった。逃げられる希望が打ち砕か
れたからかもしれない。何だか何もかもどうでも良くなってきた。
寧ろ、何で今まで生きていたんだろう、と思う。こんなに辛い思いばかりするなら、さ
っさと喰われとけば良かったんだ。
「自分を捨てた親に文句の一つでも言ってやる」だなんてつまんない意地を張らなければ、
こんな仕打ちも受けなくて済んだ。
でも、こんな目に遭うのも今日で終わりだ。これであたしは楽になれる。
あたしは目を閉じた。呑み込むなら、さっさと呑んでしまってくれ。
そう念じた時、頭の中に何かが浮かび上がってきた。ぼやけていた景色が段々と鮮やか
になってきて――漸く見えたのは、幼い日の自分の姿だった。
両親も一緒にいた。今となっては両親の顔なんてはっきり覚えてないから、その辺は影
が掛かってあやふやになっている。
記憶の中のあたしは、父さんに泣きついていた。兄貴か妹に苛められたんだろう。あの
時のあたしは、今では信じられないくらいに華奢で泣き虫だった。
父さんは、目を真っ赤にしたあたしを手に乗せ、指先で撫でていた。その横では母さん
が何か言っている。声は聞こえないけど。二人とも穏やかな表情をしている。凄く懐かし
かった。
忘れかけてたけど、あたしは父さんと母さんのことが大好きだったんだ。どんなに辛い
ことがあっても、父さんと母さんに慰めてもらえばあたしは平気だった。
だから――そんな両親に捨てられたのは悔しいけど、もう一度会いたい。会って、まず
はあたしを捨てたことを散々怒って、それから――思う存分甘えたい。いい年こいて何考
えてるんだっていう感じだけど、元々あたしはそんなに強くない。雄みたいな荒い言葉遣
いだって、自分の弱さを少しでも隠すために始めた。
でも、結局駄目だ。自分一人でも生きていけると高を括っていたけど、やっぱり限界が
ある。どんなに頑張っても、一人じゃ不自由なことが多い。独りきりで過ごす夜は、寂
しいし、不安ばかりだ。あたしを想ってくれる、あたしの味方でいてくれる誰かが、傍に
いて欲しい。
記憶の中のあたしが泣き止み、やがて笑顔になった。幸せそうな顔をしている。胸の中
がじんわり温かくなった。そうしてあたしは確信した。
――あたしは、まだ生きていたい。
ハッと我に返ると、手の届く先にグラエナの牙があった。一本一本が、あたしの体を貫
けるほどに長く鋭い。
「このォ……!」
両手を使って、一本の牙を押し退け――ようとするけど、びくともしない。
「何だ? 大人しくなったと思ったら、急に元気になったな」
「ふざけんな! 喰われてたまるか!」
虚勢を張ってみるけれど、効果はまるでなし。命の危機に差し掛かっていることに変わ
りない。
あたしの体力に限界が来ていた。伸しかかってくる途轍もない重量に、両腕がぷるぷる
と震える。
すると、何を思ったか、グラエナが顔を動かした。突然のことに、あたしは前のめりに
なる。その時、あたしの左腕がグラエナの牙を掠めた。
「痛っ」
倒れたその拍子に、左腕の様子が見えてしまった。血で染まっていた。気付いた途端に、
左腕が熱くなってきた。あまり痛くはない。多分傷は浅いと思う。
ただ、勢い良くスパッと切れて、出血が酷い。
上からグラエナが背中を押さえつけてきた。一瞬だけ低い呻き声が出る。身動きができな
いのをいいことに、グラエナは左腕の血を舐めてきた。
「うぅ……」
「旨ぇなぁ」
左腕を覆っていた血は全部舐めとられた。だけど、傷口からはまだ血が流れ続ける。あ
たしの死が迫ってきているような気がした。
「どうした? 顔が青いぞ」
「うるさい、お前の目がおかしいんだろ!」
あたしは声を荒げる。精一杯の強がりにも力が入らない。焦りを感じてきて、胸の音が
やけに響いて聞こえた。
「そうかねぇ」
グラエナの返答は、あたしの心の内を知っているかのような口振りだった。
「大丈夫だよ。お前のことを噛み砕いて喰う気はねぇよ」
顔をグッと近付けてきた。グラエナの鼻の頭が、顔に当たっている。
「――そのまんま、丸ごと俺の腹の中に収まるんだ」
その一言に体中の熱を奪われた。丸ごと? 生きたまま、食べられるの? そんなの嫌だ。
