縁 仄暗い水のなか。水面も水底もない。ゆっくりと落ちていく。いや、沈んでいるのか。 手を伸ばす。何も掴めない。淡い水の感覚が、指の間をすり抜けていくだけ。 ゆらゆらと揺られながら溶けていく。沈んでいく。消えていく。 恐れるより、ほっとした。身体の力が抜ける。 終われるのか、ようやく。 瞼が閉じていく。視界が、消える。 そっとふすまを開け覗いてみたそこには先客の姿があった。 眠る彼の枕元に座り込んで、動かない。 気付いていないのか、眠っているのか。声をかけようかためらって、悪奴弥守は結局そのまま物音を立てないよう部屋へ足を踏み入れた。 「……螺呪羅?」 側へしゃがんで俯く顔を覗き込む。いつも突き放すような冷めた視線を向けてくる薄青い隻眼は、閉じられていた。 眠っているのか。それにしては気配が違う。周囲の空気がどこかしらひやりと固い。 こいつ、朱天になにかしているのか──? 螺呪羅の両手は、朱天のそれを包み込むようにして握っている。螺呪羅は夢幻を司る魔将だ。ひょっとしたら、未だ意識の戻らない彼の夢の中へ潜り込んでいるのかもしれない。 薄情で、恐ろしいほど他人に無関心で、ひょっとしたら自分自身にさえ関心がないのじゃないかとさえ思えるほど投げやりで刹那的なこの男が、何の功名も報酬も求めず彼を救おうとしている。 悪奴弥守は少し苦しくなって横たわる朱天に目を転じた。水の中から引き上げたあの時と変わらない、何の表情も浮かばない青白い顔。那唖挫の尽力で、身体の傷は快方に向かっているのだという。それでもまだ目は覚まさない。それほどまでに力を使い果たしてしまったからなのか。それとも……目覚めたくないのか。 腕を伸ばしてその頭を撫でる。掌に心地よい、さらりとした感触の綺麗な紅い髪。 功を奪い合い、仲間すら信じられなくなるほどいがみ合い傷つけ合ったあの日々は、今思えば魔将の結束を恐れた阿羅醐に仕向けられたものだったのだろうが、そんなことになるまでは、よくこの頭を撫でたことを思い出す。 仲間のうちで一番幼く小さかった朱天は、悪奴弥守には弟のような存在だった。あとの二人には年齢でも口でも勝てなかった分、素直で生真面目な朱天を余計にかわいがった記憶がある。 あの頃から、螺呪羅は朱天を見ていた。他の誰もまともに映したことなどないだろうあの冷めた隻眼が、いつも言葉なく朱天を追っていた。 「朱天」 螺呪羅の邪魔をしないよう、小さく呼びかける。 「みんな、お前を待ってるから」 生真面目すぎて、いろんなことを考えすぎて、きっとお前は先に行ってしまおうと思ったのだろうけれど。 そんなことは考えなくていいから。まだ、俺達には、ここに居場所があるのだから。 お前の居場所も、ここにあるのだから。 「だから、早く戻ってこい」 何もない空間であるのに、暗くて見通しが効かない。満たされているのは水。浮遊感が五感を狂わす。 彼は未だ、橋から落ちた時のまま水の中を漂っているのか。 螺呪羅は隻眼を眇め、目をこらす。姿は見えない。探し続けてこれで五日。どこかに何らかの痕跡があれば辿れるのだが、それも皆無だった。それは、彼がこの水中に落ちてから──死の淵に立ってから、ただの一度も感情を揺らすことすらしていない、ということを指している。 潔いのでも、あきらめが早いのでもない。彼は恐らく安堵しているのだ。それが螺呪羅をどうしようもなく苛立たせる。 独りで自己完結をし、結論を出し、死に急いで楽になるつもりか。 そのような勝手を許すものか。 螺呪羅は奥歯を噛みしめる。 だが見渡す限り上も下もない茫洋とした水の中は、行けども行けども何もない。まるで、全て投げ出してしまった彼の心そのもののように。 