いばらの冠



「イエスという男の一生は、実に優秀なプロパガンダだと思わないか?」
 不意にそう問いかけられて、手にしたグラスの気泡をぼんやりと眺めていたゼクスは我に返った。
 任務を終えたその足で彼の城館に報告に上がり、疲れと酔いとその他の雑多な考え事が思考を鈍らせていて、楽しげに薄い微笑を浮かべながらシャンパングラスを揺らす彼の、言葉の意図までは量りかねた。
「水をワインに変え、石をパンに変え、数々の奇跡を見せたのちに殉教。そして復活する。実に劇的なトリックだ。人々は彼の奇術に魅了され、彼の教えを何一つ疑うことなく盲信する。すばらしいな」
 楽しげに見えて、その言葉にはどことなく棘がある。
 実際に信仰するかどうかは別としても、キリスト教が日常に深く根差す欧州でこのような物言いをする人はあまりいない。ゼクスは6歳の時に神の存在を拒絶したが、それを知っているからか、敬虔なカトリック信徒であるはずの彼は、時折ゼクスの前でこのような不遜な言葉を口にする。
 実際彼は、神の奇跡や信仰の対価としての救われる終末などを信じてはいない。人々の信仰に対する真摯な姿勢や、宗教というシステムを評価しているのだろうと思う。
「貴方も神になりたいのですか?」
 深く考える前に、言葉が口を滑り出ていた。
 優秀なプロパガンダとは、まさしく彼のことだ。
 軍を、民衆を導く絶対的な指導者。それは彼らを不毛な諍いや不安から解放し、心安らぐ未来を導くことだろう。それを望み自らが適役と、彼はロームフェラ財団と手を組みOZという組織を創設した。
 微笑んだまま、その瑠璃色の眸がゼクスを捕らえる。
「君も私にそう望むのかね?」
 見惚れてしまうほどに綺麗な眸だ。全てを見晴るかす、不遜で傲慢な曇りない強いまなざし。その眸はいつも、ゼクスに複雑な感情をいだかせる。
 憧憬、焦燥、不安、そして思慕。どれも未熟で、付きまとわれるような不快感さえ憶える感情だった。
 ゼクスはグラスをテーブルに降ろし、視線を外した。
「貴方がそれを望むのなら」
 彼が苦笑する。
「狡い答えだな」
 ひやりとした彼の指の感触が頬に触れる。視線を戻すと、微笑みは消えていた。
「それが必要ならば、滑稽な喜劇をも演じてみせよう。だが私が望むものは、それでは得られない」
 真摯な眸がゼクスを見つめる。微笑という覆いが外されてあらわになった彼の想いの強さに、ゼクスは動けなくなる。
「君の前では私はただの無力な男だ。君の心一つ、手に入れることが出来ない」
 息を飲んだ。何も言葉を返せなかった。
「神の奇跡など、私には何の幸福も天啓もたらさないのだよ。ミリアルド……」
 悲しげな眸が近づいて、唇が重ねられる。抱き締められ深い口づけに翻弄されながら、彼の想いが唇から流れ込んできたかのように胸が痛んだ。
 公人としての責務と個人としての望みの狭間で、彼さえも苦しんでいたのか。ゼクスと同じように。
 長い口づけが離れる。ソファに押し倒してゼクスを縫い止め間近に見つめる彼の眸が苦しくて、手を伸ばし頬に触れた。
 「トレーズ……」
 何一つ望むものが手に入れられないのだとしても、それを受け入れることがどんなに悲痛であっても、せめて、この手のぬくもりが伝えられたら。
 彼はゼクスの手に包むように手を重ね、その眼を閉じた。
「ミリアルド……愛している……」
 声は、悲嘆のように胸を抉った。





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