噛み砕かれるのも嫌だけど、生きたまま呑み込まれるのはもっと嫌だ。溶かされる苦しみ
を味わいながら死んでいかなきゃならないなんて、こんな柄の悪いグラエナなんかの生き
る糧にされてしまうなんて、絶対に嫌だ。
でも逃げられない。あたしにはその術がないのだ。今まで散々命の危険に遭ってきたけ
ど、今度こそ覚悟しなくちゃならない。
弱い奴は生きていけない。そんなことは日々生きる中でむざむざと見せつけられてきた。
殺されたポケモンが死肉を貪られる様子を見て、明日は我が身だ、いつ死んだっておかし
くないということを充分すぎるくらいに分かっていて、覚悟しているはずだった。
だけど、生きる目的を思い出した以上、死ぬことがとても恐ろしくなってしまった。
「……けて」
「あ?」
「助けて……お願いだから……死にたくないんだ……」
さっきまでと一転、あたしは自分でも驚くほどか細い声で、そう言った。
情けない。こんな奴に命乞いをするなんて。それでも突然の涙と体の震えは、どうにも隠
せそうにない。
「お前もやっぱ雌なんだなぁ。可愛い声が出せるじゃねぇか」
グラエナは満足そうに呟くと、舌舐めずりをした。
「散々いたぶって悪かったな。だが、もう楽になれるぜ?」
あたしは力無く首を横に振りながら、「嫌だ、嫌だ」とうわ言のように呟いた。この反
応も、グラエナを愉しませるだけ。気が変わるはずもない。
「ヘヘッ。いただきまあす」
グラエナが口を開く。大量の涎が宙を舞い、そのいくらかがあたしに降りかかった。そし
て次の瞬間には、視界がグラエナの口の中に覆われて、一気に暗くなった。
――死にたくない!!
あたしは涙を零し、強く目を瞑った。
り込んだ景色はまさに壮観だった。
そして、目に映る全てが、どうしようもなく大きかった。
* * *
「――っ!」
足下を掠めた巨大な手に、羽ばたき疲れて朦朧とする意識を立て直した。
あたしの後方すぐ下には、やんちゃそうなチビ猿と、小生意気そうなこれまたチビの鼬
が追いかけてきている。
――ただ、残念なことに、そいつらに比べるとあたしは更にチビチビチビチビと言える。
つまり、あたしの体は凄く小さいということだ。
昼飯を食べようとしていた時に奴らに見つかって、その後ずっと追いかけられている。
森の中をどれだけ彷徨ったことか。
横目に空を見るといつの間にか、真っ赤な太陽が遠くの山に掛かっていた。ってことは、
昼間中ずっと追い回されていた訳だ。ホントしつこいなこいつ等。
そう思った直後、少し気が緩んでしまい、高さが落ちた。
そこをすかさずチビ猿がジャンプ。影に覆われたと思ったら、次の瞬間にはチビ猿の手
の中にあたしの体は収まっていた。
「へへーん、捕まえたぁ!」
「離せ! このチビ!」
「お前のがチビじゃんか」
ケラケラ笑いながら顔の前にあたしを引き寄せる。必死に足掻いてみるも、奴は結構き
つ目に握り締めていて、びくともしない。息苦しい。加減を知らないガキだ。
炎を吐いてみる。ぶわっと湧き上がったあたしの炎に、二匹とも全く動じなかった。相
手は炎タイプのヒコザルと、水タイプのブイゼル。どっちにも効きやしない。
そもそもあたしが吐く炎なんて、頑張っても火の粉に毛が生えた程度の勢いしかない。
空中でパッとすぐに消えてしまう。
散々逃げ回ったし、昼飯を食いそびれた所為で、そろそろ体力は限界を迎えている。抵
抗は無駄だと悟って、あたしは項垂れた。
「今日はこいつで何しようか」
「そうだねぇ」
悪戯な笑みを浮かべながら、ガキ共は頭を捻る。その間あたしは、来るべき屈辱の時を
ただ待つだけだ。下手に暴れようものなら、抑えようと力加減を誤ったガキに握り潰され
かねない。それだけあたしは小さくて、弱い存在だ。そこは自覚している。悔しいけど、
大人しくしといた方が安全だ。
だからと言って、落ち着いて悪戯を待っていられるわけでもない。こいつ等の悪戯とき
たら、最悪この上ないからだ。見た目は馬鹿っぽいくせに、悪戯のこととなるとあたしの
気が滅入りそうなことを次から次へと考える。
ある時はアーボの住処に放り込まれた。ま
たある時は体を蔓で縛られて、昼寝中のカビゴンの口元にぶら下げられた。一番許せなか
