あやかしの夢 満月の光を浴びて青ざめた庭の景色を肴に、独り酒杯を口に運ぶ。 開け放った濡れ縁から夜風が入り込み、頬をゆるりと撫でていくのが心地よい。 この世界の夜は好きだ。現世より月が大きく朧で、青白い月光が眩しいほどに地上を染め上げる。うつつと夢幻の境が曖昧になる。 一介の浪人から魔将として召し上げられ、螺呪羅がこの世界を訪れてから一月ほどが経つ。新しい居場所にも馴れ、主君や癖のある同輩達の性格も分かってきた。 魔将の地位を得たとはいえ、野望がある訳でも特段成し遂げたいことがあるのでもなかった。ただ、己の力を正当に認められ、存分に発揮出来る立場を得たことは、螺呪羅の酷くささくれ立っていた胸の内を随分と満足させた。 ここへ来るまでのいきさつはどうだったのか、たかだか一月前のことだが既に曖昧な風景でしか思い出せない。この異界が人であった過去を途絶させるのか、忠義には不要と主君が記憶を消したのか。空白となった忌々しい過去の残影は、それでも未だそこへ触れるたび螺呪羅の臓腑を無遠慮にえぐり出そうとする。 手にした杯の水面がかすかにさざめいているのに気付いて、螺呪羅は口許を笑みに歪めた。何があったかは知らぬが、記憶ないのは幸いだ。過ぎたことに気力を注ぐなど馬鹿らしい。何不自由ない今があればそれで重畳。 ふと、声が聞こえたような気がして、螺呪羅は顔を上げた。青く色をなくした庭の景色は一片の変わりもなく、わずかな風ではかすかなざわめきもない。 螺呪羅は眉根を寄せた。また聞こえた。女の──いや、少年の声だ。 杯を置き立ち上がると、わずかに頭がくらりと揺れた。術により作られた異空間に足を踏み入れた時のような違和感に似ているが、敵意は感じない。何者かが意図的に作り上げた異空間からの干渉ではないらしい。 螺呪羅は自室を出て声のする方へ向かった。確かに聞き覚えのある声。これは──彼のものだ。 彼の屋敷へ向かう途中で違和感や声は途切れたが、足は止めなかった。断りなく居室を抜け寝所のふすまを開くと、夜着姿で濡れ縁に立った朱天が驚いた顔で振り返っていた。 月明かりに縁取られたその姿に、螺呪羅は一瞬立ち止まった。まだ、幼さの名残りさえある年だ。手足も身体の線も細い。その上涙を拭った顔。こんな童子に何故、こうも惹きつけられるのだろう。 「……何用だ、こんな夜更けに」 朱天の問いかけにも無言で、彼の側に歩み寄った。彼の表情に戸惑いと緊張が浮かぶ。 「螺呪羅」 「眠れぬのか?」 「何故そのようなことを」 「お前の声を聞いた」 彼は訝しげに瞬いた。 「声? 私は何も」 「泣いていただろう」 彼ははっとして身構えた。 「泣いてなどおらぬ。そなた、先程から何を言っている」 「お前が独りで泣くのが好かぬだけだ」 朱天は柳眉を上げ螺呪羅を睨み付けた。 「そなたには関わりない。用がないのなら出て行け」 彼は魔将の中で最も若輩ながら、誰より分別がある。育ちがいいのだろう。普段は決してこのような物言いをする男ではない。まるで身を守ろうとする若い獣のようで、落ち着かせる為にその肩に手を置くと、びくりと身体が震えるのが伝わった。 「泣きたいなら泣けばよい。訳を聞いてやる。独りで泣くな」 見開いた翡翠の眸が揺れる。月光に暗く染まったその眸を螺呪羅は黙って見つめ返した。頑なに閉ざした彼の心の逡巡が透けて見える。 黙したまま待っていると、しばらくしてようやく彼が口を開いた。 「思い出せぬのだ……」 こらえていたものに耐えきれなくなったように、洩れた言葉はかすかに震えていた。 「忘れてはならぬものを……忘れられるはずもないものを、どうしても思い出せぬ……あれほど悔やんで、泣いて叫んだというのに、目覚めたら全て消えてしまった……」 声の震えは大きくなり、眸からあふれた涙が頬を滑り落ちた。 「夢などではないのに……あれは我が身が犯した過ちであるのに、私は何故平然と忘れられるのだ……信じられぬ……己が許せぬ……!」 苦しげに胸元を掴む、その手が震えている。 螺呪羅は蒼い光に眸と頬をきらめかすその姿を、どこか陶然として見つめていた。 お前は、嘆きではなく怒りで泣くのか。 忘却した己が許せぬと泣くのか。 何故それほどまでに、お前は不器用で───穢れ無いのだ。 涙に濡れ、それでも凛として光を失わない眸に、無意識に手を伸ばしていた。触れる温かな感触。睫に溜まる雫が螺呪羅の指先を濡らす。瞬いた朱天の翡翠の眸が螺呪羅を映す。息を飲むほどの衝動が螺呪羅の胸の内を突き抜けた。 彼が、欲しい。 ──ああそうか。彼を見るたびいだいていた違和感の正体を螺呪羅はようやく悟る。彼の見る夢さえ無意識に追うほど、この眸に惹かれていたのか。初めて逢った時から。 螺呪羅には持ち得ない、強く儚いまなざし。 頬をそっとなぞる。眸に溜まった涙の粒がはらはらとその手の甲に落ちて、その温かな感触に意識を掴み戻された。 朱天は胸元を押さえ懸命にこらえていたが、一度表にあふれ出た感情を抑えられなくなっているようだった。その泣き顔に胸がざわついた。 泣く子には勝てぬ、ということか。 螺呪羅は薄く笑って朱天の頭を撫で、身を屈めながら低く囁いた。 「思い出せぬのなら、忘れてしまえ」 肩を抱き寄せて、見開いたその眸を唇で塞ぐ。 「悪い夢など忘れさせてやる。眠れ」 「ら……じゅら……」 ずるずると力の抜けていく彼の身体を抱き留める。術に大した力は使わなかった。彼も随分消耗していたらしい。螺呪羅に全てを委ねたその重みとぬくもりが心地よかった。 抱きかかえ直して床に運び敷布に横たえる。離れていくぬくもりが惜しくて、涙の残る頬に口づけ、薄く開いた唇に唇を触れようとして、螺呪羅は動きを止めた。 触れれば穢してしまう。それがたとえ我が身であろうとも許し難い。 ───下らぬ。 唇の端を笑みに歪め、螺呪羅は立ち上がり寝所を後にした。 音のない夜半、熱のない月の光が螺呪羅を迎える。耳を澄ませても、深い眠りに落ちた彼の声はもう聞こえない。 安堵している己に失笑しつつ、螺呪羅は自邸へ踵を返した。 |