そして暗く頼りなげな水は、初めて彼の意識の中に入った時より、一層冷たく沈み込むように暗くなってきている。猶予がない。改めてその言葉を脳裏に浮かべ、背筋が粟立った。 力を使うしかない。 彼の意識の内側から螺呪羅の力を使えば、彼の精神を傷つけ、最悪の場合崩壊させてしまうかもしれない。だが、このまま消えてしまうのを、手をこまねいて見ていることなど出来ない。 「朱天」 螺呪羅は呟いた。 「憶えているか、朱天」 水は静かに凪いでいる。 「お前と初めて逢った日の桜を」 目の前に薄紅が舞う。闇に飲まれそうな暗がりから、広がっていく一面の夢幻。淡い花の香。静かに、引き込まれそうなほど咲き群れる桜の森の奥、頭上を覆うほど枝を広げる桜の古木から、はらはらと降り落ちる淡い花弁。いくひらも、いくひらも。 その下にお前がいた。髪に肩に花弁を降らせて見上げるその姿はまるでこの世のものではないようで、眼が離せなくなった。 お前が桜に魅入られていたように、俺はお前に魅入られた。あの日からずっと。 朱天。お前はこの世に俺を繋ぎ止める唯一の縁(よすが)だ。失っては、俺は生きてゆけない。 ゆらりと水が揺れた。螺呪羅の想いにかすかに呼応する声。螺呪羅は目をこらす。散り落ちた花弁が水流に舞い上がり、視界を塞ぐ。そのさなかへ手を伸ばす。ようやく指先に捕らえたものを、強くたぐり引き寄せた。 現れた紅い髪がゆらゆらとなびいて螺呪羅の頬を撫でる。意思も力もない身体は引き寄せられるままに弧を描いて、花弁と共にゆっくりと螺呪羅の胸にもたれかかった。 本当にあの時のまま、墨染の直綴(じきとつ)姿のままで漂っていたのか。こんなにも長い間、独りきりで。 言葉にもならず、ただきつく抱き締める。 お前が、これほどまでに何もかも、一人で背負うことなどなかったのに── 熱のない身体はいくら抱き締めても温まる気配がない。その感触はひどく虚ろで、肢体はまるで抜け殻のようにうっすらと透けていた。 消えさせはしない。 螺呪羅は彼の首根を抱いて、その血の気のない唇に口づけた。深く重ねて唇を温めながら、彼へ己の生気を口移す。 ここにいる。ここにいるから。お前が何もかもを独りで決めてしまっても、決してお前を独りにはしない。お前だけに全てを負わせはしない。だから。 だから、生きろ。 力を注ぎ込むにつれて、急速に意識がぶれ始める。力が抜けていく。それでも彼を決して離すまいと、腕に力を込め続けた。 螺呪羅に任せてそろそろ部屋を出ようかと腰を浮かしかけたところで、ぐらりと螺呪羅が倒れ込んで、悪奴弥守は思わず大声を上げた。 「螺呪羅! おい!!」 仲間がまた一人倒れるなんて冗談じゃない。青ざめた頬をはたいてみるが、閉じられた瞼は開く気配がない。 「誰か! 那唖挫を呼んでこい!」 その辺に控えているだろう下女達に怒鳴りながら、螺呪羅を揺さぶる。その時ふと、螺呪羅がまだ朱天の手を握ったままなことに気付いた。 意識をなくしても離さないのか。 たまらなくなって呟いた。 「馬鹿野郎……」 そのつないだ手がひくりと動く。ゆるんだ手をつなぎ直すように、かすかに指が閉じられる、朱天の、手。 「朱天……?」 眠る朱天の顔に変化はない。覗き込んでみても目を覚ます気配はない。それでも、倒れた螺呪羅の顔がどこかほっとしているように見えて、悪奴弥守は喉につかえていた息を吐き出した。 「……お前ら、人騒がせすぎ」 遠くから慌てた足音が近づいてくる。お前が人騒がせだと、那唖挫に小言を食らいそうだ。 苦笑が漏れてくる。 気が抜けてどっかりと座り込みながら、悪奴弥守は髪を掻き上げ深く安堵の溜息をついた。 |