ったのは、地面に掘った穴の中にを入れられて、上から小便を引っかけられたことだ。あ
の時は溺れ死ぬかと思ったし、少し飲んじゃったし、臭いは暫く取れないし――何よりも、
雌としてのプライドをズタズタにされた。
もしもあたしが、せめて普通の大きさのリザードンだったなら、このガキ共を黒焦げに
してやるのに。本当に残念だ。
「……なぁ。もう結構空暗くね?」
「本当だ」
ガキ共が空を見上げる。西の空に僅かに夕日の色が残ってはいるけど、辺り一帯は薄暗
くなっていた。冬が近づいてきていて、日が沈むのが早い。
「どーする?」
「そういえば僕、お腹空いてきたなー。今日は走り回ったし」
「俺も。こいつが逃げやがるから……なっ!」
あたしは、顔の左半分に凸ピンという名の暴力を受ける。指一本で簡単に顔が持って行
かれた。あたしだって好きで逃げていたわけじゃない、というかこいつ等が勝手に追いか
けてきたんだから、理不尽な話だ。
だけど、じんじん痛む頬なんて気にしている暇はなかった。目の前でお腹が空いた
と言われる――これが体の小さなあたしにとって、どれほど絶望的なことか。
ヒコザルの手の中で、橙色の顔から血の気が引いていく。どうか悪戯に結び付かないこ
とを願う。
「帰るか」
「うん」
ホッと。ガキ共に気付かれないほど小さな溜息をついた。
そうだ、その調子。そしたら今度は、「今日はもう遅いから、一旦こいつを逃がそう」
とか言え。そう念じると、ヒコザルの方が口を開く。
「こいつどうしよっか? 逃がしとく? 流石に持ち帰るのは無理だろ。うちは母ちゃん
が虫とか持って帰ってくるなってうるさいし」
よし、よく言った。虫と同じ扱いなのが気に障るけど、お前偉いぞ。
後はブイゼル、お前だ。お前が賛成してくれさえすればいい。さあ、「うん」と言え!
早く!
「いや、ちょっと待って」
……あれ?
「散々追い回して、やっと捕まえたんだ。ここで逃がすのは勿体ないよ」
おい。何を仰っている。
「それもそうだな」
お前も何故賛成した?
「でも、どうするんだ?」
そうだよ。どうするんだ。
「そんなの、蔓かなんかでそこら辺に縛っとけばいいんじゃない? きつーく」
おいいいいいいいいいいいいい!!
もう黙ってなんかいられない。
「ふざけんな! 一晩中身動き取れないじゃんか! 夕飯だって食えないし、お前等が来
なきゃ、明日の朝飯も食えないんだぞ!?」
「うるさい」
「ふぐぅっ」
不満を吐き出す口を、ヒコザルに指で押さえられた。上顎と下顎を挟まれて、どうして
も開かない。
ヒコザルはそのまま話を再開する。
「それ名案! じゃあ蔓を採ってきて」
「うん!」
ブイゼルは頷くと、蔓を探しに行った。その元気な返事、もうちょっと前に聞きたかっ
たよ。ヒコザルの手の中であたしは項垂れた。
ブイゼルが蔓を見つけるのは、恐ろしく早かった。細過ぎず太過ぎず、青青としていて
長い、立派なやつを持ってきやがった。ヒコザルが試しに思い切り引っ張ったけど、びく
ともしない。
かくして、あたしは近くにあった大きめの石に縛り付けられた。縛られる最中、一瞬の
隙を突いて逃げようかと思ったけど、無駄だった。あいつ、余計な力入れ過ぎなんだよ。
「――これでよし。続きは明日だな」
「うん。じゃあねー」
「おう」
ガキ共は本当に帰りやがった。この薄情者。去っていく二匹の後姿を、恨みを込めまくっ
た眼差しで睨む。
奴らが見えなくなった後、脱出を試みる。奴らは蔓をあたしに巻いてから、石へと巻き
つけていた。二重、三重にも重なっていて、それが脚の付け根から、首の辺りにまで及ん
でいる。あたしの首が締まるのを避けてか、首の辺りは少し緩めだ。それでも頭を充分に
は動かせないので、口から炎を吐いて蔓を燃やすことはできない。
結局、どうやっても無理だった。
「……畜生、これから一晩このままかよ」
独り呟いて、空を仰ぐ。辺りはすっかり暗くなっていた。見回しても、ポケモンの気配
は全く無い。いや、あったところで助けてくれる奴なんかいないんだけど。見つかり次第、
あたしは格好の餌食だ。
ふと吹き付けてきた風に、あたしの体はぶるっと震えた。背中が接している石の表面も、
いやに冷たい。
