MAGIC TOUCH






 ある冬の日のことだった。
「ところで──」
 北海沿岸で行う演習プランの報告の為にSMS本部の長官執務室を訪れていたゼクスは、その説明を終えたところで長官であるトレーズから声をかけられた。
 いつものように机上に両肘を付き、指を組んで穏やかな笑みを浮かべるトレーズは、唐突に、ゼクスにとっては謎かけのような言葉を口にした。
「明日のことだが、私は別にチョコレートでなくとも構わないからね」
 書類をまとめていたゼクスは、思わず手を止め、自分の耳を疑った。
「は?」
 唐突に、謎かけのような、というのはいつのもことだが、チョコレート、と聞こえたのは気のせいだろうか?
 トレーズはにこにこと笑みを浮かべて席を立った。
「贈り物というのは、その物それ自体にではなく贈る側の心に価値があるものだからね。君からのプレゼントなら、私はどんなものでも嬉しいよ」
 話がよく見えない。だが、彼が何かを期待しているのは分かる。
「プレゼント、ですか?」
 聞き返すと、トレーズは優雅に歩み寄り、すっとゼクスの頤に手を伸ばした。
「明日と言わず、私は今ここでもらっても良いのだがね」
 瑠璃の眸が覗き込むようにして見つめてくる。思わず後ずさりかけたゼクスは腰に腕を回され、逃げ場を失った。
「閣下、私は勤務中です」
「私は構わないよ」
「私は困ります。おやめください……トレーズ!」
 ゼクスが身を捩ったその時、扉をノックする音が室内に響き、トレーズは残念そうに苦笑しながらゼクスを解放した。
 入ってきたのはレディ・アンで、胸をなで下ろしたゼクスは入れ違いに退出する為に踵を返した。
 彼女とすれ違う。その瞬間、強烈な一瞥がゼクスに下された。




 レディ・アンに疎まれるのは何も今日だけに限ったことではないが、さっきのものには殺気がこもっていたように思う。
 最近ゼクスや部下が失態を犯した記憶もなく、なにか彼女の気に障るようなことをしただろうかと考えながらMSシミュレーション室に戻り、訓練を監督していたノインに訊いてみた。
「明日がバレンタインデーだからですよ」
 ノインはくすくすと笑いながら、あっさりと答えた。
「バレンタインデー? それが特佐とどう関係が?」
 バレンタインデーという聖人にちなんだ祝祭があることは、ゼクスも知っている。あまり大がかりな行事ではなかったと思うが。
「バレンタインデーに、女性が自分の好きな男性にチョコレートを贈るという行事があるんです。JAP出身の特士がその行事を広めたらしくて、昨年あたりからSMS内で流行り始めたのですが、風紀が乱れるという理由で今年はレディ・アン特佐がその取り締まりをしているんですよ。本当のところは、トレーズ閣下宛のチョコレートが我慢ならなかったようですが」
 先程のトレーズとの会話にも重なる話だ。ゼクスはまだ釈然とせずに、首を傾げた。
「だが、それで何故私が睨まれるんだ?」
 ノインはゼクスの反応がおもしろいというように、肩をすくめて笑った。
「ゼクスは女性に人気があるからでしょう。去年はチョコレートをもらいませんでしたか?」
「いや……去年は確か、イタリアに行っていたから……」
 ゼクスは言葉を濁す。この時期はちょうど休暇中のトレーズに呼び出されて、1週間も休暇を取らされ無理矢理彼に付き合わされていたのだ。
「今年はきっとたくさんもらうんじゃないですか? みんながその話題で盛り上がっていますから」
 ということは、トレーズはチョコレートを期待していて、ゼクスにあんな話をしたのだろうか。だがそれでは話のつじつまが合わなくはないだろうか。ノインは「女性」が「自分の好きな男性」にチョコレートを贈る行事だと言ったはずだ。
「ゼクスはお酒入りのチョコレートの方がいいですよね?」
 ゼクスはきょとんとした。ノインが微笑んでゼクスを見つめていた。