今夜は冷えるだろうな。おなか減ったなぁ。……家に帰りたい。
あたしは俯いて地面を見つめた。
何であたしばかりが、こんな目に遭わなきゃいけないんだろう――
* * *
両親は普通のリザードンだった。一緒に生まれた兄妹たちも、普通の大きさのヒトカゲ
だった。ただ、何か異常なことが、あたしの卵には起こっていたみたいだ。
あたしが産まれた時、当然両親は驚いたらしい。それでも、他の兄妹と同じように育て
られた。兄貴や妹よりも食べ物の取り分が実質多かったのは得だった。
でも、そんな長所より、短所の方が断然多かった。気をつけていないとすぐに踏み潰さ
れそうになるし、体が小さい分、他のポケモンに食べられる危険も多かった。
兄妹喧嘩もあっと言う間に決着をつけられる。怒って飛びかかったところで体の大きい
奴等には適わない。すぐさま尻尾を摘ままれて、逆さまに吊るされる。そして大口を開け
てあたしを食べようとするかのような素振りを見せる。食べるわけがないとは思ってても、
その奥に広がる暗闇を見せつけられれば、充分に怖かった。結局、降参するのはあたし。
親の目につかない喧嘩は、いつも悔しい思いをしていた。
そんな頼りないあたしは、両親にいつも守られてばかりいた。兄弟や友達と取っ組み合
って遊ぶこともなければ、狩りの訓練もできない。寧ろ狩られてしまうのが目に見えてい
る。その所為で成長は遅くなり、兄妹がリザードに進化しても、あたしはずっとヒトカゲ
のままだった。
惨めだった。それでも死にたいなんて思ったことはない。体は小さくても、負けん気は
人一倍強いあたしは、いつか立派な姿になって皆を見返してやりたい、そう思っていた。
それなのに――
ある夜、眠っていたあたしは物音に目を覚ました。眠い瞼を擦りながら、体を起こすと、
父さんと母さんがそこにいた。何やら二人で話をしているようだったけど、よく聞き取れ
ない。まだ外は真っ暗で、よく見えなかった。
『お父さん、お母さん』何となしに呼びかける。すると二人はぎくりとした様子であたし
を見た。『どうしたの?』
『何でもないの。ほら、まだ子供は寝てる時間よ、早く寝なさい』
答えたのは母さんだった。あたしの頭を指先で撫でて、いつもの優しい笑顔で微笑んだ。
ぼんやりとした頭で、どうしてこんな時間に二人は起きてるんだろうと思った。だけど、
幼いあたしはどうしても眠気に勝てず、すぐに考えるのを止めてしまった。はあいと寝ぼ
けた声で返事をすると、またゴロンと横になって、忽ち夢の世界へと戻った。今思えば、
あの時もっと疑うべきだったんだ。
再び目を覚ました時にはもう朝になっていた。ぐっと伸びをして、勢いをつけて体を起
こす。いつもは寝坊助なあたしが、その日に限ってすっきりと起きることができた。
そして目に飛び込んできたのは、とても爽やかな朝の風景だった。空は青く晴れ渡り、
日の光が沢山の木を照らしていて、そよ風で木がさわさわと音を鳴らしている。遠くでは
小さな鳥ポケモンの鳴き声がしていた。空気も程よくひんやりとしていて心地いい。
こんなに気持ち良く目覚めることができたら、誰だっていい一日が始まるような気はす
るだろう。――ただ、その時のあたしは違った。
『ここは、どこ……?』
知らない場所だった。慌てて見回してみても、周りには両親も兄妹も、誰もいない。昨
日まではちゃんと家族みんなと一緒に住処で寝ていたはずなのに。その時、昨夜のことが
頭を掠めた。良くない考えが浮かんでくる。胸騒ぎがした。不安を振り払うかのように、
あたしは皆を探して歩き出した。
『お父さぁん! お母さぁん!』
大声で呼びながら、当てもなく歩く。当然見つからない。
一日中歩き回って、飛び回って、それでも見覚えのある場所は見つけられなかった。
三日間探し続けて、幼いあたしはやっと確信した。
あたしは捨てられたのだ。
愛想が尽きたからなのか、あたしの将来を哀れんでなのか。今でも分からない。
とりあえず、あたしを殺そうとしたのは確かだ。で、何処かに放っておけば、その内死
ぬだろうと考えたんだろう。
だったら、その場で殺してくれればよかった。こんなに小さな体だ。首を絞めるなり、
踏み潰してしまうなり、喰ってしまうなり――親心がそうさせなかったのかもしれないけ
ど、そんな中途半端な優しさなんて要らなかった。自分たちの娘に直接手を下したくない
から、遠く離れたところに一人置いてきぼりにするなんて、そんなの身勝手すぎる。
両親は今もあたしが生きているだなんて思わないだろう。勿論、今まで生き延びるのは
楽なことではなかった。誰にも守ってもらえないので、自分の身は自分で守るしかない。
移動するにも、物陰を選んで人目につかないようにしていた。
それでも命の危険には何度も遭った。今生きていることは奇跡だと思う。
食べ物の在処だって、最初は全然見当がつかなかった。空を飛べないから、リザードン
に進化するまでは、地面に落ちた木の実しか採れなかった。自分じゃ狩りはできないから、
他のポケモンのお食事中に、こっそり勝手に頂いていた。これもまた、命懸けだった。見
つかったらもうおしまいだ。
こんな毎日を送っていたから、皮肉なことに、前よりも逞しくはなった。お陰で、リザ
ードンにまで進化することが出来た。
ただ、思ったほど暮らしが変わることはなかった。空を飛べたって、食糧採集が大変な
のも、常に命の危険に晒されているのも、前と同じだ。
そして、あのガキ共に存在を知られ、悪戯されるようになる。住む場所を変えればいい
のかもしれないけど、こんな体だから、漸く慣れてきた場所をそう簡単に去る気にはなれ
ない。
今はただひたすら、我慢の日々だ。
* * *
ガサガサッ
回想に耽っていると、突然何処かで雑草が揺れる音がした。風とかの所為じゃなくて、
誰かが草むらに足を踏み入れたようだ。その後も、繁った雑草の中を突き進む音が続いた。
あちこち往き来しながら、段々あたしの許へと近づいてくる。
体を強張らせながら、あたしはただただ耳を澄ませていた。肉食のポケモンだったら、
という不安で心の中が穏やかじゃない。
そして、音の主が草むらから躍り出た。
「……」
生唾を呑んだ。月明かりに照らされた姿は、狼の形をしていた。グラエナだ。
夜の闇に溶ける黒と、月明かりに煌めく銀灰色の毛を、冷えた微風に靡かせながら歩き
始める。それが、運悪くあたしのいる方向だった。
更に悪いことに、あたしは炎の灯った自分の尻尾の存在を、今の今まで忘れていた。
「ヤバ……!」
思わず口をついて出た声に、心臓がキュッと縮んだ。奴に聞こえてはいないか。見つか
ったら、絶対に喰われるぞ……!
横目にチラッと見てみると、グラエナは別の方向を向いていた。あたしのことには今の
ところ気づいていないみたいだ。
そもそも、足下の石に小さなリザードンが縛り付けられているだなんて、考えもつかな
いのかもしれない。
グラエナが歩き出した。その行き先を目で追おうとしたけど、石に邪魔をされる。首を
伸ばしてみても、縛られているので見えやしない。
でも、足音は段々と小さくなって、やがて聞こえなくなった。
「……行った、のか?」
あたしの声が響いてしまう(気がする)ほどに、辺りはしんと静まり返っている。
大丈夫みたいだ。深く溜息をついて、ふと上を向く。
「――っ!!」
息が止まった。目線の先いっぱいに、あたしを見下ろすグラエナの顔があった。赤い瞳
が、薄い闇の中でギラギラ光っている。
鋭く尖った牙。それらが綺麗に整った歯並び。その隙間からタラーッと、見るからに粘
っこい透明な汁が細く伸びながら落ちる。それを見て、背筋が寒くなった。
グラエナは次に、あたしの正面に回り込むそして、あたしの頭よりも一回り大きな赤い
鼻を、体に付くか付かないかの所まで近付けて、あたしの匂いを嗅ぎ始めた。ざらつい
た表面が、時々体を擦る。
だけど、擽ったいなんて呑気なことは言っていられない。この後には、あたしの体がこ
いつの腹の中に収まっていても可笑しくはないんだから。
一頻り匂いを嗅ぐと、グラエナは顔を上げる。
「姿は見えねぇのに匂いがすると思ったら、お前か」
そう独り言を言うと、更に続ける。
「小せぇ体だな。初めて見たときには、ちっとばかし驚いたよ。何だって、こんなトコに
縛られてんだ?」
「……何で見ず知らずのお前に、そんなこと言わなきゃなんないんだよ」