 ノインの言葉通り、翌日は大変なことになった。
 起床したゼクスを部屋の前で出迎えたのは、綺麗に包装されリボンがかけられた箱の山だった。箱の大きさもさまざまで、なかには花束やぬいぐるみのような形状を包装した大きな包みも積まれている。これが誤配ではなくすべてゼクス宛に配達された郵便物だという。
 唖然として立ち尽くしているうちにも、同じ宿舎の兵士が単体や団体でゼクスに包みを渡していく。奇妙なのは、そのほとんどが男だという点だった。実力主義を掲げるSMSとはいえやはり軍隊という職業柄、男の占める割合が高いから、比率的にはそうなるのかもしれないが、やはり男がかわいい包装紙やリボンの包みを恥ずかしげに手渡してくる構図というのは、なにかおかしい。大体、今日は女性が男性にプレゼントを贈る日ではないのか。
 それにしても呆れるのがそのプレゼントの量だった。たった数分立ち尽くしていた間にもゼクスの両手はプレゼントでいっぱいになってしまい、配達の分と一緒にとりあえず部屋に放り込んでおいたが、この分では部屋がプレゼントで埋まってしまいそうな勢いだ。
 予感は悪くも的中し、その後もプレゼント攻撃が止むことはなかった。
 ゼクスの食事中、移動中、休憩中を狙って、自分のところの部下はまだしも、見も知らない部隊の兵士達がぞろぞろとやってきては、チョコレートらしい包みや花束を渡してくる。彼らの任務や訓練は一体どうなっているのだろう。監督している上官は何をやっているのだろう。そのあまりの騒々しさに、ゼクスはすっかり参ってしまった。スパイに24時間監視される方がまだましだ。
 騒ぎはとうとう臨時風紀委員長のレディ・アンの耳にまで届いてしまい、まるで動物園の檻の中にいるような心境でぐったりと閉口していたゼクスは、その上さらに乗り込んできたレディ・アンの罵声と始末書と減俸とプレゼントの没収を食らう羽目になってしまった。
 彼女の罵声は初めてではないし、金銭に対する興味もないから減俸も痛くはないが、さすがに少し理不尽さを感じながら始末書を書いていると、隣からノインが覗き込んできた。
「英雄の立場も楽ではありませんね」
「英雄なら、始末書なんかを書く必要はないよ」
 珍しく拗ねているゼクスに、ノインはくすりと笑った。
「では、英雄ではなくアイドルですね」
「アイドル?」
 顔を上げたゼクスの前に、今日嫌になるほど見てきた小さなリボンの包みが差し出された。
「ノイン?」
「今日一日大変だったゼクスに。私の気持ちです。受け取ってください」
「……私は今それで始末書を書いているんだが」
「分かりませんよ、1つくらい。手作りですから、味はあまり保証出来ないですけど」
 重ねて言われて包みを手に取った時、デスクのインターコムが鳴って二人きりの空間は破られた。長官からの呼び出しだという。ゼクスは溜息をつきながら席を立った。
「ノイン、済まないがこれを特佐のところに出しておいてくれ」
 せっかくいい雰囲気だったのに、と悔しがっている彼女の心のうちなど知らずに、サインした始末書を手渡すと、ゼクスは既に帰宅したトレーズの許に向かった。




「バレンタインデーというのは、女性が男性にチョコレートを贈る行事だと聞きましたが」
 ブランデーの酔いに任せてゼクスが抗議すると、トレーズはその身体に覆い被さるようにして抱き締めていきながら、くすくすと笑った。
「重要なのはそこではなくて、好きな人にプレゼントを贈るという部分だよ、ミリアルド」
「貴方のところにも来たのですか?」
 ソファに横たえられながら彼を見上げる。
「さあ。私は受け取ってはいないがね」
 届いていないのなら、レディ・アンが残らず水際で摘発したのだろう。まったく、彼女の忠勤ぶりには恐れ入る。
 トレーズはゼクスの耳朶に口吻けて、囁いた。
「君が皆に好かれるのは私にとっても嬉しいことだが、私は君からの贈り物だけで良いからね」
 突き抜ける甘い痺れに肩をすくめながら、ゼクスは言い返した。
「ありませんよ。チョコレートは全部レディ・アン特佐に没収されました。残ったのはノインからもらった分だけです」
「ノイン特尉から?」
 トレーズの眉が少し上がる。彼に組み敷かれたまま、ゼクスは乱された上着の内ポケットから、もらったままの小さな包みを抜き出した。
 トレーズが呆れた声で言う。
「ミリアルド。そんなところに入れておいては、チョコレートが溶けてしまうのではないか?」
「ああ、そうですね」
 気になって開けてみる。丸い小さなチョコレートが並んでいた。
「溶けていないようですよ。食べますか?」
 トレーズがまた呆れ顔になる。
「何故?」
「お好きなんでしょう? チョコレートが」
 言うと、トレーズは今度は溜息をついた。
「やれやれ、君に私の想いを伝えるには、少し表現が婉曲すぎたらしい」
 自分の理解が足りないように言われて、酔いの回っているゼクスは少し拗ねてみた。
「つまりチョコレートは要らないんですね。いいですよ、私が食べますから」
 1つつまんで口に入れる。濃厚な甘さがふわりと口に広がる。トレーズが、くす、と笑ってゼクスの頬に触れた。
「いや、頂こう。君から直接」
 ゼクスが持っていたチョコレートの箱を取り上げてテーブルに置くと、彼はゼクスに頬を寄せた。
 唇が重なる。滑り込んでくるトレーズの舌に、チョコレートの甘さが絡め取られていく。代わりに広がっていく甘い陶酔に、ゼクスは素直に身を委ねて眼を閉じた。




 後日。
 瞳をきらきらさせたノインにチョコレートの感想を求められ、味を覚えていないとは言えずにゼクスは言葉を詰まらせることになる。
 それが、トレーズによるささやかな妨害工作かどうかは、本人のみが知るところだった。





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