ぶっきらぼうに言い放った。正直今、全身が震えている。怖い。だから虚勢を張ってい
る。そうでもしないと、恐怖に打ち拉がれそうだ。
「ハハッ! 威勢がいいな」
上を向いて笑うと、グラエナはあたしの方に顔を戻す。
「――本当、喰っちまいたいぐれぇだ」
周りの寒さ以上に、その言葉があたしを冷たく突き刺した。
ひん剥かれた大きな目の中には、目の前の獲物に狙いを定めた小さな瞳が浮かんでいる。
ちょっと目線を落とせば、開かれた口から、涎でてらてらと光る舌がだらしなく垂れ下が
っている。
ヤバい。こいつ本気だ。
「あんた馬鹿? 少しは考えろよ。腹減ってるんだろ? こんな小さくて痩せた奴を喰っ
ても腹の足しにもなんないじゃん」
「ハハ、必死だなぁ」
グラエナがにやりと笑う。こっちの考えていることはお見通しのようだ。と言うより、
あたしが分かり易いだけか。まさしく図星なことを言われて、そこで言葉に詰まってしま
った。
「腹が減ってるっつってもなぁ、小腹が空いてる程度だ。そんで、何か居ないか探し回っ
てたんだがよぉ――そしたら、丁度いい大きさの奴がいるじゃねぇか」
隠していた震えが大きくなって、自分ではどうしようもなくなってきた。グラエナはそ
の様子を楽しそうに上から見下ろすと、話を続ける。
「それにだ。お前みたいな奴を散々泣き喚かせた挙げ句呑み込んでやるのも、なかなか乙
なもんだと思わねぇか?」
「そんなわけ……」
そう言い掛けて、思わず声が止まった。いつの間にか、グラエナの顔が真正面に来てい
た。
「ククク、当てが外れて残念だったなぁ」
不敵な笑みに吊り上がった口元と、生温かい息。それと、幽かに血の臭い。
多分、今までにこいつの犠牲になった奴らの――そう思うと、激しい寒気と吐き気に襲
われる。
「そうやって縛られてちゃ不憫だよな。俺が自由にしてやるよ」
そう言って、グラエナは徐に大きく口を開く。視界いっぱいに、鋭い牙とピンク色の口
内が映る。そして、その奥の闇までもが露わになった。
「やめ……」
ガッ
すぐ隣で音がした。石に牙が当たったらしい。一瞬のことだった。
「暴れんじゃねぇよ。怪我しても知らねぇかんな」
* * *
グラエナは、自分の牙を蔓と石の間に引っ掛けようとしていた。引っ掛けた蔓を引っ張
る度に、あたしの体はきつく締められる。痛いと訴えても、止める気配はない。
――ベロン
「ひゃあ!?」
急にグラエナがあたしの全身を舐め上げる。ぬるぬるした涎の下に、ざらついた感触があ
った。
「な、何すんだ!」
「へへへ、悪い悪い」
グラエナは一旦舌を口の中にしまうと、味わうように転がす。
「それにしてもよぉ、思ったよりもお前って旨いなぁ」
「は……?」
「謙遜するこたぁねぇだろ」
ケヘヘと下品な笑い声を漏らして、蔓を切る作業に戻った。身震いがした。
その時、ブチッという音がした。蔓の切れる音だ。2、3巻き分の蔓が地面に落ちる。
圧迫される感じは少し和らいだけど、それはそのまま、グラエナの腹に収まる時が近くな
ったっていうことだ。何とか脱出しないと。
考えあぐねていると、首筋に掛かっていた蔦が切られた。
占めた。頭さえ自由になれば、蔦を焼き切れる。そして、後は全速力で逃げればいい。
ある程度高くまで飛べば、まず捕まる心配はない――その段階までいけるか分からないけ
ど、何もせず喰われるのを待つよりかはよっぽどマシだ。
幸いグラエナは蔦を噛み切るのに専念している。なかなか上手く牙が引っ掛からないら
しく、完全にこっちの様子を見ていない。不意を突けば、逃げ切れる見込みはある。
あたしはグラエナの陰になる部分の蔦に、そっと火を点けた。ジリジリと静かに蔦は焼
けていく。
そして遂に、全部の蔦が一斉にプツリと焼き切れた。それを見計らって、あたしは足の
裏で石の表面を力強く蹴り、空中に飛び出した。ここでグラエナも異変に気付いたみたい
だ。
すかさずあたしは、両翼を広げ精一杯に羽ばたいた。そこに横からグラエナが飛びかか
る。でもそれは予想の内だ。羽ばたきながら顔を横に向けて、奴の鼻頭にありったけの炎
を吐いてやった。
「熱チィッ!」
グラエナはそう叫ぶと、前足で鼻を押さえて、地面に転がり込んだ。
よし、上手くいった!
逃げ切れることを確信して、ざまあみやがれと悪態を付くと、あたしは前を向く。
すると突然、背中に途方もないほどの重しを乗せられたような感じがした。目の前の景
色が急降下して、あたしの体は地面に強く叩きつけられる。
声にならない痛さだった。特に痛かったのは背中から腹にかけてで、そこにはまだ押さ
えつけられている感覚があった。痛みと相まって、息が上手く出来ない。
「ううっ……」
「随分とナメた真似をしてくれたなぁ。お陰で鼻を火傷しちまったじゃねーか」
上から不機嫌そうなグラエナの声がした。最悪だ。
グラエナはあたしが思っていたよりも、怯みからの立ち直りは早く、おまけにジャンプ
力もあったらしい。
「雑魚は雑魚で、大人しく喰われるのを待ってりゃ良かったのによぉ」
グラエナは前足で、あたしの背中をぐりぐりと押す。背中と腹が猛烈に痛む。今なら血
が吐けそうだ。
「悪い子にはお仕置きだ」
不敵に笑うと、グラエナは舌を見せながら顔を近づけてきた。その時、たっぷり湧き出
ていた奴の涎が体にかかる。奴の口元は涎で溢れかえっていた。
ベロ……
全身が寒気に震えた。またのこと、下から舐め上げられる。
奴は同じように2、3回舐めると、今度は部分的に舐め始めた。顔、首筋、胴、股の間、足――あたしの体は顔を顰めたくなる臭いを
放ちながら、てかっていた。
舐めている間、奴は前足をあたしの背中から退けていた。それもあって、息苦しさから
は少し解放され、何とか喋れるくらいまでに痛みも引いた。
「あぁ、旨ぇ」
散々舐めた後、満足そうにグラエナは言う。
あたしはというと、口に入った奴の涎を吐き
出して、肩で息をしていた。舐め回されただけで相当体力を消耗した。
もう、逃げられそうもない。
「それじゃあ、そろそろお別れだな」
もはやグラエナの言葉をぼんやりと聞いていた。
――ああ、もう死ぬんだな、あたし。
恐怖はいつしか薄れて、代わりに諦めの気持ちが強まった。逃げられる希望が打ち砕か
れたからかもしれない。何だか何もかもどうでも良くなってきた。
寧ろ、何で今まで生きていたんだろう、と思う。こんなに辛い思いばかりするなら、さ
っさと喰われとけば良かったんだ。
「自分を捨てた親に文句の一つでも言ってやる」だなんてつまんない意地を張らなければ、
こんな仕打ちも受けなくて済んだ。
でも、こんな目に遭うのも今日で終わりだ。これであたしは楽になれる。
あたしは目を閉じた。呑み込むなら、さっさと呑んでしまってくれ。
そう念じた時、頭の中に何かが浮かび上がってきた。ぼやけていた景色が段々と鮮やか
になってきて――漸く見えたのは、幼い日の自分の姿だった。
両親も一緒にいた。今となっては両親の顔なんてはっきり覚えてないから、その辺は影
が掛かってあやふやになっている。
記憶の中のあたしは、父さんに泣きついていた。兄貴か妹に苛められたんだろう。あの
時のあたしは、今では信じられないくらいに華奢で泣き虫だった。
父さんは、目を真っ赤にしたあたしを手に乗せ、指先で撫でていた。その横では母さん
が何か言っている。声は聞こえないけど。二人とも穏やかな表情をしている。凄く懐かし
かった。
忘れかけてたけど、あたしは父さんと母さんのことが大好きだったんだ。どんなに辛い
ことがあっても、父さんと母さんに慰めてもらえばあたしは平気だった。
だから――そんな両親に捨てられたのは悔しいけど、もう一度会いたい。会って、まず
はあたしを捨てたことを散々怒って、それから――思う存分甘えたい。いい年こいて何考
えてるんだっていう感じだけど、元々あたしはそんなに強くない。雄みたいな荒い言葉遣
いだって、自分の弱さを少しでも隠すために始めた。
でも、結局駄目だ。自分一人でも生きていけると高を括っていたけど、やっぱり限界が
ある。どんなに頑張っても、一人じゃ不自由なことが多い。独りきりで過ごす夜は、寂
しいし、不安ばかりだ。あたしを想ってくれる、あたしの味方でいてくれる誰かが、傍に
いて欲しい。
記憶の中のあたしが泣き止み、やがて笑顔になった。幸せそうな顔をしている。胸の中
がじんわり温かくなった。そうしてあたしは確信した。
――あたしは、まだ生きていたい。
ハッと我に返ると、手の届く先にグラエナの牙があった。一本一本が、あたしの体を貫
けるほどに長く鋭い。
「このォ……!」
両手を使って、一本の牙を押し退け――ようとするけど、びくともしない。
「何だ? 大人しくなったと思ったら、急に元気になったな」
「ふざけんな! 喰われてたまるか!」
虚勢を張ってみるけれど、効果はまるでなし。命の危機に差し掛かっていることに変わ
りない。
あたしの体力に限界が来ていた。伸しかかってくる途轍もない重量に、両腕がぷるぷる
と震える。
すると、何を思ったか、グラエナが顔を動かした。突然のことに、あたしは前のめりに
なる。その時、あたしの左腕がグラエナの牙を掠めた。
「痛っ」
倒れたその拍子に、左腕の様子が見えてしまった。血で染まっていた。気付いた途端に、
左腕が熱くなってきた。あまり痛くはない。多分傷は浅いと思う。
ただ、勢い良くスパッと切れて、出血が酷い。
上からグラエナが背中を押さえつけてきた。一瞬だけ低い呻き声が出る。身動きができな
いのをいいことに、グラエナは左腕の血を舐めてきた。
「うぅ……」
「旨ぇなぁ」
左腕を覆っていた血は全部舐めとられた。だけど、傷口からはまだ血が流れ続ける。あ
たしの死が迫ってきているような気がした。
「どうした? 顔が青いぞ」
「うるさい、お前の目がおかしいんだろ!」
あたしは声を荒げる。精一杯の強がりにも力が入らない。焦りを感じてきて、胸の音が
やけに響いて聞こえた。
「そうかねぇ」
グラエナの返答は、あたしの心の内を知っているかのような口振りだった。
「大丈夫だよ。お前のことを噛み砕いて喰う気はねぇよ」
顔をグッと近付けてきた。グラエナの鼻の頭が、顔に当たっている。
「――そのまんま、丸ごと俺の腹の中に収まるんだ」
その一言に体中の熱を奪われた。丸ごと? 生きたまま、食べられるの? そんなの嫌だ。
噛み砕かれるのも嫌だけど、生きたまま呑み込まれるのはもっと嫌だ。溶かされる苦しみ
を味わいながら死んでいかなきゃならないなんて、こんな柄の悪いグラエナなんかの生き
る糧にされてしまうなんて、絶対に嫌だ。
でも逃げられない。あたしにはその術がないのだ。今まで散々命の危険に遭ってきたけ
ど、今度こそ覚悟しなくちゃならない。
弱い奴は生きていけない。そんなことは日々生きる中でむざむざと見せつけられてきた。
殺されたポケモンが死肉を貪られる様子を見て、明日は我が身だ、いつ死んだっておかし
くないということを充分すぎるくらいに分かっていて、覚悟しているはずだった。
だけど、生きる目的を思い出した以上、死ぬことがとても恐ろしくなってしまった。
「……けて」
「あ?」
「助けて……お願いだから……死にたくないんだ……」
さっきまでと一転、あたしは自分でも驚くほどか細い声で、そう言った。
情けない。こんな奴に命乞いをするなんて。それでも突然の涙と体の震えは、どうにも隠
せそうにない。
「お前もやっぱ雌なんだなぁ。可愛い声が出せるじゃねぇか」
グラエナは満足そうに呟くと、舌舐めずりをした。
「散々いたぶって悪かったな。だが、もう楽になれるぜ?」
あたしは力無く首を横に振りながら、「嫌だ、嫌だ」とうわ言のように呟いた。この反
応も、グラエナを愉しませるだけ。気が変わるはずもない。
「ヘヘッ。いただきまあす」
グラエナが口を開く。大量の涎が宙を舞い、そのいくらかがあたしに降りかかった。そし
て次の瞬間には、視界がグラエナの口の中に覆われて、一気に暗くなった。
――死にたくない!!
あたしは涙を零し、強く目を瞑った。
12/01/05 22:22更新 / ROM-Liza